五食目.オムライス

あ、蕾。

大空は誰かの庭に植えられた桜の木に蕾が着いていることに気づきスマホを取りだし数枚写真を撮る。

「もう春かぁ」

時間が経つのはあっという間だ。少し前まで雪がまう日もあったのに。

「あ、やばっ」

バイトの時間が迫っていることに気づき大空は小走りで道を行く。

しばらく走っていると十字路に差し掛かる。

「うわぁっと!すみません!」

危うく右から来た人にぶつかりそうになってしまった。間一髪避けることが出来て、自分の瞬発力を褒めてあげたくなった。

「あの!すみませんでした!」

急いで後ろをふりかえって謝罪したのだが、ぶつかりそうになった男は振り返らず歩いていってしまっている。

怒らせちゃったかな…。

「あの!本当にごめんなさい!」

もう一度先程よりも大きな声で謝罪してから大空も再び足を進めた。


「セーーフっと」

半ば飛び込むような形で店内に足を踏み入れる。

「ん?大空、どうしたんだよ」

「え?」

大樹の言葉に首を傾げる。

何かを察したように律とマスターがふっと笑みをこぼす。

「え?なになに?」

「今日休みだぞ。店」

「あ!」

そうだ、今日は水曜日じゃないか。毎週水曜は店の定休日だったのだ。完全にうっかりしていた。

「バッカだなぁ」

可笑しそうに笑う大樹に何も言い返せなかった。

「休みかぁー。ま、いっか!帰って映画でも見よっと。んじゃ、お邪魔しましたー」

くるりと体の向きを戻して再びドアノブに手をかける。

「何だよぉ。もう帰るのか?せっかく来たのに。映画なんか午後からでも見れるじゃねえかよぉ」

小太郎が足元に来て不満げな声で鳴く。

「えーだって迷惑でしょ?今日お店休みなのに」

「そんな事ないですよ?良かったら3人に混ざってあげてください」

混ざる?なんの事だろうか。大空は大輝と律の座る席をよく見る。とそこには机に懐かしいものが広げられていた。

「人生ゲーム?」

何とそこには幼少期、大人数で遊ぶには定番の人生ゲームが広げられているではないか。

「まだ始めたばっかだし一緒にやろうぜ」

「流石に二人と1匹じゃあ面白味にかけるしな」

「やるやるーっ。あ、それならマスターも一緒にやりましょうよ!」

「いや、私は見ているだけで十分だよ」

「えーじゃあ審判しといてくださいね!」

審判ってなんだよという大樹のツッコミは置いて早速円になって座る。


「うわぁまじかよ!会社倒産したんだけど」

「はい!借金1億えーん」

「これで大樹は借金まみれだぜ!」

やはりこう言うボードゲームはいくつになっても楽しいものだ。ついつい盛り上がってしまう。審判もとい読書中のマスターも時折こちらに目をやっては微笑んでいた。

ルーレットを回してコマを進めるだけのゲームをここまで面白くすることが出来るだなんて、最初にこのゲームを考えた人は天才だ。

カラカラと音を立てながらルーレットが回される。律の番だ。

「三か。……あ、株で大勝した」

「嘘だろ!?」

律は序盤で手こずっている大空とは違い律は着々と駒を進めてる。

「えー律ってば順調すぎない?株価暴落しないかな」

「とんでもないこと言うな」

そう言って困ったように笑う律の手の上にまるで重しのように丸くなる。

「いいや大空の言う通りだぜ。ここらで一回手を止めさせないと律の一人勝ちコース決定になっちまう」

小太郎は一点集中、ルーレット目掛けて器用に尻尾を振った。猫の本能なのだろうか。回る針を見ながら小さくお尻を左右に動かす小太郎が可愛くて思わず口角が緩む。

 結局全員がゴールするまで一時間は余裕でかかってしまった。最終順位は

律、小太郎、太陽、そしてビリッケツで大空だった。

軽い気持ちで始めたゲームだったが途中から皆お遊びとは思えないほどの熱量だった。なおさら負けたことが結構悔しい。せっかく一流モデルにまで上り詰めたと言うのに、まさか大物タレントとの熱愛がゴシップされた上に活動再開後に開いたディナーショーで料理に異物混入して損害賠償だなんて一体誰が想像できたと言うのだろうか。ていうかそもそもモデルはディナーショーなどするのだろうか。

「…んぐぅ」

「まーまー!たかがゲームだってぇ。そんなマジになんなよ」

大樹がまるで勝者のような笑みを浮かべながら慰めるようにこちらの方をポンと叩く。ほんの数分前まで人コマ進むたびに一喜一憂していたのはどこのどいつだ、て言うかそっちだって三位のくせに。と言いたくなるが、そこでそう反論してしまえばなんだか負け犬の遠吠えのような気がしてならない。仕方ない、ここは一つ私が大人になろう。

「それもそーねー。多々がゲームだもんねえ」

特に意味はないが意味ありげな表情を浮かべて肩を少しすくめてみる。

「な、なんだよ」

大樹の反応を見るにどうやら私はモデルより女優の方が向いているらしい。

「べっつにぃ?んじゃ私はそろそろ帰ろっかなぁ」

大空は椅子にかけていたショルダーバックを斜めがけにする。

「……なあそら」

小太郎が自分の姿が映るほど真っ黒い瞳でこちらを見つめてくる。

「どうしたの?」

立ち上がった大空の視線と近くにするためか小太郎は近くにいた律の腕から肩にかけてするすると登る。

「おっと…」

律はそう声を漏らすと小太郎が落ちないようにするためかやや猫背気味に姿勢を崩した。

「なにぃ?」

一体どうしたのだろうか。大空も小太郎に顔を近くする。

「…なんか最近、変なことあったりしたか?」

「なあに?変なことって」

曖昧な質問に大空は質問で返してしまう。これをすると結構嫌がる人もいるのだと最近見たアニメで知ってからはあまりしないよう気をつけていたのだがついうっかりやってしまうほどに小太郎の質問は唐突だった。

「ないならいいんだけど…」

「ん?うん、特にないかな。強いて言えば間違えて休みなのにバイトに来ちゃったくらい?」

「そりゃ通常運転だろ」

大樹の飛ばした野次に「うるさいでーす」と食い気味で返す。

「まあ取り敢えず私は大丈夫よ?」

再度そう応えると納得したのかしてないのか微妙に首を傾げながら律の肩から降りる。

「何かあったらすぐ言うんだぜ」

「うんっ。心配してくれてありがとね」

大空は小太郎の顎下を軽く撫でてから店を後にした。


 あの雲鯨みたい。

大空はふわふわと漂う雲をなにかしらの形に見立てながら暖かな道を歩いていた。

「あのすみません」

明らかにこちらに向かって聞こえた声に「はい?」と振り返る。

あれ、この人。はっきりとは思い出せないがどこかで見たことがあるような気がする。

「あ、ああ、あなた」

フードを深く被っており表情どころか顔そのものがよく見えないその男はこちらに向かって震えた指を刺してくる。

「あ、あなた、あ、あ」

なにこいつ、変質者。やっぱり春だから?

春は変質者や変態が増えるから注意するようにと小学生の頃担任から伝えられたのを妙に鮮明に思い出す。そんな明らかに様子のおかしい男から大空は一歩距離をとった。

「あ、朝、あなた朝、朝」

うわぁやっぱこの人、気が触れてる人だ絶対。どうしよう。走って逃げようか。今ならまだ距離がある。逃げるなら今かもしれない。

そう頭では思っているのだが体は一向に走ろうとしてくれない。大空は大空自身が思っている以上に恐怖しているのだとその時わかった。

「あああ、朝、朝、朝」

朝?朝ってなによ…。

「…っ!」

そうだ思い出した。この男は今朝、店へと向かう途中ぶつかりそうになった男だ。おそらく。と言うのも先ほどにもあるが、如何せん顔が見えないので服装と雰囲気で判断するほかない。男は何度も何度も同じ言葉を繰り返しながら一歩こちらに近づいた。

さすがにまずいんじゃないかなぁ、これ。大空はこんな時だが一度落ち着こうと深く息を吸う。そして一度溜めた息を吐くと同時に後ろに走りだした。二歩目まではよかった。しかしいくら冷静になろうとも恐怖は健在だ。大空は自分の足に引っかかり情けなくもその場に激しく転んでしまった。

「や、やばっ…」

振り返らずにさっさと足を進め直せばいい物を、大空は間を置かず後ろを振り返った。

「ひぁっ…!!」

すると離れたところにいたはずの男は人間の動きとは思えない、瞬きをするよりも早く大空の目と鼻の先まで距離を詰めた。どちらかが数ミリでも動いたら鼻先が触れ合ってしまう、そんな距離だった。その時ようやく男の顔を真正面からはっきりと見ることができた。もはやそれは顔と呼んでいいのかすら分からないほどドロドロに溶けた全顔が真っ黒いヘドロのようだった。そう、この男はそもそも人間ですらなかったのだ。

本当に恐ろしい時とは悲鳴どころか、言葉一つ出すことができないのだとその時初めて知った。

そんなことならたまに見るホラー映画も全て嘘くさく感じてしまうではないか。ああそういえば、前にもこんなことがあったな。人間だと思ったら実は死んでましたみたいな。あの人元気かな。名前なんだっけ.回らない頭を必死にフル回転させたせいだろうか。余計なことばかり考えてしまう。

「ああ、う」

すると今まで静止画のように止まっていた、もしかしたらそう見えていただけなのかもしれないが、とにかく目の前の男の手が動き始めた。顔と同じように溶けた男の手はゆっくりとこちらの顔に近づいてくる。

ああもうお終いだ。大空は硬く目を瞑った。

ドンッと言う強い衝撃を一瞬感じた後、大空の体は後ろに倒れた。その後特に自分の見に何か起こった感覚はなく、大空は涙が滲む目をそぉっと開けた。

滲んだ視界には黒くて小さな影が一つ。と、その奥にもう一つ。

「もう大丈夫だから、目ぇ瞑っとけ」

その声を皮切りに大空の意識は薄れ、途切れた。



 「だからぁ、……はい、いやそれは…!取り返しのつかない、いや、わかってないでしょう?!」

店の中にいても聞こえるほどの怒声を散らしながら律の電話が終わるのをただ静かに待つ。目の前で静かに寝息を立てる大空を見て大きなため息をついた。

「心配しなくても次期に目を覚ますよ」

マスターはそう言ってこちらに優しく声をかける。

「はい…」

確かに大空のことも心配だ。助けに行くまでの間に一体どう言うことがあったのか分からないが気を失うほど恐ろしい目にあったと言うことだけはわかる。

しかし大空が無事と分かった今、大樹の頭に別の不安が渦巻いている。しかし恐ろしい目にあった大空より、自分の個人的な心配の方が上回ってしまった事で自己嫌悪に陥る。

「…ん、んん。……うわぁ!」

数秒魘されるような声を上げたあと、大空はかけていた毛布を蹴り飛ばすような形で飛び起きた。足元で丸くなっていた小太郎は吹っ飛ばされる前のギリギリのところで机へとジャンプした。

「びっ…くりしたぁ。」

まさかそんなテンションで起きてくるとは思わず大樹も驚きの声を漏らした。小太郎もしっぽをいつもの倍程に膨らませながら再び足元の方に戻り座り直した。

「大丈夫かい?何があったか、覚えてる?」

マスターは床に膝を着いて大空にそう問いかける。

「ん、うぅん。なんと、なく?て言うかさっき見た夢でだいぶ上塗りされちゃったかも…」

「どんな夢みたんだよ」

「生きてるカエルを投げつけられる夢」

「……しょうもな」

想像していたより内容が馬鹿らしくて大樹は吐き捨てるように言った。

「いやしょうもないって何?私カエルめちゃめちゃ嫌いなんだけど?!わかるこの気持ち!」

「知らねぇよ、どーでもいいわ」

「そっちが先に聞いてきたんでしょう?てか何?なんかテンション低くない?」

「そーかぁ?」

嫌に察しの良い大空にそう惚けて見せるがあまり通用せずさらに疑いの目を強くした。

「お、起きたのか。もう平気か?」

そこでスマホをポケットにしまいながら律が戻ってくる。普段大声を出さないからか、電話を終えた律は少しだけ喉が涸れているように聞こえた。

「ほんとうに申し訳ない」

そう頭を下げた律に慌てた様子で立ち上がると近くまで移動した。その際に擦りむいたひざが傷んだのか一瞬表情をゆがめた。

「なんで律がか謝るのよ。あの気持ち悪いのは律のせいなの?私なら大丈夫だって」

細い腕を曲げて力こぶを作るような動作をしてみせた。

「俺の、というより死神のせいだ。詳しく話すと長くなるから割愛するが、まぁ悪霊を対処する死神がまともに仕事してないから起こった事だ。」

「ならやっぱり律は関係ないじゃん?てか、あれが悪霊かぁ。うーん、グロいなぁ」

大空はぶるっと身震いをする。

「……」

律が何かを言おうとして口を開いたが少し考えたあと、結局何も言わずに口を閉じた。こちらの視線が強かったのだろうか。律と目が合う。

何となくだが律の言わんとすることを察することが出来た。言う気がないのならこちらから言ってしまおうと大樹は大空の名前を呼んだ。

「お前もう、ここ来るのやめろよ」

「……え?」

ここに初めてきた頃に大空は言った。元々霊感なんて無い、と。ならなぜ幽霊と普通に会話できる程になってしまったのか。それは十中八九ここにいるのが原因だ。近くに居すぎたのだ。

「な、なんでそうなるのよ。今回はたまたまでしょ!?」

「じゃあお前は今日と同じようなことが起きて死んでもたまたまだから仕方ないってなるのかよ!」

「……っ」

こちらの声に大空は表情をかたまらせる。

「落ち着きなさい大樹。らしくないよ。大空さんも、今日はもう帰った方がいい」

「マスターも来るなって言うんですか?私は!」

「そんな事は言っていないよ。明日はとりあえず1日休んで、明後日からまたおいで」

「……はい」

まだ不満げな表情ではあったが大空は一旦引いて半ば投げやりな返事をした。

「送るぜ」

小太郎の言葉に小さく頷くとそのまま静かに店を出ていった。

「なぁ、あれって悪霊なのか?」

「…そうだな」

大樹の質問に少し間を開けて答える。

「あれが…。なあ、悪霊はさ、最後は絶対ああなるのか?」

先程の光景が頭から離れない。小太郎がギリギリのところで大空を突き飛ばしたおかげで何とかなったがもし、間に合わなかったら悪霊はあの後一体何をしたのだろうか。それに、律に払われた瞬間悪霊は獣のような悲鳴をとどろかせ光の中へ消えていった。

「俺が悪霊を狩るために使った方法は緊急時の時用だ。下界で契約している死神は必ずひとつ持たされる簡易的なもの。狩る専用の奴らには専用の方法と道具がある」

「……どっちのがキツいんだ?」

辺りにピリッとした空気が流れる。律はこちらから視線を外すと、少し表情を和らげて息を吐く。

「大樹には関係の無い話だろ?なにも」

「……。」

「じゃあ俺は戻るよ。今回のこと、報告しないといけないからな」

これ以上この話題に触れさせないようにするために適当な理由をつけてこの場を去ろうとしたのではないか、そんな皮肉れたありえない考えをしてしまうのはきっと余裕がないせいだ。

俺もいつかああ言う終わり方をするのか?そう聞けばどんな表情を見せるだろうか。困るか怒るか、きっと律なら前者だろう。

ああまただ。言い表しづらい不安が全身を霧の様に包んでいく。大樹は机に突っ伏して目を瞑る。

「大丈夫かい?」

そんなマスターの優しさにも今は返事ができなかった。

 次の日、いつも通り常連で埋まった店内の隅に肩身狭しと座る大樹に小太郎が声をかけてくる。

「今日はよくぼうっとしてるな。暇なら散歩にでも付き合ってくれよ」

「…ん」

昨日のこともあってか律はまだ店に顔を見せない。大空もいない。小太郎と話すのもネタが尽きていた頃だ。外に出たい気分という訳でもなかったが断る理由も特になかった。

 「今日は日登山ひのぼりざんの方に行ってみようぜ。あっちの方は初めに少し行ったぐらいだったろ?」

「…別に、いつもお前が行ってるところでいいよ。どうせ新しい場所に行ったって俺の記憶が戻る訳じゃねえし」

大樹は足を止めると不貞腐れた子供のような口調でそう言って見せた。

「……今日のお前は絶望的に面白くないんだぜ」

「…ごめん」

そう謝る大樹を見て小太郎は小さく鳴くと、「自惚れてんなよ」そう言いながら右手側にある石段の上にジャンプして移動する。

「いいかよく聞けよ」

小太郎は両足で大樹の頬をむにゅっと言う効果音がつきそうな手つきで挟むと自分の方に向かせる。

「確かにな、今までの散歩はに行ってた。それはそうだ。でもなぁ、オイラ今日はそんなこと一言も言わなかっただろうが。今日はただの散歩なんだぜ。た、だ、の」

大樹の光に反射して小太郎の目がギラりと開かせながらこちらを睨む。

「ご、ごめん」

そう圧倒されながら謝罪の言葉を口にしたが小太郎の言葉はまだ終わらない。

「確かにお前の言ったことは間違ってないぜ。現に俺だって、大樹が言わなかったら言うつもりではあったからな。でもなぁ、あんな感情的な言い方になることはなかったんじゃないのか?大空はここに慣れてきたとはいえただの人間の女の子なんだぞ」

「……。……分かってる。ちゃんと、謝るよ」

苦虫を潰したような表情を浮かべたまま項垂れる。別にこれは小太郎の言葉に納得が行かないが故に出た表情ではない。納得したからこその表情なのだ。

「ようやく分かったか」

そんな大樹の様子を見て鼻を鳴らすと手を離した。

「分かったんなら早く行こうぜ」

わずか十センチほどの隙間を器用に歩き始める。その後ろを少し遅れて着いていく。

冷静にならないと。大樹は思考で重くなった頭を軽くするように左右に振る。


「ここら辺も空き家が増えてきたな」

少し進むとやどんよりとした空気に当たりが包まれる。明るい太陽も高く聳え立つ日登山に覆われているせいだろう。日登山という名前は今すぐにでも反対側にある山、日落山と名前を交換した方がいいのではないかと思う。

しかしそんな雰囲気のせいだからだろうか。ここに来るまでに通りすがった人は十人もいない。家も、数軒に一つは洗濯物が干されており、人が住んでいる様子だったがその他の家は全くと言っていいほど人の気配がない。

「なんにもない街だからな。みんなどっか都会にでも行っちまったんだろうぜ」

「でも、少し前までもうちょっと人いなかったか?」

大樹の言葉に小太郎は苦笑して見せる。

「なんだよ」

「少し前って、何年前の話してるんだよ」

「……そんなに経ったか」

「そんなに経ったんだぜ」

「ふぅん。…俺が来てから、何年経った?」

小太郎は少し考えてから「十五年、か?いやもうちょっと経ってた様な気もするな」と答える。気がつかないうちにそんな年月が経っていたとは、大樹はふぅんとため息に近い息を吐いた。

「そりゃあ、ここも変わるよな」

「お前も随分変わったと思うぜオイラは」

そんな言葉に「ええ…?」と訝しむ。

「昔の俺ってどんなだった?」

自分のことだがいざ思い出してみようと思えば全くできなかった。

「まあ根本は変わってないぜ。ヘラヘラしてるとことかな」

「…ディスられてる?」

「事実だぜ。違うって言えば前は笑うのが下手だったな」


 「いやぁ俺マジで自分の下の名前以外覚えてないんすよー。あはっマジやばいっすよね。んーてか死んでるとか、冗談みたいっす、はは、マジやべ」

変なやつだと思った。時計もなければ記憶もない。いつ死んだのかもわからなければ、今までどこでどうやって生活していたのさえ覚えていないという。それに加えわからないのが、出会って二週間が経っても悪霊にならないのだ。試しに律が体に触ってみても悪霊になる様子もない。こんな亡者には出会ったことがないと律も首を傾げていた。記憶がないことが原因なのかもしれないと、色々調べた様だが結局何もわからなかったらしい。

「行き場がないんなら、ここにいたらいいよ」

マスターのそんな言葉に愁眉を開いた。


 「俺ってここら辺に住んでたのかなぁ」

短期間の間にすっかり店に馴染んだ大樹はある日外で楽しそうにはしゃぐ小学生の軍団を見ながらぽつりと呟いた。

「なら散歩にでも行ってこの街見て歩いてみるか?案内ならしてやるぜ」

「え、まじ?あ、でも…」

一瞬表情を明るくして見せたのだがすぐに口を閉ざす。

「俺さ、ここに来てからの記憶はずっとあるんだ。ここにくる前までは何にもなかったのに。それってなんでだと思う?」

「……さあな。まあオランジェは元々変な店だし、そう言うも事があっても不思議じゃないんじゃないか?」

小太郎自身もこの店の事はよく分からない。しかし普通の店とは違うことだけは確かだった。分からないことを説明できるわけもなく、結局程よく考えないことが一番楽に過ごせるのだと教えた。

「でもそれとこれとで一体何の関係があるって言うんだ?」

「……ここ《オランジェ》から出たらまた、記憶消えちまうんじゃねえかって思って」

普段は底抜けに明るく見せているのだがやはり怖いのだろう。今まで出会った人や起きたこと全てを忘れてしまうのは、体験はしたことないが絶対に経験したくないと思うほどだ。記憶だけがないというのはゼロどころかマイナスからのスタートだと言ってもいい。

「忘れたらまたオイラが一から教えてやるぜ。どうせ暇だしな」

「……!なら、いっか」

それが一緒に散歩をすることになった一番初めのきっかけだった。


「あー、なんか思い出した気がするわ」

「なら良かったぜ。せっかく覚えれる頭持ったんだから忘れんなよな」

「…そうだなぁ」

悪霊になったら、記憶も全部なくなるのかな。そんな嫌な考えが脳裏をよぎったがなかったことにする様に大きく息をつく。

 あいも変わらず思い雰囲気の通りを進んでいくと一つの学校らしき建物が出てきた。どうやら高校のようだ。防護柵の隙間から中を覗いてみる。

校舎は黒ずみ校庭の隅は手入れがされていないのか雑草が伸びきっていた。

「こんなんでも廃校にならないんだな。」

数人の生徒らしき人物が校舎内を行き来しているのが窓に映っていた。

「ここ以外は日落山の方にある私立しかないからいい具合に分散されるんだと思うぜ」

流石ここにいる歴が長いだけあってよく知っている。もし大樹が生まれも育ちもここなのだとしたら、そのどちらかの学校に通っていたことになるだろう。

「…何もわかんねえや」

大樹は校舎から視線を外すと「そろそろ帰ろう。なんか気持ち悪いよ、ここ。」そう言って上を指さす。いつの間にか空は黒くて分厚い雲で覆われている。しかしよく見てみると雨が降りそうなのはこの辺りだけで、店がある方やその奥には綺麗な青空が広がっている様だった。

「それもそうだな、オイラ雨は嫌いだ」

「別に死んでるから濡れないし、よくないか?」

「雰囲気が嫌いなんだよ。雰囲気が」

そんなたわいも無い会話をしながら行きよりも早いペースで店へと帰る道を歩いた。


 ※

 「じゃあママ、私バイト行ってくるからねー」

部屋の奥で化粧をしている母に一度声をかけてから、古めかしい音を立てるドアを開けた。

 あーあ気まず。

大空は小さくため息をつきながらスマホをいじる。適当なアルバムを開いてタップすると有線イヤホンからは軽快な曲が流れ始めた。最近流行っているアニメの主題歌だ。小さく鼻歌を口ずさみながら角を曲がると死角から突然見えた人影に驚いて声をあげる。

「なっ!…だ、だれ!?」

「…そんなに驚くなよ」

よくみるとそれは見覚えのありすぎる顔、大樹が気まずそうな表情を作りながらこちらを見上げていた。

「なんでここにいるのよ!」

一番会うのが気まずい相手とこんなにも早く遭遇してしまうだなんて今度は別の意味で驚いてしまった。

「……」

大樹はこちらからの質問に答える前に一度その場から立ち上がる。今度は大空が見上げる番になった。

「この間は言い過ぎたって、謝ろうと思って。ごめん」

こんなに真面目に謝られてはこちらも何だか妙な緊張感に襲われてしまう。そのせいで「いや、別に」とどこかの女優ばりの塩対応で返してしまった。

「あ、あのさ、本当に申し訳ないって思ってて」

こちらの機嫌を損ねたと勘違いしたのか大樹は辿々しく謝罪の言葉を口にする。その様子がまるで母親に怒られている子供のようで思わず日頃の仕返しにと意地悪をしたくなってしまった。

「別にいいって言ってんじゃん。しつこい」

そう顔を背けると大樹を置いて先に進み始めた。すると後ろから困り果てた様な声で「なぁ、ごめんって、俺が悪かったからさ」と聞こえた。

流石にやり過ぎたかな。大空自身、あの時の大樹の言葉は間違えてないと思っているため、特に怒っていたり腹立たしい気持ちだったりすることは一切無いのだ。

ただの冗談のつもりだったし、そろそろネタバラシするか。

大空は足を止めて大樹の方に振り返る。その時に見た大樹の顔が今にも泣きそうに見えて申し訳なさよりも面白さの方が勝ってしまい、つい吹き出してしまった。

「だっから気にして無いってばぁ。大樹ってば子供みたい」

口元に手をあてがって笑う大空を一瞬ぽかんとした表情で見た後、「…絶対後半バカにしてただろ」と耳まで赤らめさせた。

「よくわかってんじゃん」

そう言ってスカートを靡かせながら店への方向へ歩き始める。

「むっかつくー!俺の謝罪返せよな」

そう悪態をつきながらも先ほどより表情が和らいでいる。もしかしたら許してもらえるのか不安だったのだろうか。全く意外と可愛いところもあるじゃないか。

そう思う大空だったが自身も先ほどまでのモヤモヤがすっかり消え失せていた。先に行動してくれた大樹には少なからず感謝をした。


 「でも私も思うのがさぁ、流石に人と幽霊の違いくらいわかる様に何ないとまずいよなとは思うんだよね」

これから先も安心して過ごすためにもそこは最低条件だった。

「そんなの足元見りゃ一発じゃん」

大樹は当たり前かの様にそう言った。

「え、気づいてないの…?あんたの足、別に透けちゃいないわよ」

そう言って大空と同じように地についている足を指さす。

「ちっげぇよ!透けてない事ぐらい知っとるわ!何年この姿やってると思ってんだよ。陰な、かーげ」

まるで地団駄を踏むように足で地面を叩く。

「陰ぇ?」

本当だ。確かに言う通り大樹の足からは影が全く伸びていなかった。

「へぇ初めて知った。てかそんなところまで気にして見てなかったわ」

ん、でも待てよ。影ということは

「これって昼間とか朝にしか判断できなくない?」

「あ……」

そこまで考えていなかったのか大樹は顎に手をやって再度考える。そうこうしているうちにもう店が見えてきた。

「……夜は、見た事ない顔だったら基本無視、でいいんじゃないか?」

「何それ急に雑!」

「とにかく!明るい時はそれが使えるって分かったんだからいいだろうが!いいか?ちゃんと覚えろよ、死んでる奴には影がない!ほら、あんな風に!…ん?」

熱弁する大樹が勢いで指さした先には昼間だというのに影を引いていない初老の男が当たりをキョロキョロと見回している。もしかして来客だろうか。声をかけようか迷っている間に男はオランジェの中へと入っていった。

「あーあ入っちまった。まだ昼前だってぇのによ」

「なんか鉢合わせたら気まずいね。ちょっと隠れてようよ」

「それもそうだな」

二人して曲がり角に身を隠すようにしゃがむと店先の様子を伺った。すると予想したように男は残念そうな表情で店から出てきた。そのすぐ後に律が出てきて体を半分だけ出すと男に何やら声をかけて一礼した。男はどうやら腰が低いタイプらしく何度も何度も律に頭を下げていた。

「悪い人じゃなさそうね」

「…………なぁんか見たことある気がするんだよな」

大樹は自分たちの方とは反対方向に歩く男の後ろ姿を凝視する。

「そうなの?知り合い?」

「うぅん…」

こちらの質問に困ったように唸り声をあげる。

「何やってるんだよ、二人して」

気がつくと先ほどまで店の前にいた律が腕を組んでこちらを見下ろしていた。

「え?あーなんでもない」

気まずいから隠れていただけだとは言いづらく大空は適当に誤魔化す。

「…まあなんでもいいけどさ」

そう言って律はこちらに立つようなジェスチャーを送る。

「よいしょっと…。ほら大樹も早く立ちなよ」

未だに考え込んでいる大樹にそう促し、立ち上がったのを確認すると三人で店へと向かった。

 「そう言えばさっきの人、また来るって?」

まだお客の入っていない店内で律にそう聞いてみる。

「ああ、そう言ってたな」

夜かぁ。行きたい気持ちはあるのだがこの間のこともあり、行っていいものなのか少し迷いどころだ。

「暇だしオイラが迎えにいってやるぜ」

こちらの心中を悟ったのか小太郎がそう声をかけてくる。

「でも、なんか申し訳ないよ。帰りだって送ってもらってるのに」

「猫は元々放浪する生き物だぜ?それにオイラだって大空が来てくれた方が華があっていい!」

「なんだよ俺らに華が無いって言いてえのかよ」

横から大樹が冗談半分に口を挟む。

「あるわけないだろうが!」

そう言ってふんと顔を横に背ける。

「うーん、じゃあお願いしようかな」

小太郎の好意を無碍にはできずその提案に甘えさせてもらうことにした。


「こーんばんわー」

まだ少し肌寒い夜の道を抜け大空は小太郎と共に店に再び顔を出した。

「んん?」

まだ午前一時になって5分も経っていないのに昼間見た男は既に店に来ていた。

それだけならまだ良かったのだが思いもよらぬ光景が大空の目には映っていた。

男が必死の形相で座っている大樹の両肩をつかんでいる手を律が止めるように掴んでいる。そしてまるで何事もないかのようにマスターはキッチンでなにやら作っている。

まるで見ているドラマを途中で静止ボタンでも押したような光景だった。砂上中のマスターを除けばの話だが。

「えっとぉ、取り込み中…でしたかね?」

「……す、すまない」

大空の質問には答えず男は苦々しい表情で大樹から手を離す。

どうしたものかと足元に居るこたろうと目を見合わせる。

「そんな所にいては風邪をひいてしまうよ。取り敢えず中に入りなさい?お客様も、まずはコチラの方にお越しください」

マスターの言葉に促されるまま小太郎を腕に抱いて店の中に入る。

男もすみませんと謝罪を口にしながらカウンターに移動した。大樹はと言うと放心しているのか、それとも何かを考えているのか、男から視線を外さなかった。

大空はスススとまるで忍びのように足を音を立てずに律のそばに寄ると「ねえ、何があったの?」と耳打ちをする。

「いや、俺も何が何だかさっぱり…」

「とりあえず見たことだけでも教えてほしいぜ」

「あの人が店に来て、と言うか店の中に入ってきた瞬間大樹の名前を呼んだと思えばいきなり肩を掴んで、それを俺が止めようとしている時に大空達が入って来たって感じかな」

「知り合いかな…」

「さぁ…」

困惑状態のまま一旦大樹の座る席まで一緒に移動する。こちらが椅子に座ったのと入れ違いに大樹はその場から立ち上がり男の元へ向かう。

「だ、大樹…」

男が名前を呼び終えるより先に大樹が被せるように口を開く。

「あんた誰すか。俺は、俺のこと知ってるんですか?」

その言葉に男はみるみると青ざめ、動揺が隠せない様子だった。

「な、なんでそんな事、冗談だろ?」

男はハハハと声では笑っているが表情は全く笑えていなかった。顔を引き攣らせ、二倍ほど見開いた目で笑っているためその様子はむしろ異様だった。

「俺は…お前の、お前は、じゃないか!」

悲痛な叫びとも取れるその声は、この場を鎮まり返すには十分すぎた。

息子…?この老人が大樹の息子だとそう言ったのだろうか。失礼だと思うが顔を見比べてみてもあまり似ているとは思えない。というより男の顔は目は落ち窪んで頬は痩けている。その所為で元々どのような顔の人物なのかもわかりづらくなっているのかもしれない。

「…父親。ちち、おや…?」

大樹は半ば放心状態で数回同じ言葉を呟いてからようやく我に帰ったかのようにハッとするとバタバタと男の元へ駆け寄る。

「なあ、なあそれ本当なんだろうな。あんた本当に俺の父親なのか?」

先ほどとは打って変わって必死の形相で問いただす大樹に「覚えてないのか…?」と落胆した声で返す。

「俺は、俺は誰だよ!他に家族はいるのか?どこで暮らしてたんだ?俺はいつ死んだんだ?なんで死んだんだよ!」

大樹は男に答える隙を与えず矢継ぎ早に質問していく。

「大樹、ちょっと落ち着け。一気に聞いたって答えられないだろ?」

見かねた律が後ろからそう声をかける。

「あ…ああそうだな」

とようやく質問する口を閉ざした。

「まさか大樹のお父様だったとは驚きましたね。ひとまず暖かいお茶でも飲んで落ち着きましょう」

マスターはそう言うと一人一人に緑茶と茶菓子を配っていく。

「大樹はどっちに座るんだい?」

未だ突っ立ったままの大樹にそう声をかけると「じゃあ、そこで」と大空たちが座っている椅子とカウンターのちょうど真ん中あたりにある二人席を指さした。

「そうかい」

普段と変わらない落ち着いた声で言った。


 律の言うとおり落ち着かなくてはならない。普段あまり出されることのないまだゆらゆらと湯気のたつ緑茶を手に取るとそっとすする。じんわりとした苦味が口いっぱいに広がり喉を通る。心なしか先ほどより気分が落ち着いた。

「質問責めしてすみません。一つずつ質問するんで、答えてもらえますか?」

「……ああ」

男は眉を下げながら弱々しい声で承諾した。

「俺の名前は?」

須川大樹すがわだいき。後、君のお母さんの名前は静香。僕は秀樹だよ」

ひとまず自分の記憶の中で唯一残っていた名前が間違いではなかったことに今更ながら安堵する。

「……えっと」

次は何を聞こうとしていたのか。安心したせいか頭からすっぽりと抜けてしまった。

「大樹はこの街で生まれてずっとここで暮らしていたんだ」

自分の父親だという男、秀樹は言葉を詰まらせた大樹の代わりに口を開いた。

「昨日、そっちの方へ行っただろう?」

「……」

大樹は無言のまま頷く。

「その時に見つけたんだ。何年も経っていたがすぐにわかったよ。大樹は、昔のままだったからね。でもまだ正面から顔を見たわけじゃないから確信が持てなかったんだ。だから言い方は悪いが後ろをついていってここまできた」

「そうだ、ったんですね」

いくら父親だと言われても記憶がないせいでいまいちしっくり来ず、どうしても他所他所しい対応になってしまう。それを見て見て悲しげに笑う秀樹を見ていられなくて大樹は顔を合わせぬよう下を向いた。

「…大樹は自分のことよりも人のことを第一に考える良い子で、見ていて苦しくなるくらいに優しい子だったよ。たまに問題を起こすこともあったけれどね」

「す、すみません」

身に覚えはないがなんとなく自分でもそうなのでは無いかと思っていた節もあり大樹は小さく謝罪する。

「はは、良いんだ。結局それもいじめられていた子を助けるためって言うのを星奈せなちゃんから聞いたしね」

「星奈ちゃん?」

突然出てきたその名前に大樹は下げていた頭をあげる。

「彼女さんだよ。大樹が居なくなってからはどこかに引っ越しちゃったらしいけど。あの子もとても良い子だったよ。体調が悪そうな日も、一緒になって探してくれた」

話を聞いているうちに彼女よりももっと気になるものがあった。

「ちょっと待ってくれ、って、ってなんだっ…んですか」

てっきり事故か何かで死んだものだと思っていた大樹にとってその二つのワードは疑問だった。

「…高校三年生の春、あと一週間で卒業するって言う時に君は突然僕たちの前からいなくなったんだ」

「……」

「それに今も、

サッと血の気が引いていくのが自分でも分かった。

視界の端に不安そうな面持ちでこちらの様子を伺う三人の姿が見えてやはりあちらに座ればよかったと後悔した。

「…み、見つかってないって」

冷たい右手を冷たい左手で爪が爪が食い込むほど強く握る。

「見つかっていないんだ。どこかで生きていると思ってた。でも、違うんだよな。いなくなって二十年近く経ったのに、まだ、あの頃の見た目のままじゃないか。やっぱりもう……」

それ以上先の言葉は言わず秀樹は目から細い涙を流した。

見つかっていない。なら自分の死体は今もどこかにいると言うことなのだろうか。もう聞きたくないと思う気持ちが強く渦巻いているのに大樹の口はその気持ちに反してさらに質問をしようと言葉を作る。

「な、なん、で俺は、誰に」

小刻みになる声をなんとか繋げて言葉になりかけた時固く握っていた手に暖かいものか被さる。

「あ、あのっ今日はこの辺で終わりにしませんか?」

大樹と秀樹の間に入るように立ちそう声をあげたのは大空だった。

「いや、俺は、まだ聞き、たいことが」

「そんな顔して何言ってんの?もうどう見たって無理じゃん。また明日聞けば良いでしょう?」

弱々しい声をあげる大樹とは反対に大空はもはやこちらを叱責するように発した。

「う……うん」

もうこれ以上は聞かなくても良いという安心感とまだ知りたいという正反対な感情が渦巻き何よりこの短時間での疲労がすごかった。

「そう、だよな。ごめんな。今日は帰るよ」

曇った表情を見せて席を立つと今度はマスターに声をかける。

「すみません。また明日伺ってもよろしいでしょうか」

「もちろんですよ。……明日は一日空けておきますので夜でなくとも好きな時間においで下さい」

「あ、ありがとうございます」

秀樹は何度も頭を下げて最後にこちらの方を一瞬見てから店を後にした。

「いつでも来ていいなんて、少し勝手なことを言ってしまったかな」

マスターはやや申し訳なさそうに眉を下げてそう聞いてくる。

「いや、全然…。俺、夜だと色々なこと考えちゃって、それが悪い方向にいく時もあるし、それならまだ外が明るい時とかに話した方が気が紛れるっていうか…」

うまく言葉はまとまらなかったがマスターはこちらの言いたいことを理解できたようで「ならよかったよ」と微笑んだ。

「今日は疲れたろう?今から簡単なケーキでも焼いてみんなで食べようか」

「え?ケーキ!やったぁ、何かお手伝いしまーす」

大空はパッと笑みを散らすと跳ねるような足取りでキッチンの方へ向かう。

「今日はしっかり食ってしっかり寝ろ」

律なりのフォローなのだろうか短くそう言いながらこちらの頭をぐしゃっと撫でてカウンターへと移動する。

「行かないのか?」

いつの間にか隣でくなっていた小太郎が上目遣いで聞いてくる。

「…いや行く。俺もケーキ食いてぇもん」

「なら早く行こうぜー」

いつの間にか普通のテンポに戻った心臓を押さえて呼吸するとその場から立ち上がった。


 「大樹の記憶がないのって大樹が見つかってないからなのかなぁ」

大空は椅子に登り窓ガラスを拭きながら独り言のように呟く。

「昔にもそんな事例がなかったか律が仕事の合間に調べてくれるって言うし、今はそれを待つしかないな」

それと待つのは秀樹もだ。もう時刻は昼を過ぎている。まさか昨晩と同じようにまた夜に来るつもりなのだろうか。それは少し勘弁して欲しいかもそんなことを考えていると噂をすればと言うやつで店のドアが控えめな音を鳴らしながら開いた。

やっと来たと思う反面やはりどこかで緊張してしまう自分がいた。

「いらっしゃい。お待ちしておりましたよ」

秀樹はマスターに軽く会釈をしてからこちらと目を合わせた。するとやはり悲しいような嬉しような表情で笑った。

「あのっ」

カウンターに座ったのを確認すると大樹は声をかける。

「この店は過去が見れるってこと知ってますか?」

細かな説明を省いて唐突にそんなことを言ってしまったため秀樹は困惑の表情を浮かべてしまった。

「いや、えっと、まずは順を追って説明します」


 「そんなことができるのか。本当に不思議なお店だね」

「はい、なのでお願いします!あなたの過去を見せてくれませんか?」

大樹はそういうと勢いよく頭を下げる。父親なら必ず過去の自分が写っているはずだ。そうすれば思い出せはしなくとも何かわかることがあるかも知れない。

「もちろんだよ。一緒にみよう」

秀樹の言葉に安堵の息を漏らす。

「だけど一つお願いがあるんだ」

まるでそれと引き換えとでも言うような口ぶりに何を言われるのかと大樹は身構える。

「敬語を、無くしてくれないか?大樹からしたら他人のように感じるかもしれないけれど息子に敬語を使われるのがなんだか寂しくてね。勝手でごめんよ。」

「…そんなことなら、全然良い、けど」

大樹の言葉に「ありがとう」と目尻に微量の涙を溜めながら秀樹は心底嬉しそうに笑った。

「じゃあえっと、時計をお渡しすれば良いのですか?」

「ええお願いします。ああ首からは外さなくて結構ですよ」

秀樹はややもたつきながら海中時計を服の隙間から出す。マスターは慣れた手つきで蓋を開けると「行きますよ」と一声かけてから針を反時計回りにぐるぐると回す。

はじまる。大樹は一度目を閉じて深呼吸をしてからゆっくりとまぶたを開けた。


「……ありがとう、ございます」

大樹は涙を流している秀樹に蚊の鳴くような声でそう伝える。

「…なぁ、あれは俺だったか?」

隣に座る大空にそっと聞く。

「……?」

大空は意味がわからないと言うように眉をひそめて首を傾げた。

「どういうこと?」

「俺は、俺の顔を知らないから」

「……っ」

一瞬考えてから大空はハッと短く息を吸う。

「そうじゃん!鏡にも映らないもんね、うん。あれは、大樹だったよ。多分?」

最後の一言が引っかかり大樹は「ん?」と疑問の声を漏らす。それに気づいてか大空は少しあたふたしながら弁明する。

「映像をみてなかったわけじゃないからね?ほら、前にも言ったけど私には早送りみたいな感じでしか見れないからさぁ」

そう言われてみればそうだった。確か客の体だか手だかに触れていけないといけないんだったなと思い出す。

「ちゃぁんと大樹だったぜ。」

小太郎が瞑っていた目を開けて眠たげな声でそう言った。

本当に見てたのか?大きく欠伸をする小太郎をみて内心疑ったが逆に考えれば秀樹が大樹のことを息子だと嘘をつく理由もないだろう。

「お袋は、死んだんだな」

映像を見るに大樹の母、つまり秀樹の妻となる人物は、大樹が行方不明になって三年後あたりに病気で死んでいた。明るく元気そうな人に見えたが、精神的な疲労が集ったのだろう。一年も経つとまるで別人のような風貌に変わっていた。

母はオランジェ《ここ》に来たのだろうか。少し会ってみたかったような気がする。

「俺のせいかな、ごめんなさい」

大樹は深々と頭を下げる。

「そんなことない!」

ガタンと音を立てて秀樹はその場に立ち上がる。大樹は何も悪くない…そう呟くと崩れるように椅子に座り直した。

「…さっき、アンタは俺の事良い子で優しい子って言ったけど…それはアンタの血をしっかり引き継いでるんだと思うよ」

その言葉に「そうか…」と泣いているのか笑っているのか分からない顔で言った。

「……なぁ、俺は居なくなる前に何も言わなかったのか?」

何も言わずに突然いなくなるなんてあるのだろうか。それに見る限り家族仲も悪くないように見える。なにか前兆のようなものはなかったのか。

「…何も言わなかったよ。…でも気づけなかっただけかもしれないな。あの日もいつもと同じように家を出ていって、帰ってこなかった。ごめんなぁ。僕が、もっとちゃんと気にかけてたらこんな事にはならなかったのかもしれないのになぁ」

こんな時なんと声をかけるのが正解なのか分からない。下手な慰めは帰って相手を傷つけてしまうのかと思うも安易な事はいえなかった。

「…正直、俺はさっきの記憶を見ても他人事っていうか、自分のことのようには思えなかったよ。でも、あそこに映るのが俺っていうんなら多分、幸せだったと思うよ。少なくとも俺は幸せそうに見えたよ自分のことが」

「ふっ…やっぱり、記憶がなくても変わらないな」

「……そうかよ」

秀樹からすれば何年も前に行方不明になった息子にようやく会えたというのに当の本人は記憶喪失。募る話もあっただろうに不憫だと他人事のように感じた。

「……」

微妙な空気が当たりを漂う。すると頃合いよく良い匂いを漂わせながらマスターがこちらへ料理を持ってきた。

「……え」

秀樹に差し出された料理を見て大樹は思わず声を漏らす。

皿の上には所々焦げており卵が破けかかっているオムライスが湯気を立てながらのせられてていた。

「これって…」

隣の大空も皿を覗き込みながら心配そうな声をあげる。これは失敗、なのだろうか。いやまさかマスターに限ってそれはないだろうし、それに失敗したものを提供するとも思えない。とするとこれは…

「ああ、懐かしいなぁ」

という柔らかな秀樹の言葉でやはりこの料理はこれで完成なのだと理解した。

「これはね、大樹が作ってくれたものなんだよ」

「俺が…?」

てっきり母親が料理が下手な人とばかり思っていたのだが突然出てきた自分の名前に困惑する。

「ああ、確か一番最初は中学生くらいだったかな。僕と妻の結婚記念日に大樹が作ってくれたんだよ。お祝いとしてね。確か授業作り方を覚えたからって言ってたかな。」

そう懐かしむように言いながらスプーンでオムライスの箸を掬って口に運ぶ。ゆっくりと咀嚼して飲み込むと再び口を開く。

「そこから結婚記念日にオムライスを食べるのが定番になったよ。まあそれなりに反抗期はあったけどそれでもこれだけは欠かさなかったなぁ」

秀樹がそう笑うと「良いとこあんじゃん」と横から大空に肩をこづかれた。

なんだか気恥ずかしくて口を尖らせながら「うるせ」と視線をずらす。

それからは秀樹の話す過去の自分の話をしばらく聞いていた。要所要所で大空と小太郎が含み笑いを浮かべながらコソコソと話しているのが気に食わなかった。大方こちらのことを馬鹿にしているのだろう。しかし逆の立場だったら大樹自身もそうしかねないので何も言えなかった。

 「今日はゆっくり話せてよかったよ」

空になった皿を机の端に寄せながら秀樹はしみじみと呟く。そんな様子を見て大樹は胸が痛んだ。もっとちゃんと家族として話せたら秀樹にとってどんなに良かっただろうか。

「……なあ今から暇か?」

気がつくと大樹はそんなことを口にしていた。

「え?ああ、そうだね。特に予定はないよ」

「なら明日、一緒に…でもしようぜ」

突然の提案に多少の戸惑いを見せる。そんな秀樹に捕捉するような形で大樹は口を開いた。

「やっぱり、俺はアンタとちゃんと話してみたい。だから俺が住んでいた家とか学校とか、あとは…まあなんか色々、知っていることは全部直接見て教えて欲しい」

「そうか、もちろんだよ。断る理由なんてどこにもないからね」

「…迷惑じゃ、なかったか?」

「まさか、息子と話せるのに迷惑だなんて思うはずないだろう」

秀樹は微笑みながらこちらの頭をまるで壊れやすいものにでも触るようにやさしく撫でる。

ああやっぱこの人は、俺の親父なんだな。

今まで感じたことのないような心の温まり方に大樹は少し戸惑うが嫌な感覚は一切なかった。

「ありがとう」

先ほどよりも上がった体温で顔を赤らめる。

「こちらこそだよ」

秀樹は優しく目を細めると席を立つ。大樹もそれについて行くようにその場から立ち上がりドアまで向かう。

「今日は本当にありがとうございました」

そうマスターに深々と頭を下げる。

二人でドアの外に出ようとした時ぐいっと後ろに腕を引っ張られる。

「なんだよ」

正体は大空だった。

「ちょっと」

と言ってこちらの耳に顔を近づけると「大樹はさ、気づかなかった?」と意味深な事を言い始める。

「あの映像にさ……。…いや、やっぱ何でもない。多分私の気のせいだから」

「なんだよ、言えよ。逆に気になんだろうが」

そんな微妙なところでやっぱりなんでもないなどと言われてもこちらが気になって仕方がなくなってしまう。

「良いから教えろよぉ」

そう言ったのだが大空は「良いから良いから」そう強引に背中を押され外へと出された。

「なんだよ…」

半ば負手腐れながら吹いてきた風に目を細める。

「仲良いんだね。友達かい?」

「ん?あー、友達、かなぁ」

大空の顔をぼんやりと思い浮かべる。確かに今の関係性は友人と呼べるのかもしれないがどちらかと言うと大空は妹のような気もしなくはない。実際これを言うと確率100%でぶん殴られるだろうから口にしたことは一度もない。

「よかったなぁ。他にも仲良い子いるのかい?」

「…律と、小太郎かな。ほら、あの喪服の男と猫。友達だよ、あの三人は」

「そうかそうか」

秀樹は嬉しそうに何度も頷く。

二人で並んで歩くと思っていたよりも秀樹の身長が低いことに気づく。猫背気味なのもあるが隣にいると五センチほど下なのがわかる。

自分が身長を抜いたのは一体いつなのだろうか。高校か、はたまた中学なのか。こんな些細なことでも思い出したいと感じるのは実際に父親となる人物に会ったことが大きいのだろう。

しかし記憶を思い出すと言うことは自分が何故いなくなったのかを知ると言うことでもある。それは大樹にとって多少の恐怖でもあった。


 「ここが一緒に暮らしていた家だよ」

そう教えられたのは小さな庭がある普通の一軒家だ。三人暮らしでこの大きさなら十分広い方だろう。

「入ってもいい?」

「もちろんだよ。大樹の家でもあるんだから」

「んじゃぁ遠慮なく」

大樹は丁寧に玄関から中へと入る。

「おかえり」

後ろから聞こえた涙声に「ただいま…」と後ろを振り向かずに答える。

玄関から右の部屋に入るとどうやらそこはリビングのようで綺麗に整頓されている。整頓、と言ってもただ物が少ないと言って仕舞えばそうなる。

「これ…」

リビングに繋がって作られている和室には仏壇が置かれている。そこには大樹の写真はなく母親の写真が一つ飾られていた。

「…言いたくなかったら答えなくて良いけど、ぶっちゃけどのくらい信じてたの?俺が生きてるって」

「……」

「……」

「……」

「あの、やっぱ今のなし…」

無言が答えのような気がして言葉を取り消そうとしたのだがそれに重なるように秀樹が口を開いた。

「二十年だ。大樹がいなくなってもう二十年が経った。一度も君のことを考えなかったことはないよ。でもね、待つことの方が僕にとっては辛かったんだ」

そう言いながら秀樹は仏壇の前に正座をする。大樹もそれに習うように隣であぐらをかいた。が直ぐに正座に足を変える。

「そのままでいいよ。楽な体制でいいんだよ」

その言葉に動かしていた足を止め胡座に戻した。

「ドアを開けたらいつもみたいに大樹が立ってるんじゃないか、そう期待してしまうんだ。大樹も妻もいなくなってからはずっと死んだように生きていたよ。初めからずっと一人だったって、そう自分を思い込ませながらね」

「………そっか」

残された人も辛いと言う言葉にはこう言った原因があったのか。

店に来る客の中にも一定数いるのだ。最愛の人が死んで追って自分も自殺しただとか、確かにいる。正直な話これまでの大樹はそんな話を聞いても共感できたことはなかった。

「自分の部屋も見るだろう?」

「……俺の部屋」

行くと返事をする代わりに大樹は立ち上がった。


 二階に上がってすぐ目の前の部屋が自分の部屋のようだった。中に入ると意外とまるで先ほどまで人がいたのではないかと錯覚するほどだった。

「ずっとそのままだよ。さっきはあんなこと言ったけどいつ君が帰ってきてもいいようにね…なんてカッコつけて言ってみるけど、ただ入る勇気がなかっただけなんだ。最低限の掃除はしてるけどね」

秀樹の言葉を背に部屋の中へ足を踏み入れる。白と焦茶で統一された部屋は自分で言うのもなんだが結構おしゃれなものだった。本棚にはその時好きだったのであろう漫画や雑誌が隙間なく詰められている。よくみると端の方は本ではなくアルバムのように見えた。しかし触れない大樹にとってそれが何なのか知る術はない。次に視線を移したのは机の上だ。みるからに高そうなカメラと学校の教科書、それと書きかけのノートが置かれている。

「カメラが趣味だったのか?」

「ああ、確か中学生の時にお小遣いとお年玉をはたいて買っていたよ」

「へぇ」

一体どんな写真を撮っていたのだろうか。

そんなことを考えながら大樹は視線を斜め下に写す。目に入ったのは鍵付きの引き出しだ。鍵が空いているのかしまっているのかすら分からないが閉まっているなら鍵はいったいどこにあるのだろうか。少しあたりを見渡してみたがらしき者は見当たらない。仕方なく他の場所も見てみるが部屋は意外と整頓されており、ざっとしかみることはできなかった。


 「っで私はまたこれなの?!」

「おい声がおっきいって!バレるぞ」

その日の真夜中、大空、大樹、小太郎、律の四人はつい数時間前に来たばかりの家に再び訪れていた。

「…ていうか秀樹さんは?なんでいないのよ家主でしょ?」

「お袋との思い出の場所を回っていくらしいよ。あの人も残されてる時間があんまりないらしいからな」

「……それは、何も言えないわね」

「だろ?」

「でもどうするんだ?律の時みたいにドアが空いてるとは限らないぜ?」

律の腕にすっぽりと収まった小太郎は首を傾げながら言った。

「それについてはダイジョーブ!ちょっと着いてこいよ」

そう言うと大樹は裏にはへと回った。裏にはもう長いこと手入れがされてないのであろう植木鉢が散乱していた。

「お袋が花好きだったらしくてな。えぇっと…ああ、これこれ」

そう言って大樹はふたつが重なり合っている植木鉢をゆびさす。

「この重なってるの取ってくれるか?」

「これ?」

大空はその場にしゃがむと植木鉢を手にとり力を込める。隙間には砂が入っているようでギギギと言う耳障りな音を立ててから離れた。

「あ!」

短く声をあげて植木鉢を引っくり返す。するとチャリっと金属音を鳴らしてひとつの鍵が落ちた。

「不用心だな。いや寧ろちゃんとしてる、のか?」

大空が拾った鍵を見ながら律が呟く。

「…俺がよく鍵忘れる人だったらしくて、ここが合鍵の置き場だったんだってさ」

「想像つきやすいぜ」

「え何それ、褒められてる?貶されてる?」

「どーー考えたって貶されてるでしょ」

何だよと文句を言っていると「いいから、早く行くぞ」と律に急ぎ立てられる。

確かに急がなくては誰かに見られているかもしれない。小走りで玄関前まで戻ると大空が持っていた鍵を差し込む。鍵穴はなんの抵抗もなく回され静かな音を立てた。

「お邪魔しますー」

大空が控えめにそう言いながら家の中に入る。

「じゃあ、こっち来てくれ」

大樹は皆の先頭に立つと足早に2階まで上がると自室前に立つ。

「ここが俺の部屋なんだ」

「入っていいの?」

「ああ」

大空再びお邪魔しますと一声かけてから扉を開ける。

「スカした部屋してるんだぜ」

「ほんとな」

後ろで失礼なことを言う二人を置いて大樹は大空に「ここ開くか?」と鍵付きの引き出しを指さす。

「ん?んー」

前後ろにガチャガチャと動かすが開く気配ははい。どうやら鍵はしっかり付けられているようだ。

「大空、アレ出してくれ」

大樹は大空の肩にかけられているリュックサックをゆびさす。

「アレって、これ開ける為だったんだ。私てっきり家に入る時にドア壊す用としてかと思ってた」

そう言いながら大空はリュックを肩から下ろすと中に入れていたバールを取り出した。

「ドア壊す用って…結構考え方が野蛮だな」

律にそう突っ込まれながらも大空は恐る恐る引き出しと机の隙間にバールを差し込む。

「よしっ」

そう気合を入れるように両手で持ち直すとそのまま思い切り力をかけて上に押し上げる。すると引き出しはバキッと音を立てながら十センチほどの隙間ができた。どうやらもうバールはなくても大丈夫なようだ。

「これでエロ本でも入ってたらお笑い者だぜ」

小太郎の揶揄にヒヤリとする。もしその通りなら結構気まずい。

「開けていい?」

という大空の言葉に生唾を飲み込みながら頷く。

ゆっくりと開かれていく引き出しの中から現れたのは一冊のノートのようだった。

「なぁんだ面白くないぜ」

落胆する小太郎とは逆に大樹は卑猥な者でなかったものに安堵したのも束の間一抹の疑問大樹の頭をよぎる。

何故こんなただのノートをわざわざ鍵付きの引き出しの中に入れておく必要があったのだろうか。

見られたくないもの……。たとえば自作のポエムとか、漫画とかか?生きていた時の自分は漫画が好きだったみたいだし。そうなるとこのノートを持ち帰るか否かで少々悩んでしまう。

「うーん」

大樹が長々と悩んでいるうちに「じゃ、これも入れとくよー」とリュックの中に入れてしまった。

「ま、いっか」

変なものだった時はバレないように捨ててしまおう。

「何が?」

大空はこちらの顔を覗き込みながら怪訝な表情をしている。

「いや、なんでもない。ああ、あとそこのカメラも入れておいて」

大樹は誤魔化すように話題をかえる。大空も特に気には止めていなかったようで適当な返事をしながらそっとカメラを手に取る。

「これ充電があるかだけでも確認しといたほうがいいんじゃない?」

「確かになぁ。じゃあちょっと頼むわ」

「はいはーい」

カメラをいじる大空を背に後は何を入れる予定だったかを思い出す。

アルバムとそこの何が入っているか分からない箱と、あと何が必要だろうか。

「他の部屋のものは持って帰らなくていいのか?」

いつの間にか勝手に家の中を散策していたであろう小太郎が廊下の方から声をかけてくる。

「お前なぁ、仮にも人の家なんだからうろちょろしてんなよな」

「オイラ猫だしそう言う人間のルールに従う気はないぜ」

憎たらしい表情を浮かべる小太郎を大樹はサッと抱き上げる。

「うにゃぁむ。何するんだよ」

妙な声を上げながらジタバタと暴れる小太郎に「ふらふらされたら気がちるんだよ」と反論する。

「はーなーせぇ!お前は抱き方が下手くそなんだよ!」

「うるっせえなあ、なんだっていいだろうが」

「そんなわけあるか!」

そんなどうでも言い争いを繰り広げていると後ろから「どうした?」とやけに気遣わしげな声が聞こえてきた。声の様子からしてこちらにかけている言葉ではないだろう。大樹は気になって後ろを振り返る。声をかけられた本人である大空はカメラを見つめたまま放心しているようだ。

「大空?」

律が近づいて再度声をかけると大空は肩を大きく震わせて持っていたカメラを自分の胸に勢いよく寄せた。

「ご、ごめん」

そんな驚き様に律も驚いたようで一歩下がった。

「え?あ、いや私の方こそごめん!なんか、カメラの充電切れちゃったみたいでさ、壊したかもって焦ってた」

そう言って顔の前で手をパタパタと振るとカメラをケースの中に戻してからリュックサックの中に入れた。

「なら充電器も探さないとな」

「だね!どこにあるんだろうー」

大空は椅子を退けると机の奥の方を探し始める。

「そう言えば他の部屋には持って帰りたいものとかないのか?」

律の言葉に大樹はしばらく考える。

他の部屋は秀樹がずいぶん片していたようでどこも物が少なかったこともあり、めぼしい物も自分の部屋にしかなかったのだ。

「特にないかなぁ。ああでもやっぱもう一回見とこうかな」

「念には念をだな」

「ああ、そんな何回も頻繁に来れるってわけでもねえしな」

それから一時間ほどかけて気になるものを全てリュックの中に詰めてもらった。

 

 「今日は結構な収穫だったな」

カメラにアルバムにノートにその他中身のわからない物多数。と言っても今日は一旦大空の家に持ち帰ってもらったためこの場にはない。大空の家の方が近くにあるのにわざわざ店まで言ってまた戻ってと往復させてしまうのは忍びなかった。

「……ああ」

「…大空のことが気になるのか?」

律はそういうと漂う湯気に向かって一度息を吹きかけてからコーヒーを口にする。後半あたりから大空は話しかけてもずっとぼーっとして反応するのは必ず少し遅れていた。まるでこちらの声が耳に入っていない様だった。

「体調悪くなったんじゃないか?ちょっと無理させすぎたかもしれないぜ」

「悪いことしたなぁ」

大樹は頬杖をつくと深く息をついた。と言っても流石に今日は自身も疲労困憊で目の前の物を調べようと言う気にも中々ならなかった。

「まあ明日は休みだし、良くならなかったら数日休んで休憩してもらおうかね」

そう言いながらマスターは皿に盛られたマドレーヌを机に置く。バターと柚子の香りが鼻に届く。お盆に載せられた丁寧にラッピングがされているのもはきっと大空用なのだろう。

「これを食べたら今日はみんなも休みなさいね」

「はぁい」

大樹は間延び気味の返事で返した後まだほんのり暖かいマドレーヌを口に運んだ。


 「天気わりぃ」

窓の外ではゴロゴロと雷が鳴り響き五十メートル先も見えないほどの大雨が降り注いでいる。お陰様で店内は客一人おらずガラガラだ。

「なー暇だしなんかしようぜ」

そう小太郎に話しかけるが返事はない。ソファーの上で丸くなったままずっと尻尾を振っている。雨の日はいつも機嫌が良くないのでこんな光景ももう慣れたものだった。

「ねえマスター。大空からまだ連絡ない?」

今日は休みも明けて出勤のはずなのだが十二時を回っても大空は店にやってきてはいなかった。

「そうだね。この大雨だし来れないだけならまだいいけど…心配だね」

「まだ体調わりーのかな」

「心配だね」

マスターも同じように外を眺める。

「うわっ光った」

数秒後大きな雷鳴があたりに響き渡る。落ちたところは案外遠くないのかもしれない。人とかに落ちてないといいなあ、なんて考えていると店のドアが開く音がした。

「なんだよ今日これだけか?」

そう言いながら店内を見渡すのは律だった。相変わらず堅苦しい喪服に身をつつでいる。

「そーなんだよ。大空も来ねえし小太郎はこんなだし。暇で暇でさぁ」

「ふっ、そりゃ災難だったな。大空は休みか?」

律はジャケットを背もたれにかける。

「いんやぁ、連絡なし」

「そうなのか?風邪でも引いたかな」

「かもなぁ」

 結局その日は夕方になっても大空がやってくることはなかった。もし風邪をひいていただけなら大空は母親と一緒に暮らしているし一人で倒れているだなんてことはないだろうが、流石にこの時間になっても連絡がないのは不安だった。妙な胸騒ぎがすると言う言葉に置き換えてもいい。

「マスター、俺ちょっと大空の様子見てくるー」

何もなかったらそれでいい。ただの確認だ。

「ああ、そうだね、それがいい。頼んだよ」

「オイラも行く」

未だ調子の悪そうな小太郎はソファーから降りるとこちらへとやってきた。

「お前も気分悪いんならここにいろよ」

「大樹がオイラを上手に抱っこしてくれればいいだけの話だぜ」

こちらが言っても聞かないと言う意思をひしひしと感じる。

「……頑張るわ」


 雨というのは案外体が濡れないから平気というわけでもないらしい。外はいつも以上に暗く、横殴りの雨のせいで視界もわるい。

これは確かに雨が嫌いになりそうだ。風も強いし。

「ちょっと走るぞ」

大樹は歩きから小走りに変えて大空の家の方向へと急いだ。

あと数分で着くという頃少し先に傘も刺さず突っ立っている一つの人影が見える。

人間か?幽霊か?いや、悪霊の可能性も…。

こんなにも雨がひどいとその人物が濡れているのか濡れていないのかの区別すらつきづらい。大樹は一旦足を止めゆっくりと人影に近づく。近づいてみて分かったのだがどうやら影は女のようだ。長い髪が風によって靡いている。

なんなんだよ…。大樹は少し緊張しながら歩みを進める。すると女の方もこちらの気配に気がついたのかこちらに振り返った。

「…大樹?」

「え……。お前、そ、大空か?!」

風に吹かれているせいで大空の表情は髪で半分以上隠れているがその人物は本人で間違えないようだ。

「だ、大樹、大樹ぃ」

大空は動揺しているのか何なのか、口元に手をやり目の焦点が合わない。

「大空!」

腕の中にいた小太郎は勢いよく飛び出すと大空の下へ駆け寄る。

「あ、待ておい!」

もしかしたら近づくのはまずいんじゃないのか。目の前にいる大空は今までの彼女とは明らかに様子が違う、おかしいのだ。

その場で立ち止まったままの大樹を置いて小太郎はもう大空の元についていた。

「あ、こ、小太郎。ねえ、どうしよう。わた、私…」

そこまで言うと大空はわっととの場に泣き崩れた。

「大樹、この子はちゃんと大空本人だ…!」

小太郎の言葉でようやく固まっていた足が動いた。

「大丈夫か!?」

都合がいいのは自分でも分かったのだが本人だと言うことがわかると一気に心配の波が押し寄せ大空の下へ急いだ。

「私、私…」

過呼吸気味になっている大空を落ち着かせようと肩に触れる。

触れる…?おかしい、これは絶対におかしい。なんで、なんで

「なんで触れるんだよ!……なん、っで、なんでお前は濡れてないんだ!」

乾いた大空の長い髪が肩から滑り落ちた。


 「まずいことになったかも知れないね…」

マスターはメガネを直すと深いため息をつく。

大樹は隣でガタガタと震える大空に目をやった。

「…何があったんだ?」

心配そうに眉に皺を寄せる律に「わかんないのよ!」と悲鳴に近い声をあげる。

「……そらぁ」

小太郎の心配そうな声に大空はハッとして再び目から涙をこぼす。

「ごめん、でも、私何も。私、死んじゃったのかなあ」

両手で顔を覆い声を押し殺しながら啜り泣く。

「思い出さないといけないって自分でも分かってるの。でも、今は何がなんだか分からなくて、私、どうなっちゃったのかな」

そんな大空を見て律は何か言おうと口を開いては少し迷って口を閉じると言うのを数度繰り返していた。

「……っ大空、自分で見たくなかったら目を瞑っておけよ」

ようやく意を決したのか律は言いづらそうにしかしはっきりと言葉を絞り出す。

「俺に首を見せてみろ」

そう言いながら大空の着ているハイネックを指さす。もしこれで懐中時計があれば大空は紛れもなく命を落としているという証明になる。

「もし、もしあったらどうなるの?死んでるってことになるんでしょ?私、怖い、怖いよぉ」

「……」

「……」

「だ、大丈夫だよ」

「…何が?何が大丈夫なのよ!何も大丈夫なんかじゃないぃ…」

「おい、あんま無責任なこと言うなよ」

小声で律に注意される。無責任な言葉だと言うのは重々承知だ。その上での言葉だ。

「大丈夫だ!もし死ん、でたらさ黄泉の國ってところに行くんだろ?聞いた感じあそこって良いところそうじゃん!友達だってすぐできるよ大空なら。それに俺がずっとここに居るからいつでも会いに来い!小太郎も、マスターもいる!今と何も変わんねえよ!」

そう言って大樹は自分の胸をドンと叩く。

「………でもママには会えない」

下を向いたままささめく。

「うっ…。そ、それは大空の母親も一回ここに来て貰えばいい!家族ならきっと見えるようになる!はず!」

こじつけも良いところな言葉に自分でも、流石に無理があるかと苦笑いする。顔を見ずとも後ろの2人がどんな表情をしているの容易に想像できた。

「……ふはっ」

息を漏らすように大空は笑った。そして流れてきた髪の毛を耳にかけると大きく息を吸った。

「それもそうねっ」

赤く泣き腫らした目でにっと笑ってみせる。大空には悪いが今はこんなこじつけで頑張って耐えてもらうしかない。今は大空に何があったのかを知ることが最重要なのだ。

大空は首元に手をかけると一気に下げる。

「あ……」

硬く瞑っていた目をゆっくりと開けると大空の表情が安堵のものへと変わった。

「無いな…」

「よ、よかったぁぁぁ」

「ひとまず安心したぜ…」

一気に脱力して椅子にもたれかかる。大樹も無意識のうちに止めていた息を長く吐き出す。

「本当によかったね」

お盆を手にしてこちらにやってきたマスターの目が赤く腫れているように見えたのはきっと気のせいでは無いだろう。

「無事、と言うわけでも無いけれど本当によかった」

「マスター…心配かけてすみません」

「生きていたなら良いんだよ」

机に一つ一つ飲み物が置かれていく。小太郎にはミルク律にはコーヒー、大樹と大空には紅茶。一つ、紅茶が違うとすれば大空の方には金木犀のシロップが注がれている。

「おいしい…。懐かしい気がする」

伏せめがちにそう言う大空に「無理しなくて良いんだよ」とマスターが心配そうに声をかける。

ほっと息をつく大空はもう随分落ち着いたようだ。

「…ゆっくりなら、思い出せそう、かも」

伏せめがちになりながら大空は眉間に小さく皺を寄せる大空に「無理しなくて良いんだよ」とマスターが心配そうに声をかける。

「大丈夫です。もう、平気です…!」

そう口角を上げて見せてから大空は長いまつ毛と下瞼をそうっとくっつけた。


黄ばんだ襖を開けて中にしまわれた段ボールを引っ張り出す。

「これ、じゃない。これでも、ない」

ぶつぶつと呟いては一つ一つ段ボールの中を確認していく。どれを見ても目当て物は見つからず大空は苛つき始める。

「なんで、どこにもないのよ」

散乱した部屋をそのままにイライラする気持ちををアピールするかのように大きく足音を立てながら台所へ向かった。

「はぁーー」

コップに注いだ水道水を一気に飲み干す。

「落ち着かないと…」

自分に言い聞かせるように呟くと部屋の時計に目をやる。時刻は午前三時前。いつのまにか帰ってから一時間が経っていた。確か母が帰って来るのは四時ごろのはずだ。ひとまず今はそれを待つしかない。気になることは本人に直接聞くまでだ。

ひとまず母が帰って来る前に大樹の家から持って帰ってきた荷物を隠そうと手を伸ばす。が、その手を止めてつい先ほどまで読んでいたノートを手に取る。これはあの鍵付きの引き出しの中に入れられていたものだ。何も悪気があって中身をみたわけではない。ただどんなことが書かれているのか気になってしまいパラパラとめくってしまったのだ。

 最初はただの日記だった。中はよく見ていないが目に入った単語を思い浮かべても「学校」「部活」「ご飯」などと日常的なものばかりだ。気になった事と言えば、高校生のうちから日記をつけるだなんてマメな性格をしているなと思ったぐらいだ。

なんだこんなもんかと勝手に落胆してノートを閉じようとした時突然ページが白紙になった。今まで見た感じだと途中でやめたと言うわけではなさそうだ。と言うことはこの一つ前のページが大樹の最後の記録というわけになる。

いなくなる前日、大樹は一体何をしていたのだろうか。自分に都合の良い考え方になっただけかもしれないが、みてはいけないという気持ちよりも見なくてはいけないと感じてしまった。理性が止める前に大空の手は動いていた。


『あいつは日登山にいる。明日はあいつをつける。』


たった一行にまとめられた言葉に大空は心臓がバクバクとなり始めたのが分かった。

「何これ…」

思わずノートを握る手が強くなりグシャリとシワがよった。しかしそんなこと気にも止めず大空は瞬きをするのも忘れノートを凝視する。

「アイツって誰、つけるって何?」

この文章ではまるで追っているようだった。大空は震える手を押さえながら一日、また一日と日付を遡っていく。すると恐らくこの最後に書かれた文章の理由となる始まりであろう日を見つけた。

『星奈がストーカーにつけられている気がすると言っていた。まだ確証はないが最近ずっと誰かの視線を感じると言っている。心配だ。しばらくは部活を休んで一緒に帰ったほうがいいかもしれない。』

「星奈…」

この名前は前にも聞いた。大樹の彼女の名前だ。始まりは彼女が受けているストーカー被害というわけだ。

それからいつもの何倍もの時間をかけて日記を読んでいく。もちろんこれは人の日記だ。許可なく読むだなんてそんなことしない方がいいに決まっている。しかし手を止めることはできなかった。

読むに連れて分かってきたことがある。それは日に日に星奈へのストーカー行為がエスカレートして行っているということだった。

どこにいても視線を感じるのは勿論、非通知から大量のメッセージや電話、郵便物に小動物の死体が入れられているなど、口にも出したくないものばかりだ。読んでいるだけでも鳥肌が立ってくる。

そしてもう一つわかったことがある。星奈も大樹も心配をかけたくないという理由で親には一切言っていないということだ。嘘だと思ったがこの日記に書いてあることが全て真実なら言っていないということも本当ということになる。

大空は汗をかいた手でノートをそっと閉じると同じリュックに詰めていたカメラを取り出す。電源ボタンを押すと少し間を置いてからカメラが起動した。

充電は切れてなどいない。

メニューボタンを押して過去に撮った写真と確認していく。ほとんどが同じ女の人の後ろ姿か景色の写真だった。十五枚ほど遡った後、大空はボタンを押していた指を止めた。その写真は大樹と彼女であろう女のツーショット写真だ。大樹の部屋でこの写真を見つけた時、時が止まったかと思った。いや実際に大空の中では止まっていた。

彼女、つまり星奈という名前の女は自分に顔が似ているのだ。ソックリとまではいかないが一瞬自分かと見間違うほど似ている。しかし当たり前なことにこの時代に自分は生まれていない。やはりあの時感じた違和感、秀樹の映像を見ている時に一瞬見覚えのある顔が写った気がしたのは気のせいではなかったのだ。

星奈という名前、自分だと錯覚してしまうほど顔の似た顔の女、この人物は…

「ママ…」


 「ただいまぁ…っあれ?!まだ起きてるの?」

四時過ぎごろ帰宅した母は未だ部屋の電気をつけて部屋に座っていた大空を見て驚きの声をあげる。

「ねえママ、聞きたいことがあるの」

「……」

こちらの雰囲気が違うことを早々に悟ったのか母は表情を固まらせた。

「なあに?そんなに改まって、どうしたの?」

母は荷物を玄関先に置いたままこちらの方に寄った。

「……」

「大丈夫?」

心配そうに首を傾げるとこちらの肩に腕を回して抱き寄せるように頭を撫でる。そんな優しい触れ方に涙が出そうになるのをグッと堪える。

「何かあったの?」

「パパの事、教えてよ」

「え……?」

唾の飲み込む音が耳に届いた。大空の頭に乗せた手の力をだらりと抜く。

「なんでそんな急に…」

「急じゃない…!」

母は表情をピクリと引き攣らせる。

「急じゃないの、ずっと私は聞きたかった…。でも聞いちゃダメ無事だと思ってって、でももう聞かないといけないの。知らないままじゃダメなの!」

そう言って大空は母の顔をようやく見る。母の顔をはまるで体温が感じられなかった。

「…ごめんね」

母は表情を変えないまま一粒の涙をぽろりと流す。そして無言のまま立ち上がり隣の部屋へ行った。

怒らせただろうか。大空は拳を強く握りしめる。

「私の昔のこと調べてたの…」

「……」

そういえば部屋を荒らしてまま片付けてなかった。

「ごめん」

大空は目を合わせぬよう呟く。

「…いいのよ。ずっと隠し通せるとは思ってなかったしね」

そういうと一体どこに隠されていたのか、目の前にスッと古びた写真たてを差し出す。

「私と彼の写真よ。あなたの、お父さん」

中には大樹のカメラの中に入っていたものと同じ写真が入れられていた。

「どこから、話したらいいのかしらね…」

母は写真の中で笑う大樹の顔をそっと撫でる。

「全部、全部だよ。どれだけ時間がかかってもいいから最初から全部話して」

「……やっぱり何かあったの。なんて、今はそんなことどうでもいいね」

できれば私のこと嫌いにならないでほしいな、そうぽつりと呟いてから母は小さく息を吸った。


「星奈先輩、好きです。俺と付き合ってください」

高校二年の夏前。梅雨時期の蒸し暑い時期に体育最後の片付けに追われる声が遠くで聞こえる中、同じ吹奏楽部の後輩である大樹にそう伝えられた。

「えっとぉ…私たちそんなに話したことなかったよ、ね?」

手持ち無沙汰で頭に巻いたハチマキの端をいじる。大樹の担当楽器はトロンボーンで自分はサックス。金管楽器と木管楽器という事もあり話すことは少なかった。それに言ってしまえば大樹はまだ一年で入部してから二ヶ月ほどしか経っていない。

「話したことはないっす」

そんなはっきりと言うものなのだろうか。

「…なら、なんで?」

「自分でも何がきっかけでここまで好きになったのかわかんないす」

「……何それ」

練習時以外おちゃらけているお調子者の大樹がこんな時に限って一ミリも笑わず真っ直ぐこちらを見ている。今まで意識などしていなかったはずなのに告白されたら急に目をまっすぐ見れなくなってきてしまった。

「サッスクが上手なところも、顔は可愛いのに意外と気が強いところも、食べ方が綺麗なところも、用務員さんの名前覚えていつも挨拶してるところも、誰もやりたがらないところを文句も言わずに掃除するところも、全部好きです。」

「……そうなん、だ」

そんな細かいところもまで見られているとは思っておらず恥ずかしさで顔が赤くなる。よくもまあこんな恥ずかしいことを真顔で言えるものだと手の隙間から大樹の顔を伺う。よくみると耳だけ異様に赤く熱っている。不覚にもそんな大樹のことを一瞬可愛いと思ってしまった。

「…すみません。困らせるつもりじゃなかったんです。返事はいつでもいいので」

大樹はこちらに軽く頭を下げると横を通り過ぎていく。

「待って…!」

振り向きざま大樹の腕を掴んで自分の方へ引き寄せる。

「いいよ、付き合ってあげる」

なぜ自分でも了承したのかわからない。それなりに恋人が欲しいという願望が芽生え始めていた頃だったからと言うものもあるのだろう。

「え、ま、まじっすか?」

「うん、まじ」

大樹は一気に顔全体を赤く染めるとその場にヘナヘナと座り込む。

「いやぁちょっと、今俺絶対やばい顔してるんで見んでください…」

そう言うと両手で顔を隠す。先ほどとは人が変わったようなてれ具合だ。

「……」

星奈はそんな大樹の手首あたりを掴んで顔から剥がすと顔を近づける。

「え!?ちょっ…」

「と言っても私、君のこと別に好きじゃないから」

「え……」

途端大樹は悲しそうに眉を下げる。

「だから私を好きにさせてみてよ。じゃないとすぐ別れるからね」

強気な態度でそういうと星奈は大樹を見下ろしながら腕を組む。

「……ははっ!俺、先輩のそう言うところめっちゃ好きっす。任せてくださいよ、俺そう言うの得意なんで」

顔を上げて大人っぽく微笑んで見せる。そんな表情にドキリとしたのは紛れもない事実だった。

「あ!得意って別に他の女の子といっぱい付き合ったことあるとかそう言うわけじゃないですからね!」

別にそんなこと思ってないけど。慌てて弁明をする大樹を見て星奈は思わず笑ってしまった。


 それから大樹との付き合いは予想していたよりも長く続いた。星奈が高校を卒業し、地元の郵便局に就職しても、別れるどころか大きな喧嘩すらほとんどしたことがないほど良好な関係だった。

 「そうそう、今日遅番だったからさ、うん。だからこの時間に帰ってるの」

仕事も終わりバス停からの帰り道、星奈は大輝と通話をしながら一人暗い夜道を歩いていた。

カツカツと自分のパンプスの足音の後に、ズリズリと引きずりながら歩く足音が聞こえる。勘違いだと思いたいのだがどうもそうは思えないらしい。星奈が止まると足音も止まり、早足になると足音も早くなる。暑さのせいか、それとも恐怖のせいか星奈の額には汗の粒は滲んでくる。

こんなことが起こるのは今日が初めてではない。いつが初めかはわからないが気がつくといつも後ろに誰かがいる気がするのだ。

『どうした?急に黙って』

耳元で聞こえる大樹の声のおかげでなんとか平静をよそおことができている。

「んーん、別に」

星奈は電話越しの大樹に心配をかけたくないといつものように返したつもりなのだが、あちらは何かを察したように無言になる。

「ねえそれよりさ」

今は無言の時間が何よりも怖く、話題はないが適当に口を開く。

『星奈、なんかあっただろ』

疑問系ではない、確定の言い方に下手に誤魔化してもきっとすぐバレるだろうと思い「…うん」と頷く。心配をかけたくないと言う気持ちより誰かに相談出来るということが嬉しくて視界が潤む。

『話せるか?』

言えるならば今すぐ話してしまいたい。しかし後ろの人間にどこまで会話が聞こえているのかがわからない今、下手に話すことはできなかった。

「…ここでは無理、かも」

『今からそっちの家向かう。星奈はもう家につきそうか?』

「うん」

あと二十メートルほど直進して右に曲がればおおよそ十分で帰宅できるだろう。今すぐ走り出したい気持ちを抑えて星奈は早歩きで進む。

星奈は右に曲がると一気に駆け出した。家がバレないようになるべく脇道や小回りをしながら進む。こんなことをしな家でば三分ほどで到着するのだが家がバレることは絶対に避けなくてはならなかった。

「ただいま!」

半ば飛び込むように玄関の戸を開ける。

「あらおかえり、今ご飯温めるわね」

台所からひょこっと顔だけ出す祖母を見て星奈は安心の息を吐く。

小さい頃両親を事故で亡くした星奈は今までずっと祖母の家で二人暮らしをしていた。祖父も病気で亡くなり余計な心労をかけたくないと星奈はストーカーのことを祖母にも言えずにいた。

「あー今から大樹来るからまだあっためなくていいや」

そう伝えると「あらそうなの?ずいぶん久々なんじゃない?」と嬉しそうに笑った。

たしかに久々だ。最後にうちに来たのは卒業前だったような気がする。

お互い実家暮らしだしなぁ。玄関に腰を下ろし写真フォルダを開く。ふいに高校の時の友人に会いたくなった。ほとんどがこの街を出て都会に行ってしまった。そんなにいいものなのだろうか。都会の不穏なニュースは時折テレビで見掛ける。都会は危ないと思うけどなと思いかけたが、今自分が置かれている状況もあまり危険がないとはいえなかった。

しばらくして外からバイクのエンジン音が聞こえた。恐らく大樹の原付だろう。星奈は顔をパッと明るくさせるとサンダルを履いて外へと出た。すると丁度片手にヘルメットを持った状態でインターホンを鳴らすところだった。

「おお、びびった」

棒読み感が否めないがそんな事は置いておいて大樹を中へと案内した。

「あら大樹くん、いらっしゃい。ご飯食べた?後で二人分部屋に持っていくからね」

「あ、あざす」

大樹はまるで体育会系のようなお辞儀をする。

「晩御飯食べてないの?」

「あーさっきまでランニングしてたし」

「なら良かった」

そんな他愛もない会話をしながら二人で星奈の部屋に向かう。

「んで?何かあったんだよ」

腰を下ろすなりいきなり本題をついてくる。

「うぅん、実はね、最近ずっと誰かにつけられてる気がするの」

「はぁ?!」

大樹の驚愕とも怒りともとれそうな声に思わず肩をびくつかせる。

「あ、ご、ごめん。でもそれストーカーだよな?」

口を手で隠しながら申し訳なさそうに眉を顰める。

「うん...でもまだ決まったわけじゃ...」

そう言い終わる前に大樹はいやいやいやと口を挟む。

「それで取り返しのつかないことになったらまずいだろ。それで?気づいたのいつぐらい?」

「分かんない」

本当にいつからだったのだろうか。気がついた時にはもう後ろにつけられている感覚があったのだ。

「...しばらく遅番に入るのやめれないの?」

確かに遅番ではなく早番になれば帰れるのは16時頃になるため今よりかは安心出来るがしかし

「私はまだ新人だし、基本周期で回ってくるから」

「そっか。...うん、なら俺が迎えに行くよ!遅番の時だけでもさ」

「え、いいよぉ。申し訳ない」

と口では言って見せたものの心のどこかでは期待していた言葉を言ってくれた大樹には感謝だった。

「別に気にしなくていいって、ランニングコース変えりゃいいだけなんだから」

「.....ありがと」

星奈は横に座る大樹の肩に頭を置く。

出会った時は身長変わんなかったのにいつの間にこんなおっきくなったんだろ。星奈は上目遣いで大樹の顔をみあげる。

「.....」

少し顔を赤らめながら身体を固くしている。

こう言う子供っぽいところは全く変わってないな。思わず小さい笑いが零れる。

「なんだよ...」

「別にぃ?」

コンコンと軽く部屋の扉が叩かれる。恐らく祖母が食事を持ってきてくれたのだろう。

驚いて肩をふるわせる大樹とは反対に星奈は体制を変えないまま「はーい」と答えた。

ゆっくりと体勢を戻すと膝立ちのまま腕だけ伸ばして扉を開ける。

「晩御飯できたわよ。大樹くん今日は泊まってく?」

「え、あーどうしようかな」と悩み声をあげる大樹にお盆を渡す。今日の晩御飯はカレーのようだ。食べ慣れた市販のルーの香りが漂ってきた。

「泊まりなよぉ」

星奈の言葉にまた少しだけ悩んでから「んじゃ泊まらせてもらいます」と答えた。

入社して四ヶ月ほど経ち、ようやく仕事にも慣れてきた頃だと言うのにあのストーカーのせいでなかなか深い眠りに付けなかった。しかし今日は大樹がいた安心感からか布団に入るなりすぐに眠りに落ちることが出来た。


 それから遅番の日は大樹に迎えに来てもらうようになってから明らかにつけられる頻度が減っている。夕方に一人で帰っているときでも後ろに気配は感じなくなっていた。もしかしたら彼氏がいることがわかって諦めたのかもしれないと考えていた。しかし実際のところそうではなかったのだ。

 「何これ…」

ポストに入れられていた自分宛の茶封筒。初めは特に機に求めず何かの書類でも届いたのだろうかと思っていたのが中身を見て絶句した。

中には複数枚の自分の写真が入れられていたのだ。それに全ての写真に写る自分はカメラ目線ではなく明らかに隠し撮りされているものだった。星奈は嫌な予感がして茶封筒をひっくり返して宛名先を確認する。と嫌な予感は的中してしまった。

「直接入れられたってこと?」

そこには宛名どころか普段なら貼られているはずの切手も郵便局のハンコも押されていなかった。

秋の終わり、祖母が老人ホームに入居してから星奈はこの家で一人住んでいた。今まで相談はできないにしろ自分以外の家族が家にいると言うことは大きな安心材料の一つだったのだが今ではそれもない。

それでも週の半分以上は大樹が泊まりに来てくれているのだが今日に限って大樹はいなかった。

「……っ」

星奈はそれらを全てぐしゃぐしゃにまとめるとゴミ箱の奥底に押し込んだ。

「家が、バレてる…」

それが何よりも恐ろしかった。星奈はカーテンの一センチにも満たない隙間も耐えきれずガムテープで捲れないよう固定した。

きっとすぐに終わる。そう自分に言い聞かせてヘッドホンで好きな音楽を爆音で流しながら布団の中に潜った。

 「なぁ、もう警察に行こう?今のままじゃ星奈の精神もやばいって」

蹲るように座る星奈の手を両手で握りながら大樹はそう提案してくる。

「これだけあったら警察も動いてくれるよ」

そう言って半透明の袋にこれまで送られてきた盗撮写真やら手紙やらカセットテープやらを無造作に詰め込む。今まで捨てることもできず祖母にも大樹にも隠してベットの下に隠しておいたのだがそれがつい先ほど床に物を落とした際に見つかってしまったのだ。

「…なんでもっと早く言ってくれなかったんだよ」

袋を握る手に力が入ってか中のものが小さく音を立てて動く。

「…ごめん。でも、大樹は今年受験だし、これ以上迷惑かけたくないって思って」

「…そんなこと気にしなくていいって」

大樹は全てを包み込むように優しく抱きしめる。

もうこのまま死んでしまいたいだなんて言ったら大樹は何て言うだろうか。

怒るだろうか、もし一生に死のうなんて言われてしまっては困るので言えるはずもなかった。


 「心あたりとかないの?こんだけ執着されてるんならねぇ…。元カレとかじゃないの?」

流石田舎の警察と言っては失礼だがこちらがどんなに訴えても話半分おもしろ半分と言った形だった。

「はあ?あんたら警察だろ?金もらってんなら仕事しろよ!」

大樹が殴りかからんばかりの勢いで怒鳴る。

「はぁ…。はいはい分かりましたよ。それならね、家の周り巡回しときますから、それでいいですね?」

警察官の男はあろうことかタバコに火をつけ白い息をムアッと吹き出す。その煙がこちらの方までやってきて少しむせた。

「なんだよその態度!ふざけてんのかよ!」

「もういい、もういいよ」

このままでは本当に殴ってしまいそうで星奈は縋り付くように大樹の腕を掴んだ。

「チッ面倒臭えな」

そんな声を聞こえないふりをして引っ張るように警察署を後にする。

 「なんなんだよまじで」

怒りをあらわにする大樹に「ごめんね」と謝る。

「…何で謝るんだよ」

「……こんな状態で年越すとは思わなかったなぁ」

自分でもなぜなのか不明だが乾いた笑いが口から溢れた。

「…これからは毎日家に泊まるよ。仕事も行かなくていい、俺のバイト代と貯金で暮らそう」

大樹は星奈の右手を握りる力を強める。

「何言ってんの…そんなの無理だよ」

「っなんで!俺心配なんだって、わかるだろ?もう俺の親にも話そう?絶対協力してくれるって!」

「だから無理って言ってんじゃん!」

星奈は繋いでいた大樹の手を勢いよく振り解いてその場で足を止める。

久々に大きな声を出したからか喉の奥がチリッと痛んだ。

「だから何でだよ!」

大樹も負けじと声を張り上げる。もし周りに人がいたらその全ての人がカップルの痴話喧嘩だと思うだろう。

「もし、もしそれで大樹とか、大樹のお父さんとかお母さんに何かあったら私、それこそもう生きていけないの!そんなもの抱えて生きていけるわけない!わかってよ!」

「……」

わかりたくねえよそんなもの、掠れ掠れの声で言うと大樹は項垂れる。ぽたぽたと道路に水滴が落ちていく。

「……。……じゃあ、俺が高校卒業したら結婚して一緒に暮らそう?」

「え……?」

今自分がさらりとプロポーズしたのに気づいていないのか大樹はそのまま言葉を続ける。

「この街を出てさ、俺めっちゃ頑張って働くし、それならいいだろ?」

星奈よりも涙で濡れた顔のまま大樹はこちらの服の裾を少しだけつまむ。こんな時に感じるものではないことは理解しているのだが大樹の言葉が琴線に触れて星奈は顔を赤らめる。

「…待ってるよ」

こちらに伸びた手をそっと握り直すとゆっくりと歩を進める。

「うん、ちゃんと待っててな」

まだ何もことは解決していないにもかかわらず、星奈の気持ちは幾分か安らいだ。


 安らいだ、とは言ってもやはり問題は終わらず続いているわけで星奈は雪が舞っているにも関わらずポストの前で立ち尽くしていた。入っていたものは茶封筒ではなく何か小動物の死体だった。

「はぁ、はぁ」

呼吸が震えているのが自分でもわかった。鉄の匂いが鼻まで漂ってきて星奈は思わず近くの溝で嘔吐する。

「だ、大樹…」

携帯を手に取り発進ボタンを押そうとする手を止める。確かこの時間は予備校だったはずだ。そんな中呼べるわけもない。

「え、どう、どうしよ。あ、そっか。警察、警察…」

星奈は震えるてで110番を押した。

 数分後に到着した警官にポストの中にいたものを処理してもらった。あの時の警官ではなかったもののやはり態度はあまり良くなく、心当たりはないのかと強く問われた後ようやく解放された。

その間も鉄の匂いと血だらけの光景が頭から離れず何度も嘔吐しそうになり大変だった。

その日は大樹の母が作ってくれた唐揚げを二人で食べようとしたのだが星奈は全く手が進まずそれどころかタッパーから皿に移し替えただけで再び嘔吐してしまった。

 ストレスのせいでおかしくなってきているのかも知れない。最近はほとんど何も口に運べず何も胃袋に入っていないのにトイレに駆け込む日がほとんどだった。流石に自分でも怖くなり大樹と一緒に病院へと向かったのだがそこで思っていもいなかった診断を受けた。

「これは…おそらくですが妊娠していますね。少し遠いですが産婦人科に招待状を書いておくので行ってみてください。」

そう言われ紹介された病院に行ってきちんとした検査を受けたところ妊娠は間違いなく七週目だと言われた。

どうしよう、また迷惑をかけてしまう。大樹はまだ高校生だと言うのに。

待合室に戻っても星奈は大樹の顔が見れずこれでもかと言うほど頭を下げ俯いていた。

「…なあ、俺…」

大樹の声が聞こえた瞬間硬く目を瞑る。正直何と言われるか想像がつき怖かった。

「…めぇっちゃ嬉しい!」

窒息してしまうのではないかと思うほど強く抱きしめられて呼吸が苦しい。

「え、え?いい、の?」

てっきり否定されるものだとばかり思っていた。

「何が?何で?」

「え、だって……」

言葉を詰まらせる星奈の顔を覗き込んで「絶対に幸せにするからな」と再び抱きしめられる。ふと前を通りかかった妊婦の女性がこちらを見ながら微笑んでいるのをみて恥ずかしくなってきた。

「ね、ちょっと人いるからさ」

「ごめんごめん…嬉しくて」

大樹はにやけ顔のままこちらに回していた腕を解く。

「どうなるのかなぁ、私たち」

「……俺が何にとかするよ」

なんとかって?そう問おうとしたときに受付のスタッフに呼ばれ席を離れた。


 「なぁ、後一回だけ怖い思いしてくれって言ったら怒る?」

再びポストに入れられた何かわからない何かを大樹が処理をして戻ってきた時そんなことを言われた。

「…今でも十分怖いんだけど」

つわりのせいなのかただ単に気持ちが悪いのか分からないままトイレに座り込む星奈は大樹が注いで来てくれた水で口を濯ぐ。

「…だよな。ごめんやっぱ忘れて」

大樹はそのまま廊下の壁にもたれ掛かる。

「一応聞くけどなんで?」

こちらの言葉に微妙な顔をして見せる。そして少し考えた後口を開いた。

「星奈にはもう一回夜道歩いてもらってわざとストーカーされて、そのストーカーの後ろを俺がついて行って正体突き止める…みたいな」

「自分が馬鹿言ってるって分かる?」

「うん、やっぱ無理だなこの案は。星奈が危ない、忘れて忘れて」

「違う、そうじゃないよ…」

星奈はため息をついてトイレの蓋を閉めてそこに頬杖をつく。

「危ないのは大樹でしょ?もしバレたらどうすんのよ」

「俺?俺はいいよ、変装するし。それに俺最近鍛えてるから大丈夫だし」

変装って…。やっぱり分かってない。

「とにかく、そんな危ないことしちゃダメだからね」

軽く大樹の額にデコピンをする。

「…分かったよ、まあこれじゃ星奈が危険だしな」

こちらが案を否定した理由はあまり理解できていないようだが納得してもらえて良かったと安堵する。後二ヶ月ほど耐えれば大樹は高校を卒業する。

それまで耐えればきっともう大丈夫なはずだ。大丈夫なはずだったのに…。

 「なあ星奈、多分もう大丈夫だよ!だからちゃんと待ってて」

こちらの家から帰る時、バイクに乗り込む前に大樹は笑顔でそう言った。

 そして帰っては来なかった。そしてあれほどまでに毎日続いたストーカー行為もピタリと終わった。そうなるといやでも察してしまう。

「私のせ、せいだ。私の。大樹…どうしよ。待ってて、てい、ったのに」

しばらくして星奈は誰にも言わず一人でその街を出て行った。


 「ニュースにもなったんだけど、ここは小さい街だし。大して騒がれなかったわ。まだ、見つかっていないみたい。犯人もね」

全てを話し終わった母は先ほどよりも何歳も老けたかのようにやつれていた。

もちろん申し訳ないとは思っている。過去にそんな辛いことがあっただなんて母のことを思うと聞いたことは少し後悔もした。

「話してくれてありがとう」

とりあえず今はこれしか言えなかった。

「…今まで言えなくてごめんね」

「ううん」

大空はそう首を振るとふっと笑みを作る。そんな表情を見て母も表情を和らげる。こと細く話してくれたお陰で気になっていたことは解消した。しかし最後にもう一つだけ引っかかったことがある。

「なんで、またこの街に戻ってきたの?」

大空が中学生になる前の春休み、理由も聞かされずにこの街に引っ越してきた。

行って仕舞えばこの街は思い出したくない記憶とも言えるだろう。もちろん年数で言えば楽しい思い出の方が多いはずだ。しかし終わり良ければすべて良しと言う言葉があるようにその反対もあるのだ。

「…なんでかしらね、彼と出会った時に戻りたかったのかも知れないわね」

母が大樹と出会ったのは中学の時だ。大空と昔の自分を重ねでもしていたのだろうか。とはいえ人の気持ちとは不思議なもので自分でも自分の気持ちがわからないだなんてこともある。大空は「そっか」と短く答えた。

「私、明日友達と遊ぶからもう寝るね」

母にそう声をかけてから大空は母より先に寝室へと向かった。


 午前九時ごろまだ眠りにつく母を起こさないようそっと家を出る。

「日登山…」

大樹の日記に書かれていた最後の言葉を思い出す。あのノートに書かれていた言葉、そして母から聞いた過去の話。

それらを合算するにきっとまだ大樹はあの山の中にいる。

「いくか」

昔から顔は母に似ていると言われてきていたのだが性格はもしかしたら大樹の、父親の血を多く引いているのかも知れない。現に今、一人で日登山に行こうとしているのだから。

少し道を歩いてからバス停に着く。大樹の家も日登山あたりではあるのだが山に入るにはバスで更に三十分ほど行かなくてはならない。

「お、ラッキー」

時刻表を見て大空は小さくガッツポーズをする。

日登山行きのバスは後十分ほどで到着するようだった。これを逃せば一時間以上はここで待っておかないといけない。そんなことにならなくて一安心だ。

 五分遅れてやってきたバスに乗ると誰も座っていない一番後ろの席に移動する。昨日あまり寝ていないにも関わらず眠気はほとんどなかった。

そのせいで特にすることもなくぼうっと変わらない景色をただ眺めていた。

 目的の場所までついバスから降りようとした時、バスの運転手に声をかけられる。

「お嬢さん、本当にこんなところで降りるのかい?」

その目は心配というよりも不信感の方が強く現れていた。何か変に疑われているのかも知れない。

「はい、この辺りに曽祖父のお墓があるので…」

適当でたハッタリだったのだが意外と的を得ているのもので自分でも頭の回転の速さに驚く。田舎というのはどこかしこにお墓があるものだ。それがいやに感じる人もいるかも知れないが今の大空にとっては好都合だった。

「そうだったのかい。気をつけるんだよ」

そう言って運転手は飴をくれた。

「ありがとうございます」

大空は頭を下げてバスが道を戻っていくのを見届ける。そして山の入り口あたりまで十分ほど歩いた。家もほとんどなくあっても住んでいるのか怪しい。

この辺りは昔は山菜がよく取れたらしくその時に使われていたであろう道が微かに残っていた。

「今は日落山の方が山菜取れるっていうからなー」

いい天気のはずなのに何故か妙に薄暗い雰囲気に押されぬよう独り言を言ってみる。

「…いくかぁ」

先ほど貰った飴を口に運ぶ。

「あのぉ」

突然後ろから声をかけられてギョッとして振り向く。すると五十か六十くらいの見窄らしい男が立っていた。見窄らしいと言っても清潔感がない訳ではない。ただ服や髪に年季を感じるのだ。

「な、んですか…?」

その異様な雰囲気に一歩後ずさる。

「ああ、おどろせてすみません。こんな場所に若い方が一人なんて、どうかされたんですか?」

おそらくこの人もあの運転手同様こちらのことを心配しているのだろう。なんと答えようかとしばし迷う。こんな山の前で曽祖父のお墓前りだなんて言ってもきっと信じては貰えない。

「じ、自殺なんてしたらダメですよ?」

男の言葉に大空はまさかと首を横に振る。

「でも、それならなんでこんなところに…」

男はこちらが引いたのに気が付いたのか同じように一歩後ろに下がって距離をとって再度質問をする。

「…えっとぉ」

とは言えまだ警戒心を解くことができない大空は内心早くどっかに行ってくれないかと思いながら愛想笑いを繰り返した。

「…実は僕は昔からずっとこの辺で自給自足しながら暮らしているんです。動物を取ったり野菜を育てたり…」

「そうなんですか?」

なるほどそれなら納得がいく気がする。今では猟銃の免許を持っている人すら少ないと聞くがまだこんな身近に持っている人がいたなんて。

「ええ、だから自分で言うのもなんですが、それなりに色々なことは経験しているつもりです。なのでもし何かあったら言ってくださいね。力になれるかはわからないですけど…」

なんとなく悪い人ではないと言う気がしてきた。必要にここにいる理由を喋らないこちらのことを心配しているのだろう。

長年ここで生活していると言っていたし、ダメ元で聞いてみるのもありなのかも知れない。

「あのぉ…」

大空は控えめに切り出す。

「前、二十年くらい前に私くらいの年齢の男の子来ませんでしかね?この山の中とかに…。見た目は、身長は170半ばくらいで髪色が明るくて塩顔っぽいんですけど」

どこにでもいそうな特徴しか思い浮かばず男も少し首を傾げる。

「見たことあるような、気もするがね」

「ほんとですか?!」

もしかしたら別人なのかも知れないがそれでも聞かずにはいられなかった。

「ここは昔から子供が少なくてね、珍しいなと思ったんだよ。それこそ自殺でもするんじゃないかと思って声をかけた子がいた様な気がするなぁ」

もし今話に出てきている人物が大樹のことだとすれば大きな収穫となる。

「…この山の中に広めの小屋があるんだよ。おそらく山で暮らしている人が住んでいるらしくて。きっとその人ならわかるさ。行ってみたらいいよ。そこにいなかったら多分地下室にでもいると思うからね。ここの道をまっすぐ進んで左側にあるんだ。川の近くだからすぐにわかるはずだよ。まだ昼間だし、行くなら今かも知れないね」

山で暮らしているだなんて今時ワイルドな人がいたものだと驚く。それに加えて地下室付きの小屋だなんてもしかしたら意外とお金持ちの人なのかも知れない。それとも別荘のようなものなのだろうか。兎に角それは行ってみるしかない。

「教えてくださりありがとうございました!」

大空は深く男に頭を下げる。

「ああそうだ、行くときに迷ったら危ないからこれをあげるよ」

そう言って男はポケットからサバイバルナイフを取り出す。

「進む時、数本に一回このナイフで木を傷つけたらいい。それが目印になるさ」

自給自足の知恵というものだろうか。一瞬貰うのは申し訳ないと思ったが確かに山で遭難することを考えたら遠慮はせず貰っておいた方が身のためだろう。

「ありがとうございます!」

大空は深く男に頭を下げる。

「……ああ、気をつけてね」

最後にもう一度男に頭を下げてから山道へと足を踏み入れた。


 なんか木を切るっていうのも意外と罪悪感あるもんだな。

足元を滑らせないようにゆっくりと緩い山道を登っていく。急では無いおかげかあまり疲労はないのだが後ろを振り返ってみると意外と上の方に登っていたのだと気づく。

上着、冬用のにすればよかったかも。

春はといえ山の中は結構寒い。大空は鼻を啜りながらあたりを見回す。すると先ほどとは違うひんやりとした空気が大空の体を包み始めた。みると少し先には川が流れているようできっともう少しで着くのだろうという期待がこもり進む足が早くなる。

「ここ、だよね。多分」

川沿いを少し歩くとあの男が言っていたであろう小屋らしき建物を見つける。こやにしては立派だがペンションというほど大きくもない。

「すみませーん」

当たり前だがそこにインターホンはなく古びた扉を叩く。しかししばらく待ってみても応答はなく人の気配すらないように思えた。

多分地下室にでもいるからね、という先程の男の言葉を思い出し恐る恐る扉を開けてみる。中は意外と整頓されていたのだがとても山で暮らしているという風には見えなかった。というのもあたりはゴミまみれ、それもほとんどがカップ麺のゴミで床の半分が見えなくなっていた。

「ええ…」

大空の勝手な想像だがもっと山で使うような道具が置かれているのかと思っていた。

「誰かいらっしゃいますかー」

大して広くない空間でもう一度声をあげてみるがやはり反応はなかった。どうしようかとその場で佇んでいると少し奥に地下への入り口らしき床ハッチを見つけた。大空は少し迷ってから土足のままハッチまで移動するとコンコンと床を叩いた。案外外の音は聞こえないものなのだろうか。やはり反応はなかった。

「は、入りますよー」

ここまできて帰る訳にもいかず大空はそっと床を開けて中を見る。中は数メートル分の階段が続いており大空は家主が帰ってきたのがわかるようハッチを開けたままにして下へと続く階段を降りた。

電気の場所もよくわからずあたりはほとんど真っ暗だった。大空はカバンからスマホを取り出すとライトをつけて壁を照らす。その瞬間今まで感じたことのないほど心臓がざわめいた。

「……え」

声になっているか分からない声が喉から掠れ落ちる。

「何、これ」

あたりには壁がほとんど見えなくなるほどの写真が貼られていた。そのどれもが同じ写真でカメラ目線のものは一枚もなかった。

「わたし…?」

大空は壁に近づき写真の人物をまじまじと見つめる。

「違う…」

写真の女性は自分によく顔が似ているのだがどこか違った。ということはもしかするとこの写真の人物は母なのだろうか。

「まさか、そんなわけ…」

こんな都合のいい、いや都合の悪いものが見つかるわけがない。もしそうだとしたのならまるで誰かの手の上で転がされているということになるではないか。

何がなんだか分からないがここにこのまま居続けるのだけはまずいということはわかった。今すぐ帰ろう、そう決意したのだが視界の端に何かが見えた。なんの変哲もないただのダンボールなのだが写真以外は何もないこの部屋では異質だった。開けない方がいいなんてこと誰にだってわかる。もちろん大空にだってだ。しかし何故だか開けなければいけないと、まるで引き寄せられるように大空はダンボールに近づく。

そして頭の中で鳴らされる警告音を無視して大空は段ボールを開けた。

「ひぃっ…!!」

大空は思わず尻餅をつく。腰が抜けてしまったのかも知れない。全身のどこにも力が入らなかった。すぐに視線を外してしまったが中に入っていたものは確かに誰かのだった。

そこでようやく今まで麻痺していた危機感が戻ってきた。

逃げなければ…!そう思い振り返ったときにもう遅かったのだと悟った。目の前で聞こどに集中しすぎて誰かがこの地下室に入ってきたことに気づかなかったのだ。頭に強い衝撃を受けて大空の意識はそこで途切れた。


 「ん、うう…」

ズキズキと痛む頭のまま大空は視界が揺れるまま目を開けた。一瞬自分がどこにいるのか把握できなかった。

「あ、起きたぁ?」

「……っ!」

突然顔を覗き込まれて大空は息を呑む。男を突き飛ばして距離を取りたかったのだが大空の手は後ろに縛られていてただ後ろに後ずさるしかできなかった。

「あんたは…」

ニタニタとみているだけで不快になる笑いを浮かべる男は山に入る前、この古屋の存在を教えてくれた男だった。

「騙したの…」

詳しい事は分からないがこの男は大空に適当なことを言ってこの場所に誘導したのだ。きっとコイツは母をストーキングしていた犯人に違いない。この部屋中に貼られた母の写真がそれを物語っていた。

「まさか、まさかまた会えると思わなかったよ!」

男は天を仰ぐように腕を広げた。

「ああ神様!ありがとうございますありがとうございます!」

まるでミュージカルでも一人でしているのかと思うそぶりに大空は恐怖した。

私は星奈じゃない。そう言いたいのだが声が出なかった。

足まで縛られていないことが不幸中の幸いで大空は男にバレないよう少しずつ後ろに距離をとった。がそれも限界があり大空の背中は壁にピッタリとくっついた。

「君はねぇ僕の初恋の人に似てるんだよ!ああ本当に!だから君をみた時から僕は神様を信じるようになったんだ。だってそうだろう?なあわかるだろう!その大きな黒い瞳も艶やかなロングヘアーも…」

男はこちらの髪に頬擦りをする。男の生暖かい息が顔にかかって大空は顔を背けた。全身に絶え間なく鳥肌が立つ。

「だから僕は今度は失敗しないように君のことを守ってあげていたんだよわかるかい?変なやつに君を汚されないよういに帰りはいつも一緒に帰っていたよねえ。でも僕はこう見えてもシャイだから顔を見て話すのは恥ずかしかったんだけど気持ちはいつも一緒だったよね!」

呼吸をしなくても生きていけるのではないかと思うほど男は一瞬の間も開けず早口で捲し立てた。

「でも!でも君は…」

突然男は口を止めるとゆらりとこちらに目をやった。そして突然こちらの方を掴むと壁に押し当てた。

「君は僕を裏切ったんだよ!あんなにも僕が守ってあげていたのに!あの男はなんなんだ!馴れ馴れしく図々しく君の隣に居座って!あそこは僕の居場所のはずなのに!」

何度も壁に体を押され大空は痛みで呻き声をあげる。手が何かで切れて血が流れる感覚がした。

「あ!ああ、ごめんね。君を傷つけたいわけじゃないんだ。でも、でも君が最初に裏切ったんだからこれぐらいあの時の僕の気持ちに比べたらどうってことないだろ?」

大空は男の話をあまり耳に入れないようにしながらどうにかして逃げられないかと思考を繰り返した。何度も何度も同じことを嬉しそうに語る男にバレないよう大空は後ろの方に一瞬目をやる。先ほど手が切れたとき何か鋭いものに当たったような気がしたのだ。予想した通り幅木から一本の錆びた釘が飛び出ていた。

これは使えるかも知れない。意外と頭が冷静に回っている自分を褒めてやりたいくらいだ。星奈は男の行動から目を離さずこちらをみてない一瞬の隙を見つけて釘にロープを擦り付けた。目視はできないが一つ一つの繊維が切れていっているのがわかった。

「どちみちあの男は消そうと思っていたからまさか自分から僕のところにやって来てくれるとは思わなかったよ!まあ僕も後ろをつけられているとは思っていなかったから流石に最初は驚いたけどね!でもこの山は僕の住処みたいなもんだ!だから僕の方があんなクソみたいな男より何枚も上手だったってことさ!君だって頭のいい男の方が好きだろ?」

大空は「私も、頭のいい男の人が好きよ」と相手の気を緩まそうと閉じていた口を開く。こんだけ星奈のことが好きな男だ、好きと言われて怒るわけがない。現に男は嬉しそうに口を横に広げると大きな声で笑った。

「だよね!だよね!やっぱりそうだよね!だと思った君ならそう言ってくれると持ったよ!」

まるで子供のようにはしゃぐ姿を見て見た目と中身のギャップに嫌悪が止まらなかった。あと少し、あと少しで腕の縄が解ける。

「うん、そうね」

再び口を開いたところで男は途端真顔になりこちらに顔を近づけてくる。

しまった、流石に反応しすぎただろうか。それとも、まさかバレた…?

大空はゆっくりと手を釘から遠ざける。

「……」

「……」

男の泥のように濁った瞳はしばらく無言のまま大空を見つめた。

心臓が痛いくらいに早く刻まれる。

「ああ!!」

突然の大声に大空は喫驚する。男はこちらの頭に手を伸ばす。もうダメかと大空が固く目を閉じた時男は「怪我してるじゃないか!」と耳を疑うようなことを口にする。確かに怪我はしている。しかしそれは何もたった今怪我したものではない。男が殴ってきた時にできた傷なのだ。

「かわいそうに…今手当てしてあげるからね」

男はこちらの頭を撫でた後地下から出るためか階段の方へ向かった。その間も永遠と何かを話しているのだがもう聞きたくない。大空は自分の行動だけに集中をした。

今しかない、大空は釘に細くなった残りの縄を全てかけるとそのまま思い切り引っ張った。縄はブチっと音を立てると床に落ちた。男はまだこちらの手が自由になったことに気づいていないようだ。大空は慎重にズボンのポケットから山に入る前男から渡されたナイフを手に取る。これだけはカバンに入れて置かなくて良かったと心底思った。恐らく男がわざわざナイフを渡してきたのは自分が後ろから木につけられた傷を目印に大空を追いやすくするためだったのだろう。それがまさかこんなにも役立つだなんて思ってもいなかった。

大空は音を立てないように立ち上がるとなるべく近くまで寄る。

「ねぇ」

男は近くで聞こえたこちらの声に驚いてか目を見開いて振り向く。その瞬間に大空は男の顔目掛けて思い切りナイフを横に振った。

「うっぐあああああああ!」

男は絶叫しその場に蹲る。手に残った感触ごと振り払うようにナイフを捨てると階段を駆け上がりそのまま小屋から走り出た。そしてそのまま後ろを振り返らずただただきた道を戻る。今になってようやう恐怖が体に出始めたのか何度も足がもつれてこけそうになる。それでも止まったら殺されるという恐怖が大空の足を止めさせなかった。

あと少し、あと少しで山から出れる。そしたら誰かの家に行って助けを呼ぼう。

やっと助かる、その気の緩みのせいかいつの間にか降り始めた雨でぬかるんだ土に足を取られる。立て直すこともできずそのまま転がるように数メートル進んだあと、大空は全身に走る痛みで目を開けてはいられなくなった。


 「気がついた時には病院で寝てる自分を見てたの」

せっかくマスターが注いでくれた紅茶は半分ほど残ったまますっかり冷えてしまっていた。

「………」

大樹は静かに深く息を吸った後、自分の顔を隠すように机に肘をついた。

「…てことはあれか?大空の父親は大樹で、大樹の娘は大空だったってことか?」

二人の顔を見比べながら小太郎が言った。

「……まあ、そういうことだろうな」

律もまだ頭の中を整理しきっていないのか少し困惑した状態のまま相槌を打った。

「…ごめんね。勝手に見ちゃって」

「謝るところそこじゃないだろ」

深くため息をついて大樹は顔をあげる。

「なんで勝手に行ったんだよ、危ないってことぐらいわかんねえのかよ」

決して声は張らず淡々と言って見せるが言葉の中に怒りが混じっているのはすぐにわかった。

「私だってあんなことになるなんて分かんなかったんだもん。ちょっと偵察に行くだけのつもりで…でも、でもさぁ…」

続きの言葉を言うより先に目から涙が溢れてきた。

「今はそんなことよりも、これからどうするかの方が大切なんじゃないかい?」

マスターの言葉に大樹も大空も黙る。

「気がついた時には病院にいる自分を見てたって言ってたけど、それは間違いないんだな」

「うん、すごい変な感じだったから。覚えてる」

律はこちらの言葉を聞くと「ならまあよかった」と椅子に深く座り直す。

きっと近くに住んでいる人か誰かが見つけてくれでもしたのだろう。もしあのまま見つからず再び男に捕まえられていたらと思うとゾッとする。

「…俺は今からでもその場所に行く」

そういうと大樹はその場から立ち上がる。

「なら、私も…」

「大空はくるなよ。ここにいろ」

大樹はピシャリと言ってみせた。やはり怒っているのだろう。空気がピリッと張り詰める。

「……わかった」

少し浮かせていた腰を再び椅子に下ろす。

「じゃあ代わりに俺が一緒に行く。小太郎、お前は大空とマスターと一緒にいてくれ」

小太郎は返事の代わりに小さく鳴いてこちらの膝の上に乗った。

二人でオランジェを出ようとする大樹の背中に大空は声をかける。

「怒ってる?」

大樹は足を止めるとそのまましばらく黙った。律が隣で居心地のわるそうな表情を浮かべている。

「…怒ってる」

そう言ってこちらに体を向けるとにっと笑顔を見せた。

「だから全部解決したらなんか罰ゲームなっ。うんと嫌なやつ考えといてやるから」



 「瞬間移動とかできれば楽なのにな」

大空の話によると日登山に入ってからもしばらく歩くと言っていた。夜中くらいには着くだろうか。

「本当にな」

瞬間移動をすることはできないが一ついい点を挙げるとすれば歩いても走っても疲れないと言うことくらいだろう。

「……どう思った」

「何が?」

「俺が大空の父親だったってこと」

正直自分でもまだ現実味がない。記憶がないのだから当たり前と言えば当たり前なのかもしれないのだが、大空もこの事についてなんと思っているのか聞けていないため接し方が難しかった。

律は考えるように唸り声をあげる。

「…高校生のくせに父親になるだなんてませてるな、くらいにしか」

「そこかよ、まあ俺もちょっとは思ったけど」

「まあでも似てるところがあるっちゃあったから、納得もしたかも…?」

「マジで?」

「ああ」

自分では案外気づかないものだ。似ているところなんてあっただろうかと思い出そうとしてみるが、特に思い当たる節はなかった。

「…もし記憶が戻って時計も戻ったら俺はもうあそこにはいられないのかな」

「……さあな」

記憶は確かに戻って欲しい、しかしもう何年も過ごしたあの店を離れるのは嫌だった。

「…ならやめるか?行くの」

律は足を止める。少し遅れて大樹も足を止めた。

「欲しいものを二個とも得ようとすると両方無くすかもしれないぞ」

昔の童話か何かで欲を出したせいで欲しかった物と自分が持っていたもの両方水に流してしまったという話があった気がする。今回のことのもそれと同じことになり得ないと言うことが言いたいのだろう。つまりオランジェを取るか自分の記憶を取るかその二択と言うわけだ。

「…俺は自分の記憶が知りたい。昔からずっと思っていた事だし、大空の行動も無駄にできない」

迷うことはなかったと言ったら嘘になるが気持ちは最初から決まっていたのだ。

「そうか、なら行くぞ」

律は止めていた足を動かし始める。しばらく二人して無言だったのだが律がふと口を開いた。

「…お前なら両方得ることもできるんじゃないか?」

「なんで?」

「なんとなく」

なんとも理由も根拠もない言葉だが足掻くぐらいはできるだろう。

「んじゃ、頑張ろっかな」

大樹は歩くのを止め駆け足で夜道を進み始めた。


「マジでこの山の中一人で言ったのかよ大空は」

夜のせいだと言うこともあるが一寸先は闇という言葉がこれ以上に会う場所はそうそうないだろう。

「大空が言ってたの、これだろうな」

律は木につけられた傷を指でなぞる。

「とりあえず道間違えてなくてよかったな。…行くか」

 山に入る前は目を瞑っているのか開けているのかすら分からないのではないかと思っていたのだが、目が慣れていくにつれ段々と目を凝らさなくても見えるようになってきた。これは生きている普通の人間でも同じような鮮明さで見えるのかそれとも幽霊だからこそ暗闇に強いのかは定かではないが、とりあえずこの先も迷わず道に進めそうで安心だ。

「こんなところまで来たのは流石に初めてだな」

律は足元に気をつけながら片手で木に触れている。

「律はずっとこの街に住んでたんだっけ?」

「ん?ああ、そうだな。でも知ってると思うが家はこの辺りじゃないから詳しくないぞ」

「別に詳しくなくたっていいよ。そうじゃなくてさぁ、もしかしたら俺らどっかで出会ってたりしたのかなって思ってよ」

「ああー、それ面白いな」

もしかすると律だけじゃなく、小太郎にもマスターにもどこかで会っていたのではと思うと結構夢がある話だ。しかし決定事項として大空と出会えていたと言うことはない、あったとしても自分の子供としてなのだ。

「…俺、父親かぁぁ」

やはり何を考えても行き着く思考はそこだった。あの場では大空もいたことだし触れることはできなかったのだが、考えれば考えるほどそれだけは本当に夢ではないのかと思う。と言うより思いたいの方が強いのかもしれない。

「嫌なのか?」

「いや、嫌ってわけじゃないけどさぁ」

「まぁ言いたいことはわかるよ」

そう言うと律はあからさまに同情するような笑みを浮かべた。

「だって今まで散々仲良くしてきた友達が実は自分がつくった子供でしたって、俺なら結構くるもんがあるな」

そんなに事細かく言葉にしないで欲しいものだ。大樹は小さく唸り声をあげる。

「まあそれを大空の前で言わなかった事は偉いと思うな」

「言えるわけないだろ…」

「ははっ、だよな。まああっちは今頃結構言ってそうだけどな。『私まじで大樹とままの間の子供なの?信じられないんだけど』とか」

似てなさすぎるモノマネは置いておいて確かにその想像をするのは容易だった。

「変に気にしすぎると後で自分の首を絞めるだけだからな。あっ」

律は不意に何か気づいたように声をあげる。あたりを見回すがまだ小屋らしきものは見えなかった。

「なんだよ」

律に問いかけると「いやさぁ」と言葉を続けた。

「大空が霊感ないのに俺たちのこと見えたのってお前がいたからなんじゃないのか?」

「……あ、りえるな。家族だからってことか?」

「確証は持てないけど可能性としてはあるんじゃいか?」

色々巻き込んでしまったのは俺のせいなのか。大樹は重く息をつく。

「悪い方向に考えるなよ。なんでもポジティブに考えるのが大事なんだろ?」

「わぁかってるよ。……ってあれ、なあアレじゃないか?大空が言ってた小屋って」

大樹が指さした先には確かに一軒の小屋がぽつりと建っていた。木の傷もここで途切れていることから間違いはないだろう。

「中にいると思うか…?」

「いたところで俺たちには関係ないだろ。あっちの霊感が死ぬほど強くなけりゃの話だがな」

「…だな」

大樹は小屋の中へと足を踏み入れた。

「きったねぇなホントに」

後ろでボソリとつぶやいた声が聞こえた。確かに律の言う通り半端なく汚い。何度も思うがよくこんな中一人で進めたものだと大空を尊敬する。

今回も大空の時と同様中に人はおらずそのまま問題の地下室入り口まで移動する。

この中に自分がいる。記憶が戻るときはどんな感覚なのだろうか。そもそも本当に記憶は戻るのだろうか。もし中にいると言っていた死体が別人のものだったら…。

さまざまな思考が頭の中を駆け巡りしゃがんだままの足がなかなか動かない。

「一回外出るか?」

律の提案に首を横に振ると、両手で自分の頬を叩いた。そしてようやく腹を括った大樹は地下室の階段へと足を伸ばした。

中には大空の言っていた通り壁一面に写真が貼られている。

「そっ……らじゃないんだよな」

律も大樹もあまり壁に目をやらないように下を向く。壁一面一人の人の写真が貼られているだなんて不気味にも程がある。

「おい…」

横から小突かれて律の方に目をやる。

「ん…」

見ろとでも言うように顎をクイっと動かす。もしかしてと思いじわじわと視線を動かすとそこには一つのダンボールが置かれていた。まるで隠す気がないように上の部分は半分しか閉じられていなかった。もしかしたら大空が開けた時のままなのかもしれない。それだけでもここに住んでいる男が異常だと言うことがわかった。

「あれってことかよ…」

大樹はゆっくりとダンボールまで近づくと膝立ちになる。

二回ほど深く深呼吸をしてからそっと覗く。

「あ……」

嫌なことに頭蓋骨としっかり目があってしまった。

途端つんざくような耳なりが大樹の体を襲った。前に大空の母、つまり星奈とあった時と同じ痛みだった。

「うっ…」

思わずその場に蹲る。しかしその痛みは一瞬で「大丈夫か」と律に背中を触られたときにはすでに治っていた。

「……星奈」

無意識のうちに口から溢れた言葉に自分で息を呑む。

「もど、ったのか?」

「…………ああ、全部、思い出した」

いつの間にか流れていた涙を大樹は拭う。

とても妙な気分だ。つい数秒前まで何も思い出せなかったはずの記憶が、今では元々忘れてなんていませんけどと言った我が物顔で居座られているようだった。

「…星奈に会いたい。会って話がしたい」

叶わないとは分かっていても、言葉にせずにはいられなかった。顔を伏せて泣きつづける大樹の隣を律は何も言わずに横にいた。

 しばらくしてようやく落ち着いてきた頃、突如聞こえた凄まじい音に二人して同時に上を見上げる。

「帰ってきたのか…」

帰ってきたにしてもあんな音がなるだろうか。まるで何かものを床に叩きつけたような、一体どんなふうに部屋に入ってきたと言うのだ。

「俺たちも取り敢えず戻ろう。大空のことも、こいつのこともそれからだ」

「ああ」

立ち上がり階段に向かおうとしたら今度は絶叫のような発狂のような声が下まで聞こえてきた。

「え、え…?」

動揺を隠せずにいると床ハッチが勢いよく開かれ大きな足音を立てながら男が降りてきた。男には大樹達の姿は見えてはいないようで再び発狂しながら床に這いつくばり何度も拳を叩きつける。

「なんで!なんでなんでなんでなんで!!僕は星奈の彼氏だぞ!!恋人だぞ!!なんで病院に入れないんだ!あのババアめふざけんじゃねえ!」

言葉になっているかも怪しい状態のまま男は叫び続けている。

「こいつ完全に頭いってるな」

律の辛うじて聞き取れた言葉には同意しかなかった。そもそも星奈と大空を勘違いしている所だけ見ても正常な判断ができていないことがわかる。二十年も前の人間が同じ見た目のまま現れるわけがないと言うことすら理解できないのだろうか。

「君は、君は一体何度僕を裏切れば気が済むんだ!!いくら優しい僕でももう我慢ができない!殺す、殺してやる!」

男は壁に貼られた一段大きな星奈の写真にべったりと顔をつける。

「こいつ……」

「おい、やめとけ…!どうせ俺たちにはどうにもできないんだから」

律がこちらを宥めるように腕を引っ張る。怒りで自分の体が震えているのが分かった。そんなこちらの様子を全く見えていない男は急に目をうっとりさせながら壁に頬擦りをする。

「なぁぁ、君だって僕と一緒に死んだ方がきっと幸せなんだよ!わかるかい!?大丈夫だよぉ。優しく、優しくしてあげるからね。待っててねぇ、今日のうちにかならず君を…」

吐息まじりに男は言うとフラフラと立ち上がりいつから持っていたのか、ナイフを壁の写真に何度も突き立てた。

この行動に関しては怒りよりも先にこれからの起きる事を想像してしまい恐怖した。

「早く大空のところに戻るぞ!」

肩が外れるのではないかと思うほどの力で律を引っ張ると小屋を出た。

そしてそのまましばらく二人とも無言で山を走り降りる。どのくらい走ったのかいつの間にか山は抜け、入る前の道に戻ってきていた。

「どうやったら大空は戻るんだ?このまま戻らねえとかだったらいよいよまずいぞ!」

走るスピードを緩めるまま半ば怒鳴るように律に問う。

「俺だってわかんねえよ!でも中には精神が離脱した状態で本体に近づくと戻ったって話もある…!」

「ちなみにそれどこ情報?」

「どうりょ……。友達、友達からの情報!」

「なら信憑性もあるな!」

走ったおかげか行きよりも随分早く店へと戻ることができた。まだ時間もせいぜい夜中の二時か三時くらいだろう。走ってきた勢いのまま店のドアを開ける。するとそこには人影が増えていた。

「と、父さん…」

今ならわかる、なぜわからなかったのだと思ってしまうほど大樹の記憶には深く刻まれている人物だ。

「ああ、良かった。最後にちゃんと会えて」

父はやんわりと微笑んでみせる。懐かしい笑い顔だ。目の奥がつんと痛み視界がゆらゆらと揺れる。

「え、もう行くの?俺、まだ父さんと話したいことが…」

焦らないといけない事は分かってる。しかし大樹の口からは弱々しく言葉が落ちた。全てを聴き終える前に父はハッとした表情を見せた。

「大樹?もしかして、き、記憶戻ったのか…?」

まだほんの少ししか話していないと言うのにさすが父親と言えよう。

「…うん、もうちゃんと全部覚えてるよ。ごめん、あの時何も言わずにいなくなっちゃって…」

「いいんだ、いいんだよ」

父に抱きしめられた瞬間堪えきれなかった涙が頬を伝った。

「あんま言えなかったけどさ、俺マジで父さんたちの間に生まれてきて良かったって思うよ」

「ああ、父さんもだよ」

父も同じように泣いているのが分かった。

なんという酷なタイミングなのだろう。本当はもっと話したい。二人で話すことが無くなるまでずっと話していたかった。

「…ごめん、俺行かないといけない、やらなきゃいけないことがあるんだ。だから…」

「…そっか。なら、父さんは先に上で待ってるよ」

何かを察していたのだろうか、父はまわしていた腕を戻すとこちらの頭を優しく撫でた。

「うん」

窓から律とは別の死神の服装を着た人物が見えた。きっと父を上まで案内する人なのだろう。

父は店を出る最後、小さくこちらに手を振って「頑張るんだよ」と笑って言った。

父と別れたからと行ってメソメソしている時間はない。大樹は涙を拭うと大空の方を向く。

「今から病院戻るぞ!」

「え?え、なんで?」

状況が掴めていない大空の手を掴んで無理矢理立たせる。

「いいから、病院行って自分の体に戻るんだよ!」

「…わ、分かったわよ」

大空は眉を下げながら立ち上がる。

「大樹、先言ってるぞ!」

律は大空の手を引くと先に店を出た。

「なあマスター一緒に来てくれない?俺たちだけじゃ…」

「私は一緒にはいけないよ」

マスターは一切の感情を出さずそれだけ答えた。

なんで?そう聞こうとして大樹はやめた。マスターの表情を見て何か理由があるのだと分かってしまうほど苦しげな顔をしていたからだ。

「……深くは聞かないでおくよ。俺たちが嫌いで言ってるんじゃないってわかるしね」

大樹はそう言うと先に言った二人を追いかけるように店を出た。


 「ここから出られないってのも大変なもんだな」

「初めて、自分がこんなにも無力だと感じたよ。亡者のみんなの助けになりたいと言う思いで、ここから出られないと言う条件を全て呑んでこの店を開いたというのに、何もできないだなんて」

「今まで沢山の亡者の役に立ってるんだから今回くらい仕方がない、きっとあんたの事を知ったらアイツらはそう言うと思うぜ」

「…そうかもね」

「ウジウジしてらしくねえな。そんなこと言ったって仕方ないだろ。世界が一変でもしない、いやしたとしてもアンタはここからは出られないんだ。それがあんたのした選択だ。今回あんたが出来ることはせいぜいうまい飯でも作って待ってることだぜ」

「…そう、だね」

「んじゃ、オイラは行くぜ」



「大空がいる病院は中央病院でいいんだよな?」

「う、うん。そこの五階の502号室だったけど…」

中央病院まではここから一時間ほどだ。最悪なことにこの時間はバスはもちろん車の一台も走っていない。もし入っていたら乗り込むことだって今の自分たちなら出来るのに、大樹は焦る気持ちを抑えながら走り続ける。

「でもなんでそんなに慌ててるのよ」

「……」

伝えるべきなのだろうか。もしかしたらあの時の男に殺されると言う事を。

「伝えても大空なら大丈夫なんじゃないか?」

律は大空の方をチラリと見ながら言う。

「そうだな、いいか?落ち着いて聞けよ?今は病院に着くことが最優先て事、ちゃんと頭に入れておけな」

そう前置きを置いてから大空にあの小屋で見たこと、男の言動を伝えた。すると律の言った通り軽く動揺して見せたもののパニックになることはなかった。

「でも、それが本当ならまだ大丈夫なんじゃないの?」

「なんでだ?」

「だって、この時間バスなんて走ってないし、アイツが病院に来るための手段なんて自分の足以外ないでしょ?」

「……」

「大空、嫌なニュースが一つある。俺はあの小屋の裏にバイクっぽいのが置かれてるのを見た」

「…まじ?」

「……俺もそれは見た。古い原付っぽいからスピードはそんなだろうが、少なくとも俺たちのスピードよりは格段に早い」

「本当に最悪なニュース」

明らかに大空の顔が青ざめていくのが分かった。

「でも、最後まで諦めなかったらなんとかなる、はず!」

大空は解かれていた髪を気合を入れるように高く結ぶ。

「さっすが大空だな!」

横の石段から黒い影が現れた。

「小太郎っ」

小太郎も自分たちと変わらぬ速度で走り続ける。小太郎も自分たちと同じように死んでしまっているとは言え、幽霊ではなく妖怪だ。それであれば人にも見えるし触れる。今の状態でそんなにも心強いものはない。

 「あとちょっとじゃないか?」

少しずつ街灯も増えあたりが明るく照らされてきた。おそらくあと十分ほどで着くのではないかと思われる。

「なぁ大空!あと少しだってよ.....」

てっきり後ろを着いてきているものだと思って振り返ったのだが、大空はいつの間にか足を止めていた。

「何やってるんだ?はやく...」

せかそうと声を掛けたのだが大空の様子を見て大樹も足を停めずにはいられなかった。

「なに、これ...」

大空は呆然とした様子で自分の掌を見つめている。傍から見ても様子がおかしい事はわかった。

「どうなって...」

大空の体はだんだんと光の胞子に包まれていくようだった。

「多分精神が体に戻ろうとしてるんじゃないか?」

「死ぬわけじゃねえよな...?」

律の言葉にそう反応せずにはいられなかった。

「大丈夫な、はずだ。死ぬ時にあんなふうになった人間は見たことない」

そうこうしている間に大空の体は光に包まれてほとんど見えなくなっていた。

「わ、私...」

姿は見えずとも不安そうな声で今どんな表情なのかわかった。

「大丈夫、絶対大丈夫」

大樹は光の塊になった大空をそっと抱きしめる。まるで子供をあやす様に頭をそっと撫でながら言葉を続けた。

「すぐに追いかけるから、絶対俺が守ってやるから...」

「.....うん」

最後の返事を聞き終えた瞬間大空の体はふわりと消えた。

「オイラは先いくぜ!」

小太郎は先程入っていたより更に早いスピードで暗闇をかけて言った。さすが四足歩行とでも言おうか。あっという間にこたろうの姿は見えなくなった。

「俺達も急ぐぞ」

「ああ」


「.....っ!」

目が覚めると知らない天井だった、という訳でも無いがあまり馴染みのないジプトーン天井だった。

「はぁ...」

無事目が覚めたという安心感と全身の痛みにため息が出る。 足は骨折か、それともヒビでも入ったのかギプスが着けられていた。しかし起き上がれないと言ったほどでは無い

どうやらここは個室のようだった。個室と入ってもドラマでみるような広いものでは無いため大空以外に人がいないということは頭を動かして見ずとも分かった。

上体を起こしカーテンを少しだけ開けて外を見る。駐車場は街灯のおかげか意外と明るかった。

早くみんな来てくれないかな。

なれない場所で一人待つというのは心細いもので大空は窓に顔を近づけて皆の姿を探した。

するといきなりガラガラと扉が開かれる音が耳に入った。大空の体に一気に緊張が流れ込む。

心臓の鼓動は早くなり布団を握った手が震える。犯人が来たのだろうか、まさかこんなタイミングで。まだ誰もここには着いていない、どうする、どうする?

「...すみません、見回りです」

後ろから聞こえた淡々とした声に、フル回転させてい思考をストップさせる。

な、なんだ見回りか。焦った損しちゃった。

「はーい」

拍子抜けしながら声のする方へ振り返った瞬間、顔を強い力で掴まれてそのままベットに押さえつけられる。

「んんっ!!」

「迎えにきたよ、星奈ちゃん」

気持ちの悪い笑みを浮かべる男は紛れもなくあの時小屋で出会った母のストーカーだ。顔にはあの時着いたであろうナイフの傷が痛々しく横に引かれいる。

口元を抑えられているせいで声を出すこともままならない。ジタバタともがいているうちに左手につけられていた点滴が丁度男の右目を掠める。

「ぐっ」

男が悶えた一瞬の隙を狙って大空はベットから出ると助けを求めるため出口に向かおうとするが、二歩目を踏み出したところで痛みに耐えられず床に転がった。

「だれっ…んぐっ!」

助けを呼ぼうと開いた口は再び男に塞がれてしまう。なんとか大きな音を立てて近くの病室にいる患者かナースに気づいてもらおうとするのだが、生憎そんな体力ももうほとんど残っていなかった。最後の力を振り絞るように大空は手で男の体を押し返そうとするがビクともしなかった。

「君が悪いんだからね、星奈ちゃん。君が君が君が」

男は腰につけていたウエストポーチから万能包丁を取り出す。どこかの光に反射して包丁がぬらりと嫌な光り方をする。

「んん、んぅんん」

「…なんだい?いいよ、最後に喋らせてあげるよ僕優しいから。その代わり大声出したらすぐに殺すからね…」

そう言うと男はようやく抑えていた手を外し、その代わりに持っていた包丁を大空の首に当てる。包丁の冷たさが首から全身に伝わり冷や汗が垂れる。

「…何を、勘違いしているのか、知らないけど、私は星奈なんて名前じゃない。それに、星奈って子も、あんたとは絶対に付き合ってなんか、ない」

だんだんと視界がぼやけてくる。気がつくと頭の傷口が開いたのか頬の生暖かい液体が流れ始めていた。

「黙れ、黙れ…」

そんな状態だったからだろうか。男の怒りが上昇しているのに気づいていても言葉止まらなかった。

「そもそも、気持ち悪いのよ。勘違いして、嫌がらせして、人まで殺して…」

「違う!それはアイツが星奈ちゃんと僕の邪魔ばかりするからだ!」

「違わないわよ…!そも、そも邪魔はどっち!?あんたは、気持ち悪い勘違いして、大樹を、私のパパを殺したんでしょ!」

「うるさいうるさいうるさぁい!!」

男は頭を皮膚が向けるのではないかと思うほど掻きむしると、包丁を両手に持ち直して勢いよくこちらに振り下ろしてきた。

「……っ」

大空はもう目を瞑って視界を塞ぐ気力もなくただ自分に向かって振り下ろされる包丁をスローモーションのように感じながら見ることしかできなかった。

ああもうダメなんだ。そう悟った瞬間黒い影が飛び出し男の手にしがみついた。

「こた、ろう…っ!」

「なんっだよお!くそっはなせ!」

男は小太郎を引き剥がそうと手を振るのだが深く爪や牙を立てているのかなかなか離れない。

「くそぉっ!」

普通にしても離れないと思ったのか男は壁に自分の腕ごと叩きつける。流石にこれには小太郎も成す術はなく痛そうな鳴き声を一度上げて床に倒れた。がすぐに立ち上がると男と大空の間に入って威嚇する。

「大空!大丈夫か?!」

「う、うん。なん、とか」

とは言ったもののもう指一本も動かせる力も残っておらず、意識を保っているのが精一杯だった。

「このクソ猫!」

男は怒りをあらわにし小太郎を足で蹴ろうとするが小太郎の俊敏さに勝てるわけもなく空振りに終わった。それでより一層腹が立ったのか、包丁を握りしめると大空ではなく小太郎に振り下ろそうと腕を高く上げた。がその腕が下されることはなかった。

「もうやめろ」

大樹が男の腕を掴んで動きを止めたのだ。

「ひっ!だ、だれだお前!俺に近づくなぁ!」

男はぶんぶんと包丁を振り回す。しかし刃先は大樹には当たらず全てすり抜けている。

「悪いが俺にそれは聞かないんだよ」

そう言うと大樹はそのまま男の頬を思い切り殴ると、体制を崩した男の胸ぐらを掴む。男の表情は完全に恐怖している。動いた反動だろうか、大樹の服からは懐中時計が姿を見せていた。

「大丈夫か?もう少しで看護婦か誰かがこの騒ぎに気づくと思うから、それまで頑張れよ」

隣で声をかけてきた律の言葉は大空の頭には全く入っては来なかった。

「なん、で、大樹は…あの男に、触れてるの…?」

「……」

律はこちらの質問には答えずただ二人の方を見据えていた。大空も霞む視界を凝らして大樹を見る。大樹の周りには黒いモヤが集っており男にもそれは見えているようだった。靄はどんどん濃くなり大空は鳥肌が止まらなかった。

「ねぇ、おか、しいよ。だって、あれじゃぁまるで、悪りょ…」

「大空、もう黙っとけ。傷が開くぜ」

「でも、でも…」

信じたくはなかった。大樹は悪霊になりかけている。

「り、つ……?」

「…ごめん」

呟かれた律の謝罪によって全てが合致した。時計が戻ったことによって大樹も他の幽霊と同じになった。その状態で律は大樹の体に触れ悪霊化を進めたのだろう。

「なぁおい、俺の顔覚えてるか?俺は忘れねぇぜお前の顔をよ」

「しら、知らな、知らない!お前なんか!」

恐怖による汗や涙や鼻水で濡れた男の顔は見るに耐えれたものではなかった。

「そうかよ、俺はなぁ。俺はお前に殺された星奈の彼氏だよ!あとお前が殺そうとしたあの女の子は星奈じゃない、星奈と俺の娘だ!死ぬほど後悔させてやるからな」

そう言い終わるや否や大樹の黒い靄は男もろとも包み込んだ。

「うっうわあああああああ」

男の悲鳴があたり一体に響き渡る。

そこでようやくこの事態に気がついたのか数人の看護師が部屋にやってきた。

「どうされました!?」

「ひっ誰ですかあなた!」

いつのまにか大樹から手を離されていた男は頭を抱えてまるで虫のように床に這いつくばり悲鳴をあげている。

「くるな!くるなぁ!やめろ!僕を見るな手を離せぇ!」

まるで見えない何かが男にだけ見えているようだ。慌ただしく動く看護師たちもそんな男の様子に視線を向けずにはいられないようだった。

「大丈夫ですか?分かります?」

大空はやってきた看護師に体を支えられる。

「じゃあな、しっかり食ってしっかり寝て、さっさと治せよ」

ぼやけてほとんど何も見えないがその声は明らかに大樹のものだった。

「ま…って、まっ、て」

律と共に部屋から出て行ってしまう後ろ姿を今すぐにでも追いかけたい。しかしそんな思いは体は理解してくれず大空は意識を手放した。


 その後男は無事逮捕された。どうやら男は病院の裏口から鍵だか窓だかを壊して侵入してきたそうだ。しかし男は刑務所に入れられるより先に精神病院に送られたらしい。ずっと見えない何かに怯えているそうだ。母からは怪我人にするとは思えないくらいの強さでビンタされたが最後には「無事でよかった」と抱きしめられた。

 入院している間何度か律がお見舞いに来てくれた。小太郎は他の人間にも見えるためテレビ電話で会話だ。

大樹は、一度も来てはくれなかった。聞いたら嫌な答えが帰って来るのではないかと思って聞けなかった。

「あの男、前にもやらかしていたみたいだな」

窓辺で腕組みをする律はふとそんな事を言った。とはあの男のことだろう。

「そうなの?」

「ああ、ちょっと調べたらすぐに出てきた。アイツが高校生の時に当時中学生の柏木リリって子を殺してた。出所してからはずっとこの街で身を隠していたんだとさ。まあ初犯じゃないんだ、病院退院しても外には出れないだろうな」

「そっか…」

その言葉に少し安心した。もしかしたらいつかまた目の前に現れるのではいかと心のどこかでずっと不安だったからだ。

「俺はそろそろ仕事に戻るよ。じゃあしっかり休めよ」

「うん、ありがとね」

静かになった病室でゆっくりと目閉じた。

 長い入院生活の中で大空が決めたことが一つある。それはと言うものだ。実は自分は幽霊と話せて、その幽霊のうちの一人は自分の父親だったなんて言った日にはきっと入院が長引くに決まっているからだ。

しかし全てを忘れたふりをしたと言うわけではない。大樹の遺骨を回収して貰うためにも最低限の情報だけは警察に話したのだ

 

 「ん〜美味しーー」

夏ももう終わりかけ。ひぐらしすら眠りについた夜の二十五時。大空はこの店の新メニューである生チョコタルトの 試食に頬を落としそうになっていた。

「お酒が効いてて美味しいですね」

「オイラにもくれっ」

あんな事件があったにも関わらず、終わってみれば本当は全て悪い夢だったではないかと錯覚してしまう。現に今も前と変わらずゆっくりとした時間を過ごしていた。前と違うところを挙げればやはりここに大樹がいないところだろう。

つまんないな…。

大空は小さく息をついて口の横についたココアパウダーを拭った。店にいればいつもいたはずの大樹がいないことにだんだんと慣れてきた。

現にこうして今も律と小太郎とマスターで談笑している。

二口目のタルトを口に運びながら人の気配を感じて店のドアに目をやる。

 「つっかれたぁぁ!」

するとその感覚は間違いではなかったようで勢いよく開くドアが開いた。そして倒れるように店に入ってきたのは律と同じ喪服に身を包んだ大樹だった。

「ってズル!何優雅にティータイムしてんだよ!」

不貞腐れた表情のまま椅子に腰を下ろす。

「ティータイムじゃなくて試食ですー」

大空の言葉に「一緒だろ!」とツッコミを入れる。

「お前、その格好のまま仕事してたんじゃないだろうな」

律は大樹の第一ボタンが開けられている大樹をジロリとみた。

「まっ…まさかぁ…まさかそんなわけないだろ?」

大樹はへへっと笑いながら誤魔化すようにボタンを閉める。

「はい、お疲れ様」

マスターがお盆に乗せたタルトと紅茶を大樹の前に置く。それを見ると顔を輝かせて嬉しそうに口に運んだ。

「そういえば俺さ、上で親父にあってさぁオムライス作ったんだよ」

「へぇ、黄泉の國って普通に料理作れるんだ」

「そうそう、そしてらめっちゃ焦げたんだけど親父はこれだこれだって泣きながら食ってんの。俺もうどういう表情したらいいかわかんなくてさぁ」

「シュールね…」

「まあ、それでいいって言ってんなら良いんじゃないか?」

「笑っとけばなんとかなるぜ」

「なるかなぁ」

苦笑いを浮かべる大樹は前と何も変わらなかった。

 あの時病院で見た大樹は確かに悪霊になっていた。いや正確には悪霊になりかけていただけで完全ではなかった。とは言っても、もしあそこで何かしらの手違いでも起こり時間をとられていたのであれば恐らく大樹は今ここにはいないだろう。あの男を悪霊の力で襲った後、律は大樹を悪霊のまま対処せずその状態のまま黄泉の國まで連れて行ったのだ。もちろんそのせいで上は大騒ぎ。後処理が大変だったと律から聞いた。

もちろん大樹をこれからどうするかは長い間議論になったらしい。しかし大樹がまだ完全に悪霊になっていなかったこと、人助けのために自ら悪霊化を進めたこと、男を殺さなかったこと、悪意がなかったことが考慮され天国行きかとも話が出たのだが大樹自身がそれを断り律と同じ死神として働くと志願したのだ。

そして奇跡的にか、それとも意図的なのか仕事の担当がこの街になったのだ。随分前に別の死神の仕事不足で悪霊に襲われそうになったことがあるが、大樹はその死神の代わりらしい。毎日結構大変そうだ。

 「そういえば明日ママ来るってさ」

「マジ?」

大樹の顔がぱっと明るくなる。明らかに先ほどよりテンションが上がっている大樹を見て大空もふっと笑う。

もしかしたら記憶も戻ったことだし母にも大樹の姿が見えるようになったのではないかと思い少し前に二人を合わせた。しかしそんな都合よくいくわけもなく、母に大樹の姿が見えることはなかった。

その時に大空が冗談半分で「私パパと話せるって言ったら信じる?」と言ったところ母は疑う素振りは見せなかった。

それから母はたまに店にやってきては大樹と会話を楽しんでいる。と言ってももちろん間に大空がいないと会話は成り立たないため周りから見たら仲のいい親子が話しているだけに見えるのだろう。

しかし何故こんなにもすぐに受け入れることができたのか、普通そう簡単に信じれるものではないだろうと思い一度母に聞いてみたことがある。

「いやぁね。疑うっていうか、やっぱりあの時怪我して頭おかしくなっちゃんだわって思ったわよ。でもね試しに話してみたら絶対知らないようなこと大空が言うんだもの。それも偶然じゃ済まされないくらいにね。ママはお化けとか信じないタイプだけど楽しいからいっかって感じよ」

そんな言葉が返ってきた。頭がおかしくなったとは心外だが理由が母らしくて少し笑ってしまった。


「やっぱまだ大樹はママのこと好きなの?」

最後の一口を頬張りながらふと大樹に尋ねてみる。

「あったりまえだろ?」

何言ってんだと言いたげな表情をこちらに見せてくる。

「じゃあママがもし再婚するって言ったらダメっていうの?」

「…いや、それはないよ。俺に口出せる問題じゃねえし」

少し考えてからそう答えると大樹は紅茶を口に運ぶ。意外と大人な考え方ができるのかと感心しながら大空もティーカップに口をつける。

「……え、一応聞くけど、そうなりそうな奴いるの?」

「これはダメそうだな」

「ああ、って言ってる時点で終わりだぜ」

二人の的確なツッコミに口に含んだ紅茶を吹き出しそうになってしまい慌てて手で抑える。

「べ、別にそう言った意味じゃねぇけどさぁ…!」

「はいはい、そんな慌てなくても大丈夫だって、そんな人いないから」

明らかに狼狽える大樹を雑に宥める。

その時お店のドアが開かれる音がした。

「す、すみません。ここで思い出の料理が食べられると聞いたんですけど…」


 喫茶オランジェ。

路地裏にあるこの店には一つの不思議が存在する。


それは、二十五時を過ぎるとこの世のものではない何かが導かれてこの店にやってくるというものである。

この店のマスターはそんな彼女彼らに一品だけ食事を提供する。

生前食べた一番思い出深い料理だ。

一体どんな方法で、なぜそんなことができるのかそれはマスター以外は知り得ない。知ろうとしてもいけない。


これは、そんな少しほんの少しだけ不思議な喫茶店で起こる

ほんの少しだけ不思議な物語。


                          完

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二十五時からの喫茶店  花 @aszukimoakaoisii

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