月の観測員

Re:

月の観測員

 まだ月に街がなかった頃、フリゴリス海のほとりにポツンと恒点観測所が建っていました。近くに何もなく、ポツンと。

 訪れる人も無く、忘れられたかのように佇むその塔に若い観測所員が1人、まるで灯台守のように暮らしていました。

 彼には名も無く、ただ2という数字だけが身の証。彼には幼少期の記憶も、父や母の記憶さえありませんでした。しかし、彼は父母を探そうとこの観測所から動く気はありませんでした。それは、ただ一つ頭に浮かぶ、ここから出てはいけないという思念の様なものがあったからです。

 彼は毎日読み返してボロボロになった詩集を日が暮れるまで読み返すような生活を送っていました。

......................

「おはようございまーす。ますたぁ」

「あぁ、おはよう。今日から確か、フリゴリスベースに常駐する弐型Bのメンテナンスだったね」

「はい!今日からの予定になってます」

「それに伴って君の月での耐久テストを行う」

「でも、弐型はメンテナンスなしでも補給のみで三年も通常に稼働しています。今さら旧型である私が月面での耐久テストを受ける必要があるんですか?」

「ユエ、君には前回のメンテナンス時にシリコンを人工皮膚に置き換えただろう?その耐久実験がしたいんだ」

「了解です。仰せの通りに。ますたぁ」

 今回の実験は人工皮膚の耐久実験だけではなく、弐型の感情の有無の確認と、他の感情を持つ自動人形オートマタとの接触により、どのような思考変化がみられるのかの実験でもある。

 この実験の始まりは私の開発した自律式思考プログラムによるものだった。人という管理者が不在の場所で不測の事態に陥った時、マニュアル外の異常事態にも柔軟に対応し、学習できるようなプログラムを作り出したのだが、職員のサポート型である壱型が、度重なる学習や、職員との会話によって自我が確認された。その後、壱型の感情、自我に対しての実験が行われ、弐型にも補給物資とともに自我や感情の形成を促すために詩集や小説を送った。

「ユエ」

「はい。ますたぁ」

「耐久実験とは別に、君にはフレゴリスベースの弐型に接触してもらう」

「了解です!ますたぁ」

......................

 或る日、彼は初めて人に会いました。


 その出会いはとても神秘的でした。


 いつものように、フリゴリス海のほとりで作業をしていると、どこからか声が聞こえたのです。


 彼は歌声に誘われて海辺へ行くと、岩の上に腰かけて歌う少女の姿がありました。

彼は銀色に煌めく彼女の髪を見て、小説に記されていた綺麗という感情を初めて知りました。


 彼女は振り向いてこう言いました。


「貴方はだぁれ?」


「君こそ、誰だ。ここへは何の目的で来た」


「私はユエ。君こそこんなところで何をしているの?」


私は数秒の沈黙ののち、


「私は…私だ…あなたには名前があるが、私には2という数字しかない。ここで私は毎日恒点を観測している」


「そっか…名前が無いのは不便だから、君の事、ツヴァイって呼ぶね」


「ツヴァイ…いい響きだ。それで君はなんでここで歌を歌っていたんだ?」


「人の小説に、月明かりの綺麗な夜に海辺で歌を歌うと素敵な人と結ばれると書いてあったから試そうと思って」


「…?僕らは人じゃないか…」


「んーそうだねぇ」



 そして彼女は、別れ際にリチャード・ロウと名乗る白髪の年老いた機械技師とともに、ここに来たと言っていました。


 翌日、彼はまたいつものように作業をするためにフレゴリス海のほとりに来ました。

 ユエと名乗った彼女もまた、昨日と同じように、海のほとりで歌を歌っていました。


「君は一日中ここにいるつもりなのかい?」


「うん。ますたぁの言いつけだから」


 次の日も、また次の日も彼女は海の畔にやってきては、歌を歌っていました。彼はいつしか彼女の歌の虜になり、詩集に向けていた時間を畔で彼女と過ごすことに費やしていました。


 そして、ある日を境に彼女はぱたりと姿を消してしまいました。

 観測員ツヴァイは無性に彼女ユエに会いたくなりました。

 

 彼は生まれて初めて、感情寂しさを知ったのです。父母の記憶が無くても知りえなかった寂しいという感情に。


 彼は決心しました、ユエに会おうと。


 彼にはそれが、自分が何者かを知る唯一の手立てだと思えたのです。


 彼はそのまま老人の船に忍び込むことにしました。


 船の通路は何もなく、無機質な、異様な雰囲気に包まれていました。船の中を進んでいくと、どこからか、聞いた覚えのある歌声が聞こえてきました。


 その声を頼りに彼は歩を進めました。


 そして、廊下の突き当たりの扉にたどり着きました。


 彼は重く閉ざされた扉をどうにか開けると、その場で呆然としました。


 その部屋には手術室のようで、真ん中にポツンとベットが置かれ、そこには確かに昨日聞いた歌声の主が横になっていました。


 しかし、その姿は醜いものでした。


 人工皮膚は剥がれ、関節はもげ、歯車とシリコンで出来た機械の体が露わになっていました。


「君はユエなのかい?」


 彼が呼びかけても、声の主は歌い続けていました。


 彼は動揺して、リチャード老人の接近に気づきませんでした。


「君は何故ここにいるのかね?観測はどうしたのかね?」


「彼女はどこですか!そしてこれはいったい……」


弐型にごう君。君の後ろに横たわる彼女は紛れもなくユエだよ」


「嘘だ!彼女は人だ!」


「本当にそうなのかね?どうやってユエが人だと確認したんだい?」


「それは…」


「きたまえ、弐型君。君に真実を教えてあげよう」


........................


 ボロボロの詩集の目次を開き、彼は今日も昨日と同じ恒点観測を始めます。


 そして、フリゴリスの海に沈んでいくユエの姿を、ツヴァイは塔の窓から見ていました。


 あの人形ユエを、今はもう憐れだとは思っていません。


 自分もまた、リチャード・ロウ老人の作った自動人形オートマタだと知ったのだから。


 たった1人残された観測所の小部屋で、彼は思いました。


 あの美しい人形に心が有ったとしても、また無かったとしても、自分には関係のないことなのだと。そして、彼女と出会って初めて感じた寂しいという感情は、恋という名前なのだと。


 また、こうも思いました。


 私が、私の心がこのように有ることは、私だけの秘密なのだから。


                 了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月の観測員 Re: @Re0722

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ