ちょうちょ結び

 手にしていたティーカップをテーブルに置いて、彼女ははあ、と大きくため息をついた。その横にはかっちりと綺麗な正方形の紙袋があり、つやつやとしている。

「ごめんね、付き合わせちゃって」

 英里子が目だけで見上げるようにして言うので、わたしは首を振りながら笑う。

「全然大丈夫だよ」

 そして思わずつやめく紙袋に目をやった。

「熱気がすごかったねえ、ちょっと当てられちゃった」

 そう言うと、うんうん、と英里子は頷いた。

「あそこまでとは知らなかった」

「こんなふうにきちんと準備するの、初めてだったから」

「今度からは通販にしちゃおうかな」

 わたしはその言葉に手元のミルクティーに視線を移した。今度から。きっと来年も、その先もずっと。


 わたしたちはつい先ほどまで、チョコレートの展示即売会にいた。来週はバレンタイン。会場は色めき立った客で混雑し、わたしはそこから少し離れたガラスの柵に身体を傾けて、その様子をぼうっと見ていた。最初は英里子の傍にきちんと立って、様々な色や形をしたそれらを共に見つめていたのだけど、辺りの人々の飛び交う声や視線に耐えられなくなって、英里子に断ってそこに避難していたのだった。

 あの場にいる誰もに贈りたかったり、何かを伝えたい相手がいて、そしてそれを受け取るひとがいる。わたしにはそれがどこか違う世界であるように思えてならなかった。

 わたしの元に小走りで戻って来た彼女は分厚いコートに身を包んでいるせいか頬は赤くなっていて、困ったように笑った。

「ちゃんと買えた?」

 問うと、にっこりして頷いて、顔の傍で人差し指をどこかへ向けた。

「カフェにでも行こう、わたしおごるから」

「え、いいよ、わたし何もしてないし」

 いいの、と英里子は少しだけ強い口調で言うと、わたしのとなりに並んだ。


 そうして入った行きつけの小さな喫茶店は、先ほどの雰囲気とはあまりにも違って、わたしが回すティースプーンの音が、りいんと響く。

「此処はいつも静かだけど、今日は特にそう思っちゃうね」

 思わずそう言うと、英里子はほんとうだね、と苦笑した。

「それで、渡す時間は取れたの」

「うん、何とかなりそう。その日は残業もないみたいだし」

 英里子は紙袋を見つめた。その横顔と耳にゆれる銀色のピアスが眩しくて、わたしは目を伏せると静かにティーカップに口を付けた。ミルクティーは穏やかな見た目に反してとても熱くて、唇から思わずそれを離してしまった時だった。

「あんなに期待してるような言い方されるとさ、なんか仕方ないよね」

 ん? とわたしが顔を上げると、英里子は視線をわたしに戻して、そう言った。

「村田君がさ、『もう二月だね』って笑って言うの」

 わたしはとなりの部署の同僚の顔を思い浮かべた。

「こないだ昼休みが重なったから、お昼を一緒に食べたんだけど、そのときそう言って」

「うん」

「なに? って訊いたら、バレンタインは母からしか貰ったことがないって言うの」

「それから?」

「そっかあ、ってその日は別れたんだけど、なんかその言葉が頭から離れなくて」

「それだけで買ったの?」

 わたしは思わず言ってしまった。そんな言葉ひとつで渡してしまうのか。もしか贈る気持ちと受け取る気持ちは、既にひとつだと言うのだろうか。

「うん、それだけ」

 英里子は困ったように笑って、ティーカップを見つめた。その紅茶に映る英里子の顔は、彼女が回したティースプーンに倣ってくるくる回って、向かい合うわたしからは良く分からなかった。

「そんなことより、雪ちゃんは渡したいひとはいないって言うけど、ほんとうに?」

 英里子は悪戯めいた目でわたしを見た。

「ほんとうだよ」

 わたしが直ぐに答えると、ふうん、と英里子は首を傾げる。

「雪ちゃん美人だから、チョコとかあんまり関係ないのかな」

「なにそれ」

 わたしが笑うと、英里子は真面目な顔つきになった。

「なんて言うのかな、こういうの関係なく充実してる、みたいな」

「充実?」

 わたしが繰り返すと、うんそう、と英里子は言ってティーカップを傾けた。そこに描かれた金色の薔薇模様はきらきらとしていて、美しい筈のその薔薇は、そのきらめきが故にわたしの瞳に刺さる。

「そんなことがあったら英里子に直ぐ話してるよ」

「そっか」

 からん、と客が出て行く扉のベルが鳴るのが遠く聴こえる。

「此処の紅茶、結構苦いね」

 英里子はそう言って、角砂糖をひとつ、そっと落とした。その砂糖は紅茶色に染まって形を崩し、みるみる溶けていった。


 英里子に友情以上の感情を抱くようになって、もう二年目になる。中途採用で入った現在の会社に既にいた彼女は、わたしに様々な業務を手取り足取り教えてくれた。ショートカットにきりっとした瞳、すらりとした体付き。そこから生まれる笑顔は、反してとてもやわらかく、元々人付き合いが苦手なわたしにはいつだって眩しくて、気付けば彼女に惹かれてしまっていた。

 はじめは彼女の優しさにただ安心しているのだと思った。わたしには男性の恋人がいたこともあるし、英里子以外にも友人はいる。けれどもそれとは別に彼女が特別なのだと気が付くのに時間はかからなかった。


 ある日、社内ロビーにある自動販売機の前で、英里子を見かけた。購入するドリンクに悩む彼女の傍に立ったわたしは、あたたかい紅茶を選んだ。ふたつ全く同じものを。

「選んでくれてありがとう。わたしこれ好き」

 わたしが黙っていると、英里子は言った。

「雪乃さん、いつも気に掛けてくれるね」

「色々と話したいから、仕事終わったら食事にでも行かない?」


 その日の帰りから、彼女はわたしを雪ちゃんと呼ぶようになった。となりで笑う彼女の表情も声も、わたしにはすうっと馴染んだ。そしてそれは英里子に向かうこころを強く前へと押した。緩やかに、けれど確かに、彼女への気持ちは積層せきそうしていったのだった。


「雪ちゃん、どうかした?」

 英里子がわたしを心配そうに見ている。わたしは咄嗟に言った。

「どんなチョコ買ったの? 見せて」

 わたしの言葉に英里子は直ぐにいいよと答えて、紙袋から細長い箱を出した。そこには美しい銀色のボーダーが描かれた水色のラッピングペーパーに、桃色のりぼんが掛けてあった。遠目に眺めた目の前のそれは、まるでぼやぼやとかすんだ霧の向こうにあるように、はっきりとは見えない気がした。


 可愛いねだとか、きっと喜ぶね、だなんてとても言えなかった。こういう時、何を口にすれば良いのだろう。自分から見せてくれと言ったのに、分からなかった。わたしは、こちらに向けられた英里子のまっすぐな視線から逃げ出したくなった。すると英里子が口を開いた。

「ちょうちょ結びって何だかはかないよね」

 英里子は箱に掛けられているりぼんに触れながら、そう言った。

「え?」

 わたしが言葉を失っていると、英里子は続けた。

「簡単に結べるのに、簡単にほどけちゃうから」

 そう言って、人差し指でりぼんをぴん、と弾いた。

「そんなこと考えたこともなかった」

 わたしが苦笑すると、英里子もふふっと笑う。

「これを見てたらね、そう思ったの」

「りぼんがやたらと大袈裟だからかな」

 その横顔が何だか寂しそうに見えたので、わたしは焦った。

「そんなことないよ、ほら」

 わたしは言い、その箱に手を伸ばしかけたが、それを止めた。

「雪ちゃん、どうしたの」

「ええと、何でもない」

 そう答えると、英里子はむっとした顔になった。

「何でもない、じゃないよ。何しようとしてたの」

 わたしは目を泳がせた。

「えっと……りぼんがほどけなくなるように、手を加えようかと思っただけ」

「そんなことが出来るの」

 英里子は目を輝かせると、わたしの面前ににぐいっと箱を突き出した。

「やってみてよ、雪ちゃん」

「でもこれは大切な……」

「良いから」

 たまに見せるこのように強気な英里子に、わたしは抗えたためしがない。


 仕方なく受け取ると、それは可愛らしい見た目に反して、とても重たかった。一瞬黙ってしまったが、英里子がこちらを見つめているので、わたしはりぼんに手を掛けた。

「ちょうちょ結びって、ここを引くとほどけるでしょ」

 わたしがりぼんの先を指差して言うと、英里子はうん、と直ぐに答えた。

「だけどほら、こうやって結んでしまえば」

 りぼんの先端をくるりと回し、中央を囲み、縛る。簡単だ。二度結んでしまえば良い。

「こうすれば、引けば引くほど、ほどけなくなるはずだよ」

 なるほど……と英里子は頷く。

「それこそ、考えたことなかった」

「雪ちゃんはどうやってこのやり方を知ったの」

 わたしはりぼんから静かに手を離した。

「ああ、むかし履いてたスニーカーの紐がとにかくすぐほどけるから」

「こうしちゃえ、ってやっただけ」

 何があとで意味を持つか分からないものだ。

「ほどこうとすればするほど、結び目が硬くなってゆくんだね」

「そっか、そういうこともあるんだ」

 英里子はりぼんを見つめながらそう言って、黙って箱を紙袋へと戻した。わたしはその箱を村田君が照れくさそうに手にして、このりぼんの話を英里子から聴いているところを想像した。何だか余計なことをしてしまったように感じられてわたしは俯いたが、気を取り直すように顔を上げ、口を開いた。

「今年のバレンタインは金曜だから、良い週末になるんじゃない?」

 そう言うと英里子はどうかな、とだけ呟いてティーカップを傾けた。どこか遠くを見ていたような気がしたので次の言葉を待ったけれど、彼女の口元はティーカップで見えなくなる。わたしはそれ以上は何も言えなかった。


 バレンタイン当日、わたしは朝からとても憂鬱な気分だった。その理由はひとつだけ。

 ななめ向かいに座っている英里子は、朝からどことなくそわそわしているように見える。わたしが気にしすぎているだけなのかも知れない。

 頭の中を空っぽにしたくて、わたしは普段よりも多くキーボードを叩いた。このままゆけば、もうすぐ終わる。今日は定時よりも早めに退勤するつもりでいた。我ながらここまで気が弱いとは思わなかった。終業後、笑顔で席を立つ英里子を見るのが、とてもつらかった。別れ際、声を掛けられることも、恐ろしかった。

 無駄に喉が渇く。わたしは席を立った。


 自動販売機の脇のチェアに座って、ぼんやりとカフェオレを飲む。席へ戻っても良かったが、いや戻るべきだったのだけれど、それが億劫で憂鬱で、わたしはため息をつく。

「あれ、柏田さん」

 顔を上げると、村田君がそこにいた。驚いたような顔をしている。

「どうしたの。いつもデスクにいるのに、珍しい」

「俺は不真面目だから、此処に来て時間を潰すばっかりだよ」

 コーヒー缶を片手に笑った彼に、わたしもつられて笑う。屈託のない笑顔。良いひとだ。

「何か喉が渇いちゃって。空気が乾燥してるのかな」

 わたしが言うと、村田君は頷いた。

「そうかもね。加湿器はちゃんと仕事をしているのかね。まあ季節的に仕方ないのかも知れないけど」

 わたしは村田君から視線を外しながら言った。

「そう言えば、今日はバレンタインだね」

 当人に肝心な部分をつつくなど、わたしは変なところで肝が据わっているなとぼんやりと思った。もう諦めているのかも知れない。いやきっと、悩むことを終わりにしたいと思っている。ふたりをきちんと祝福出来るように。


 プロポーズなどではない。英里子から贈られるのは単なるチョコレートだ。しかしそれはわたしにとっては意味が違う。ただの菓子だとは思えない。あの箱の重量を思い出して、わたしは手元にある缶を無駄にくるくると回している。期待にうわずった彼の言葉を待ちながら。

「そうだね。今年は貰えるみたいだ」

 想定通り彼は口を開いた。

「ああ、チョコレートをね。良かったね」

 思わず冷たい言い方になってしまって、わたしは自分でも驚いた。彼は気にしていないのか気付いていないのか、嬉しそうに続ける。

「向こうにいる彼女とは遠距離だから、週末は会えないんだけど、ホワイトデーなら休めるかもって話は伝えてある」

 〝彼女〟?

「村田君、遠距離恋愛してるの」

 そう問うと、彼ははにかみ、頷いた。

「と言っても、まだ半年も経ってないんだけどね」

「去年関西に赴任した佐々木さんって覚えてる? 実はあのひとと付き合っているんだ」

「照れくさくて周りには言ってないんだよ。柏田さんも、誰にも話さないでね」

 言葉の出ないわたしを意に返すこともなく、彼は缶コーヒーに口を付けた。

「そういや柏田さんは、彼氏とかにはあげないの」

 何が母親からしかもらってない、だ。わたしは急に怒りを覚えて、思わず立ち上がった。

「ねえちょっと――」


 不思議そうにわたしを見た村田君の背後から、誰かが小走りでやって来る。

「雪ちゃん、此処にいたんだ」

 英里子だった。

「ふたりとも、何話してるの? 楽しそうだね」

 何か慌てているように見える。嫉妬でもしているのだろうか。財布も手にしていない。わたしは彼に対する怒りが英里子にも向かいかけているのに気が付いて、静かに深呼吸をした。

「バレンタインの話をしててね」

 すると村田君は英里子に向かって、さらっと言ってのけた。わたしが唖然としていると、彼はわたしに身体を向けてのんびりと続けた。

「ああ、平野さんには俺が佐々木さんと付き合っていることを話したんだ。こないだ昼休みが一緒になったから」

 言葉を失っているわたしに構わず、彼は笑った。

「もうふたりに話しちゃってるし、ほんとうに照れくさく思っているのかって感じだよね」

 立腹したのも忘れて、そろりと英里子の顔を窺うと、彼女は俯きがちだったが静かに微笑んでいた。その様子にわたしは面食らって、どうすれば良いのか分からなくなった。

「英里子、お疲れ。村田君の惚気話を聴いていただけだよ」

「それじゃあ、わたし戻るね。村田君またね」

 英里子の顔も見ないまま、わたしは素っ気なく言った。そして缶を手にしたまま逃げるようにその場を離れた。カフェオレはまだたっぷりと残っていたから、こぼれないように歩くのが精一杯だった。英里子が来ていなければ、わたしはこれを彼に投げつけていたかも知れない。

 

 席に戻って一呼吸つくと、村田君に対する怒りは落ち着いた。しかし今度は、英里子のことが心配になった。彼女は一体どういうつもりでチョコレートを用意したのだろう。そればかりがぐるぐると頭の中を回る。

 このイベントに於いて、誰がどのようにどういう思いで何を渡したって良いと思う。自分には関係のないことだ。しかし英里子がそこにいるとなると話は別だ。


 英里子が席に戻って来た。わたしは慌ててパソコンの画面に首を戻し、凝視しているふりをした。しかし思考はまた引き戻される。

 村田君に彼女がいることを英里子が知っていたのであれば、悲しい思いを抱いたままそれは用意されたことになる。わたしの英里子に対する感情はともかく、彼女がつらい思いをすることは耐えがたい。わたしは英里子の前で今後どのような顔をすれば良いのだろう。

 そのようなことを考えていると、自ずと手は止まりがちになり、結局普段通りの退勤時刻になってしまった。

 

 英里子を見ないようにして会社を出た。無視をするようで気が引けたけれど、来週にでもまた話す時間は取れるだろう。案外良い話にまとまっているかも知れない。例えば今度、佐々木さんを含めて三人で会うとか。いや、どんな状況だ。わたしは悶々としながら、駅へと急いだ。


「雪ちゃん、待って」

 背中から声を掛けられ思わず振り返ると、そこには英里子がいた。走って来たのだろうか、息が切れている。

「どうしたの」

 わたしは思わず慌ててしまい、すぐさま英里子に駆け寄った。

「雪ちゃんに話したいことがあるから、一緒に帰ろうと思ってたのに、もういないんだもん。焦っちゃったよ」

 そう言って困ったように笑うので、わたしはどうしていいのか分からなくなった。

「話したいこと? なに?」

 問うと英里子は、先日やったように顔の傍に人差し指を立てて、

「ちょっとお茶しよ」

と言ったのだった。


 またもわたしたちはいつもの喫茶店に向かい合って座っていた。

「英里子、このお店好きだね」

「うん、何だか落ち着くから」

 微笑んだ彼女の傍に、例のつやめく紙袋が置かれているのに気が付いた。

「英里子! それ村田君に渡すんじゃなかったの」

 思わず大きな声を出してしまい、英里子が目を丸くしたのでわたしは慌てて前のめりになったていた姿勢を正した。えへへ、と曖昧に笑うので、わたしは彼女の言葉を待った。

「あのね。これは元々彼に渡すものじゃなかったの」

「どういうこと?」

 英里子はしばらく黙ったけれど、わたしに紙袋を差し出した。

「はいこれ」

「えっ」

 わたしが言葉を失っていると、英里子は目を伏せためらいがちに言った。

「これは最初から雪ちゃんに買ったものなの」

「だって村田君に渡すって」

「あれはうそ」

 にっこりする英里子にわたしは目を白黒させた。

「渡したいひとと一緒に買いに行っちゃったことにあとから気付いて、わたし馬鹿だなあって思ったんだけど」

「いや、そういうことじゃなくってね」

 わたしの焦る気持ちとは反して、英里子はゆっくりと続けた。

「もらってくれる?」

 まっすぐにこちらを見てそう言うので、わたしはおずおずとそれを受け取った。やはり重い。先日感じた時と同じだ。英里子は何も言わず、こちらを見ている。わたしは何が何だか訳の分からないまま、袋の中を覗いた。

 そこには変わらず、桃色のりぼんに巻かれた、水色の箱が入っている。わたしはそっとそれを手にした。

「あり、がとう」

 わたしは呟くようにそう伝えるのが精一杯で、顔も上げられないままりぼんにそっと触れた。強く巻かれたりぼんは、わたしが先日結び直したまま、そこにあった。


 英里子がわたしの気持ちに気付いているはずはない。これはいわゆる友チョコというやつだろう。そう思い顔を上げ口を開こうとすると、英里子がはなをすすりながら目尻を指先でぬぐっている。

「どうしたの、何で泣くの」

 わたしは面食らってしまって、慌てて鞄にあるハンドタオルを探した。

「ごめんね、渡すだけで良いと思ったんだけど」

「もう言っちゃうね」

 わたしは鞄に手をかけたまま英里子を見た。

「え、なに、何を」

 彼女は手元にある水のグラスを一度に傾け、言った。

「それは〝友達〟の雪ちゃんに渡したものじゃなくて、あくまで雪ちゃんに贈りたかったの」

「ええと、つまり?」

 英里子は一瞬ためらったが、

「本命ってことだよ」

と小さく呟いた。


 わたしが硬直すると、英里子は両手で顔を覆った。そしてくぐもった声で続けた。

「こんなこと言って驚かせちゃったよね、ごめんね」

 わたしは黙って、りぼんを引いた。自分で言ったとおり、それはほどこうとすればするほど、きつく結ばれてゆく。涙がこぼれそうになりながら、りぼんをずらしてラッピングと共に何とか箱を開けた。

 甘いチョコレートの香りが漂う。五つ並んでいたそのチョコレートの、真ん中はハート型だった。わたしはすぐさまそれを手に取って、英里子に差し出した。

「本命返し」

「えっ」

「英里子が贈ってくれたチョコで言うのもあれだけど」

 英里子は泣き笑いをした。

「……やったあ」

 それを受け取り、直ぐに口に放り込んだ。

「これ絶対美味しいって思って買ったけど、ほんとうに美味しい」

 その言い方にわたしは思わずくすくすとしてしまったが、お互いまだ注文をしていないことに気が付いた。そして持ち込んでものを食べている。わたしは慌てて箱を紙袋に戻した。


 注文を取り、去ってゆくウエイターの後ろ姿を見届けてから、わたしは改めて姿勢を正し、言った。

「ホワイトデーは期待してて」

「このチョコよりもっと強く結んだりぼんをあげる」

 英里子は未だ涙で潤んだ瞳のままふふっと笑って、そして、

「週末空いてる?」

と言う。


 英里子の指先にそっと触れた。冷たく、かすかに震えていた。互いをつなぐ小さなちょうちょ結びがそこにある気がして、わたしは彼女の手のひらを強く握った。

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