そんなに遠くなくても

桐月砂夜

 わたしは雨女だ。

 なにか大きな予定があるとその度に雨が降る。友人たちにはいつも笑われた。ああ、また雨だよ、きっと今度も雨になるよ。わたしは困ったように笑って謝りながらも、俯くしかなかった。

 そのうちわたしはひとりを選ぶようになった。そうすれば、一緒にいるひとが誰も濡れなくてすむから。誰もわたしを笑うひとはいなくなるから。

 ある日晴れた公園で、なんでもない昼休みを過ごしていた。そこはちいさな公園で、けらけら子どもたちが笑い、様々な遊具はカラフルだ。わたしは木製のベンチに座って、野菜ジュースの紙パックを手にぼうっとしていた。子どもたちの歓声を聴きながら、手元に目をやる。ジュースは野菜の味など分からないほどに甘くて、わたしは憂鬱になった。

 空を仰ぐ。晴天だった。きっと何もイベントがないからだ。誰もが待ち侘びる、ただ楽しみにしている出来事。どこかの誰かはきっと、この晴々とした天気のなかで笑っているのだろう。

 わたしは自身の隣に置いていた折り畳み傘を見た。万が一、昔の友人にでも出会って、どこかに誘われたら?今日だけならそのひとも許してくれるかも知れない。そのようなことを考えているから、わたしは雨女なのだ。実に馬鹿馬鹿しい。

 

 ほんとうは、わたしは雨が嫌いじゃない。傘にぱらぱら当たる雨音は、いつだって優しいし、常に用意している傘はわたしの顔を隠してくれる。あの遊具を滴る雨粒も、きっと澄んでいて美しいだろう。

 

 空になった紙パックと鞄を抱え、立ち上がろうとした。忘れないように、折り畳み傘をしっかりと手にしたまま。今日は晴れていたけれど、日傘兼用だから、この傘は便利だと思う。この傘をはじめて作ったひとは、太陽に好かれていたのだろうか。それとも、雨に?

「すみません、ちょっと良いですか」

 そんなことを考えていたら、声をかけられたのでわたしは驚いてしまって、はい!と無駄におおきな声を出した。その声に驚いたのか、声をかけたと思われた人物はわたしに近付く足を止めた。 

 顔を上げると、スーツ姿のいかにもなサラリーマンがいた。ふわふわ笑っている。何かの営業だろう。

「ごめんなさい、急いでるので」

 わたしは明らかな不信感を抱いて、立ち上がると直ぐに背を向けようとした。

 あっ、そうですよね、とわたしの手元を見、いまが昼時なのに初めて気付いたように、言う。わたしはその態度に少し興味を抱いてしまって、その男を改めて見た。そしてわたしはその男が紺色の傘を手にしているのに気が付いた。

 

 今日は雨雲ひとつない。忘れていた傘を持ち帰って来たのだろうか。まあ、そんなことはどうでも良い。しかし、その男が困ったような顔をしているので、わたしは彼を見つめた。

「あの、ここの近くにある、ホールを探しているんです」

 問い掛けてもいないのに、その男は言った。

「迷ってしまいまして、そこの場所をお分かりになりますか」

 男はその場所の名前を告げる。マップアプリがあるだろう、と思ったけれど、初対面のひとにそれを言い放つのも気が引けた。幸い、以前その場所で会議を開いたことがあるので、わたしは道筋を説明した。男は心底安心したように顔を緩め、わたしに礼を言った。

 歩き出そうとした男をわたしは引き止めた。

「どうして傘を持っているんですか」

 これくらい訊いたって良いだろう。この男だってわたしに訊ねて来たのだ。すると、ああ、と男はまたふわりと笑って、その傘の柄にスーツケースを持っていた逆の手を当てた。

「僕、雨男なんですよ」

「これから大切な商談があるので、きっと雨になります」

 わたしは目を見開いた。そして男はわたしの折り畳み傘に目をやり、笑って言った。

「ああ、あなたは傘をお持ちだ」

「良かった」

 

 そうして男は公園を出て行ってしまった。わたしは男の背中を呆然として見ていたが、すぐさま追いかけた。あの場所なら、知っている。おいしいフルーツジュースを出す喫茶店が近くにあることも。

「あの」

 わたしの声に男は振り返った。

「あの、あなたの傘のことですが」

 ええ、と男は不思議そうな顔をした。

「わたしも傘がよく必要になるんです」

「ですから、その、傘屋さんにお詳しかったりしますか」

 男は目を丸くしたが、にっこり笑った。

「お気に入りの雑貨屋があります」

「あなたにお時間があれば、あとで待ち合わせしましょう」

 わたしは折り畳み傘を握りしめたまま、強く頷いた。

 

 彼は商談が終わったのに雨が降らなかったことに驚いていたようだが、雑貨屋に向かう途中で、雨が降り出した。

「ああ」

「降り出した」

 わたしも彼も声を出して、各々の傘を差した。わたしたちは、目を見合わせて笑った。

 今日の雨はとびきり、優しかった。

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