土曜日午前0時のタクシー

 まったく、どうしようもない。酔っている男と言うものは、いつだって面倒くさい。

「先輩、ねえ、もう帰るの」

 帰るのはあんただよ、と思いながら、返事をしないままわたしはぐでぐでに酔っ払ったバイト仲間の肩を支えていた。財布が入ったわたしの鞄は、何とか肩から斜めにぶら下がっている。

 この男、川口は手ぶらで、先ほどの居酒屋に何もかも置いて来たに違いない。別のだれかが持ち帰って、後日彼が受け取ると良いけれど。いやこの場合、何を失くしたところで自業自得だ。

 

 わたしは空いていた自分の右手を何とかよろよろと上げ、たまたま目についた、白いランプを光らせていた車を止めた。しっかり『空車』と表示されている。この曜日のこの時間帯に、タクシーを直ぐ捕まえられるなんてラッキーだ。

 運転手は、わたしたちがかろうじて立っている、店の前の細い道路に、車を直ぐに寄せてくれた。後部座席のドアが開いた瞬間、わたしは心から安心して、川口を押し込むように乗車させる。

「どちらまで」

 運転手は顔の半分だけで振り返り、静かに訊く。わたしは川口の上半身をシートに押しつけながら、声を張り上げた。

「最寄駅の近くの、黄色い壁のマンションです」

「このひと今はこうですけど、酔いは直ぐ覚めると思うので、このまま乗せて行ってください」

 

 川口は酒に弱い。しかしおおかた直ぐに覚めるので、バイトの仲間たちは彼の扱いには慣れていた。そしてわたしが彼の家の場所を伝えることが出来たのは、仲間内で何度か飲み会をしたことがあるからだ。

 

 悪いやつではないと思う。仕事の手を抜くこともないし、愛想も良い。しかしどうにも、酒が入るとこんな具合だ。わたしがこうして川口を介抱することになったのは、さっきの飲み屋で隣の席だったから。それだけだったのだ。

「あいよ」

 運転手が前を向いた。ずいぶんな言いかただな、とわたしは思ったが、乗るのは川口だけなので関係ない。

 目の前でドアが閉まろうとした時だった。

「一緒に帰ろうよ」

 右腕をぐいと掴まれて、わたしは川口の隣になだれ込み、軽く寄りかかる姿勢になる。

「ちょっと」

 わたしは焦ってしまった。川口は赤い顔でにこにこして、わたしの腕を離さない。しばらくその体勢で川口の顔を凝視してみたが、何も害がなさそうに見えたこともあり観念して、運転手に、

「一緒に乗ります」

と伝えた。帰宅方向は同じだから、全くの無駄ではない。

 

 そしてわたしは、川口の隣に改めて座った。運転手はちら、とルームミラーでこちらを見たようだがまた、あいよ、とだけ言って、後部座席のドアを閉めると、エンジンをかけた。

 

 機嫌が良さそうにわたしにくっついて、すやすやとねむる後輩を横に、視線を窓の外にやってため息をついていると、鞄の中のスマートフォンが振動した。友人のバイト仲間からメッセージが来ている。

『川口くん、だいぶ酔ってたみたいだけど、大丈夫?』

 どうせ心配してくれるなら、一緒に来てくれたら良かったのに。わたしはしかめっ面をしながら、車内の暗がりではやたら眩しい画面に素早く打ち込んだ。

『だといいけどね』

 その後もスマートフォンは鳴ったけれど、わたしは鞄にそれを突っ込んだ。

 

 ああ、面倒くさい。なんだってこんな役割を。今夜は早めに切り上げて、先日買ったベルガモットの、少し高級なバスジェルをゆっくり試してみたかったのに。わたしはつい苛々としてしまい、寄りかかって来る川口の身体を右肘で何度も押し返した。

「着いたぞ」

 幾度かそれを繰り返しているうちに、タクシーはだいぶんと走行していたらしい。わたしははっとして顔をあげ、礼を告げると、自分の鞄から財布を出そうとした。しかし運転手に断って、座席に鞄を置いたままいったん川口に付いて車を降りた。家の前に届けたのだから、今度はわたしが乗るだけだったが、きちんとオートロックの向こうまで歩いてゆくか、確認しようと思ったのだ。

 背後に立っている川口の様子を横目で伺うと、身体のぐらぐらは落ち着いていたので、酔いは覚めて来たようだ。

 わたしは安心した。

 

 車内に戻り、とりあえず川口のタクシー代を支払うことにした。請求額には細かい端数もあって、わたしは財布から紙幣を数枚ぬいて、運転手の左手にある青いトレイの上にそれを差し出そうとした。

 その時だった。

「一緒に帰ろうよ」

 川口はさっきと同じ言葉を口にした。しかし先ほどと意味が違うことは直ぐに分かった。単純に強いような、反してそわりとするような力の込められた手の先は、半分車内に入り込んだわたしの背中に触れている。それが臀部でんぶまで降りて来ようとしていたので、わたしはトレイに向かっていた手を止め、顔をしかめて振り返った。

「あんた、もう酔っ払ってないでしょ」

 わたしがそう言うと、ふふ、と笑ったような声だけを出し、うつむいたままそれ以上何も言わない。

「やめなさいよ!」

 声を荒げると、今度は右腕を掴まれた。咄嗟に降り払おうとしたが、川口は動じなかった。わたしに気があると言う話を聞いたことはあったが、まさかこんなことになるとは微塵も思わず、この予想外の展開に、わたしは動揺を隠し切れなかった。動悸が激しくなる。

 

 そうだ、友人に事態を話せば直ぐ迎えに来てくれるかも知れない。確か仲間の誰かは車で来ていて、飲んでいなかった。こいつの部屋に連れていかれる前に、いや何とか逃げ出せたらの話だが、いいやとにかくこの状況をどうにかせねば。

 一度に色んなことを考えつつ、スマートフォンを手にしようとした。しかし肝心のスマートフォンをさっき鞄に突っ込んだことを思い出した。そしてそれは今しがた自分で後部座席に置いた。この位置からでは手が届きそうにない。

 

 どうしたものか。咄嗟に頭が働かなかった。川口の腕にはより力が込められてゆく。どうしよう。

 そうこうしていると、運転手がドアを強く開く音がした。わたしは慌てた。

「すみません、お金なら今払いますから——」

 次の瞬間、川口はマンション入り口の、柵の代わりに植えられたと思われる樹木に、貼り付けられたように直立していた。いや、実際そうなっている。

 

 いつの間にか目の前に来ていた運転手の大きな左手は、彼の胸に押しつけられていた。そして、右手の指なし手袋から突き出ていた人差し指と中指は、川口の首をぐぐっと持ち上げている。

 運転手はそのままの姿勢で、静かに川口に言った。

「嫌がってんの、分かんねえのか」

 川口同様、その低い声にわたしは硬直した。

「それとも、俺が代わりにおまえんちに行こうか」

「直ぐそこなんだろ?」

 ひえ、と川口は仰け反ると、運転手が手を離した途端わたしの顔も見ないで、むせながら自分のマンションに駆けて行った。

 それから運転手が何事もなかったのようにゆっくり歩いて運転席に戻ったので、わたしも慌てて乗車した。

 

 再度タクシーは発車し、わたしはふう、と息をついた。何なんだもう。

「お前、肝が座ってんな」

 運転手の問いにわたしは我にかえり、はい? と冷や汗をかきながら答えた。

「驚かないんだな、さっきの見ても」

 ああ、そういうことか。

 わたしは財布を仕舞いながら、呟いた。

「兄がふたりいまして」

「男性の喧嘩に慣れているところはあるかも知れないです」

 わたしはそう言って、自分の足元に何となく目を落とした。先ほどの出来事を一概に喧嘩と言って良いのか悩みながら、白いスニーカーのつま先を見た。それは車の振動に伴い、上下左右に小さくゆれている。

「何より支払いをまだ済ませていませんし……」

「そういやそうだな」

 運転手は前を向いたままぶっきらぼうに返した。

 兄がいたのはほんとうだったが、こんな話しかたをする兄はいなかったので、何とも言えない気持ちになった。

 

 車内に沈黙が流れたので、わたしは背筋を伸ばして早口で言った。

「いえ、男性と言ってもさっきみたいな川ぐ……ああ言った失礼なひととかはいやです」

「慣れてもいません」

 運転手はへえ、とどうでも良さそうに聞いている。そのうち、動悸はようやく収まり、わたしは改めて礼を伝えた。

「あの、ありがとうございました、助かりました」

「料金はわたしが降りる時にまとめて支払います」

 運転手は分かった、とだけ言い、わたしの行き先を訊いてからは口を開かなかった。

 

 ああもう、面倒くさい。思考がまたも川口に向かう。今度のシフトがあいつと一緒だったらどうしよう。いや、こっちが気を使う必要はない。分かりやすいほどに無視してやろう。もう近づきたくもない。仲間にも言いふらしてやる。あいつの今夜の素行は店長の耳にも入るかも知れない。いい気味だ。

 頭の中が怒りでじりじりして来るのが分かった。

「おい、あんた大丈夫か」

 運転手の声にはっと顔を上げると、タクシーはわたしのマンション前に停まっており、わたしは慌てて財布を出そうとした。紙幣を数えながら考える。

 

 あいつめ、無視してやろうと思ったけど、今夜のタクシー代だけは何としても返してもらうぞ。なぜわたしが馬鹿なあんたのぶんを払うことになるんだ。ああもう。ほんとうに面倒くさい。我ながら口が悪いと思ったが、怒りがどうにも収まらなかった。

 

 その時わたしは、自分が涙をこらえていることに気がついた。無意識に鼻まですすっている。運転手はこれに声をかけたのだ。わたしはもう恥ずかしくてたまらなく、顔も上げないまま紙幣をトレイに素早く置いた。

 

 思った以上に気持ちが揺さぶられていたのかも知れない。川口は馬鹿だけど、いい後輩だと思っていたから。正直可愛がってもいた。でも、それだけだった。酔っていたことがきっかけだったとしても、川口があのようなやりかたで自分と距離を近づけようとしたことに、わたしは思ったよりショックを受けていたようだ。

「大丈夫です、ありがとうございました」

 わたしは財布を再度鞄に突っ込み、開かれたドアから車外に出た。すると、またも運転席のドアが、ばん、と開く音がした。

 わたしはびくりとし、運転手を怒らせることを何かしてしまったのだろうか、とひやりとした。先ほどの川口が目に浮かぶ。

「ちょっと、待ちな」

 恐る恐る振り返ると、運転手はドアを開けたまま半身だけ車内に潜り、助手席の上のサンバイザーをいじっているようだ。なんだろう、とわたしが目を凝らしていると、運転手がそれを開けた。

 

 その瞬間、ばらばらばら。と音を立てて、小さく四角いビニールの避妊具が、つまりはコンドームが落ちて来て、助手席にたくさん散らばった。それはルームランプのせいでくっきりとその様態を晒している。

「!!」

 咄嗟にわたしは駆け出そうとした。犯される。瞬時にそう思った。すると、背後でちゃりーん、と大きな金属音がして、やめれば良いのに反射的につい振り返ってしまった。運転手が落とした、鍵の音だった。それは彼の赤いスニーカーの前で、マンションのエントランスの光を反射している。

「違う、まあ仕方ない、これ、ほら」

 鍵を右手でけだるそうに拾ってから、精いっぱい差し出された腕は、わたしと運転手の距離を広げてもいた。そろそろとその手元を見ると、今しがた鍵を拾った手とは逆の手に、ゆるく折り畳まれた真っ白なハンカチがあった。

 わたしが何も言えずにいると、運転手は、鍵をちゃりん、と人差し指で一回転させた。

「なんもしないから」

「使え、それはやるよ」

 運転手は相変わらず硬直しているわたしに近づき、それを押し付けるように握らせると、運転席に戻って行った。

 訳がわからない。

 

 わたしは無言のまま、くるりとタクシーに背を向けた。元々男なんて良く分からないし面倒くさいし、何よりわたしは早くお風呂に入りたい。ハンカチのお礼を言うべきか一瞬迷ったが、言葉が出なかったのも事実なので、足を進めた。それに、避妊具をあんなに持って運転しているやつなどとは関わらない方が良いに決まっている。

 

 その時、今度は後ろでクラクションが鳴った。わたしはその馬鹿でかい音に一瞬肩をすくめて、立ち止まった。そして手にしていたハンカチをぎゅうと握りしめた。一体何だと言うのだ。

 

 振り返り、運転席からこちらを見ていたと思われる運転手を睨みつけた。微動だにしない。わたしは一瞬気味が悪くなったが、ここまで来たらどうにでもなれだ。

「なんですか」

 礼を言うことなど頭から抜け切ったわたしがそう言いながら近づくと、ルームライトの逆光で顔が良く見えない運転手は、今度は手のひらをゆっくりと広げた。そこには幾枚かの小銭が載っている。

「釣り」

「良いです、取っておいてください」

 わたしは即答した。

 実際助けてもらったことは事実だし、使うかどうかは別としてハンカチも受け取った。元々置いてゆこうと思っていた釣りなど、どうでも良かった。

「そうかい、ありがとうよ」

 運転手はつまらなさそうに言い、運転席へ戻ろうとした。その時わたしに、ひとつの疑問が浮かんだ。どうしても気になってしまって、気づいたら口にしていた。

「なぜ、あんなに持ってるんですか」

 運転手は振り返った。

「なにを」

「なにって、ご、ゴムをですよ」

 これで目の前の男がになって襲って来たら、直ぐに防犯カメラのあるエントランスに駆け込むつもりだった。

「あー」

 運転手はよりつまらなそうな声を出した。

「妙な男に絡まれてあんたみたいに嫌な顔する女もいるけど」

「性別関係なく、そうじゃない奴もいるからな」

「そんな奴に会計時に押し付けてんだよ」

 わたしは瞠目どうもくした。だからと言ってあんな数の? きっと嘘だ。そんな下手な嘘、誰が信じるというのか。

「そうですか、それだけです」

 わたしはタクシーに今度こそ背を向けようとした。

 

 すると、向こうから歩いて来た数人の男たちが、足を止めていたわたしに気づいたのか、取り囲むようにして絡んできた。

「ねえ、暇? これから俺たちと一緒に飲まない?」

 ていの良い軟派言葉にわたしは辟易して、思わず顔を背けた。鞄を胸に抱いたまま黙っていると、ひとりの男が近づいて来て、わたしの顔を覗き込んだ。

「聞いてる?」

 酒臭い。わたしはここに留まっていたことを後悔した。無視してエントランスに向おうと一歩踏み出した時、背後から大きい声がした。

「お前さんたち、乗ってくかい」

 振り返ると視線はわたしではなく、男たちに向けられている。そして運転手はルーフを一度手のひらで叩いた。だん、という大きな音が辺りに響く。

「どこまでも連れてってやるけど?」

 川口に放たれていた時もだったが、この運転手の声はどこかどすが利いているように感じる。

「な、なんだよ、行こうぜ」

 その声に静まり返った男たちは、直ぐさま足早に去って行った。

「あんた、今夜は厄日だな」

 運転手がわたしを見つめて——相変わらず顔は良く見えなかったが——可笑しそうに言った。わたしはしばらく黙っていたが、口を開いた。

「今度わたしの帰りは、ぜんぶあなたに頼んでいいですか」

 運転手は一寸置いてひと言、なんでだよ、と言った。感情が込められているのかいないのか分からない、呟きにも似た声だった。

 わたしはハンカチを先ほどより、きゅっと強く握りしめた。

「ま、また川……さっきのひとと同乗したら嫌なんです」

「一緒に乗んなきゃ良い」

 運転手は直ぐに答えて、再度鍵を回した。家の鍵なのか、はたまたガレージの鍵なのかは分からないが、幾つもの鍵がキーホルダーの様なものにまとめられて回転し、重たい音になる。そしてそれを手の内に納めた。

 握った時にまた、ちゃり、と聴こえたのと同時に、ぎゅうと握りしめる音がして、わたしは運転手の手袋が、革のような物で出来ているのにはじめて気がついた。

「家が同じ方向なんです、だから多分タクシーを使う時は——」

「そんなの知ったこっちゃないね」

 うつむいたままのわたしの言葉を遮り、運転手は少しだけ肩を上げた。

「飲みのあとは必ず電車で帰って、なんならあいつと飲むのはやめな」

 全くその通りである。今後川口と、いや誰とでもだが、この運転手の車に乗るなら安心だろう。そう思い言ってみたが、確かにそんな危険を冒す行動をそもそもしなければ良いのだ。

「そうですね……」

 わたしは尚の事うつむいた。同時にバイトを辞めることすら、考えていた。これでこれからの人生やっていけるのか分からないけれど、今後このようなことが何度もあったらたまらない。ましてや好きでもないやつと。あと、さっきみたいな輩と。

「あんた、普段から気をつけなよ」

 運転手の言葉にふいと顔を上げた。

「俺が車を停めるたびに鍵を抜くのは、海外にいた時に盗まれたことがあったからだ」

 運転手はボンネットに手を置いた。

「あんたも何かある前に、よく考えな」

「今回みたいなことになる前にな」

 そして言った。

「あんた、可愛いんだから」

 

 えっ、と思った時にはもう、タクシーは走り出していた。テールランプが走る時のそれに変わって、車種のマークと共に見えなくなった。

 わたしはしばらく唖然としていたが、そのあと思わず、ふっと笑った。

「何それ」

 さっきは今後乗せてくれと思わず頼んだけれど、個人タクシーなのだから、今のところこちらから運転手に連絡する術はなかった。名前すら、知らない。

 

 自宅に戻ったわたしはようやく肩の力が抜け、玄関先ではあ、と大きく息をついた。

 すると鞄の中のスマートフォンが細かくゆれて、またメッセージが来た。

『返信ないけど、もう帰ったの?』

『平気だった?』

 はじめに連絡をくれた友人だ。わたしは一連の出来事を思い出して、つい顔を緩めてしまった。

『ぜんぜん大丈夫だった』

 変な夜だった。でも少しだけ、楽しかった。

 

 すると、何かが足元に落ちた。拾い上げるとそれは真っ白な名刺だった。ハンカチに挟んであったのだろうか。わたしが何度か握りしめたことで、しわがよっている。電話番号の下に『ドライバー 雪谷ゆきがや かおる』と書いてある。裏返してみたが、他には何も書かれていなかった。

 

 わたしはそれを見つめながら、思い出そうとした。あのサンバイザーの中にハンカチは何枚もあったか。落ちて来た大量のコンドームに目を見張った記憶しかない。あれを持っている理由に偽りはないのだろうか。そして、この名前も、電話番号も、ほんとうに実在するのだろうか。それからあの謎の、黒い指なしの革手袋と真っ赤なスニーカー。わたしは唸った。

 

 まあ良い。たとえ張りのある良い声をしていて、キレると怖い感じのちょっと魅力的な男性だとしても、あのひとはただの中年男性で、単なる普通の運転手だ。今どき名刺の電話番号しか連絡先がないなんて、色々とやる気のないおじさん運転手なのだ。

 しかしわたしはこの名刺を、ポストから出したばかりのくだらないチラシと一緒に捨てることはせず、財布の隙間にそっと差し込んだ。

 

 プライベートではSMSを使っているのだろうか。そして、名刺に書かれている電話番号は仕事用なのだろうか。それともあの運転手個人のもの?

「わたし、何を考えているんだろう」

 思わず独りごちた。今いちばん面倒くさいのはわたし自身だ。さっきまであんなに不審がっていたくせに。あの運転手は乗客の誰もを褒めるひとなのかも知れないし、或いは単なる営業だったのかも知れない。それに何より、わたしは彼の顔すら良く見ていない。

 

 バスルームへ向かい、なだらかなカーブを描いたガラスボトルを手にした。それは開封する前から、やわらかくそして爽やかな香りを放っている。

『あんたも何かある前に、よく考えなよ』

 今からこれを思いっきり泡立てて、このハンカチを浮かべながら、今後の方針を決めてやろう。

 厄日だと運転手は言ったが、今日は案外良い日だったのかも知れない。

 

 あの運転手、いや雪谷氏の声が頭から離れないわたしは、そんなことを考えながらガラスの蓋を捻る。ほころぶ顔を隠すように、浴室から湯気が立ち込め始めた。

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