それはコーヒー二杯分
わたしはやっと帰途についた。無駄に長い会議に駆り出されていたから、肩が異様に凝っている。もうだいぶんと時間は遅く、電車に揺られているひとも少ない。悠々と座った一番端の座席で、取り出したスマートフォンを見やる。先ほどから通知をし続けているそれは、同級生のグループで出来ている集まりのもの。
三ヶ月後、友人のふたりが結婚するらしい。同じ学び舎で時間を共に過ごしていた頃は、よくぶつかっていたように見えたのだけど、互いに不器用なだけだったのかも知れない。わたしは白い服に身を包んだふたりが、会場で溢れんばかりの笑みを湛えている様子を想像して、そしてそれを友人たちと共に囲んだ自分は、一体どんな表情をしているのだろうかと考えた。
身体を揺らして座席に軽く座り直し、無難な言葉を入れた。そんなわたしの返信も、ふたりを祝い続ける声に直ぐ流され、あっという間に見えなくなった。わたしは何とも言えない気持ちになって、スマートフォンを鞄にしまい、電車が駅に着くのを待った。
向かいの窓にわたしの顔が反射している。疲れて髪もぼさぼさで、ぼんやりとした表情を貼り付けている。最近はずっとこんな顔だ。
ふしゅう、といって扉が開いたので見上げると、下車する駅だったのでわたしは慌てて立ち上がった。
かつんこつん、という自分のパンプスの音を聴きながら、わたしはのろのろと自宅への階段へと進んだ。郵便受けを覗くことすらしなかった。きっと無意味なチラシばかりだろうから、開けても無駄だ。
このアパートは古い。わたしが暮らす最上階だって三階までしかないので、エレベーターはない。しかし今夜のように疲れている夜は、足を動かさないまま部屋へゆけたらどんなに良いことかと思った。
がしゃん、とドアを開けた音が無駄に大きく聴こえて、わたしは慌てて身体を玄関に滑らせると、そっと鍵をかけた。今日はシャワーだけにして、もう寝てしまおう。明日も仕事なのだ。
そう思って振り返ると、わたしはひっ、と声を漏らしかけて、慌てて自分の口を押さえた。鞄も鍵も、何とか手から落とさずに済んだことに心から安堵した。
リビングの中央で、男が自分の膝を抱いて座っている。このアパート近くの車道を走る車のライトに照らされて窓が光る度、男の長く艶めいた髪が目に映る。その視線は窓辺に向かい、幸いわたしに向けられてはいない。
わたしは鞄を持ったまま洗面所へ忍び足で向かって、そこに自分の身体を潜めた。動悸が酷くて、手は震えている。スマートフォンを取り出そうとしても、鞄をむやみに探るだけでそれはなかなか見つからない。早く通報して何とかしないと、わたしは殺されてしまうかも知れない。頭の中が働かなくて、わたしは涙目になりながらなおも鞄を漁った。
ふと手を止めて考えた。いっそ何もかもを捨て、家を飛び出せば良いのだろうか。そうだ、そうしよう。相手にはまだ自分の姿は確認されていないのだから、今ならまだ間に合う。
そう思ってなんとか足に力を込めた時だった。
「ああ、僕は一体どうしたら良いんだ」
声が聴こえた。あの男が発したらしい。わたしはまたも声を上げそうになった。立ち上がろうとしたが足が震えてきてしまい、わたしはそのまましゃがみ込んだ。
「どうすれば良いのか、全く分からない」
声は続いている。か細く、耳と言うよりどこか頭の中に響いてくるような、その奇妙な声にわたしはより動揺してしまう。
どうすれば良いのか分からないのは、わたしの方だ。
「僕はこのまま此処に永遠にいるしかないのか」
何だって? わたしは思わず目を見開いた。なんて図々しい泥棒なんだ。いや泥棒かは分からないけれど、きっとそうに決まっている。うちに盗んで得をするものなどないだろうから、そうと分かればさっさと諦めて出てゆけばいいものを。わたしは急に怒りを覚えたが、はっとして、そろりとリビングを再度窺った。相手が武器を、例えば包丁などを持っていたら下手に動くと危険だ。
腰を落としたままの姿勢で男を確認すると、どうやら何も手にしていないようだ。膝を抱いている両腕しか見えない。男の身体の向こう側にも、それは確認出来なかった。わたしは安心し、一度首を戻そうとしたが、ふと動きを止めた。
そこに危険なものがないことを、どうしてわたしは確認出来たのだろう。確かにベッドサイドには何も置かずに出かけたから、それがわたしの中の記憶と混ざって、そう思えたのだろうか。しかし布団の縞模様まで見えたのはおかしい。その男はベッドの脇に座っているのだ。見えるはずがない。その男が透けていない限りは。
わたしはぞっとして、しゃがみ込んだまま腰を抜かしそうになった。向こうを見るのはたまらなく恐ろしかったが、横目で確認する。やはり、男の身体は薄ぼんやりとして、明らかに不透明だ。様相からして、よくは見えないけれど、わたしより年上に感じる。服装は、これもまた良く見えないけれども、肘までまくられた長袖のシャツにジーパンの、至って普通のものだった。
「こんな身体じゃ何も出来やしない」
「僕は一体どうなってしまったんだ」
男はまだ何かぶつぶつ呟いている。依然頭の中に聴こえて来る細々としたその声に、わたしはどうにかなりそうになった。いや、既にどうにかなってしまっているから、こんなことが起きているのだろうか。もしかこれは夢なのかも知れない。きっとそうだ。わたしはいつの間にか電車の中で眠りこけ、きっと終点に向かって走る電車に、身体を揺らしているのだ。
わたしは幾分か安心した。しかしこれが夢なんだとしても、この奇っ怪な存在に自分の身を晒すことは危険だろう。無視しよう。見えないふりをすれば良いのだ。それは単純な考えだったが、今のわたしにはそれしか浮かばなかった。
心身ともに何とか落ち着きを取り戻したわたしは立ち上がった。意外にも足腰にはしっかりとしていた。
「あー疲れた」
わたしはその場で大声でそう言いながら洗面所の電気を点け、手を洗い、口をゆすいだ。タオルを手にして口をぬぐい、ふう、と大袈裟に息をつく。
今まで聴こえていた声はぴたりとやんだ。対策は間違ってはいないようだ。わたしは妙に強気になった。ここからはもう一貫して、何も考えない、何も見ないことにしよう。
一瞬躊躇したが思い切って洗面所を出た。目の端で男がこちらを見ているのが分かる。視線を痛いほどに感じる。しかし無視だ。リビングを明るくすると、男の直ぐ傍の小さなテーブルから彼を見ないようにしてリモコンを取り、テレビを点ける。
「ああ、明日は雨か」
ちょうど流れていた天気予報に、演技でもなく声が出た。雨だなんて、面倒だな。コートを脱ぎながらわたしははあ、と思わずため息をつく。そしてそのまま部屋着に着替えようとしたが、手を止めた。
この男の前で肌を晒すことは出来ない。わたしは迷ったが、ベッドの上に乱雑に置かれていたパジャマを手に取ると、そのまままた洗面所に戻った。今はとにかくシャワーを浴びよう。明日も仕事なのだ。
こうしている間に怪しい存在がいなくなっていることを願いながら、わたしは普段より熱いシャワーを浴びた。少しひんやりとしていた身体に、それはとても心地良かった。
浴室を出てリビングに戻ると、当たり前のようにその男はまだいた。わたしはがっくりとして、リビングへ向かう。その足音に男が振り向きかけたので、わたしはすっと手元のバスタオルに目を落とした。
「このひと、僕のこと見えてないのかな」
困惑したように男が言う。わたしは心の中で大きく頷いた。そうだとも、わたしにあなたは見えていない。良いぞ、我ながら良い演技が出来ているようだ。
しかし、この半透明な人物はやはり俗に言う幽霊なのだろうか。自分に霊感があるなどと思ったことはないが、実際こうして目の前にすると、そういった世界は確かに存在するのだと思った。
だが仮にこの男が幽霊なのだとしたら、電灯の光におびえることもなく、消失することもなくそこに座ったままいられるものなのだろうか。身体が半透明なこと以外は、ごく普通の男性が此処にいるかのようだ。
それにしても、今まで男性をこの部屋に入れたことなど一度もないのに、まさかそのひとりめが幽霊だなんて。
「参ったなあ」
男がまたも言う。頭を切り替えるべく慌てて咳払いをした。男の脇を何となく避けるようにして、ベッドに座り、テレビを見た。相変わらず男の視線はこちらに向いていたが、何とか気にしていないふりを続けた。
そのうちニュースが終わり、疲れた身体にはやたらと騒がしいバラエティが始まったので、わたしはテレビを消すと布団に潜り込んだ。男から見えないように壁に向かって横になり、何とか目をつぶる。
知り合いに霊能者や実家がお寺のひとなどがいればなあ。もしかあの同級生グループに訊いてみるとか? いや、あんなお祝いムードの中で自宅に幽霊がいるから助けてくれ、などと書き込めるはずもない。
まあ良い。これは夢なのだから。目が覚めればきっと現実に戻れる。車掌さんがわたしの肩を優しく揺り動かしてくれさえすれば。いつものけだるい、けれど普段通りの世界に帰れる筈だ。
わたしはそんなことを思いながら、眠りについた。
ピピピ ピピピ
枕元のスマートフォンのアラームが鳴り、わたしは寝ぼけ眼でそれを止めた。どうして朝は来るんだ、と思いながら起き上がろうとしたが、何かが顔に張り付いている。咄嗟に触れるとひんやりとしているそれは、長い髪の毛だった。わたしは息を呑んだ。反射的に顔を上げると目の前に真っ白い男の顔がある。髪の毛はその男の肩から流れてきていたのだ。ついにわたしは悲鳴をあげた。
耐えられない。
その男を押しのけるようにして起き上がると、わたしの身体は床に転げ落ちた。腰が抜けてしまったのだ。わたしに視線を送り続けている男の顔を見られず、いや見ることをせずにわたしは強く目を閉じた。夢じゃないのか。それともまだ夢を見ているのか。
「あれ、やっぱりこのひと僕のこと見えてるのかな」
その言葉と共にとた、とこちらに近付いてくるのがフローリングに響くその音で分かる。幽霊にも足があって、足音まで立てるとは思わなかった。いやそんなことはどうだって良い。
「すみません、ちょっとそこの方」
男がわたしに話しかけてくる。自分を認識しているのを確信したのか、男は近付いて来た。
「僕が見えていますか」
わたしがぎゅうと目を閉じたまま黙っていると、男はため息をついた。
「恐ろしいのは分かります。やはり僕は幽霊なんだね」
その言葉に思わずぱちりと目を開けると、男はがっくりと肩を落とし、昨夜のように窓辺に向かって遠い目をした。
「僕も外にゆけたらなあ」
「どうして僕は此処から出られないんだろう」
試してみたのだろうか。そう言えば夕べ、自分自身に困惑したような声を出していた。自分が幽霊だということに気付いていて、そして更にこの部屋から出ることが出来ないとでも言うのだろうか。するとつまりこの男は、昨日本人が言っていたように永久に此処にいるということになる。それは困る。わたしは今誰とも同棲する気はない。
「あの、それは困るんですけど」
すると男はばっとわたしに振り返り、心底嬉しそうな顔をした。
「君、やっぱり僕のことが見えているんだね」
しまった。本音だったのでつい口に出してしまった。しかしもう後の祭りだ。この男の声に慣れてきたこともあり、わたしは諦めた。そしてゆっくりと起き上がると、ええそうです、とため息をついた。力の入っていなかった足腰は、もう動けるようになっている。
「何なんですか、あなた」
わたしが改めて怪訝そうに言うと、男はううん、と首を傾げて、
「この存在について問われると僕もなんとも言えないんだけど、僕の名前は文治朗だ」
と答える。はあ、と思わず間の抜けた声が出た。
「漢字は
「君の名前は何と言うんだい」
いけしゃあしゃあとわたしの名前を、首を傾げながら訊いてくる。
「花です。花束の『はな』」
額にしわを寄せながらつられてそう答えると、はなちゃんか、と男、いや文治朗は繰り返し、わたしに改めて向き直った。
「花ちゃん、僕を助けてくれないか」
一体何なのだこの状況は。頭が追いつかない。
「……とりあえずトイレ行かせてください」
「ああごめんよ、僕はいつまででも待っているからね」
その言葉が重すぎる。わたしはよろよろとしながらトイレへ向かい、そのまま顔を洗ってリビングに戻った。見ると文治朗はにこにこしながらテーブルの傍に正座している。
「あの、足崩してください」
わたしの言葉にああそうかい、と文治朗はにこやかに言うと、あぐらをかいた。そして微笑んだまま言う。
「花ちゃんも、硬い言葉使いはしなくて良いんだよ」
「なんだか落ち着かなくてさ」
幽霊が落ち着くも落ち着かないもないと思ったが、わたしは素直に従うことにして、分かった、と頷いた。
予報通りの雨空のせいで部屋は暗く、ぱちりと電気を点けた。相変わらず、彼は何ともないらしい。わたしはコーヒーを淹れながら考えた。これは一体全体どういうことでこうなったんだ。いやそれは文治朗も分かっていないようだけれど、そういうことじゃなくて、どうしてわたしはこんなことをしているのだろう。この妙な現状を受け入れている。
わたしはフィルターからポットに落ちてゆくコーヒーをぼんやりと見ていたが、はっとして壁時計に目をやった。家を出る時間を大幅に過ぎている。文治朗の存在に動揺して、普段通り支度を進めることが出来ていなかった。
より少しでも長く寝ようと、起床時間はわたしが急いで支度をして間に合う時間ぎりぎりに設定している。呑気にコーヒーを淹れている場合ではない。
わたしはがたんと音を立ててコンロにケトルを置き、ポットをそのままにして着替えようとした。しかしこちらを見上げたままの文治朗に気が付いた。昨晩と同じだ。彼の目の前で服を脱ぐわけにはいかない。ああもう面倒くさい。
ベッドにあるスマートフォンを手にすると、上司に有休を申請する旨の電話を入れた。当日の朝の申請だったので上司は呆れていたが、体調を崩したという嘘の理由に何とか承諾してくれた。昨日きちんとした議事録を提出しておいて良かった。
安堵のため息をついて、またもキッチンへ立つとコーヒーを最後まで淹れた。そしてそれを持ったままリビングに戻ろうとしたが、こちらに顔をむけたままの文治朗と目が合った。すると、文治朗は眉を下げた。
「仕事を休ませてしまってごめんよ」
わたしはその謝罪を受けながら答えに詰まり、咄嗟に言った。
「あの、コーヒーとか、飲めないよね」
文治朗は明るい声を出した。
「用意してくれるのかい、ありがとう」
飲めるというのか。わたしはもう一つのからし色のマグカップにポットに残ったコーヒーを注いで、テーブルの前に座った。
「やあ、君は親切だね、ありがとう」
文治朗はマグカップを手に取ると、当たり前のようにコーヒーを啜った。わたしはその様子を呆然として見ていた。カップは宙に浮き、コーヒーは文治朗の食道と思われる場所を通り抜け、すうっと見えなくなってしまった。
「あの、それ、ほんとうに飲んでるの」
問うと、ええ? と言いながら文治朗はのんびりと顔を向けた。
「ああそうだよ。花ちゃん、コーヒー淹れるの上手だねえ」
「幽霊でも飲めるんだ」
わたしの言葉に文治朗は目を丸くすると、手元のマグカップを見つめた。
「あれ、ほんとうだね。おいしく飲めているよ」
わたしは文治朗のその様子に、驚くよりも呆れてしまって、自分のコーヒーが冷めてしまうのにも構わずに彼をじいっと見つめた。
ひとつに結んださらさらの髪は彼の胸の方に流れている。そのまま視線をずらすと、彼のシャツにはしみが付いていた。それは様々な色を帯びていて、まるで絵柄のようだ。
わたしの視線に気が付くと、文治朗は慌てて言った。
「汚くてごめんよ、でも今は何も描いていないからこれ以上は汚れないよ」
「かいていない?」
「ああ、僕は絵を描くのが仕事なんだよ」
なるほど、このひとは絵描きさんだったのか。
「お仕事は分かったけど、文治朗さんはどうして此処にいるの」
わたしはコーヒーに口を付けながら本題に入った。もうほとんどカップを空にした文治朗はそれをことんとテーブルに置いて、困ったようにわたしを見た。
「ああ、それなんだけどね、僕にも分からないんだよ」
「わからない」
わたしが繰り返すと、文治朗は大きく頷いた。
「気が付いたら此処にいてね」
「女の子の部屋だと分かって慌てて部屋を出ようとしたんだけど、ドアがびくともしなくってね」
「途方に暮れていたら、花ちゃんが帰ってきたわけさ」
うーん、とわたしは唸った。そしてはっとして言った。
「文治朗さんは地縛霊というものではないのかな」
「地縛霊?」
「そう、無念なことがあるとその場所から動けない幽霊のこと……だったと思うんだけど」
わたしは幼い頃に見た心霊ドキュメンタリーで、霊能者が幽霊にも色々あり、その中で地縛霊という存在を説明していた時の言葉を必死に思い出しながら言った。今の文治朗は、まさにそれではないのか。
「僕は此処に住んでいたのかなあ、思い出せないなあ」
「それに無念なことねえ……ぱっと出てこないなあ」
困惑した言い様の文治朗に並んでわたしはしかめ面をしていたが、はっとした。
「文治朗さん、あなたが幽霊なんだとしたら、亡くなったこと自体が無念なんじゃないかな」
そう言うと、文治朗はああ、と大きく頷いた。
「僕にその実感はないけど、それが理由のひとつなのはあり得るかも知れない」
「しかし無念とは一体なんだろう」
文治朗がわたしを真っ直ぐに見て問うのでわたしは考えた。
「何というか、そうだな、今とっても悔しい思いがあるというようなイメージかも」
うーん、とまたも文治朗は唸った。
「此処に来て初めて、自分が幽霊なのかも知れないと思っただけだからねえ」
「頭の中がまだはっきりしていない気さえするよ」
何とも曖昧な感情だ。しかしこのままこうしていても仕方がない。どうしたものかと考えたが、そうだ大家に連絡すれば良いのだ、と直ぐに思い立った。此処が事故物件だなんて、聞いていないぞ。
電話番号をスマートフォンで確認していると、文治朗がわたしの横に来て画面を覗き込んだ。
「いやあ、何だろうねこれは」
「ずいぶんと面白い電化製品だねえ」
スマートフォンを知らないのだろうか。そう言えば。
「文治朗さん、あなたは何年前に此処でお仕事をしていたの」
「何年前?」
「うん、去年やそこらじゃなさそうだから」
ああ、と文治朗は口を開きかけたが、そのまま黙ってしまった。
「今何か思い出しそうだったんだけど、それが一瞬にして消えてしまった」
「だから僕にも分からないんだ、ごめんよ」
「いや、謝ることはないけれど」
期待はしていなかった。もし現状を把握していたのであれば、自分は一体どうしたのだろう、などと言っていた筈がない。
わたしは俯いてしまった文治朗を横目に、大家に電話をかけた。大家には此処に入居する際に会っている。
しかし繋がらない。呼び出し音は鳴るのだが、一向に相手が出る様子はない。不在を告げる留守番電話のようなものもないようだ。
大家は至って普通の中年男性だったが、外出しているのだろうか。伝えられていた電話番号が携帯電話ではなかったことを、ここで後悔することになるとは思わなかった。まあ後ほどまたかけてみよう。今日は仕事もないのだし、時間はいくらだってある。
そうだ。田中さんがいるじゃないか。わたしは顔を上げた。
わたしが此処に暮らすようになったのは、取引先で仲良くなった田中という男性に紹介されたからだった。このアパートの入り口の前で、『此処は古いのもあって家賃が安いけど、治安も良いし女性がひとりで生活しても安心出来る筈だ』と、彼は笑った。当時住んでいたマンションは通勤に時間がかかることもあり、引っ越しすることをぼんやりと考えていたわたしは、此処に住むことを即決したのだった。
大家に繋がらないとなると、彼に連絡を取るしかない。
ところが電話をかけると繋がらないどころか、この電話番号は現在使われていない、という旨のアナウンスが流れた。わたしは声を失って、ぷちりと通話を切り、なんで……と思わず呟いてしまった。
「花ちゃん大丈夫? 顔色が悪いよ」
青白い顔の幽霊に顔色を心配されてしまった。平気、と小さく言ってスマートフォンをかたんとテーブルに置いた。大家にも、紹介してくれたひとにも連絡がつかないとなると、もはや自分でどうにかするしかない。
「とりあえずわたしちょっと着替えるから、向こうに行ってく――」
脱衣所の方を指差しそこまで言うと、文治朗は片手を自分の額に当てた。
「ああ! 僕としたことが失礼だったね」
「僕がそっちに行くから、花ちゃんは気にせずいつも通りに過ごしていてくれ」
いつも通りと言われても脱衣所は日常的に使う。それに彼がいる時点でいつも通りじゃなかったし、この部屋だって豪邸ではないのだから、ふたりで過ごすには手狭だ。
「いやあの、とりあえずはわたし向こうで着替えて来るから、文治朗さんは此処にいて」
「でも――」
わたしは彼の次の言葉を待たずに脱衣所へゆき、手にしていた服にさっと着替えた。すぐ傍に男性がいるのだと思うと、それが幽霊であっても落ち着くことが出来ず、早く済ませようと焦り、ジーパンのファスナーを上げるのに手こずってしまった。そしてぼさぼさだった頭にブラシをかけて、やっとリビングに戻った。
「どうしたら良いんだろ」
「困らせてしまってほんとうにごめんよ」
空になったカップの取っ手を無駄にいじりながらわたしが呟くと、文治朗は眉を下げた。責めているつもりは全くなかったのでわたしは罪悪感に駆られて、首を振った。
昨夜の不信感はすっかりと消えていた。わたしはもちろん霊能者やお祓いが出来るような者ではないけれど、こうして彼の目の前にいる以上、自分に出来ることがあるのであれば、してあげたい。この文治朗という男は、そう思わせる何かがあった。今のところ攻撃的でもなければ傲慢でもない。むしろほがらかで無害に見えたのも助けたいと思った大きな理由だった。ほんとうに地縛霊なのだろうか。
「文治朗さんはどうしたい、とか、あったりする?」
と言うと? と文治朗は不思議そうにわたしを見つめた。
「そういう何か目的のようなものがあれば、お役に立てることがあるかも知れない」
そうだなあ……と文治朗はまたも窓の外に目をやった。雨はしとしとと窓を濡らしており、当分止みそうもない。
「僕は外に出たいなあ」
そう言うとわたしの顔をじっと見つめた。わたしが何も言わないでいると、自分の手のひらに目を落とした。
「僕は此処にいてはいけないと思うんだ」
「実際君を驚かせてしまったし、申し訳ないよ」
「此処というのはこのうちのことなのかな」
「それとも、この世界、ということ?」
「どっちもさ」
そう言って文治朗は顔を上げると、
「ちょっと試しても良いかい」
とわたしを見た。
文治朗に言われるがままわたしは玄関に立った。
「ええと、わたしがドアを開ければ良いのね」
「うん。やってみてくれるかな」
わたしはドアの取っ手に手をやると、それを押した。ぎい、と音がしてドアは開く。外は雨のせいで薄暗く、湿気ている。
「ちょっと失礼するよ」
そう言って文治朗はわたしの脇を抜け、外へ足を進めようとした。素足のままだったが、気にしている様子はなかった。
そころが、そんな文治朗の身体は一向にドアの外へとゆかない。まるで壁があり、それに身体がぶつかっているかのように見える。文治朗はうんうんと力を込めているようだが、その足は一歩たりとも玄関の外へ踏み出すことをしなかった。
「駄目か、やっぱり出られない」
「扉を開けてもらえれば外に出られるかと思ったんだけどねえ」
わたしは肩を落とした文治朗のその先に思わず手を伸ばした。当たり前だが、すうと前へゆく。そのまま一歩進み、廊下に出る。振り返ると文治朗は悲しそうにわたしを見ていた。指先にはつめたい空気が纏い、わたしは静かに玄関に戻ると、ドアを閉めた。
「きっと直ぐ、外に出られるようになるよ」
確証はなかったが、わたしは慰めるようにそう言った。文治朗はわたしに倣ってリビングに戻りながら、そうなのかなあ、と窓を見た。雨は少しずつ激しくなっているようだ。
「コーヒーもう一杯飲む?」
そう問うと、文治朗はやっと微笑んで、ありがとうと答えた。
キッチンに戻ってマグカップを手渡すと、そこにつめたい感覚があった。文治朗の指がわたしの指先に触れたのだった。わっと慌てたわたしがマグカップを落としそうになったので、文治朗が慌ててそれを押さえた。
幽霊でもわたしに触れることが出来るのかと驚いたが、考えてみればマグカップを持つことが出来るのだ、それも造作ないのだろう。
「ご、ごめんね」
咄嗟に言うと、文治朗は不思議そうな顔をしてわたしを見た。
「どうして謝るんだい」
「大丈夫、僕はきっとやけどはしないよ」
面白そうにそう言うので、わたしもつられて笑ってしまった。
「そうじゃなくて……まあ良いや」
カップを落としかけたことではなく、わたしはあくまで男性に触れてしまったことに動揺したのだった。
「何か食べる?」
「コンビニの菓子パンしかないけど」
すると文治朗は静かに首を振った。
「昨日から此処にいるけど、空腹を全く感じないんだ」
「コーヒーは美味しく飲めてるんだけど何故だろう、不思議だな」
「そうなんだ」
その言葉にわたしがパンが入ったバスケットに伸ばした手を止めると、文治朗が優しく言った。
「花ちゃんは食べて良いんだよ」
「いや、食べなきゃ駄目だ」
「朝食は大切だからね、一日元気でいるにはね」
諭すように言うので、わたしは若干俯きながらいちごジャムが挟んであるコッペパンを囓った。わたしに兄はいないけれど、もしいたらこのような感じなのだろうか。しかしこんな兄なら、兄弟喧嘩をすることもないだろう。まあ、ここまで穏やかなひとなら、たとえどんな関係だったとしても、
朝食を摂ったのち、わたしは文治朗と同じように黙りこくった。客をもてなすように振る舞えば良いのだろうか。それでは文治朗が気を遣いそうだ。このひとはそんな性格である気がする。
しかし家族といるように過ごすことは出来ない。のんべんだらりとしているだけの自分をさらけ出すのは恥ずかしかった。気の置けない友人というわけでもないだろう。実際まだ出会ったばかりだということもあるが、傍にいるだけでこんなに緊張することはない筈だ。この緊張感が幽霊という存在のせいなのか、文治朗に対してそう感じているのか、わたしには分からなかった。
「ええと……」
静けさを誤魔化すためにわたしは声を出し、辺りを見回した。するとリモコンが目に入った。映画でも見るか。しかしそれでは時間を潰すだけな気もする。この時間をどう過ごすかは未定でも、無駄にするべきではないように思えた。
「気を遣わせてごめんよ」
「僕が外に出られたのなら散歩にでも行ってくるんだけども」
わたしの様子を見た文治朗の困ったような声に、わたしは目を大きくした。このひとは何を言っているんだろう。どこか抜けている。
「外は雨だよ」
致し方なく笑ってそう言うと、文治朗ははっとした顔をして、
「ああいや、その前に僕は外に出られないんだったね」
と事実をしんみりとして口にしたので、わたしは慌てた。
「それなら、絵を描いてみてはどうかな」
咄嗟にそう言った。
そうだ、このひとは絵を描くことが仕事なのだ。わたしの言葉に文治朗は俯いていた顔をふいと上げ、出来るかなあと不安げに言うので、わたしはノートとボールペンを持って来て、テーブルに広げた。このノートは家計簿に使おうと購入していたものだが、数ページ使っただけでほとんど白紙だった。
わたしが期待したような瞳をしていたのが分かったのか、文治朗はおずおずとボールペンを手に取り、何かを描いた。
しかしわたしには何も見えない。目の前のボールペンは確かに文治朗の動作と共に回り左右に動くのだが、描いていると思われる何かは現れず、ノートは白紙のままだ。
わたしが黙っていると、文治朗は顔を上げてわたしを見た。
「ごめんよ、僕は絵描きだけどこういう絵はそんなに得意というわけでもないから、つまらないね」
わたしは慌てて首を振った。
「ううん、そうじゃないの」
「わたしには文治朗さんが描いているものが見えなくて」
何だって? と文治朗は目を丸くして、ノートとわたしの顔を交互に見た。
「僕が昔飼っていた犬と一緒に描いたんだけどね、そうか、見えないのか」
わたしは困惑したまま頷いた。
「文治朗さんがペンを動かしている様子は分かるんだけどね」
ううん……とわたしたちは唸った。文治朗が物を持つことが出来るのはこの目で見ているし、実際彼が飲んだコーヒーは、するすると身体を通り抜けていった。しかし彼が描いたものは確認出来ない。
わたしはノートを出した際に彼に何か、例えば手紙や今回のような絵を残してもらい、それを誰かに見せるのはどうか、と考えていた。そうすれば彼の身元が判明する手がかりが出て来るかも知れない。しかしこれではその計画を実行することは出来ないだろう。
かたん、と音がしてわたしはそちらを見た。
「このわんちゃんの写真、可愛いねえ」
本棚の上に置いてあった小さな額縁を手に取って、文治朗が微笑んでいる。
「ああ、実家で飼ってる子なんだ」
「ほんとうに甘えん坊で。もうおばあちゃんなんだけどね」
わたしが思わず顔をほころばせると、文治朗はうんうんと頷いた。
「僕の家には犬も猫もインコもいたけど、みんな可愛かったなあ」
「僕はその子たちを良く絵に描いていたんだ」
文治朗がその動物たちに囲まれながらキャンバスに向かっている様子を想像すると、あたたかい気持ちになった。
立ち上がって、彼の傍に行こうとした途端、ひどいめまいに襲われた。一瞬目の前が真っ白になって、わたしはよろけてしまう。
「花ちゃん!」
気付くとわたしは文治朗の腕の中にいた。文治朗の腕はつめたかったけれど、わたしの身体を確かに支えていた。
「大丈夫かい」
文治朗がわたしの顔を心配そうに覗き込んでいる。わたしはいっぺんに恥ずかしくなり、文治朗の顔を見ることが出来なくて、咄嗟に顔を背けてしまった。動機が途端に激しくなってゆくのが自分でも分かる。
「ああごめんよ、幽霊の顔がこんなに傍にあったら怖いよね」
そう言って文治朗はわたしを起こすと、腕をそっと離した。
「いえ、違うの。ごめんなさい」
わたしの頭は依然くらくらしている。文治朗の声が頭に響いているために、疲れてしまったのだろうか。しかしわたしはきちんと否定したかった。彼が幽霊であることを拒絶しているわけではないと、ちゃんと伝えたかった。
そこまで考えて、わたしは目を見開き、心配そうにこちらに顔を向けたままの文治朗を見た。
「文治朗さん、さっきもそうだったけど、わたしに
えっ、と言って文治朗は自分の両手を見た。
「そう言えばそうだね、気付いていなかったよ」
「物体と同じように、花ちゃんにも
わたしはそっと文治朗の指先に自分の手をやった。つめたくても、目の前にいるひとの感覚として、それはきちんと存在している。自分の鼓動を感じたまま、その手を両手でぎゅうと握った。文治朗が驚いたようにわたしを見た。
「あっ、ええと、ごめん」
わたしは慌てて手を離した。どうしてそんなことをしてしまったのだろう。自分の顔が赤くなってゆくのが分かった。
ぱたぱた、雨が窓に当たる音がする。
「花ちゃんの手は温かいね」
「ちゃんと生きてるひとの手だ」
動揺しているわたしを意に返すことなく、文治朗はそう言ってふふっと弱々しく笑った。
「そんなこと言わないで」
「文治朗さんは此処にいるじゃない」
「生きてるひとと何ら変わらないよ」
わたしは必死に言った。
「花ちゃんは優しいなあ」
「きっと良い奥さんになれるよ」
文治朗のその言葉にえっと言うと、文治朗はまた降り続く雨を見つめていた。
「少しずつ思い出したよ、僕のこと」
「ほんとう?」
わたしの驚いたようなその声に文治朗は静かに頷いた。
「僕は結婚するひとたちを描いていたんだ」
「花婿と花嫁、ふたり並んでいる姿の絵だよ」
「そうなんだ、素敵だね」
「うん。でもね、相手のひとは、花婿なら花嫁が、花嫁なら花婿が、架空の人物なんだ」
「架空……?」
文治朗は頷くと、テーブルの上のスマートフォンに目をやった。
「あの電化製品、何でも出来るんでしょう」
「うん、まあそうね」
スマートフォンを知らないのにも関わらず、文治朗は鋭かった。わたしは慌てて手に取ると、文治朗の前に立った。
「僕の仕事のこと、これで見ることは出来るかな」
「やってみるね」
調べてみると、そのように描かれるものが実際にあることが分かった。彼が言った〝ふたり〟とは、『冥婚』という儀式のための絵馬に描かれた花婿と花嫁のことだった。
冥婚とは、亡くなった人物が向こうで寂しい思いをしないように、その人物と架空の相手が結婚することを指すらしい。
「つまり文治朗さんは、この絵馬の絵を描いていたんだね」
「ええと……『絵馬師』さんというみたい」
「うん、記憶は曖昧なんだけど、そういうふたりを描き続けていたことは憶えているよ」
「それは絵馬だけじゃなくて、一枚絵もあったと思う」
様々な土地でそれは行われ、現在まで続いているところもあるようだ。そのどこかの土地の、そういった絵馬や絵が奉納されている場所に向かえば、文治朗のことが分かるだろうか。
わたしは壁に掛かったカレンダーを見つめた。突然の有給休暇に加えそれが数日ともなると、わたしの首は危うくなるかも知れない。しかしここまで来たのなら、あとはわたしが自分の足でそれを追い求めるしかない。
「駄目だよ、花ちゃん」
わたしの思考を読み取ったかのように、文治朗が言った。
「ここからは君が入ってはいけない世界だ」
カレンダーから文治朗に視線を戻して、わたしは訊いた。
「どういうこと?」
文治朗は真剣な顔をして、わたしがめくりかけたカレンダーを見た。
「此処に僕が来たからって、君をひょいひょいどこかに向かわせるわけにはいかないよ」
「上手く言えないけど、僕はこれでじゅうぶんなんだよ」
「でも……」
文治朗はわたしの手を取った。そこにあるつめたさも忘れて、わたしは文治朗を見た。
「ありがとう、花ちゃん。僕はそれが分かっただけで良いんだ」
「僕は絵描きだったことだけ憶えていたから、自分が何を描いていたのか知りたかった」
文治朗はわたしを見つめながら、ゆっくりと続けた。
「どこで描いていたかなんてどうだって良い」
「僕がやっていたことが分かった、それだけでもうじゅうぶんなんだ」
わたしは文治朗の言葉に、俯いてしまった。せっかくここまでたどり着けたのに。
違う。わたしは文治朗が何をどこで描いていたのかを知りたいわけじゃない。どんな動物たちに囲まれて、どうやって筆を取って、どうやって笑っていたのか。文治朗の生き様をこの手で掴みたかった。
すると文治朗がぽつりと言った。
「僕が描く絵はね、相手のひとは生きていたら駄目なんだよ」
「どういうこと?」
「もし描いてしまうと、そのひとをあの世に連れて行ってしまうらしいんだ」
「えっ」
わたしは顔を上げた。地縛霊について曖昧な説明しか出来ないわたしだったが、それが示すことの重大さは文治朗のその真剣な面持ちから良く分かった。
「僕が死んでから、誰かが僕の花嫁さんを描いてくれたかなあ」
雨に叩かれる窓を見たまま、文治朗はふっと笑った。わたしはなんだか泣きたくなってしまって、慌ててキッチンに置かれていたタオルを手にした。
「文治朗さんは結婚したかった?」
鼻声になってゆく声で問うと、文治朗は天井を見上げた。
「結婚するふたりをずっと描いていたからねえ」
「それが悲しい理由で、そして架空の相手だとしても、どこかうらやましく思うことはあったかも知れない」
「わたしが……わたしが結婚しようか」
「えっ」
文治朗はわたしを見ると、呆然とした。
「わたしはあなたに会ったばかりだし、あなたのことを何も知らないし」
「何が起こっているのか分からないままだけど」
矢継ぎ早に続ける。
「幽霊だとしても文治朗さんは確かにわたしの部屋に来て」
「此処に、いる」
そう言って、文治朗の手に触れていた手に力を込めた。何を言っているのか、自分でも分からない。けれど、伝えたかった。一瞬で沸き立つものに、気付かないふりをしたくなかった。
「いや、それは無理だよ、花ちゃん」
一瞬で振られてしまった。当たり前だ。わたしはへへ、と照れ笑いをした。
「そうだよね、忘れて」
文治朗は大きく首を振ると、わたしを見つめた。
「そうじゃなくて、君は生きているんだから」
「僕のことを見ていちゃいけないんだよ」
「きっとこれからもずっと」
わたしは何も言えなくなってしまった。文治朗の言いたいことは分かる。常識的にもそうだと思う。此処に文治朗が来たことを除いてもだ。
「だってほら、僕が此処を離れてゆくのが分かるよ」
えっ、と言って彼の手を見ると、半透明だった手のひらが、文治朗の言葉どおり、どんどんとより透けてゆく。
「ちょ、ちょっと待って」
わたしは文治朗の手のひらをより強く握った。まるで引っ張るかのように、つよく、強く。
「ごめんよ、花ちゃん」
「僕はきっとしあわせになったから、空……なのかなあ、そんなところに行けるんだと思う」
「しあわせってなによ……」
わたしが泣きながら問うと、文治朗はにこっと笑った。
「君に会えたことさ」
「今しあわせだなあって心からそう思ったんだ」
「そんなのずるい」
「わたしのしあわせはどこに行ってしまうの」
あふれる涙と同じくらい胸を満たすものがあって、息が詰まる。
「君は此処にいるんだよ」
「たとえ僕の絵を描いてもらえるとしても、君がとなりにいてはいけない」
「君を連れてゆくわけには、いかない」
文治朗の手に力が込められた。それはもうほとんど消えかけていて、わたしの裸足の指先が見えている。
「だけど、もしいつか僕らが絵になったら、それはとても嬉しいなあ」
わたしはもう、涙でぐしゃぐしゃになって、文治朗の顔をまともに見ることが出来なかった。タオルで顔を何度もぬぐっているので、鼻がひりひりする。
「ありがとう、花ちゃん」
「ごめんよ」
「ほんとうだよ、勝手に此処に来て、勝手にいなくなっちゃうなんて」
文治朗がわたしの頬をそっと撫でて、それからほんとうだねえ、と笑った。そしてあっという間に、消えてしまった。
わたしは鼻を啜りながら俯いて、テーブルへ向かった。床がつめたい。先ほどの文治朗の指よりも。文治朗が空にしたからし色のマグカップは、わたしのマグカップと並んでそこにあって、わたしはなおも泣いた。
ノートブックを片付けようとすると、そこに子犬と微笑んだ女性が描かれているのに気が付いた。文治朗が先ほど描いていた絵だというのか。ボールペン一つで、陰影が細かく表現されていた。その横に、小さな字で〝花ちゃん〟と残されている。
ああ、文治朗はほんとうに向こうに行ってしまったんだなあ。わたしはそれを強く感じて、ノートを抱き締めた。それは涙に濡れて、端がへたり始めていたので、わたしは慌ててタオルでぬぐい、本棚の奥に押し込んだ。
あれからわたしは大家に電話をかけ直すことはしなかった。うちの傍で会うこともちょくちょくあったが、今回のことは話さなかった。この家を紹介してくれた例の田中さんは、番号を変えたことにより一時的に通じなかったことが分かった。何のことはない。極めて現実的な、つまらない事実だった。
それから、わたしはごく普通の日常に戻った。友人たちの結婚式にもきちんと笑顔で参加したし、帰宅したわたしの目の前に誰かがいることもなかった。
文治朗とわたしの、ほんの少しの時間はこのように幕を閉じた。それはコーヒー二杯分。あたたくてつめたい、ほんの一瞬みたいな出来事だった。
文治朗が使ったマグカップは今でも棚に静かに置かれている。あの日以来使用していないそれに手を触れると、あの雨音に混じる文治朗の声を思い出す。
「連れて行ってくれても、良かったのにな」
わたしは呟いて、食器棚の扉を閉めた。するとそのガラス窓に反射したわたしの肩越しに、何かが映っている。
「それは駄目だったら、花ちゃん」
その声に振り返ると、それは紛れもなく文治朗だった。
「文治朗さん?!」
「な、何してるんですか!」
思わず敬語になって、わなわなと震えるわたしの指先の向こうで、文治朗はあははと頭をかいた。
「結局、向こうに行けなかったんだよ」
「何で」
頭が追いつかないわたしは直ぐに訊いた。
「〝未練〟があったからかな」
「みれん?」
わたしが繰り返すと、文治朗はふふっと微笑んだ。
「好いたひとを置いてゆくという未練さ」
「えっ」
その言葉を聴いて、思わずぽろりと涙がこぼれた。
「生きてるわたしがあなたを見てちゃ駄目だって言ってたじゃない」
するとやわらかな声で彼は答えた。
「花ちゃんを向こうに連れてゆけない代わりに、僕はまた此処に来ることが出来たのかも知れない」
そして窓辺に立って、まぶしそうに目を細めた。
「今日はすごく天気が良いね」
「僕はたぶん、また外には出られないと思うけど」
「やっぱり陽の光は良いものだね」
「どんな天気だって此処からずっと見れば良いよ」
また瞳が潤んでしまったわたしは、傍に置いてあったキッチンペーパーをむんずとつかみ、それを抱えたままひたすら目頭にそれを当てていた。
「泣かないで、花ちゃん」
その包み込むような声に、嗚咽しながらわたしは言う。
「これはうれし泣きだから、気にしないで」
すると文治朗はゆっくりと傍に来ると、そっとわたしの前髪に触れた。そしてわたしの背中にある食器棚にふと目をやった。
わたしはやっと落ち着いた呼吸で、言った。からし色のマグカップを手にして。
「コーヒー、飲む?」
「挽き立ての豆があるの」
文治朗は目を丸くしたが、ふわりと笑って頷いた。
「何杯でも淹れるからね」
「そんなに飲めないよ」
文治朗のくすくすとした声を背中に聴きながら、わたしはケトルに火をかけた。
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