四食目.鶏肉とトマトのスープ    

 やらかした。あんな感情的になることなんてもう何年もなかったのに。

黄泉の國に帰ってきてからと言うもの先ほどのことを思い出してパソコンの前で何度もため息をつく。

「どうしたの律?元気ないねぇ」

右隣に座っていた結城ゆうきがいつものゆったりとした声でそう話しかけてきた。幼顔にボブカットで舐められそうな見た目、と言っては失礼だろうか。

「いや、別に…」

「オランジェに行って来たんじゃないのか?お前あそこ行った後はいっつも楽しそうだったろ?」

今度は左隣に座っている誠が話しかけてくる。

筋肉質で短髪、歳はたしか3人の中では1番上だと言っていた気がする。

この二人も律と同じく喪服に身を包んでいる。二人は他の死神とは違い、こちらに対して気兼ねなく話しかけて来る悪く言えば変人、良く言って珍しい者だった。

「…そろそろ休憩だし、なんか飲もうぜ」

「そうだね、私レモネード飲みたいなぁ」

二人は律の方をポンと叩くと外へ出るよう促した。正直今は一人にして欲しかったが二人の優しさを無碍にはできず律は二人の数歩後ろをついていく。


 「レモネード一つとココア一つと、律はどうする?」

死神専用の食堂で施設で三人は売店の店員に注文する。もちろんこの店員も死神だ。喪服の上から身につけられたエプロンのミスマッチさはいつ見ても滑稽だ。

「俺は、いい」

「そうか?じゃあその二つで」

「はいよ」

 三人は空いている席に腰を下ろすと各々注文したの一物を口に運ぶ。

「はーおいしぃ」

「やっぱうめえな」

美味しそうに飲む二人を律はただ眺める。

「うわ、あそこに座ってるの例の死神じゃない?」

「え、やば本当だ。って名前だっけ?こわー」

ふと少し後ろの方でこちらを噂する声がこそこそと聞こえた。律は黙っていたが

結城と誠は雑談する声のややボリュームを上げて会話を続けた。

「あー、俺行くわ」

律がそう言って席を立とうとしたが二人は同時にそれを止めた。

「何するんだよ…」

律の言葉には返事をせず二人は変わらず会話を続けていた。しばらくすると先ほど噂をしていた二人は耳談合をやめぬまま中庭の方へ移動していった。

「……悪い」

「なんで律が謝るんだよ。気にするこたぁねえって。それにしてもなんつうか、久々だなああいうの」

「新人さんなんでしょぉ。それにしてもこんな死神になってまであんな性格のままなんて、終わってるよねぇ」

「結城ってば言うなぁー」

結城は誠に方を突かれ「ふふふっ」と肩をすくめて笑った。

「…いや、でも仕方ないんだ」

律がそう諦めの言葉を口にするのも無理はなかった。

本来死神は軽い犯罪、例えば万引き、例えば差別、他にもたくさんあるがつまりは罪を犯したものがその罪を償うための役職だ。現世でいう懲役を決められその期間を全うするまで働かされる。

その職の内容は地味なものから死神らしいものまで様々だった。職が振り分けられる条件は一つ、罪の重さだ。軽ければより楽で簡単に、重ければキツく大変になる。律達はその中でもやや上の役職だった。

仕事内容は主に、黄泉の國に来た者たちにこの世界についての説明、個人データの入力。それから亡者にこれから先のことについての説明だった。簡単そうに見えるが意外とそうでもない。普段でも亡者が多く存在しているのにどこかで大きな事故や事件、テロなどがあった日には何週間も休みが取れない。

 そんな軽犯罪の者たちが集まる死神の中で唯一、律の犯した罪は

だった。

本来であれば殺人は重犯罪、問答無用で地獄行きなのだが律は例外だった。そのおかげで律は悪い意味で一目を置かれる存在となっている。


 「仕方ないってさぁ。…ま、お前が良いんなら俺はいいけどさ…」

誠は煮え切らない様子だったかそれ以上しつこく言ってくる事はなかった。

「…そろそろ休憩終わりだねぇ。次の仕事はなんの仕事だっけ?」

「あー、黄泉の國案内じゃなかったか?そろそろ行かねえとな!ほら二人とも行くぞ」

「はぁい」

「……」

いつにまして何も喋らない律を二人は心配そうな顔で見守るが律はずっと下を向いたままだった。

 「あ、帰ってきた。おーい誠!」

戻ってくるや否や別の死神が隣にいる誠の名を呼んだ。

「ん?俺?」

誠は自分のことを指差して首を傾げる。すると一人の少女がこちらに向かって走ってきた。だんだんと近づいてくる少女にようやく合点が入ったのか「おお!」と右手を大きくあげた。この少女には律も見覚えがあった。確か名前は…

「リリちゃん、だっけぇ。お名前」

結城が思い出すかのように呟く。そうだ確かそんな名前だった。柏木りり、それが彼女の名前だ。

 確かこの子はまだ中学生かそこらだったような気がする。誠は一人だった彼女をよく気にかけて話しかけていたのを何度も見かけた。やはり知らない場所で、それも自分が死んだというにわかには信じがたいことが起こり、不安だったのだろう。リリはあっという間に誠に懐いた。

 「どうしたんだよわざわざこんな所まで来て」

誠は大柄な体格を屈んでリリと視線を合わす。

「私ね!輪廻の時期が決まったの」

そう言うと顔の前に大きくVサインを作る。

「おおお!そうか!決まったのか!よかった、よかったなあ!」

誠は祝福なのか、それとも寂しさなのか、目尻に少し涙を浮かべていた。

「あはっちょっと泣かないでよ!」

リリはケラケラと笑って誠の二の腕を何度か叩く。

「……でも、私ちょっと不安なんだよね」

まだ若干笑みを顔に残したまま柏木は誠のスーツの袖を小さくつかむ。

「なんでだよ、ようやく生まれ変われるんだぞ?」

柏木は少し黙って先ほどより少し強めに裾を掴んだ。

「だ、だって、生まれ変わっても……また前みたいなことが起こったら」

「大丈夫だ!」

誠はリリの言葉をかき消すほどの声量で言い切った。

「起こるわけがない。確かに前世では辛かったし怖かったと思う。だけど、だからこそ来世で同じようなことが起こるわけない。だから安心していいんだ」

誠はリリの両肩をそっと掴むと「今度はちゃんと最後まで幸せでいいんだ」

そう力強く伝える。その言葉に安心したのかリリは目から涙をこぼし始めた。

これ以上ここにいるのも邪魔になるかと思い2人で先に仕事に戻ることにした。


 「ここでは輪廻の番が来るまで過ごしてもらいます。電車やバス等の交通機関に加え、店での食事や遊戯は全て無償です。こちら、あなたがこれから住む家の住所になりますので忘れないようにお願いいたします。それともう一つ。しばらくするとこちらの方から書類をお送りするので必ず確認するようにお願いします」

律は台本通りの説明を淡々とこなしてく。その仕事ぶりは正確でありそれも相まってまるでロボットのようだった。

「ったくいつまで待たせんだよ!さっさとしろよ!」

二、三人後ろで不満を垂れている老人が他の死人を押しのけて律の目の前までやってきた。

「おら!さっさとしろよ!」

老人は持っていた杖で急かすように床をドンドンと叩く。視界の端に不安そうな表情をした二人が見えた。律は老人を無視して先ほどの衝撃で倒れてしまった女性に声をかける。

「大丈夫ですか?」

「え、ええ」

女は尻餅はついたものの、どこも痛むところはないようだ。律は女性の肘下あたりを掴むとそのまま起こした。

「すみません。ありがとうございます」

むしろ謝らなければいけないのは自分の方だ。「こちらの方こそ申し訳ありません」そう言おうといたがそれは先程の老人によって拒まれた。

「さっさとしろっつうのが聞こえねえのか!このボケ!辛気臭えツラばっか見せやがってよお!」

そう言うと律の胸ぐらをぐっと掴む。年齢の割に意外と体格がいい。律は思わず少し後ろによろめいた。その拍子で後ろにあった壁に背中をぶつけてしまい軽く咳き込む。

「はあ…」

律は謝罪をするのも段々と面倒になり、適当に相槌打っていると「落ち着いてください」と誠が間を割って入ってきた。

「うるせえよお前にゃ関係ねえだろ!」

「すみませんが順番は順番なので、お戻りください」

律が再度そう声をかけるとその冷静な態度が気に入らなかったのか老人はさらに声を張り上げる。おそらく引くに引けなくなってきているのだろう。先ほどから何度も何度も同じ言葉を繰り返している。途中で面倒くさくなり何も口を開かなくなった律とは違い、誠は丁寧に対応している。

隣では結城が担当の亡者の対応をしながらも心配そうに何度もこちらの様子を確認していた。

「あの、私後でも大丈夫なので…」

先ほどの女性が蚊の鳴くような声でそう言った。

「こう言ってんだ!早くしろ!」

順番を譲ってもらったにもかかわらず老人はあまりにも大暴な態度だった。

「申し訳ありません。ありがとうございます」

律は女性に頭を下げてから老人の対応を始めた。


 それからどのくらいが経ったか、少し人の波が切れたところで結城がこそっとこちらの方にやってきて「さっきは大変だったねぇ」と言って困ったような笑みを見せる。

「ああ、全くだな」

律はため息をつくと長めの前髪をさっと首を振ってはらった。ここでの行動も全てこちら《死神》が管理している。少し話を盛って先ほどの老人の行動を上に報告することにした。恐らく本来の職務期間より伸ばされるだろう。細やかな嫌がらせの一つだ。

「……あの、さぁ」

少しの間のおずおずと結城はこちらを見る。

「何?」

律は体を正面に向けたまま目だけ横にやった。

「やっぱり、何かあったのぉ?さっきからずっと何か考え事してるでしょぅ?」

「……別に」

その言葉に納得できなかったのか結城はこちらのスーツの裾を引っ張る。

「そんなわけないよぉ。だって…」

「なんでもないって言ってるだろ」

律はあくまで冷静に腕を振り払ってそういった。しかし冷静にものを言っても表情には出ていたのだろう。結城はハッとして「そ、そうだよねぇ。ごめんねぇ、忘れて?」と泣きそうな表情になりながらもとの場所へと駆け足で戻っていった。律はしまったと思ったが追いかけて謝罪する元気はなかった。律は再び大きなため息をついてから自らの手で眉間に寄った皺を伸ばす。

やっぱり俺もガキか。あの時から全く……。

「まーた女の子傷つけてんの?」

突然目の前から声がして律は下げていた頭を勢いよくあげる。

「よっ、おひさー。ちょっと顔色悪くなった?なぁんて」

そこには両手を上着のポケットに突っ込んだままこちらを見ている美穂がいた。

「あ…!おま、え……」

期待通りの反応が嬉しかったのか口を横ににーっと開いてみせる。

「まさかこーんなすぐに会えるとはねー」

「……もう二週間経ったのか」

黄泉の國では時間経過が現世とは違うため、最後に会ってから一体どのくらい経ったのかよく分からなかった。

「んや?一週間もしてないくらいかな。特に行きたい場所も多くなかったしねー」

以前より随分と落ち着いているようだ。どちらかというと前回会った時は動揺を悟られぬよう強がっていたのかもしれない。とはいえ人を小馬鹿にするところは残念ながら変わらなかったようだ。

「ねえねえ、あんたはアタシの父さんがどこにいるかは知らないの?」

「さあな、知らないし、知っていても教えられない。個人情報だ」

「お硬!ちょっとくらい良いじゃん!けち」

美穂は不満げに口を尖らせる。

「うるさい。知らないって言っているだろうが」

「知ってたら教えてくれんの?」

「……。話聞いてなかったのか」

美穂と話ているとどうも疲れる。律はため息をついた。

「あはっ冗談じゃん。ちゃんと聞いてたってば」

そう言って手を顔の前で前後に振りながら楽しそうに笑う。

「…お前と話してると頭が痛くなってくる。そろそろ黙って説明を聞いてくれ」

「えーやば。それ普通に体調不良じゃね?顔色えぐいよ。死んでる見たーい。あ、もう死んでるのか!あっはは」

「………はぁ。いい加減にしろ。説明を聞く気がないなら一生ここにいろ」

律は声のトーンを落として睨む。

「んもー分かったわかった。ちゃんと聞くってば」

ようやく静かになった美穂に律はようやく説明をすることができた。

 「もうこれで説明は終わりだ。早くいけよ」

律は追い払うように美穂の背中を軽く押す。

「もう、そんな急かさなくったってちゃんと行きますよーだ」

そういうと扉の方へ駆け足で向かう。そして一度振り返ってから「じゃあまったねー!」と大きく手を振った。

ちょうどその時業務終了のベルがなった。


 「今日も疲れたなー。それにしてもほんっとにブラックだよな!俺たちの仕事ってよ」

「他の仕事に比べて休みも少ないしねぇ。まあ当たり前かもだけど」

「……」

「まあな!こんな日にはあっつい風呂だよな!」

「私はこの間買っておいたケーキでも食べようかなぁ」

「……」

「おいおいこんな時間に食ったら太っちまうぞ」

「別にいいもん。美味しいもの食べる方が大事だしぃ」

「……」

誠と結城、二人の会話を聞きながらずっと聞きたかったことを律はようやく口に出す。

「なんでお前ら、俺ん家にいるんだよ」

部屋の中心に置かれている小さい机を囲むように座る二人は、あろうことかポカンとした表情を見せる。

まるで当たり前だとでも言いたいようだった。

「なんだよその顔。ここ、俺の家。お前ら家あるだろ?。そっち帰れよ…!」

「だって遠いんだもん」

「だもーん」

「5階と7階じゃないか!すぐそこだろうが」

 死神も他の死人と同じように家がそれぞれ決められている。少し違うところを挙げるとすれば亡者は一軒家もしくはマンションなのに対し、死神は何棟もあるアパートにそれそれ振り分けられる。もちろんそれも役職、つまり罪の重さ別によって変わる。言わずもがな律達のアパートは1LDKではあるものの狭い部屋だ。

「まあまあそうカリカリすんなって。四階の律の部屋が一番近いんだし。ほらこれ見ろよ!」

そう言って誠は机の上にエコバックを乗せる。中には野菜や肉が大量に入っていた。

「今日は鍋パだぜ!」

「わぁーい!」

「……」

なぜ自分の周りにはこんなにも話の通じない者が多いのか、律は頭を悩ませる。が、答えは出なかった。

「俺の家、鍋ないんだけど」

せめてもの抵抗で律はそういうが「あ、私持ってるから取ってくるよぉ」と結城が席を立つ。

ならそのまま帰ってくれよ。そう思ったがもう口には出さなかった。きっと言っても聞かないのだから口を開く労力すらもったいない。

「お、じゃあ俺も部屋から酒持ってこよっかな」

誠もそれにつられるように立ち上がった。

「じゃ、俺たち一回物取ってくっから準備して待っててくんね?」

「よろしくねぇ」

二人はこちらの返答を聞くまもなくあっという間に各々部屋に戻っていった。

「…なんなんだよ」

いきなり一人になった部屋で律は呟くが、勿論それに反応するものはいない。

律は仰向けに寝転がる。真上についているやけに照明が眩しくてそのまま目を瞑った。


 どこだろ、ここ。

気がつくと律は暗闇を一人歩いていた。手も足も小さい。その姿はまるで子供だ。しかしその姿に違和感を覚えることは不思議となかった。

「誰か居ないの?」

まるで洞窟の中にいるように声が反響した。不安を覚えあたりを見渡すが誰もいない。

「ねー!」

今度はさらに大きな声をあげるが誰も居ない。不安になりその場でうずくまって顔を伏せる。

「ほら律どこにいってたのよ。こっちよ」

聞き覚えのある声に律は顔を上げる。

「お母さん!」

そこにはエプロン姿の母がこちらに手を伸ばしていた。律はそれを強く握って立ち上がる。

「お母さん手が冷たいよ。寒いの?僕があっためてあげるね!」

律はそういうと母の腕に抱きついた。母はこちらに受かって微笑むとそのまま歩き出す。どこに向かっているのか分からないが母と一緒ということもあり不安はなかった。ふと遠くの方に小さな灯が見えた。その光はどんどん大きくなり、律は眩しくて思わず目を瞑った。

 「何してるの?もう晩御飯できてるわよ」

目を開けるとそこはリビングだった。所々散らかっており、壁には自分が書いたであろう絵が貼ってある。父と母と律の二人が手を繋いでいるものだ。父は律が中学生の時にトラックの事故に巻き込まれて命を落としている。それからはずっと母と二人で暮らしていた。

「うん!」

律は急いで母の横に行き手を洗う。

「ねえお母さん。今日の晩御飯何?」

「んー?今日はね、律の好きな□□□よ!どう?嬉しいでしょう?」

「え?なあに?聞こえなかったよ。もう一回…」

「もうよそったから早く食べちゃいなさい?冷めちゃうわよ」

母が器を机の上に置く。それは確かにあった。器からは湯気が出ており重さもある。しかしそれが何なのかよく見えなかった。律は首を傾げつつ置かれたスプーンを使ってを口に運ぶ。

「どう美味しい?」

「……これ、味がしないよ?」

確かに口に入った感覚も飲み込んで喉を流れていく感覚もあった。しかし味がわからない。律はもう一口食べてみるがやはり先ほどと同じだった。

「ねえ、お母さん」

律はそう言って目の前に座る母を見た。すると母の顔は先ほどとはまるで別人のように変わっていた。シワが増え白毛が増えた髪は全く手入れされていないかのようにボサボサだ。それに加え目はうつろでどこか遠くを見ている。

「ひっ…」

律はその変わりように恐怖し持っていた器を落とした。

「お、おか、お母さ…ん…」

名を読んでも母と思われる人物はまるで反応をしない。

 「ただいま…」

ガチャリと何かが開く音と同時に一人の男が入ってくる。その男はまるで生気がなくよれたスーツに身を包んでいた。男の顔も先ほどの料理と同じように、そこに居ることは分かるが頭で認識できなかった。

「母さん、勝手に火使わないでって何回も言ったろ。紙にも書いてある。なんで分かんないの。いい加減にしてくれよ。それで何回火事になりかけたことか」

男はこちらのことが見えていないのか眉間に皺を寄せ言葉をはいている。男は顔だけでなく言葉にも生気がなかった。律はそれが怖くて急いで部屋の隅に身を寄せた。

「今日は何食べたの」

質問にも独り言にも聞こえるような淡々としたトーンで男は言うと手に下げていた袋からレトルト商品を出して鍋に火をかけた。

「あ、あんた誰ね!ここで何しとるん!」

すると母は突然そんな声をあげると立ち上がって机に置いてあったリモコンを手に取り男に投げつける。

男は咄嗟に手で防いだため顔には当たらなかった。しかし手には当たったようで痛みからか少し顔を歪めた。

「まさかあんた強盗?!うちにお金なんてないんだから早く出ていって!」

母は手当たり次第男に物を投げつける。男はそれを手で防ぎつつ母の方に近づいた。

「母さん。俺だよ。俺は母さんの息子だよ」

そう諭すように言って母の肩に手を添えた。すると母はその手を振り払うと甲高い叫び声を上げた。

「うちに息子なんていない」「触るな」「警察を呼べ」

かろうじて聞き取れたのはこのくらいだった。

律は耳を塞いだ。しかし声は鮮明に聞こえてきた。今度は目を瞑ったがそれでも目の前の光景は消えることは無かった。

すると叫び声に混じって扉を激しく叩く音が聞こえ始めた。男はため息をつくと玄関の方へ向かう。男が玄関を開けた瞬間怒鳴り声が部屋の中に響いた。

「おいうるせえぞ毎晩毎晩!何時だと思ってんだ!」

ドアの前に立つ中年男は顔を真っ赤にして怒鳴っている。

「す、すみま…」

「母親だか何だか知らねえけど!自分で管理できねんならさっさと施設にでも入れろ!迷惑なんだよ!!こっちの身にもなれってんだ!」

「すみません…。静かにさせますので、すみません」

男は力なく呟く。

「ったく!その言葉もう聞き飽きた!陰気なツラしやがって!気持ち悪い。迷惑なんだ!さっさと死んじまえ!」

中年男はそういうとドアを乱暴に閉めた。

「ねえご飯はまだ?もう私お腹すいちゃった」

母は先ほどの様子とはまた変わり、困った様子で声をかけた。

「……もう、食べたんだろ?デイサービスの人から聞いたんだから」

男は呟くと台所の方へ戻ってきた。

「あ、」

小さく声をあげる。見ると男の視線の先には吹きこぼれた鍋があった。コンロだけでなく床も濡れている。

男は無言で火を止めると壁にもたれかかるようにしてその場にズルズルと座り込む。

「…もう無理だよ」

そんなか細い声とともに鼻を啜る音が聞こえた。

今まで恐ろしくて黙ってみていることしかできなかった律だったが、男の背中があまりにも悲しそうに見えて思わず声をかけた。

「お、お兄ちゃん。大丈夫?」

久々に口を開いたせいかうまく声にならなかったが男には聞こえたようだ。男はこちらを見るとふらりと立ち上がる。

「はは…何だよお前、またそんなふうに隠れて見てんのか。逃げてんじゃねえよ。全部今の俺のせいか?お前は何も悪くないってのかよ。俺だけが悪いのかよ。なあ答えてくれよ。どうすれば良かった?何をすればこんなことにならなかったのか、教えてくれよ。俺もう何も考えたくないんだよ。疲れた」

男は真っ黒な瞳を涙で濡らしながらつらつらと言葉を並べる。

「ど、どういう…こんなって…?」

律は震える声を絞って男に尋ねる。すると男はいきなり大きな声で笑った。

「はは!なんだよ覚えてねえってのか?自分がやったのに!お前がやったのに!」

男はそれだけいうと体の向きを変えて母に近づく。そしてそのまま首に手をかけてた。母は苦しそうな声をあげる。

「や、やめ、て」

それは男にも聞こえているのだろうが力を緩める素振りは一切見せなかった。

「待って!何するの?!待って待ってよやめてよ!お母さんにひどいことしないでよ!」

律は必死に男の腕を掴んで止めようとするがビクともしなかった。

「たす、け」

母の顔色はどんどん悪くなり声も掠れて聞こえなくなってきた。

「待ってよ!ヤダヤダヤダ!」

律は必死に止めようとしたが無駄だった。

「都合いいよなお前は。自分のやったこと、すっかり忘れた気になって思う出そうともしないんだから」

そしてついに母は動かなくなった。男は肩で息を切りながらこちらを見る。

「忘れてんなよ。やったのはお前で、俺なんだから」

そこでようやく男の顔が鮮明に見えた。



 「……っ!」

律は息を飲むのと同時に目を覚ました。

「おい、大丈夫か?」

そう言って誠に肩を軽く揺すられたところでようやく意識がはっきりしてきた。「あ…」

「うなされてたから、起こしちゃったけど、良かったぁ?」

律はひとまず起きあがろうと体を起こす。ふと頬に違和感を覚え触れてみると濡れていた。どうやら泣いていたようだ。

「…もっと早く起こせよ」

不本意にも泣いているところを二人に見られてしまい恥ずかしさを誤魔化すために律は小さな声で不満をこぼす。しかしそんなところも二人にはバレバレだったようで「はいはい」と軽く流されてしまった。

「ちょうど鍋できたし、食おうぜ!」

「ああ…」

二人はもちろん律の過去を知らない。一度も話していないからだ。しかし聞いてきた事は一度もなかった。

 「そういえば最近オランジェに行ってないんじゃないのぉ?」

思い出したかのように白菜を口いっぱいに頬張りながら結城がそう尋ねてくる。

「…なんか、気まずくてな」

「まあ明らかになんかあったって顔して戻ってきたしなー」

「……」

律はしばらく考えた後に箸を置いた。

「……。……お、俺さ」

そこまでいって律は言葉を詰まらせる。喉の奥に何かがあるようでうまく声が出せなかった。何がそんなに怖いのか自分でもよくわからなかったが段々と手が震え始めた。すると二人は何も言わず一度だけ背中を叩いてから何も変わらない様子で鍋を食べ進める。無言だったが、好きな時に話していいと言われているようで少し気が楽になった気がした。

「……俺、母親を……こ、殺したんだ」

先ほど夢で見た母親の苦しむ光景が頭に浮かんで律は思わず目をぎゅっと瞑る。そして大きく深呼吸を繰り返す。

「女で一つで育ててくれて。でも、俺が二十三になったくらいに、認知症になって。初めはまだ軽かったんだけどだんだんひどくなって、でも、施設は高くて入れられなかった。俺もまだ二十代だし、働けてたから、生活保護なんか受けれなくて、頼れる親戚もいないし…。毎日死にたかった。無理だったんだよもう。限界だった。だから、母さんを殺して自分も死んだ。だって、これから生きてたってきっと辛いだけだし、こうするしか…。いや、でも俺がもっといいところの就職できて、金いっぱい稼げてたらあんな…。」

律は下を向いて静かに涙を流した。もう拭う気力もなかった。

「それでさあ、俺がさっき話してた女の子が店に来たんだよ。あいつは親に迷惑かけて生きてた。自分を見てるみたいですっげえムカついてさ、それでも父親に会いたいから探すって言ってたんだ。前を向けてるあいつが羨ましかった。恨まれてるかもしれないのに、それでもいいから会うって」

律はそこまでいうと口を閉じた。

「律も探して会ってみればいいじゃねえか」

誠はあまりにも軽々しくそんなことを口にした。

「……で、できるわけないだろそんなこと。話聞けよ…」

「聞いてたさ、聞いた上でそう言ってるんだ」

誠は一度口の中のものを飲み込んでから再び口を開く。

「深く考えすぎ、自分が死神になった意味をよく考えてみろよ。普通人を殺したら地獄行きだろ?でもお前はそうはならなかった」

「…そんなの、気まぐれだろ」

「はあー?!気まぐれでそんな事なったら溜まったもんじゃねえよ。ほら、恩赦じゃねえけどさ、お前の袋さんも、上の奴らもそう思ったから地獄に行かずに死神でとどまってんだろ。感謝しろよ」

誠はやれやれと言ったジェスチャーをして見せる。

「…誰に感謝したらいいんだよ。俺は別に死神を望んだわけじゃない…!俺は、地獄に行きたかったんだ。地獄に行くべきなんだよ!それを上の奴らが勝手に同情して死神なんかにしやがった!俺はこんなこと望んでない…。母さんだって俺を恨んでるに決まって…」

言葉を最後まで言う前に律は言葉を止めた。突然冷たいものが頭からかかってきたからだ。視線を横にずらすとそこには顔を赤らめてこちらに空のグラスを向ける結城がいた。初めは水をかけられたのだと思ったが匂いからしてどうも違うらしい。明らかにアルコール臭がするのだ。

「めんどくさい!!」

結城はグラスを勢いよく机に叩き置くと若干焦点の定まらない目でこちらをきっと睨む。がもともとタヌキのような垂れ目のため怖いと感じることは微塵もなかった。

「げっお前これ全部一人で飲んだのかよ?!」

誠が床に倒れていたであろう酒の瓶を持ち上げる。四合瓶ほどの大きさのそれには全く中身が入ってなかった。

「俺これ、未開封持ってきたんだぜ…?」

誠がボソリとつぶやく。

「…全部一人で飲んだってことかよ」

律は思わず声に出した。

「俺一杯しか飲んでねえし、多分そうだと思う」

二人で話している間に飲んだのだろうか。通りで顔が赤いわけだ。

「おい、こらきけ!くそがきがぁ!」

結城はこちらの胸ぐらを大して強くない力で掴む。

「さっきから聞いていれば何を言っても否定的なことしか言わない!全部自分の悪いように捉えてるだ!本当はどうだったかなんて知ろうとしないで全部勝手に決めつけて!結局お前は何をどうしたいんだ!過去の話を聞いてもらって悲劇のヒロインになりたいだけか!」

そういうと結城は律の頭をベシッと叩いた。

「痛っ」

律は反射的にそう声を上げたが、それでも「ばか、ばか」と言いながら何度も叩いてきた。

「もうほら、飲み過ぎだって!いい加減やめてやれよ。ほんとに馬鹿になるだろうが!」

誠は結城を後ろから羽交い締めをする。初めこそジタバタと暴れていたがしばらくすると急に糸が切れたように寝息を立て始めた。

誠は深くため息をつくとそのまま床に下ろして近くにあったタオルケットを雑にかけた。

「こいつって意外と酒癖悪いのな。律、頭大丈夫か?」

きっと先ほど結城に叩かれたところを心配しての言葉だったのだろう。

「その聞き方だと、俺の頭がおかしいみたいじゃないか」

律はうまく笑えているか分からないが少し口角を上げた。その様子を見た誠はふっと柔らかい表情を一度見せてから豪快に笑った。

「ハハッそれもそうだな!悪い悪い!お、そういえばシメがまだだったな。雑炊でいいだろ?シメと言えばだよな!ちょっと作るから待ってろ!台所借りるな」

誠はこちらの返事を一つも聞くことなく鍋を持って台所へ向かう。そしてわざわざ鍋に残った野菜を全て掬い包丁で刻み始めた。

意外と丁寧だよな…。そんなことを思いながら時計と包丁の音だけが聞こえる部屋で律は先ほどの結城の言葉を思い出した。

「なにを、どうしたいか…」

そんな事今までを思い返してみれば考えたことなど1度もなかったかもしれない。ただ毎日漠然とした後悔だけを抱えて生きてきた。

どうしたい、どうしたい?俺は一体どうしたいんだ。まさか、結城の言っていたみたいな悲劇のヒロインになりたかっただけなのか?…まさか。そんなわけは無い、はずだ。

「……。」

律は深くため息をつく。思考が全くまとまらない。考えれば考えるほどだんだんと頭痛がし始める。律はこめかみをグッと強い力で押す。荒治療だが頭痛にはこれが一番いい。

律は何度かゆっくりとした呼吸を繰り返す。

「平気か?」

いつの間にか台所から誠が戻ってきていた。濡れた手を服の裾で拭きながら近くに胡座をかく。

「あと15分くらい煮込めば完成だ」

誠はこちらを気遣ってか、いつものよく通る声を押え静かな声だった。

律はとりあえず頷く。

「…自分の考えをはっきりさせたいって思うか?」

唐突に呟かれた言葉の意味がよく理解できず律は「え?」と聞き返す。

「1人で悩んでたって対話相手も自分なんだから、まとまる考えもまとまんねえってもんだ。無理にとは言わねえけどな。シメができるまでの暇つぶしだ」

「……。……迷惑に、ならないなら」

「なるんならこんな提案なんかしねえっての」

そう言うと誠はこちらに向き直す。

「じゃあそうだな…まずお袋さんは好きか?」

最初から随分と酷な質問をするものだ。

昔は確かに好きだった。自分が産まれる前に離婚して女手一つで育ててくれた母はかっこよくて自慢だった。でも、いつからかそうは思えなくなっていた。

「……わからない」

律は振り絞った声で短く答える。心做しか頭痛が酷くなってきたような気がする。やはりやめとけば良かった。そう思ってしまった。

「じゃあ質問をかえようか。お袋さんは嫌いか?」

「…意味、変わってない」

「深く考えなくていいさ」

「……嫌いでは、ない」

曖昧な答えだということは自分もわかっていたが、それ以上の答えが出ないこともそれと同時にわかった。

「うん、そんな感じでいい。それじゃあ次。会いたいか?母親に」

「会えるわけない」

今までとは反対に誠の言葉に被せるように答える。しかしその答えでは満足しなかったのか誠は首を横に振る。

「答えになってない。会えるかじゃなくて、会いたいかって聞いたんだよ俺は」

「……っこれ以上の答えなんて、ない」

律は再び手でこめかみを強く押さえる。痛みのせいかだんだんと視界が涙でぼやけてくる。

「ある。無いわけない」

別に強い口調というわけでもないのに妙に責められているような気がして律は強く目を瞑る。

「…だからっもう、ないんだよ…!無い、無理、無理なんだってば、もういい。」

目尻の方から涙が滲んでくるのがわかった。逃げるように立ち上がりその場を離れようとするが誠に腕を掴まれてしまう。

「なんで無理なんだよ」

「だから、あんなことしておいてっ今更、どんな顔して会えばいい!俺には会う資格なんかない!会いたくても、会えるわけないだろうが!」

必死に言葉をつくって話す律とは逆に誠はずっと冷静に話をしていた。その様子が余計に律を苛立たせた。

「母親が最後どんなだったか、正確に覚えているか?」

正確に、という部分をやけに強調して誠は加えて質問してきた。嫌な質問の仕方だ。

「し、死になくないって、助けてって…!」

夢で見た母は確かにそう言ってた泣いていた。この目で見たのだから間違いは無いはずだ。

「それは本当に自分で改ざんした記憶じゃなくて、実際の本当の嘘偽りないものなのか?」

その言葉に律は口ごもってしまう。

間違いは無いはず、そう思っていてもあの時の記憶は自分の中で思い出したくないものとしてずっと封印していた。だから夢で見るあの光景が自分の中で正しいものとして認識していたのだ。正確かどうかなんて…。

「わからない、でもそうに決まってる!育てた子供に殺されるんだ!そんなの」

「決め付けで話なんかするもんじゃない、分からないなら確認しに行けばいい」

「そんなの、どうやって…」

そう言いかけて言葉を止める。

「思い出したか?お前はもう少し人を頼ることを覚えた方がいいぞ」

「……」

そこで台所の方からピピピと電子音が聞こえた。律は急な音に一瞬体を強ばらせる。

「…15分経ったな。この話はもう終わりだな。ほら、シメだシメ!鍋と言ったらこれだろう?」

誠は去り際にこちらの頭を一度乱雑に撫でた。


「あーあ、かわいそぉ。あんな尋問みたいなやり方しなくても良かったのにぃ」

「ああでもしないと律は何も言わないだろ」

疲れて寝てしまった律に布団をかけながら2人は晩酌を再開した。

「てか結城はいつから起きてたんだよ。狸寝入りしやがって」

「ふふっ別に最初から寝てないよぉ」

「はぁ?どういうことだよ」

思わず声のボリュームが上がった誠に向かって人差し指を立てる。

「しーっ起きちゃうでしょぉ。そもそも私お酒強いから酔わないし」

「じゃあなんでわざわざ…」

「私真面目なこと言うの苦手なんだよねぇ。緊張しちゃって。だから酔ったフリしたのぉ」

そう言うといたずらっぽい笑みを浮かべる。

「まじかよ…」

「それにさぁ、ほら私死んだ年齢的に、見た目は律より年下でしょぉ?それもあって誠との方が話しやすいんじゃないかなって思ったのぉ」

結城はグラスに入って酒を口に運びながら横目で律の顔を見る。泣いていたせいだろうか、目元がやや赤く腫れている。

「この中じゃ年下なんだし、頼ってくれたっていいのにねぇ」

「まぁ、俺達には無理でもきっと向こうで助けてくれる人がいるだろ」


さてどうしたものか。

律はかれこれ30分ほどオランジェの前をうろついている。過去を見る方法はここしかない、そう意を決してやってきたは良いものの、なかなか1歩が踏み出せない。普段ならこんなことなるはずないのだが、あんなことがあった手前いつも通りというわけにはいかなかった。

今だけは周りから自分の姿が見えないことがありがたかった。とは言っても今の時間はもう二十三時をすぎている。この時間は元々人通りも少ない。

「あれ律!すっごい久々だねー。仕事忙しかったの?」

声が聞こえた方に振り返るとそこには寒さで鼻を赤くした大空が立っていた。

「あ、ああ」

前回のこともあってか律はなんとなく気まずくて、少し俯く。しかしそんな事微塵も感じていないのか笑顔でこちらに駆け寄ってくる。

「店来たんでしょ?入らないの?」

「…ああ」

重々しい手つきで律がドアノブに手をかけ、そのまま回そうとした時

「…ねえ、 あのさ。律ってさ、本当に」

大空が神妙な面持ちで言葉を切り出す。

「……」

まぁそうだよな。律は次の言葉を聞く前にひとりでに納得した。マスター達からきっと聞いたのだろう。二人にはで会った時に話してある。自分が人を殺したと言うことを。やはり来るべきでは無かったのかもしれない。律は手を下ろして踵を返す。

「ちょっとまって…!」

するとそう言って大空は目の前に立ちはだかった。

「なんで帰ろうとするの?」

「いても迷惑だろ」

「なんで?」

大空は首を大きく傾げる。その拍子で首に巻いていたマフラーがはらりと肩から落ちた。

「俺みたいな奴と一緒にいない方がいい」

律の言葉にますます不思議そうな顔をする。そしてマフラーを巻き直しながら

「え、気にしすぎじゃない?そんなことで」

そう言って笑った。その表情にはどうも嘘があるようには思えなかった。

「そんなこと、って。そんなレベルの話じゃないだろ」

律は驚きを通り越して若干呆れていた。大空の思考回路が全く理解できない。こう言うタイプの子だっただろうかとかこの記憶を思い出そうとするが、どちらかというと律の中で大空は真面目と言う印象が強い分尚更良くわからなくなってしまった。

「レベルって、そっちこそそんなレベルの話じゃないでしょ」

もしかしたらアイツ《大樹》の影響でも受けてしまったのだろうか。随分と考え方が馬鹿になっているようだ。

「…その考え方は、改めた方がいいかもしれないな」

大空はこの言葉に驚いたのか目を見開いた。

「え、そんな?たかだかのことで?」

「……え?」

「え?」

律は顔に手を口元にあてがうと大きく息を吸った。

「聞いたのは、年齢…の、ことだけ、か?」

律は肺の中の息を全て吐き出すかのように深い息をつく。

「え、うん」

この様子でこちらが怒っていると勘違いしたのか大空は眉を下げて「ごめん…」と謝罪する。

「ああ、いや怒ってるんじゃないんだ。ただ」

とても馬鹿らしい。考えが馬鹿になったのは自分の方では無いか。

「本当は、やっぱちょっとあの後気になっちゃって、聞いたの律のこと」

大空はやや申し訳なさげな表情を見せた。

「…うん」

あんなことがあって気にならないわけがない。聞きたくなるのも仕方のないことだと律も理解していた。

「それで、小太郎が教えてくれる感じになったんだけど結局教えてくれたのって『もし生きていたら律は大樹よりも年下だ』って事だけだったのよ」

大空は肩をすくめて笑う。

「…そうか」

少し表情を緩めてから律はそう相槌を打った。

「でも、年齢の事は俺も知らなかったな……。」

律は斜め下を見つめながら呟いて薄笑いを浮かべる。初めは聞き流していたがよくよく考えれば妙な話だ。おかしすぎて変な笑いだでてくるほどだ。

「え、そうなの?」

大空は口元に手をやってこちらを見る。

「ああ、うん。でも、俺あんな馬鹿より年下なのか…?本当に?」

いくら考えても信じ難い事実に律は動揺が隠せなくなってきた。

「誰がバカだよ!」

声の主は顔を見なくてもわかった。わかった上で声のする方へ目をやった。

「ずーっと店の前でボソボソ話し声すると思ったらやっぱりお前らかよ。こんな寒い中外で話すとかお前らも馬鹿になんぞ!」

そういうと大樹は顎を上にあげてから鼻で笑った。

「お前らって事は、大樹は自分が馬鹿だって自覚してるってこと?」

大空はやり返すように大袈裟に鼻で笑ってから大樹の間を通りドアをしっかり開けてから店の中へと足を運んだ。

「あっ」

大樹はしまったという表情を見せる。随分な間抜け顔だ。

「やっぱ馬鹿だな」

こちらがボソッと言った言葉も聞き逃さなかったようだ。

「馬鹿じゃねえって!てかお前俺より年下なんだろ?敬語使えけ、い、ご!」

してやったりという表情で腕を組む。なんともまあ表情がコロコロと変わるものだ。大樹の関心できる点で一番に上がるものといえば多分この表情の変化だろう。

「知らないのか?敬語っていう字はな、敬って話すって書いて敬語なんだ。敬ってないやつに話す義務はない」

キッパリと言い放った律が気に食わないのかぐっと歯を食いしばるが、どうやら反論する言葉が出てこないらしく「あー」や「だからぁ」という文章になっていない言葉を並べていた。そして頭を乱雑にかいてから

「てか、いつまでそんなとこで突っ立ってんだよ!さっさと入れ!寒いだろうが」

と全く違うところで文句を垂れた。

「……わかってる」

律は一度その場で深呼吸をしてから足を進めた。その様子を見た大樹が微笑むのが見えた気がした。もしかしたら店に入りやすくしてくれたのだろうか、そうと思ったがそうだとするとなんだか気に食わないので、大樹の横を通り過ぎる際小さな声で「寒い中どーもありがとう」と言ってから小馬鹿にした笑みを見せておいた。

 席に着くといつも通りにマスターが一杯のコーヒーを持ってきてくれる。このコーヒーを飲むといつでもここにきた時のことを鮮明に思い出す。


 死神になって間もなくの頃一度だけ下界に降りたことがあった。何かしたいことがあったと言うわけではないが、許可が出たためなんとなく行ってみたのだ。気分が少しでもリフレッシュできればと言う淡い期待を持っていたのだがむしろ結果はその逆だった。どこを歩いていてもむしろ鮮明に昔の記憶が蘇り辟易していた時だ。

「お前死神のくせに随分死にそうなつらしてんな」

足元からそんな声が聞こえた。

「猫…」

律はその場にしゃがんで目線を近くにした。

「正確には化け猫だぜ。小太郎ってんだ」

「…そうか」

そんな感情のかの字もないこちらの言葉が気に食わなかったのか小太郎は尻尾をパタパタと道路に打ちつけていた。

「お前は?」

「……?」

「なに惚けた顔してんだ。お前の名前を聞いてんだぜ?」

やれやれと呆れた様子で首を横に振った。その様子がやけに人間らしくてやや不気味だったのを覚えている。

「……律」

「ふぅん。なあ律、今暇か?暇だろ。暇だよなぁふらふら歩いてたんだし。ちょっとついてこいよ」

小太郎はそういうとこちらの返事も待たずにさっさと歩き始める。こちらを振り向く様子もない。付いてきてもついて来なくてもどちらでも良いと行った様子だった。

「……」

律は何も言わずにその後をついていった。

しばらくしてついたのが喫茶オランジェだ。

「おや、珍しいお客さんだね。小太郎、君が連れてきたのかい」

中に入るとマスターが迎えてくれた。その時から年齢は測れなかったが、見た目の割に貫禄のある話し方をすると言うのが第一印象だった。

「何飲む?」

律は小太郎に連れられるままカウンターに腰かける。

「いや、俺お金…」

そう断ろうとすると「気にしなくていいよ」と言って微笑んだ。

「でも…」

それでもなお断ろうとする律にマスターは閃いたような素振りを見せた。

「今、オリジナルのブレンドコーヒーを作っているんだ。しかし試飲が私だけじゃどうも感想に偏りが出てしまってね。よかったら飲んでみてくれないかい」

「…はい。すみません」

気を使わせてしまったことが申し訳なく半分無意識で謝罪したらマスターは少し困ったような表情で笑ってみせた。それがさらに申し訳なくて律はそのまま俯く。

「面倒くさいやつだぜお前って」

隣で毛繕い中の小太郎は上目遣いでこちらを見た。

「…悪い」

「ぅにゃぅ」

小太郎は不満げな声で鳴くと律の目の前へと移動し、そのまま足を揃えて座る。

「律の昔話を聞かせてくれよ。最近新しい話が聞けてなくて暇してたんだ。どうせお前暇だろ?」

「なんで始めた会った奴なんかに…」

「いーから話せって。お前にはそれが必要だぜ?」

やけに悟った事を言うのもだと思ったのだが律は反論することができなかった。

「……」

自分の昔話なんて、つまらない話ばかりだ。話したところで何か変わるわけでもない、きっと人殺しだと軽蔑されるだろう。しかし気づいた時には勝手に口から言葉が溺れ出ていた。話すつもりがなかったことが嘘のように、次から次に言葉が出て来て止まらない。

「大変だったな。よく頑張ったな」

全てを話した後、涙で濡れた頬を小太郎が尻尾で優しく撫でた。

「……うん」

もしかしたら自分は誰かに話したかったのかもしれないとその時初めて気づいた。話すのに夢中で一口も手をつけないまま冷めてしまったコーヒーをマスターは出来立てのものにスッと取り替える。そのコーヒーはほろ苦く甘い香りがした。生きているうちに母と来たかったと思い、律はまた少し泣いた。


 あの時から、変わってないな。律は自虐的な笑みを浮かべコーヒーを喉に流し入れた。

「言わないのか?」

向かいの席に小太郎は飛び乗った。それをみたマスターは静かにミルクの入った平皿を持ってきた。机に置かれた振動で少しの間波のように動いた。

「……」

律はカウンターに座る二人を見る。どうやら二人は懲りずにまた言い合いをしているようで大空が口をへの字にまげそっぽを向いた。

「…迷惑に、なるかもしれないだろ」

巻き込みたくない。大樹やマスターはともかく大空はただの人間の女の子だ。不快な思いはするだろうし、近くに殺人犯がいるだなんて悪影響でしかない。

「まだそんなこと言ってるのかよ。呆れるぜ」

「…自分でもそう思う」

ここまできて情けないと思ってはいるのだが、どう動くのが正解なのか分からない。

「人に迷惑をかけてはいけませんって習ったか?」

「……?」

何が言いたいのか分からず律は疑問の声を漏らす。

「確かにその教えは正しいぜ。でもな、人生全部が道徳の授業ってわけじゃないんだぜ?人に迷惑をかけたっていいし、心配されたっていい。要は自分が最後に責任を取れたらいいってだけの話さ。わかるか?オイラの言っている意味」

小太郎はひとしきり言い終えるとようやくミルクを飲み始めた。普段なら冷める前に必ず飲み切るが、見たところすっかり冷めているようだった。

「人間みたいなこと言うんだな」

律は眉を下げ、反対に口角を少しあげた。

「何年生きてると思ってんだ。オイラ化け猫だぜ?そこらの人間よりよっぽど偉いさ。それにアイツらなら大丈夫だと思うぜ」

小太郎はぺろりと口の周りを舐めた。

「そうだな……」

わかってる、小太郎の言いたいことは十分理解している。だけどあと一歩だ、あと一歩がどうしても踏み出せない。人を頼ることはこんなにも難しいことだっただろうか。律は無意識のうちにカップを握る手に力が入る。

前で小太郎がついたため息がやけに大きく耳に届く。

「ごめん…」

律がそう言い終えるのが先か小太郎の声が皆に届くのが先か判断はできなかった。

「客だぜー」

その言葉に雑談をしていた二人は半開きの口のままこちらに顔を向けた。そのまま二人は同時に喋った。が、各々の言葉が完璧に被っていたためなんと言っていたのかまでは分からなかった。

小太郎の取った行動は半ば強引ではあるが今の律にとっては一番良い方法だったのかもしれない。実際に律は迷った素振りを見せたものの、先程は一ミリも動かなかった腰を上げてカウンターに向かった。小太郎はその後ろをまるで監視するかのようにじっと見つめながらついてきた。


 律は緊張する気持ちを悟られぬよう、いたって冷静なふりをしながら席についた。

「律が今日のお客さん?」

大空の言葉に律は「そうなるな」となぜか他人事のように答えてしまった。それとほぼ同時に店のドアが開く音が聞こえる。見るとマスターがオープンクローズの看板を取り外した。

「あの看板外したら他の幽霊が入ってこれないんだ」

大空が不思議な顔でもしていたのだろうか。大樹がそう説明した。

「て言うかさ、客ってことは律の昔話が聞けるってことでいいんだよな」

大樹がこちらに向き直る。その表情は心なしか楽しげに見えた。しかしそう感じたのはどうやら律だけではなかったようだ。

「なんでそんなテンション高めなのよ」

大空は若干引き気味で突っ込む。

「えー?だって気になるじゃんか。俺はもう何年も一緒にいるけど一回も話してくれたことないんだぜ?それがようやく聞けるんだし…仕方なくね?」

「ないわー」

大空は大仰な動きで大樹から距離をとった。

「なんだ別にいいだろ?大空だって気にならないわけじゃねえだろ?」

「そっう、だけどぉ」

大空は気まずそうに目をそらす。

「…面白い話じゃないぞ」

律は小さくため息をついた。しかしそれは二人に対しての呆れではない。自分の気持ちを落ち着けるためのものだった。律は目の前でゆらゆらと湯気立つコーヒーを見つめながら重い口を開く。

 何から話せば良いのか、少し悩んだが省いたところできっと話がわかりにくくなるだけだと思い、幼少期のこと、母のこと、そして自分が母を殺した人殺しであること全てを話した。


 「…だから、俺は、本当のことが知りたいんだ。自分の過去が見たい。でも俺一人じゃできないから、協力、してほしい。無理にとは言わないけど」

とても長い沈黙のように感じた。実際はほんの数秒だったのかもしれないが律にとってはそれが何十分にも感じられた。

「俺はいいぜ!協力してやるよ。どーせ暇だしな!」

大樹は腕を組んでニッと口の端を上げる。『暇だから』最後の一言のおかげか律の中に重くのしかかる罪悪感が少し和らいだ。

「ありがとう」

それに変に気を使われないそちらの方がありがたかった。

「わ、私も…!」

大空も声を上げたがその表情はどこかぎこちなかった。当たり前だろう。死んでるとはいえ、今一緒の空間に殺人犯がいるというのだから。

「……いや、やっぱり大空はいい。大丈夫だ」

「な、なんで?!」

「やっぱり…考えたけど一緒にいるのはやっぱり悪影響だ。頼んでおいて勝手だが、ただの人間の大空を巻き込みたいとは思わない」

律の言葉に大空は明らかに不服の表情を浮かべた。

「ごめんな」

話すのは大空がいない時のほうが良かった。自分の行動の甘さにただただ自己嫌悪した。

「本当に勝手だよ…」

大空は静かに言葉を落とした。

「ご、ごめん」

大空は「そうじゃない」小さくそう呟いてカウンターから席を立つとのまま律の目の前にきた。

「なんで私の悪影響になるって決めつけるの?なるかならないかは私が決めることじゃないの?ていうかぶっちゃけ私は律が人を殺してようがなかろうがどうでもいいの!ただ同じ場所で働いている仲間だから協力するの。だから別に今回のことが律じゃ無かったとしても、大樹でも小太郎でもマスターでも私は協力する。…それにもし私が何かに巻き込まれたら二人に全てを賭けて守ってもらうから」

大空は腰に手を当てて得意げな笑みを見せる。

「やっぱ大空は面白えな!」

大樹は楽しそうに笑みを浮かべて大空の肩に手をかけて肩くみをした。

「大空にもし何かあったら俺が助けてやるし、律もよぉ、いつまでもそんなしけた面してねえで大船に乗った気持ちでドーンと構えてろよ!」

「そーよ!」

大空も同じように大きな目を目一杯細めた。

「…っはは。なんか、お前ら二人って似てるよな」

二人は先ほど浮かべていた笑顔が嘘のようにさっと表情を変え心外だとでも言いたげだった。

「なんで私がこんな奴と一緒の部類なの?嫌なんだけど!」

「はあ?こっちのセリフだわ!どう考えたって俺の方が頭いいだろうが」

またいつもの言い合いが始まってしまった。もしかして自分のせいだろうか。

「な?アイツらなら大丈夫だって言ったろ」

足の間から小太郎がひょこっと顔を出した。

「ああ、そうだな。小太郎も、二人もありがとな」

律の言葉に二人は「別にー」と声をハモらせて笑ってみせた。

「話がまとまったみたいでよかった。もちろん私も協力させてもらうよ。もっとも、私が出来ることなんて限られているがね…。」

マスターはそう言ってコーヒー、ではなくシフォンケーキを差し出した。中にイチゴが入っているのだろうか、赤い果肉が見える。

「ありがとうございます」

おそらく焼きたてなのだろう。シフォンケーキからはまだ若干湯気が見えた。

「ほらほら、二人も食べなさい。飲み物も出そうね」

「うわー美味しそう」

「よっしゃあ」

いそいそと席についた二人は目の前にあるシフォンケーキに目を輝かせた。

フォークで刺すと小さくシュワッと音が聞こえた。そのまま口に含むと仄かな甘味といちごの酸味が口の中で合わさって思わず小さい笑みが溢れる。二口目はさらに少量盛られているクリームをつけて食べてみた。

「表情少ないくせに美味しそうに食うなお前」

膝の上で丸くなっていた小太郎は物欲しそうな瞳でこちらに顔を近づける。

「食べるか」

律は指先でシフォンケーキを摘むと一欠片分を小太郎に食べさせた。

「え、猫に人間の食べ物あげちゃダメだよ律!」

大空は焦った様子だったが小太郎はしっかりと口の中のケーキを飲み込んだ。

「ああーー」

悲観的な声をきいた小太郎は「落ち着けって」と間に座っていた大樹の膝の上を通って大空の膝に移った。

「よく考えてみろって、俺は化け猫だぜ?何食ったって大丈夫って話だ」

「…あ、そっか」

大空は拍子抜けしたように椅子に深く座り直した。

「それよりさあ、どうすんだよこれから」

大樹は両手の指を絡め、そのまま伸びをした。

「え?またいつもみたいに時計くるくるーってやったらいいんじゃないの?」

「アホか、それができんならわざわざ俺たちに頼まねえだろ」

『アホ』という言葉には珍しく突っ掛からなかった。

「…んん?どういうこと、持ってないの?律は時計」

大空はこちらの胸元を指さす。律は「ああ」と短く相槌を打ってからシャツの第一ボタンを開けてみせた。

「ほんとだ、なんでないの?あ、もう黄泉の國に行っちゃったから?」

「いや、黄泉の國に言ったとしても時計がなくなることはない。時計はその人にとっての人生なんだ。外したら長い時間はかかるがいずれ過去の記憶全てが思い出せなくなる。」

「その人にとっての人生…」

大樹は一人でに言葉をおうむ返しした。

「時計は持ち主にとってこれまでの人生で大切だったものを一つでも忘れた時、消えるんだ」

「え、じゃあ…」

何か言いたげな大空だったがそれ以上は言葉が続かなかった。時計が消えたのであれば過去を見ることは不可能なのではないかとでも思ったのだろう。

「少しややこしくなるんだが、消えるとは言っても時計の存在自体が消えるわけではないんだ」

「そうなのか?」

大樹も大空も興味津々と言った様子だ。ケーキを頬張る手をすっかり止めている。

「ああ、時計という物体を誰も認識できなくなるんだ。実際はそこにあるが他人も本人でさえも認識することはできない。意味、わかるか?」

「なんと、なく…?」

大空は曖昧な返事で答えた。

「要はその忘れた大切なものを思い出せば時計が帰って来るってことだろ?」

「ああ」

「なんなんだよ、律が忘れた大切なものって」

「……」

それが分からないから困っていると言うのに、真面目に間抜けな質問をする大樹に呆れた。

「な、なんだよ…」

こちらの言いたいことに気づいたのか「あ、」と短く声を出してから

「まあ、うん。忘れてるから思い出せないんだよな」

と妙に哲学的なことを言ってみせた。

ふと視界の端で大空があくびを噛み殺しているのが見えた。

「もう二時か」

時計は二時五分を指していた。

「こんな時間まで悪かったな。もう帰ったほうがいいだろう」

「んー確かに、そろそろママも帰って来るし帰ろっかな」

大空は小太郎と一緒にドアの方へ向かう。もうすっかり二人で帰るのが日常となっていた。

 「んじゃ、明日から行動開始だな!」

大樹は気合を入れるように鼻から大きく息を出した。

「あ、ああ…」

「なあに腑抜けた声出してんだよ。そんなに頼りねえか?任せろって!」

大樹は拳をに握るとを軽い力で律の胸に当てる。

「そうじゃない、頼りにはしてるさ」

「ほーん、えらく素直じゃんね」

「…まあ。でも、どうやったら良いのか分からない。忘れてることをどうやって思い出したらいいのか分からないんだ」

「んぁーー」

気の抜けた声を出して大樹は片腕で方杖をつく。しばらくの間、秒針とマスターの小説をめくる音だけが聞こえていた。

「…あ、悪い。俺もう戻らないと」

流石に長居しすぎてしまった。そろそろ黄泉での業務が始まる時間だった。

「おーそか。んじゃまた明日なー」

大樹のひらひらと振られる手に小さく頷いて返した。

「すみません、それでは失礼します」

そういうと少しばかり晴れた心を抱えてドアを開けた。


「……」

「また考え事?」

休憩から帰ってきたのか片手にレモンティーを持ちながら結城はこちらの顔を覗き込む。

「え、ああ、うん…」

考えている最中だったため曖昧な返事で返す。

「そういえばどうだったのぉ?みんなにちゃんと話せた?」

結城は目線をこちらに向けたまま器用にキーボードで情報を打ち込んでいた。

「ん、ああ、話せた。手伝ってくれるって」

律もようやく回していた試行を止め結城の方に顔を向けて応える。

結城はこの言葉にそっかぁと頬を緩ませた。

「ありがとうな」

「別にぃー」

結城はこちらの頭をまるで子供にするかのように撫でさすった。周りに他の死神もいるため流石の律も恥ずかしく手を払おうと思ったら別の手が重くのしかかった。振り返る前に手の主が話し始めたため、誰のものなのかはすぐに理解することができた。

「だーーー!つっっっかれたあ!」

「あれぇ?誠休憩してたんじゃないのぉ」

やけに疲れている誠に疑問を投げかける。するとその言葉を待ってましたとばかりの勢いで誠は流れるように席につく。

「ほんっとに聞いてくれよまじで!」

誠は身振り手振りを加えながら先ほど起こったであろうことを説明した。内容としては休憩しようとしていたところ上司に呼び出され別の人のミスを何故か自分が怒られたと言ったようなことだった。

流石に災難だと同情したのか結城は自分用に買っていたらしきチョコレートを誠に渡した。律も何か渡そうかと思ったのだが生憎何も持っていなかった。

「だからさー今日も三人で宅飲みしようぜー。」

本当はこれを言いたいがために愚痴を聞かせたのではないかと疑ってしまうほどいい笑顔を浮かべていた。

「またかよ…」

つい最近したばかりではないか、そう思ったのは律だけだったようだ。

「いいねぇどこでやる?」

結城は嬉々と目を輝かせる。

「それはもちろん…」

含みのある言い方に嫌な予感がしてパソコンに目を戻した。

「律の部屋だろう!」

「い、や、だ」

一言一言聞き取りやすく区切って一瞬の間も無く断った。

「なんでだよ」

釈然としていないような声をあげる。なぜそんなことも分からないのか逆に分からなかった。

「なんで毎回毎回俺んとこなんだよ、自分のとこやれよ」

三人で飲むときは例外なくいつだって律の部屋だ。部屋の広さは勇気も誠も変わらないはずなのに。

「だって律の部屋が一番綺麗じゃねえかよ」

「生活感がないとも言えるけどねぇ」

横から結城が口を挟む。しかし結城の家だって綺麗なのではないのか。そう考え中がら綺麗にせんとんされているデスクに目をやる。

「あ、私のとこはダメよぉ。女子の部屋に男二人来るつもりなのぉ?」

こちらの言いたいことを悟ったのかこちらが聞く前に口を開いた。それに加えなんとも突っ込みにくい理由だ。

「じゃあ誠のとこは…」

言いかけて律は口をつぐんだ。前に何度か部屋に入った事はあるがいつ行っても綺麗な時はなかった。

「誠の部屋は汚いじゃんー。私嫌ぁ」

その言葉に誠は心外だと言わんばかりにいやいやと首を横に振る。

「俺のとこは汚いんじゃなくて物が多いだけだ」

「それって汚いってことでしょぉ?」

その言葉に同意見だと律も頷く。

「違う違う違うあれは全部必要な物なんだって。あれはぜーんぶ俺の大事な思い出達なんだよ」

「思い出、ねぇ。こんなところで働いててそんな思い出のもの増えるかなぁ」

結城のの浮かべる苦笑とは反対に誠はニカっと笑ってみせた。

「俺は毎日が思い出だからなっ」

「何それぇ」

「結城はないのかよ、思い出のものとかさぁ」

「私ぃ?」

少し考えるように結城はうーんと声を上げる。

「実家にはあったような気がするけどなぁ。昔作った工作とか、絵とか?でも流石に今の部屋にはないよぉ」

「あー、俺もあったわ、旅行のお土産とか。子供んときのはどうか覚えてねえけど…」

「誠って実家の時も部屋汚そうよねぇ」

そう言いながら結城は悪戯な笑みを浮かべる。

だから汚くねえってと口を尖らせた。

実家か…。

正直なところ律にとっての実家は最期の記憶が深く染み付いているためできれば行きたくないところではあるのだが、確かに幼少期からずっと住んでいた家だ。何か思い出すきっかけになる物の一つや二つくらいあるのではないだろうか。

偶然にも二人の会話を聞いているうちにヒントを貰うことができた。ひとまず仕事が終わり次第オランジェに戻ってこの事を話そうと思い、律は目の前の仕事を終わらせるためパソコンに目を戻した。


 いつものように店の中に入ると大樹は誰よりも早くこちらの存在に気づき手招きをした。すぐ分かった事なのだがどうやら今日は客人が多いらしい。大空は注文な品をマスターからを受け取っては持っていくと言う作業を絶え間なくこなしていた。どうやら空いている席は壁際しかないようで大樹はいつものようにウロウロせず大人しく座っていた。小太郎はと言うと一番日当たりのいい席で日向ぼっこ中のようだった。ああ言うところを見ると、狭い隙間でも快適に過ごせる猫の小太郎が羨ましく思う。

「今日早いじゃん、なんかあったのか?」

「仕事が早く終わったんだよ」

「ほぉん」

自分から聞いてきたくせに興味なさげな様子で相槌をうつ。いつ頃から忙しくなったのかは知らないが少なくとも結構な時間こんな状態なのだろう。太陽の暇そうな様子を見れば一目瞭然だ。

「いらっしゃいませ」

聴き慣れたドアベルとそのすぐ後に聞こえたマスターの声、見ると一人の女性が入店していた。座る席は今はここしかない。

「外でも行くか」

その言葉に太陽は立ち上がり足を進めようとしたのだがすぐに止めることになった。

「え、ママ?!」

そんな大空の驚愕の声が耳に届いたからだ。えへへと無邪気に笑う顔は大空にそっくりだった。確かに似ている、目元なんてそっくりだ。と言うより大空が大人になったらこんな顔なのだろうと容易に想像できる顔だった。

なんできたのよと口では文句を垂れているが内心喜んでいるのが隠しきれていなかった。

これ以上ここにいては邪魔だろうと思い止めていた足を再び進め始めたのだが、後ろに気配がついて来ていないことに気がついた。振り返ってみると案の定、大樹はその場に立ち止まったままだった。早く来い、そう口を開こうとしたすぐにある異変に気がついた。大樹はこめかみ辺りに手をやり険しい表情のまま下を向いている。その異変には大空も気がついたようで思わず「だっ……」と大丈夫の初めの文字を口にしてしまった。そのあとすぐ黙ったのだが大空の母は「どうしたの?」と疑問を浮かべている。

「あ、いや、えっと」

思わず口ごもる大空の代わりにマスターが「あちらの席が空いておりますのでどうぞ」と案内をした。

「ありがとうございますー」

にこやかな表情を見せて先ほどまで自分たちが座っていた席に移動した。律は未だ立ち止まったままの大樹の手を引くとそのまま店を出た。

「おい、大丈夫か」

律の言葉に小さく頷いてみせたものの、その様子は全く大丈夫そうには見えなかった。

「もう少し歩けるか」

いくら人らか見えない存在だとしても人やバイクが通るこの場に座らせるのは流石に気が引ける。再び大樹の手を引いて近くの公園まで行くことにした。立地の悪い場所にあるこの公園は遊具もベンチと古びたブランコ程度のもので子供だけでなく、近所の老人でさえもほとんど近寄らない場だった。

「頭でも痛いのか?」

ベンチの横に並んで座る大樹にそう問いかけると「いや、頭じゃない」と小さな声で答えた。言葉が帰ってきただけ先ほどよりはマシになったのだろうかと思ったが、無理に話させるわけにもいかず短く「そうか」と答えた。

 どのくらい時間がたったのか、ようやく大樹が抑えていた手をゆっくりと戻し大きくため息をついた。

「いやー焦った。死んでも冷や汗って出るんだな」

大樹はいつもの冗談めいた口調で笑ってみせた。その様子を見てようやく律も安心して小さく息をつく。

「なんか急にさ、すっげえ耳鳴りが聞こえ始めたんだよな」

自身の左耳を掌で軽く叩きながらため息まじりにいった。

「耳鳴り…?」

「そう!キーーーンっつって。まじ怖かったわぁ」

死んだ者に体の不調は起こるものなのだろうか、そう疑問を持ったものの律自身全ての亡者と会ったことがあるわけではない。中にはそう言う者も居たのかもしれない。

「もう大丈夫なのか」

「おお!まあな。なんだなんだ?心配してくれてんのかー?」

先ほどもまでの様子が嘘だと思えるようにいつも通りだった。へらついた表情を浮かべる大樹の額を軽く叩いて「治ったんならもう行くぞ」と立ち上がる。

「へーへー。そんな照れんなって」

こちらを小突きながら腰を上げる大樹を無視して律は歩き始める。

「つうかさ、店戻ったってまだ人いっぱいなんじゃねえの?どこ行くんだよ」

「……」

そう言われてみればそうだ。例え今、人が減っていたとしてもまたいつ増えるか分からない。

「あ、もしかしてなんも考えてなかったとか?」

「……」

図星だが直球に言われるとなんだか認めたくない。ひとまず肯定も否定もせずただ適当に歩き進める。そこでふと今日も目的を思い出す。大樹のこともあり、すっかり頭から抜けてしまっていた。

「…家を、探さないといけないんだ」

「家ぇ?」

不意に出た言葉に大樹は意図が全く掴めないようだった。

「ああ、実家に行けば何か思い出せることもあるかも知れないだろ」

その言葉でようやく合点が言ったように「なるほどなあ」と手を叩く。

「住所分かんのかよ」

「住所は…」

思い出そうとする間も無く頭の中に住所が流れ込んできた。それと同時に家の外観だけでなく通って学校までもが鮮明に映像化される。

思い出したいことは思い出せないくせに、体に、頭に染み付いた昔の日常というのは全く薄れないものだ。恐らく、記憶喪失になった人間が言葉の出し方も呼吸の仕方も忘れていないというものと一緒なのだろう。

「馬鹿みたいだよな…」

ほとんど声になっていない薄れて声でぼやく。それが聞こえたのか聞こえていないのか大樹は「そんなことより」と口を開く。

「いつ行くんだ?律の家は」

「……俺たち二人で行ったところで」

「まあ何も触れねえわな」

そう言葉を被せる。その言葉には首肯せざる得なかった。

「んじゃ、大空に戻って頼んでみっか」

頼める人物と言って思い浮かぶのはマスターか大空だけだ。しかしただの憶測に過ぎないがマスターが一緒についてきてくれるとは考え難い。そもそもマスターが店の敷地内から出たところすら見たことがないのだ。食材もどうやら全てネットで頼んでいるようで数日に一回宅配で送られてきている。何か理由があるのかはたまた特に理由などないのか、考えたところで分かるものではない。

「…もし大空が断ったら?」

そう言葉にした途端に面白くなさげな表情を浮かべて大樹は一つため息をつく。

「なんでそう悪い方悪い方に考えるかねぇ。もっとポジティブに考えるのが大事だぜ?断られたら…そんときゃそん時、また考えればいいだろ」

そう言って大樹は今まで進んでいた方向とは逆の方向にズンズン足を進め始める。

「お、おい、どこ行くんだよ。店に戻るんじゃないのか?」

少し離れた大樹に声が届くように律は声を張る。

「今すぐ戻ったってまだ客多いかもしんねえだろー?遠回りすんだよ」

そういえばたまに散歩に行ってるんだったけな。今は腐るほど時間はあるのだ。きっとここらの道は知り尽くしているのだろう。だとすれば遠回りの道を知っているのも納得がいく。律は少し遠くに行った大樹の背中を早足で追った。


「なるほど家ねぇ」

深夜24時を少しすぎた頃、当たり前のように客が一人もいない店内で三人はカウンターに並んでいた。ちなみに小太郎は安定に大空の膝の上だ。

「さっき言ってた家ってここであってる?」

大空はスマホの地図アプリをりつの顔面に近づける。

「あー、うん。そうだな、そこだ」

先程伝えた住所が確かに画面の中に示されていた。

「ここから割と近いんじゃない?ほら、ここの細道抜けたらさ…」

「でもその道結構細いぜー。俺でギリギリくらいだからな」

「それは…さすがに無理ね。まぁでもギリ歩いて行けない距離じゃないし」

そこで言葉を一旦止めて壁にかかっている時計を確認する。

「よし!じゃあ今から行こっか!」

大空は反動を大きくつけてその場から立ち上がる。

「え?」

律は自分の耳を疑った。恐らくだがそれは大樹も一緒だろう。

「今から行くのか?まじで?」

こちらの言葉を代弁するように大樹は声をあげて眉を歪める。

「え、逆に今行かなかったら行ける時なくない?バレたら私捕まっちゃうもん」

確かに言ってみれば大空の言う通りなのかも知れない。身内ならまだしも大空は律にとって全くの赤の他人だ。不動産の人間に頼んだところで入れさせてくれる保証なんてどこにもない。

「確かになぁ」

その言葉が腑に落ちたのか腕組みをして数度頷いた。

「でも、本当にいいのか?」

こちらの言葉に大空は「何が?」と首を傾げる。

「…その、そこでは人が、いや、俺のせいだけど……人、死んでるんだぞ」

なんとか言葉を噛み砕いて言うつもりが何よりもストレートな言い方になってしまった。それに気づいてか大樹がふっと息を漏らしてから目線を逸らした。

「あー、それね。なんていうかさ」

大空は小さく肩をすくめながら再び席についた。

「私昔は幽霊とかマジで信じててほんっとに苦手だったんだよね」

あははと笑いながら頬を少しかく。

「まあ今が信じてないってわけでは勿論なくって、なんていうかな。なんか…………うん、大丈夫になったんだよね」

長く言葉を溜めたわりにあまり根本的な理由になっていない答えが返ってきた。

「なんだそれ」

大樹の短いツッコミにあははと苦笑いをする。

「んー、だからぁ今まで怖かった理由って曖昧だったからなんだよね」

「曖昧?」

「そ、死んだ人がどこにいくだとか、何をしてるだとか分かんないからこそある怖さっていうの?でも今はさ、幽霊と普通に会話しちゃってるし、なんなら死神っていう一番信じ難いものまで出てきちゃって、でもそのおかげで黄泉の國があるって知れたし、ってあれ?なんか自分でも何が言いたいのか分かんなくなってきちゃった」

大空は「まいっか」と気楽に笑う。それに釣られて律も表情に笑みを浮かべた。

「まーなんとなく分かるっちゃ分かるけどな?言いたいこと」

「ならよかったー。ま、私は大丈夫だし行くなら早く行こうよ」

大空は背もたれにかけていた上着を手に取るとマスターに声をかける。

「というわけで行ってきてもいいですか?」

「ええ、もちろん。風邪を引かないようにね」

マスターはそういうと使い捨て懐炉を一つ大空に手渡した。そして横に座る律と大樹の方に目を向ける。

「もし何かあったら頼みますよ」

その言葉に律と大樹の二人はそろえて頷いた。


 「そういえば小太郎はついてこなかったね。なんか不思議な感じー」

白息で手を温めながら隣を歩く大空はふと呟く。普段この時間外を出歩く時は大抵小太郎と一緒だ。それを今は小太郎ではない二人と一緒に歩いている。いつもと違うこの空間が違和感なのだろう。

と言っても大空の口調に落胆等は混じっておらず、どちらかというと楽しげだった。

「まあアイツは寒いの嫌いだしな」

白い息が出ない大樹の口元を見ながら大空は軽く相槌を打つ。

「そういうところは猫と変わんないのね」

「化け猫と幽霊は違うからな」

「まあそっかぁ。…あ、次を右に曲がってすぐみたいよ」

大空はスマホから顔を上げてT字路を指さす。左上に表示された時刻を見る限りどうやら店を出てはや一時間が経っているようだった。

 公園の隣、ゴミ捨て場の向かい。

律は口に出さず頭の中で言葉を作る。家に近づけば近づくほど記憶が鮮明になっていく。

「ここかぁ?」

見上げて大樹が口を開く。見た目は当時と随分変わり寂れてしまったもののその家は確かに昔律が住んでいた家で間違いなかった。記憶のうちでは昔からすでに劣化が進んでいたのだか今はそれ以上に朽ちている。誰も住んでいなければ管理する人もいないのだから当たり前なのだが。

一瞬取り壊されている可能性も考えたがどうやら最悪の事態は免れたらしい。近年増え続けている空家の一つに加わっただけなのだろう。

「……ああ」

昔の記憶が頭を過り、律は薄く眉間に皺を寄せる。

「大丈夫?ちょっと待ってから入る?」

それに気づいた大空の提案に律は間を開けずに首を振る。きっとここで止まってしまったら一生行けない気がした。

「わかった」

いつになく真剣な顔つきで頷くと玄関の戸に手をかける。律は生唾を飲み込んだ。

「…って言っても開くわけないよねー」

微笑とも苦笑ともとれる表情を浮かべて大空は振り返る。

「なんだよ開いてねえのかよ」

大樹は気勢がそがれたのかその場にしゃがみ込む。大空はやや周りを気にしながら再度ドアをガチャガチャと前後に動かして見るが開く兆しが全く見えなかった。

「バールとかねぇの?それかトンカチ」

「ないわよそんなの……。あっても使えるわけないでしょ流石に…」

呆れから来るため息が空へと消えていく。

さてどうしたものだろうか。

ドアの前に立ち少しの間目を瞑り追憶にひたる。

「あ…」

声をあげたのは大空だった。視線を横に向けると上を見上げて目を輝かせている大空が目に入った。それにつられるように律と大樹も上を見上げる。するとそこには満天の星に紛れてチラチラと雪が舞っていた。

「雪だぁ…!」

大空は上に手を伸ばした。

「見てっ二人とも」

そう言ってダウンジャケットにのった雪を見せてきた。黒いジャケットに良く映える小粒の雪だった。

「初雪だな!積もると思うか?」

大樹もまるで子供のように楽しげだった。二人して雪の結晶を見ようと袖に雪をのせては凝視している。

「雪か…」

まだ十二月も入ったばかりだというのに、例年に比べてふるのが随分と早い。

空に舞う雪を見ていると律の頭の中にとある記憶が想起された。律はハッとして家の横に回った。

「どうしたんだよ」

二人の言葉は一旦無視して大股で足を進める。家の傍は草が生え放題で普通なら歩くのに少し難航するレベルだ。しかしそんなことは律にとっては関係ない、薄い記憶を頼りに律は家の裏にある小窓に目をやった。

「ここだった、か?」


 昔、小学生の頃だったか鍵を忘れて家に入れなかったことがある。その時も雪だった。母を待とうかとも考えたのだが教師をしている母が帰ってくるのは夕方過ぎと決まっていた。

このままでは死んでしまう、そう焦ってなんとか家に入れる場所はないかと家の周りを一周した。その時に見つけたのがこの小窓だ。当時小学生だった律にとっては少し高めの位置にあり、ランドセルを踏み台にしてその窓に手をかけた。小窓は昔から立て付けが悪く鍵がかかっていなかった。当然のようにその日も固く、それに加え寒さのせいで手も悴んでいた。しかし限界から発揮される底力でなんとか開けることができたのだ。と言ってもそこで力を使い果たした律は着地に失敗して足を捻挫し、加えて宿題やその他諸々が入ったランドセルは外にあるため宿題もできない。踏んだり蹴ったりな夜だったこともついでに思い出してしまった。


 思い出していると過去の自分の不甲斐なさには嫌でも笑いが出てしまう。

律は目の前の小窓に手をかける。こんなに小さくて低かったのか。大空ならギリギリ入れる大きさではあるのだが、昔の記憶ではもう少し大きかった気がするのはきっと自分が小さかったからなのだろう。

「何かあったのー?」

大空が口の横に手をあててこちらに声をかける。

「入れる小窓を見つけた…けど」

ここに来るまでには草が多すぎる。物によっては一メートルを超えるものもあった。少々面倒臭いが一度戻って左側から回った方がいいかもしれない。

律は元きた道を戻ろうとした時

「ほんと?」

大空は荒れた道をもろともせず伸びた草を踏み潰しながらこちらへやってきた。

「草やばいねここ!ズボンでよかったぁ」

笑いながら袖や裾をはらう大空は驚くほど逞しかった。

「おっまえなぁ…」

大樹は腰に手を当てやれやれと言ったように首を左右に振る。

「何よ…」

口を尖らせて大空はジトリと見つめる。

「別にーー」

「…店に戻ったら覚えてなさいよ」

小さくつぶやいた言葉に大樹は「何も言ってねえだろう?」と反論したが察しのいい大空のことだ、きっとなにが言いたかったかは分かったのだろう。

「小窓ってここ?」

「ああ、行けそうか?立て付けが悪いから開くかは分からないが」

「任せてよ」

グッと親指を立てると窓の隙間に指をかけてそのまま勢いよく体を右に動かした。数回繰り返すと数センチほどの隙間を開けることができた。大空が女性ということもあるがやはり劣化は進んでいるらしく記憶よりはるかに小窓は硬そうだった。

「大空ー。一回こっちきてみろよ」

少し先で大樹が手招きをしている。

「えー何よもう…」

大空は鼻を啜りながら大樹の元へ向かう。

「これ使えるんじゃねえか?」

そう言って指さしたのはブロック塀の隙間に生えたなんの種類かわからない木だった。どこからかタネでも飛ばされてきたのだろうか。狭い隙間にギッチリと詰まって生えている。

「え、なに?」

怪訝な表情を浮かべた大空とは反対に律は大樹が何を言わんとしてるのかピンときた。

「大樹にしては考えたな」

「最初の言葉は余計だけど、だろー?」

ニマッとドヤ顔をしてみせる。

「…てこの原理」

律の言葉でようやく眉の皺を伸ばして「ああっ」と声をあげる。

「めっちゃナイスアイデア、だねっ!」

大空は太めの枝を手にもつとそのまま押し込むように体重をかけた。するとボキッと鈍い音をたてて枝は折れた。

今度はそれを先ほど開いた窓の隙間に差し込み今度は左側に力をかける。すると止まり止まりではあるがようやく小窓を全開にすることができた。

「よしっ、これなら入れそう!」

大空は枝をそこら辺に投げ捨てると窓枠に手をかけてそのまま体を持ち上げ中へと入った。


 「なんか、羨ましいってのも違うけどさあ、私はあんだけ苦労したのに2人はびっくりするほどすんなり入って来るわよね」

熱った顔でジャケットを脱ぎながら大空は深いため息をついた。

「ま、それが俺らの特権みたいなとこあるしなー」

「……そーねー」

大空はだいぶ疲れたのか壁にもたれかかって深呼吸を繰り返していく。

「暗っ。なんも見えねえ…。ま、目が慣れるまで待つしかねえな」

小窓がある部屋と言えば思い当たるのは寝室兼勉強部屋だけだが、ここまで暗いと探せるものも探させない。

大樹の言う通り目が慣れるのを待つしかない、そう思った時眩しい光で目の前が照らされた。瞬間的に警察が何かが来てしまったのかと思ったがどうやら光の正体は大空の持っているスマホのようだった。

「おーいいもん持ってんな」

「さらにさらにー」

大空はスマホを床に置くと、まるで手品師のようにカバンを漁り始める。

「じゃんっ」

そう言って取り出されたのは500mlのペットボトルだった。ラベルには天然水と書かれている。中身はほとんど減っていないようだった。

「これを、こう」

大空はラベルを剥がすとスマホのライト部分にペットボトルを乗せてみせた。するとあたりが先ほどよりも明るく照らされた。

「どう?即席ランタンの出来上がりー!」

「おおぉ」

思わず感嘆する。

「よくこんなこと知ってたな」

素朴な疑問だった。普通こんなこと知っているだろうか。

「えー?結構テレビとかでやってるよ?ほら、夏とか台風前とかでさ」

「そうなのか」

テレビなんてもう何年もじっくり見ていない。最近はそんな有難い情報まで流してくれるのかと感心した。

「じゃあ大空はもしもの時のためにいっつも水持ち歩いてんのか?」

その言葉に大空は小さく吹き出す。

「まさかぁ。最近水をよく飲むようにしててー、朝もそれで水買ったんだけどさ寒すぎて一口しか飲めなかったのよ。でも結果オーライって感じでよかったわ。あ、でもこの光、外に漏れてないかな」

「あー、んじゃ俺ちょっくら外から見てくるわ」

そういうと大樹は一旦家の外に出ていった。

「よしっじゃあ早速探しますかねー」

手に持っていたジャケットに再び袖を通しながら大空は立ち上がった。

2LDKのこの家はやはり外観だけでなく内装も随分廃れていた。壁紙は半分剥がれ、歩く度に床が鈍い音を鳴らしていた。大空は床が抜けないようにか恐る恐る足を進めている。

それより、実際家に来たはいいものの一体何を探せば良いのだろうか。本棚を見ても入っているのは学生時の教材や日焼けして茶色くなった新聞だけだ。アルバムの一つや二つあればと思ったのだが期待はずれな結果となった。

「ねぇあれさぁ」

後ろからひょこっと大空が顔を出す。少しぼうっとしていたからだろうか、ただ声をかけられただけなのに思った以上に驚いてしまった。と言うより、大空の距離の近さに驚いたという方が正しい。死神と触れたら寿命が縮まる。その事は出会った時に話したはずなのに、大空も覚えていない訳では無いだろう。

「え、なに?」

こちらが黙っているのを見て不思議がっているようだった。

「あんまり近づきすぎるなよ」

そう言うと一歩下がって距離をとった。

「触んないようにしろって?でも直接じゃなかったら大丈夫なんでしょ?そんなことよりさぁ」

大空は早くこちらに何かを伝えたいのか話を戻した。この警戒心のなさはあの時一瞬だけ出会った母親譲りなのだろうか。どちらにしろ、なかなか掴めない子だと言うことは再確認出来た。

「どうしたんだ?」

「あそこ開けてもいい?」

視線の先には黄ばんだ襖があった。

「なんか小動物とか住んでそうじゃね?!」

「わっ!!」

つい先程戻った来た大樹が大空の耳元で言葉を発する。恐らく大空は戻ってきたことに気づいてなかったのだろう。大樹もそれを察していたはずだ。だからわざとあんな耳元で声を出したのだ。

「...びっっくりしたぁ」

大空は目を見開き心臓に手をやった。相当驚いたのか肩で息を切っている。

「帰ったら覚えていなさいよ...」

嫌悪感を隠すことなく大樹を睨みつける。

「なーんだよ、ただ声掛けただけじゃんかぁ」

そういい訳をしていたが帰ってから叩かれるのは決定した事実だろう。

「何があるか分からないから気をつけてな」

その言葉に大空は気を引き締めたのか唇をキュッと結んだ。そしてゆっくりじわじわと襖を開いていく。そして半分が開いた頃に大丈夫と確信したのか最後は一気に戸を開けた。

「……」

中にはなんの変哲もない布団が上に二組としたの段には数個の段ボールが詰め込まれていた。

「この箱、なんか入ってそうじゃね?」

大樹は期待に満ちた声でそう言った。

「確かに…じゃあ、まずはこれから開けてみる?」

そう言って一番手前にあった段ボールを自分の方に寄せて取り出す。特にガムテープ等で固定されているわけでもなく蓋は簡単に開いた。

「これは…服、だよね。夏物ばっかり」

数枚服を取り出したがどれも半袖や薄手のものでおそらく季節外の服をしまっておいたのだろう。

「あんま関係なさそうだなー」

「ああ」

服の入った段ボールは隅に寄せ今度は奥に入っていたものを二つ、同時に開けてみせた。律側にあった箱にはまたも洋服だったがどうやらもう一つの箱は違ったらしい。大樹が「おっ」と声を漏らした。

「あーっこれってアルバムなんじゃない?」

大空は分厚い写真入れをこちらに見せた。それはよくあるアルバムというものではなく本当にただ写真を入れるための物のようで表紙に何も描かれていないシンプルなものだった。

「四冊はあるみてぇだな」

「そうね」

大空は写真入れを手に取っては次々と自身のカバンに入れていく。

「ここで見てかねえのかよ」

「流石にそんなのんびりしてらんないわよ。私一応不法侵入中なんだから」

「ははっそういえばそうだったな」

確かにそんな悠長に過ごしている暇はない。早く終わらせるに越したことはないのだ。律はその場から立ち上がる。

「俺はリビングの方に行ってくる…」

「あ、なら私も行こうか?ライトないと見えないでしょ?」

そう言って立ち上がろうとする大空に律は断りを入れる。大空をあそこに入らせるわけにはいかなかった。

「いや大丈夫」

「え、でも…」

こちらを心配してなのか大空はすぐには引かなかった。

「なら俺らで律の黒歴史でも探しとこーぜ!ないわけないだろうしな」

大樹は一方的に言うとさっさと襖に頭を突っ込み「なんかねえかなー」と探し始める。

「……うん、そうだねっ!」

そこでなんとなく悟ったのか声のトーンを上げて同意した。

「探しても何も出てこないと思うそ」

気を使わせてはなるまいと、こちら冗談ぽく忠告してからリビングへと向かった。


リビングに入るや否や律の足は一方向に迷わず向かっていた。

寂れているという点に目を瞑ればほんの少し前まで普通に人が住んでいたように家具はそのままだ。

シンクの手前に置かれた机とふたつの椅子、ここが母の最期の場所だ。

もっと動揺すると思っていたのだが不思議と律の心は安定していた。律は深呼吸のような深いため息をついて玄関の戸に目をやった後、自身の首に手を当てた。母を殺したあと、ここにネクタイをかけて首を吊ったんだっけな。妙に他人事な気分だった。

律は椅子に目を戻すとあの日あの時、母を手にかけたのと同じ格好で無の空間に手を伸ばす。両手をギュッと握ってみてもそこに何か感触が残るやけもなかった。

「はは...」

何をやっているんだ。自分の行動が馬鹿らしくて乾いた笑いが出た。

糸が切れたように腕をだらんと下げる。

「.....?」

何やら視線を感じて目だけをキッチンの方に向ける。視線の正体はどうやら冷蔵庫にはられた絵だったようだ。近づいてよく見てみると普通の紙よりツルツルしており、どうやら広告の裏に直接書かれたようだ。

女の人とその半分くらいのサイズの男の子が手を繋いでいる。お世辞にも上手いとは言えない絵だった。

「誕生日おめでとう...」

バランスの崩れた字でそう書かれている。

「俺が描いたのか」

いつ頃書いたのか思い出せなかったが脳裏には顔のシワを深く刻んでクシャりと笑う母の顔が浮かんだ。

「ああ.....」

鼻の奥がツンと傷んだ。この痛みは知っている。震える息を深く吐いて落ち着こうとしたが逆効果のようで、一瞬気が緩んだ瞬間目からは生暖かい液体が流れ始める。

「.....もう。.....くそ」

死んだくせに涙が出るなんてなんて不便な体だ。袖が濡れていく。

「……戻りたい」

無意識のうちに呟いた。

「どこにだよ」

後ろから聞こえた声に驚きはしなかった。同じ亡者同士、気配はなんとな察せるものだ。

「.....なんで来たんだよ。くるな、って言っただろ」

不満げな唸り声が耳に届く。

「おっせえから呼びに来たんだろうが」

そんな呼びに来るほど時間が経ってしまっていたのだろうか。律は控えめに鼻をすすって「悪い、すぐ戻る」と、早く向こうへ戻れという気持ちを強く込めて伝える。

「戻りたいってどこに戻りてえの?」

大樹はその場から動いた様子は見せず先程と同じ質問をよこした。早く帰れよと思う反面、きっと濁したところで再度同じことを言われるだけだと半ば諦め気味にため息を着く。

「別に、昔に戻りたいだけだよ。子供の頃に。戻って全部やり直したい」

「.....」

大樹は押し黙った。次に何を言うのか、はたまた何も言わずに帰っていのか、律も同じように黙する。

「んー、そりゃ無理な話だな」

しばらくの沈黙の後、ようやく開かれた口からはなんとも当たり前な答えが返ってきただけだった。

「そんなこと分かってる」

何か、こちらが救われる期待していた訳では無いのだが...いや心のどこかでは期待していたのだろう。だからこんなにも落胆し大樹に意味の無い苛立ちを覚えてしまった。

「.....でもお前は先に進めるじゃんか」

その言葉を最後に大樹は部屋から出ていった。

特に悲壮感にまみれているわけでもなく、ただ普通に話しただけのようにも感じた。

しかし今の律には大樹が一体どんな表情を浮かべてその言葉を零したのか気になって仕方がない。一人に戻った部屋で振り返ってみても答えがあるわけもなかった。


「悪い、遅くなった」

床に座り込む2人に律は声をかける。

「もういいの?」

大空の問いに頷くと「よいしょ」と重たくなったカバンを肩にかけながら立ち上がる。

「帰ろっか」

「だなー」

行きよりも一段と寒さを増した外で三人はなんとなく無言になる。

「持ってやれなくて、悪いな」

無言に耐えがたくなり、律は隣で何度かカバンを掛け直している大空に声をかける。大空はやんわりと微笑んでからんーんと首を横に振る。

「むしろあったかくて丁度いいよ」

「…そうか」

再び無言の時間が訪れる。こんな時こそいつもうるさい大樹の力を発揮して欲しいものだと願うが当の本人は二人より少し前を静かに歩いている。

「…喧嘩でもしたの?」

「いや……」

喧嘩などしていないはずだ。強いて言えば最後のこちらの口調がやや強くなったがそんな事で機嫌を損ねるタイプでもないだろう。

何か考え事をしているのか、はたまた何も考えていないのか。表情が見えないためそのどちらかなのかすら知り得なかった。

「あ、じゃあ私ここだから」

大空はそう言って足を止める。アルバム類は一度大空の家に持ち帰ってもらうことになったのだ。流石にこの時間、一度オランジェに戻ってから再び帰るとなると夜が明けてしまう。

「今日はありがとうな」

「いえ、大丈夫です!」

「ん、じゃーな」

「また明日ねー」

部屋に入るまで見送った後二人は再び歩き出す。先ほどと変わらず会話はない。

「…なあ」

そう声をかけても大樹からの返事はない。こちらからの次の言葉を待っているのかもしれない。

「なあってば」

先ほどよりも大きめの声で再度声をかけてから足を止めた。律の声か足が止まった気配を察してか大樹も同じように足を止める。

「…んー?」

口調だけ聞けばいつもとなんら変わった様子はない。しかしやはり太陽の表情は分からない。

「こっちむけよ」

少しの間はあったもののこの言葉でようやく大樹はこちらを向いた。

「なんだよぉ」

ヘラッと笑って見せたその顔はどこかいつもと違うぎこちなさを感じたのはきっと気のせいではないだろう。

「ははっなに?呼んで見ただけってやつか?」

冗談ぽく話す大樹を置いて律はずっと聞きたかったことを口に出した。

「お前さ、怒ってる?」

「はー?なに言ってんだよ」

今度は全く間を開けずにどちらかといえば食い気味なほど早く答えた。

「……」

「…怒ってねえよ?ってか怒る理由ないし」

肩をすくめながら首をかしげる。

「…怒ってるだろ」

「怒ってねえって」

「……」

「…まじで」

「……」

「…つか今のこの無駄な会話でイラついちゃいそー?なんつって」

はははと乾いた笑いを浮かべる大樹にどう反応したらいいのかわからずつい「ごめん」と顔を俯かせる。

呆れからか面倒臭さからかくるため息がやけに大きく耳に届いた。

やっぱり今の言葉は忘れてくれ、そう言いかけたとき

「別に怒ってねえよ」

独り言のように呟いたのが口の動きで分かった。

「ただ、ただ…」

そこから先の言葉がなかなか続かない。大樹自身もなんと言ったらいいのか困っているようだった。律は下手に口を挟むことはせず静かに言葉を待った。

「……こわ、い?」

ようやく言葉にできたそれは律にはよく理解ができなかった。一体なにが怖いというのだろうか。しかし大樹でさえも自身が発した言葉にやや首をかしげる。

「いや、怖いより、不安?つうか…」

自嘲するような笑みを顔に作るとだらりとコンクリート壁に寄りかかるとそのままズリズリとその場にしゃがみ込んだ。律もその隣に人1人分ほどの距離を開けて座った。少し先に対して明るくもないくせに明滅する街頭が視界に映り込む。

「ずーーーーーーっと…気分が晴れない」

大樹はため息と同時に長く言葉を伸ばすとそのまま顔を埋めた。

「…ずっと?いつから?」

全くそんなふうには見えなかった。馬鹿なやつだと思っていたのだがもしかして見せないようにしていたのだろうか。

「……強いて言えば、大空と初めて会った時からだ」

「…は?」

体を縮こまらせながら、違う、違うんだけどと今にも泣き出してしまうのではないかと感じてしまうような震え声で幾度か呟いた。

正直なところ、律は動揺していた。初めてあってからもう何年になるのか分からないがこんな大樹を見たのは今日が初めてだった。

「大空を見るといつも何か思い出さないといけないって思うんだけど、どんなに考えても出てこない。…ほら、たまに無いか?心臓のあたりまで出てきてるのに一向に答えにならなくて段々と不安になってくるやつ」

身に覚えがないとは言い切れない。もう随分とそんな感覚になったことはないがきっと生きていた頃はよく感じていたのだろう。聞いただけでその感覚が一瞬蘇った。

「それが始まり。でもそんなのもう慣れた、流石にずっと続けばな。でもさ最近はそれがさらに強くなってきた。律がさ、今色々頑張ってんじゃん?でもさ俺にはそれが全くできないんだよ。覚えているのは自分の下の名前だけ。後はなにも、家族構成も年齢もなんで死んだのかも」

「……」

「…最近同じ夢ばっかり見るんだ。夢っていうより白昼夢みたいな。そこじゃマラソンの会場なんだよ。そこにはさいつもの皆んな居て、顔も思い出せないような人もたくさんいて、よーいどんの合図でみんな走り始めるんだ。俺も走ろうとするんだけど、足が全く動かなくて俺だけがスタート地点に取り残される」

「……嫌な、夢だな」

なんと声をかけたら正解なのか分からず当たり障りのない言葉で返す。

「はは…だろ?」

大樹はゴツンと音を立てて壁に頭をつけた。

「……ああ」

「……俺さどうなると思う?時計もないし、もう何年もずうっとこの世にいるけどいつか突然消えたり、悪霊になったりすんのかなぁ。なあ、悪霊になったらどうなるんだっけ?」

一瞬本当のことを伝えることに躊躇した。しかし嘘を言ったところで大樹はそのことに気づくのだろう。きっと彼は頭が良い。

「死神が狩る」

「……狩られたらどうなんの?地獄行き?」

「相当のことをしていない限りは地獄へは行かない。だけど、天国にもいかない。輪廻転生もない。誰も何もない部屋で過ごして、そして忘れられる。だんだんと、長い時間をかけて、そして誰も思い出せなくなった時消える。現世に残された人も死神も誰の記憶からも完全に消える。それで終わりだ」

「……………そ、っか。…やだな」

「……そうだな。…まあ俺は忘れない努力だけはしてやるよ」

最後の言葉は同情だとか気を使っただとかそう言うものは一切なかった。

「…んじゃ俺はその努力が身になることだけを祈っとくかな」

まるで今までのことが嘘のようにコロッと表情を一変させいつもの調子で笑った。今の表情のどこまでが本当なのか、そう不安に思う気持ちもあるにはあるが深く追求することはせず律も少し笑った。

「なあに青春してんだお前らは」

頭上から聞こえた声に律は顔を向ける。

「おっ小太郎じゃーん」

大樹は腰を上げ小太郎に顔を近づける。

「なにを呑気そうで何よりだぜ」

必殺猫パンチを2人の頬に素早くヒットさせる。

いってえ…と大樹は再びしゃがみ込んだ。もちろん律も痛みで声にならない声を上げた。

「大空は?ちゃんと帰らせたのか?」

「あったりめえだろー?」

「…ならいいけど、遅すぎんだよ手間かけさせるんじゃないぜ。もうそろ夜明けだ。さっさと帰るぞ」

確かに見上げると空が随分と明るんでいた。話し始めてどのくらい時間が立っていたのだろう。大樹を見ると本当に今までの時間はあったのだろうかと錯覚するほどいつも通り小太郎と話している。

あまりにじっと見過ぎていたのだろうか。大樹と目が合った。大樹は口の前に人差し指を一本立てた。先ほどのことは黙っておけと言うことだろう。言われなくても誰かにペラペラと話すような性格ではない。律は当たり前だと言う気持ちを込めて頷いた。


 翌日大空に持ってきてもらったアルバムを店の隅でペラペラと眺めていた。

「この店って予約なんかできたの?」

少し先でたまに店に顔を見せる客の声が聞こえた。おそらく律と大樹がいるこのスペースの壁に貼られた『予約席』という札が目に入ったのだろう。

壁と壁の間にあるこの席はほとんど全ての客からの死角になっており、見えるとすればカウンターに座る客なのだが幸運なことに今日この時間でカウンターを利用する客は一人もいなかった。一人でに捲られていくアルバムがあるなんて隣に座る客でさえ気付かないのだろう。

「ええ、極たまにね。常連の方用なんです」

大空はさらりと嘘をつく。いや嘘というのは些か失礼だろうか。きっと機転を効かせたと言う言葉の方があっている。

随分とここに馴染んだものだと感心しつつ律は手元に視線を戻した。

どれも懐かしい写真ばかりだ。記憶にあるものからないものまで様々。

写真に映る父も母も若いからか他人のようにさえ思う。こんなアルバムがあることすら知らなかったのだが一枚一枚見てみると随分と几帳面だったことがわかる。写真の下には必ずといって良いほど撮った日付と場所が記載されていた。

「人のアルバム見て楽しいか?」

前に座って同じようにアルバムを見ている太陽にふと聞いてみる。

「ん?んーまあ楽しいか楽しくないかで言われたら…割と楽しいな」

楽しいのか…。それならまあ良いかと律は再び写真に目を落とす。年齢もあってかなのだろうか中学生あたりになった頃から極端に写真が減ってきている。父親が病気で死んだのも確かこの頃だ。きっとそのことも関係しているのだろう。

「反抗期かぁ?」

大樹もそれに気がついてかこちらを揶揄うように笑った。その声が聞こえたのか配膳する大空はチラチラとこちらの様子を伺っている。

 「…はぁ」

最後の一冊を読み終えると律は軽く息をつく。

特に進展はないといっても良いだろう。胸元を触ってみても時計が戻ってきている様子はない。強いて言えば記憶の片隅に薄れていた両親の顔を鮮明に思い出すことができたことぐらいだ。しかしそのせいで、最期の母の表情もより頭の中で鮮明度を増した。

「……。」

律は太陽に気づかれぬよう首元に滲む冷や汗を拭った。

だんだんと、だんだんと周りの音がうるさく聞こえ始める。

食器を洗う音、サイフォンの音、客の声、外で阿呆のように吠える犬の声、風の音、心臓の音。目を固く瞑った音まで聞こえてしまいそうなほどだった。

やめてしまいたい。どんなに先へ進もうともやはりこの言葉が頭によぎる。

でもお前は先に進めるじゃんか

昨夜の言葉がリプレイされる。

「あ……」

律は前に座る大樹を見る。

「…なーにー。そんなに見つめられると照れちゃうわぁ」

頬に片手をそえわざとらしく体をくねらせる。

「……」

「…なんだよ、突っ込めよぉ。……気ぃ使ってんだぜ?」

「え」

「なぁーんてなっ。ジョーダンジョーダン」

大樹は自分の声でこちらの言葉をかき消すようにそういうと笑いながらこちらの肩を叩く。

「……お、俺、もう行かないと」

席を立った振動でわずかに残ったコーヒーが揺れる。

「ん、社畜だねー」

大樹は机にただりと腕を伸ばすと手首だけ動かして短く手を振った。

 

 「な、なぁおい、おいってば」

隣で小声ながらもうるさく声をかけてくる誠を無視しつつ目の前のパソコンに目を向ける。いつも通りの仕事をいつもより気持ち早めに片付けようと手を動かす。

「無視すんなって」

肩を小突かれてしまってはこちらも無視を続けることはできない。律は今まで打ち込んでいたデータを一旦保存してからため息がちに誠の方へ目だけ動かす。

「…なんだよ」

誠は床を蹴りキャスターつきの椅子を転がしながらコチラにやってくる。そしてガラガラと音を立て勢いを落とさないまま律の座っている椅子に大きな音を立ててぶつかった。

「うわっ」

「あっぶね!」

すると当たり前に周りで仕事をしていた人たちが一斉に振り返った。仕事中とはいえ多少ざわついていた場が一瞬にして静まりかえる。律は他の人と目を合わよう前に置かれたパソコンで体を隠すように伏せた。

「す、すみませ〜ん。ちょっと滑っちゃいましたー」

誠はえへえへと笑いながら元の場所に戻っていく。しばらくするてザワつきが戻ってきたのを確認してようやく律は上体を起こす。

「……。」

律は無言で誠の方を睨むが騒ぎを起こした張本人は全く反省してないのか顔の前に合掌を作ってヘラついている。

『なにやってんの笑』

机に置いていたすスマホがバイブレーションでメッセージの通知を知らせた。

送り先はどうやら結城のようだった。

『勢い余っちゃった笑』

隣に座る誠が返信する。

『バカじゃん』

『仕方ないだろ?』

2人は仕事中にも関わらず次々にメッセージでやり取りをしていく。律はと言うと、トーク画面は開いているものの作業は続けている。

『既読無視すんなー』

『すんなー』

ちょうどトーク画面を見たらそんなメッセージが目に入った。

律はしょうがなく『仕事しろ』とだけ打ってスマホの電源を落とした。

「メッセみろよなー」

休憩時間になるや否や誠は口をとがらせながらやってきた。

「仕事中だろって話」

スマホの電源をつけながらため息をつく。

「真面目ねぇ。ちょっとくらいサボったっていいじゃん」

結城はいつの間に買ったのか片手に飲み物を持っている。

「当たり前のことだろ」

「まーいいからさ!休憩行こうぜ」

「……」

誠の声にうながされるように背もたれにかけたジャケットを手に取った。


「んでさ、どうだったの?なんか進展あったわけ?」

それを聞きたかったのか。まぁそうだろうな。

「…家に行った」

「おお!」

「それでどうだったのぉ?」

「…特に何も」

律の返答に納得できないのか二人は不満げな声を上げる。

「まじで何もなかったのかよ」

「仮にも住んでたんでしょぉ?」

「アルバムは合ったから、見た。けど、特に何も変わらなかった」

少しでも何か思い出すことが出来たら変わったのかもしれない。いや思い出してはいるのだ。しかしそれが時計を取り戻す事に繋がるようにはならなかったのだ。

「他に方法はありそうなのぉ?」

「いや、今のところは無いな」

他に方法を見つけなければ。家がダメとなると、母親の実家はどうだろうか。いや、祖父母は小学生の時に亡くなったのだ。

なにか別の方法を必死に模索する自分に気が付き律は密かに驚いた。きっと以前の自分だったら諦めていただろう。仕方ないと自分に言い聞かせていたに違いない。やや癪に思うところもあるがそれもこれも大樹のあの言葉のお陰なのだろうか。

「…ねぇ」

「ん?」

困ったような悲しいような優しいような言葉にするには難しい表情を浮かべてみせる。

「一ついい事か悪いこと、受け取り方によるけどぉ……知りたい?」

「え……」

「なんだよそれ」

反応を見るに誠も知らないようだった。

意味ありげな表情が引っかかり一瞬迷った。

しかし寧ろきかないと行けない気がしてならなかった。

「…………しり、たい」

作る予定のなかった長い間の後律は頷いた。

「わかった。私ね、少し前に律のこと勝手に調べちゃったの。ご、ごめんね?」

「いや、それは別にいいけど…」

既に過去のことをすっかり話しているのだから今更調べられたところでどうとも思うことはなかった。結城は安心したように一息つくと軽く間を置いて口を再度開く。

「桜木由美子、さんであってる?お母さんの名前…」

ゴクリと生唾を飲み込む。確かに母の名前は桜木由美子で間違いはない。

なるほどとそこでようやく先ほどの謝罪の意味がわかった。

調べたというのはまわりからの噂を聞いて回ったとかそういうわけではどうやらないらしい。確か結城もどこかと契約をしていたはずだ。そこが何処だったのかは覚えていないか聞いていないのどちらかなのだが、おそらくそこでについて調べたのだ。下界の情報の方がこちらに流れている噂よりよっぽど信用性のあるものに違いない。

わざわざそんな詳しい情報まで調べて申し訳ないと言う意味だったのだろう。

「…ああ」

律の短い返答に気を悪くしたと思ったのか再び結城は謝罪の言葉を口にする。

「別に怒ってないよ」

なるべく優しい口調になるように心がけながら次の言葉を促した。

「私、彼女を知ってるのよぉ」

「え、マジかよ」

まさかの言葉に律よりも誠の方が早く反応を見せた。

「死神って今まで自分が案内した人、全部自分のパソコンのデータベースに保存されてるでしょぉ?」

結城の言うようにパソコンには担当した全ての亡者の情報が入っている。名前、年齢、死亡原因、場合によっては侵した罪と業務年数、そして

「あったのか?俺の親の名前」

律のというに首を一度縦に振る。

「律のお母さん。多分律の事恨んでなんてないと思うよ」

「…なんで?」

「……」

結城は表情を曇らせる。

「あ、いや話したく無いんなら別に…」

「ううん、これは話さないといけないと思うのぉ」

そういってかつて律の母親と会った時のことを話し始めた。


 「次の方どうぞぉ」

結城が声をかけると無言のまま一人の女性がやってきた。

「桜木、由美子さんで間違い無いですか?」

「はい」

すでに赤く腫らした目をしたまま小さく呟く。

こんな人も勿論少なくない。

「えぇっとぉ…」

それに手元に映し出された情報を見る限り由美子は自分の息子に殺されている。きっと心の傷も深いのだろう。こういうときは余計な慰め事などはせず、決められたことだけ伝えて終わらせるのが一番良いと長年働いてきてわかった。

「……では説明は以上になります。それではあちらのドアからぁ」

最期の説明を終え案内しようとした時今まで黙って聞いていた由美子が突然こちらの手を握った。握るというよりほとんどすがったに近い状態になった。

いきなりの事で思わず肩をびくつかせる。

「あのっ人を、人を殺した場合は地獄に行きますか?」

嗚咽混じりにそう問うてくる由美子を見て少なからず同情をした。

きっと息子のことが怖いのだろう。殺されたのだから当然だ。結城は力強く手を握ると「大丈夫ですよぉ。ちゃんと地獄に行きますから」と伝えた。

その瞬間由美子は大粒の涙を流してその場に崩れ落ちた。

「なら、なら私も地獄に行きます。お願いです、行かせてください」

そんなことを言いながら頭を床に擦り付ける。

「な、ちょ、っとぉ、顔あげてください」

なぜそんなことを言うのか皆目見当もつかなかった。結城は情けない声を上げなが半ば強引に顔を上げさせる。

「つ、罪を犯していない人は地獄へはいけないんですよぉ」

「でも、でも私は地獄へ行かないと、あの子に、あの子は悪くないの、私が地獄に行かないといけないのよ」

なぜそんな事を言うのか、その理由を聞こうとした時隣で仕事をしていた先輩に「どっかで車の暴走事故が起きたって報告来ただろうが。人もたくさん死んだってさ。今から忙しくなるんだからさっさと対応しろよ」

そう言われてしまった。

仕方なく「とりあえず落ち着いて?しばらくゆっくり過ごしてくださいねぇ」と、ろくに話も聞かず先へ進めてしまった。

初めてそんな事を言う亡者に出会った事、それに彼女に寄り添えなかった自分の不甲斐なさも相待って結城の記憶の中に深く刻まれていた。


 「あの時私がちゃんと話聞いておけばもっと早く気づけたかもしれないのに…」

ごめんね。そう言葉が続きそうだったため「ありがとう」と言葉を被せるようにいった。

「ありがとな、教えてくれて。おかげで……会いに、行けるよ」

「……うん」

「会いにいくのか?直接」

やや不安混じりのその表情を見ていると少しおかしくて息を吐くように笑みをこぼした。

「ああ、もう、行くしか方法がないから。直接、話を聞いてみる」

「大丈夫なんだな?」

よほど心配なのだろう。眉間に皺を寄せながらもややへの字に下がっている。

「…ああ。なあ結城、今の話全部本当のことなんだろ?か、母さんがいった言葉とか、気を遣っていったわけじゃないんだろ?」

「もちろんだよぉ」

律はすでに早く刻んでいる心臓を落ち着かせるように深呼吸を数回繰り返してから結城から母の居場所を聞いた。

「当たり前だけど結構遠いな、電車とバスでいっても半日はかかるって感じか」

律は腕時計を確認する。もうそろそろ昼時だ。今から行けばきっと夜になる前に着くことはできるだろう。

「…な、なあ」

「仕事なら俺らに任せとけって!」

「そうよぉ、二人で分ければ大した量じゃないし」

こちらが言おうとする事を察して二人は律よりも早く答えた。その優しさが沁みて思わず目の前が潤みそうになったが必死に堪えた。もっともそれに気付かない二人ではないことはもう知っている。

「あ、ありがとう…」

律は二人にお礼を伝えると最低限の荷物だけ持って仕事場を後にした。


 生きている間は仕事に行くため毎日満員電車に揺られていたのだが、この世界で電車にのるだなんてここでは初めてのことで律は先ほどとは違う緊張を胸に抱いていた。しかしその緊張とは反対に電車の乗り方は下界と全く変わらず思っていたよりもスムーズに乗車することができた。

電車に揺られると寝不足ではなくとも船を漕いでしまうのはきっと誰でも共通のことだろう。電車の揺れや音が母親のお腹にいた時と同じだからそのせいで眠たくなってしまうとどこかで聞いた気がする。無理に起きていてもきっと悪いことばかり考えてしまうだろう。それならばいっそ眠ってしまおうと律は目を瞑った。


 「ねえ見てみて父さんライオンだよおっきいね!」

「母さんもこっちきてよ!父さんと二人の写真撮ってあげる!」

 「うわっ海水飲んじゃった!しょっぱー。え、何?母さんが呼んでる?あ、お昼ご飯?やったー!スイカもあるの?」

「えー授業参加の二人ともくるの?やだなー、せめてどっちかにしてよ恥ずかしいじゃん」

「父さん…。今度は俺が父さんの代わりに母さんを守るよ」


 「……」

懐かしい夢を見ていたのだろう。よく覚えていないがやけに胸が苦しく鼻の奥がつんと痛むことだけは確かだった。乗り換えまでは後一駅、その間はずっと窓の外を見て過ごした。山もあるし川もある、大きなショッピングモールもあれば遊園地もある。田舎と都会が入り混じったこの数奇な場所ももうすっかり慣れてしまった。

 その後も電車に揺られては乗り換えてを三回ほど繰り返しようやく目的の駅へと着くことができた。

流石にずっと座っているだけだと体が固まってしまう。律は両手をからませてぐぅっと伸びをした。時刻は17時半。季節もあるのだろう。当たりはほとんど日が落ち街灯が灯されていた。

「…よし」

この駅から母の住む家まではそう遠くない。せいぜい10分かそこらだ。手土産でも買った方が良いのだろうかと考えたがそれも何か違う気がして律はスマホの地図アプリを開いた。

矢印は左に曲がってひたすら歩くように閉めている。不思議と緊張はしていなかった。

しばらく歩くとマンションやらアパートやらが多く見えてきた。恐らくあそこの建物のどれかなのだろう。

A-C 304号室

母のいる場所はどうやら5階建てのマンションのようだった。エレベーターもあるが律は階段を選んだ。ゆっくりゆっくり進んだつもりなのだが気がつけばもう部屋の前で足は止まっていた。

インターホンを押そうと伸ばした手が震えていたことに気づき手を下ろす。先程緊張していないなどと感じたがあれは全くの勘違いだ。これまで苦労していたはずがあまりにも順調に事が運び始めて感情が追いついていなかっただけなのだろう。元々冷たい手先がさらに冷えてそれが全身に感染していく。浅い呼吸を何度か繰り返すが一向に落ち着かない。

「あの、私に何か用ですか?」

少し離れたところでやや警戒気味の声が聞こえた。

「……」

今の言葉はきっと自分に投げかけられたものだ。ということは必然的にこの声の正体に気づいてしまった。額から頬にかけて汗が流れる。

「…っあ、あなた…」

次の言葉を聞く前に律は声の主とは反対の方へ走り出した。後ろでこちらを呼び止める声が聞こえたが無視した。二弾飛ばしで階段を降りていき踊り場で体の向きを変えようとした時

「……っ!」

「わっ…!」

階段を登ってきた女性に勢いよくぶつかってしまった。律は体格的にも少し体制を崩しただけで済んだのだが相手はすっかり尻もちをついてしまっていた。

「いったーい!」

「す、すみません」

急いでいるとはいえこちらに非がある。がそうしている間にも足音が後ろから聞こえてきた。こんな時に限って効率の良い行動ができずついその場に立ち止まってしまった。

「あれ…?えーっと、なんだっけ」

そうしている間に何やらぶつかった女性はこちらの顔をじっと見てブツブツと呟いている。

怪我をしていないのなら早くたって欲しい、そうややイライラしてしまう。

「あ、思い出した!律でしょ!あんた!」

劈くような声でこちらを指さした。

「は?」

誰だっただろうか、なぜ自分の名前を知っているのだろう。そんな律の内心を悟ったのか女は「覚えてないの?!」

と声を上げる。

「川霧美穂!お店出会ったでしょ!あんなに私に悪態着いたのに覚えてないわけ?ていうか!少し前もあったばっかじゃん?私がここにきたばっかりの時!」

「……っ」

「やぁっと思い出したか」

そうだ、確かに目の前にいるのはなるべく関わりたくないタイプのあの女だった。もちろん動揺していたからというのもあるがすぐに気づけなかった一番の理由は見た目が当初と随分違っていたからだ。爪はまだ派手だが髪色もメイクも若干ナチュラルなものに変わっており些か清潔感も上がっている。

「なんでお前がこんなところにいるんだよ…!」

「いやそれこっちのセリフなんでけど!」

「律、ねぇやっぱりあなた律なんでしょ?!」

突如悲痛に満ちた声が聞こえハッと反射的に振りかえってしまう。そこには肩で息を切りこちらを見下ろしている母が確かにいた。ここでは戻りたい時の見た目に戻ることが出来る。そのため最後の記憶の母より若くなっているはずなのに気が付けたのはあのアルバムを見たばっかりだからか、それとも面影が残っていたからなのか、とりあえず息を切らしてこちらを見ている女性をすぐに母と認識できた。

「え、なに?修羅場?」

馬鹿みたいなセリフを至って真面目な顔で呟く美穂の声をスルーして律は「場所を、変えよう」と母に声をかけた。


「あの人は、良かったの?」

母の部屋に入り向かいあわせで座る。律はどこを見たら良いのか分からずずっと手元だけを見つめていた。

「…さっきの子?なら、大丈夫」

美穂ならなんの用があってここにいるのかは知らないがこちらの雰囲気を察してかいつの間にか何処かに行ってしまっていた。

「…そうなのね」

「……」

何を話せば良いのだろうか。話したいこと、伝えなくては行けないこと、色々考えてきたのに頭が真っ白になり言葉の出し方さえ分からなくなってしまいそうだった。本心を言えばこの行動をする前の自分に戻りたいとさえ思った。

でもそれはきっと母も同じような気まずさを感じているのだろう。。先程からずっと挙動不審で口を開いては閉じてを繰り返している。

「お茶いれるわね、あ、コーヒーの方がいいかしら」

「いや、お茶でいい、よ」

分かったわと母が席を立つ。こんなにもきちんと会話が出来るのは一体何年ぶりなのだろうか。他人ではなくきちんと息子として接せられていることがこそばゆくもあるが気まずさもあった。

「あの、ごめん、なさい」

その言葉でお茶を入れようとしていた母の手がピタリと止まる。

「あ、あの時、俺、ご、ごめんなさい、ごめんなさい」

伝えたいことはそれだけでは無い。どれもこれも言い訳にしかならないのだがそれでも言いたいことは沢山あったのだ。しかし一度あふれた言葉は涙と一緒でなかなか止まらない。律は何度も何度も同じ言葉を繰り返していた。

その時ふわりと暖かいものに包み込まれる感覚があった。

「謝らないで、あなたは何も悪くないのよ」

母はそう言うと律を抱きしめながら頭を優しく撫でる。母も泣いているようで鼻をすする声が近くで聞こえた。

「私の方こそごめんなさい。あなたにあんな辛いことをさせてしまって、母親失格だわ」

その言葉にただただ首を振る。

「私、ずっとあなたに会いたかった。でも本当は会うべきでは無いんじゃないかとも思っていたわ」

母はそう言いながら律を抱きしめる力を強めた。母の小さな腕の中に律はすっかり包み込まれた。

「私がここに来てすぐにあなたも自殺したって伝えられたわ。ごめんね、ごめんね。律にはまだ未来があったのに…私のせいで」

「ちが、ちがう。母さんは悪くない。俺が、俺が母さんを守るって言ったのに、出来なかった」

「…愛しているわ律。今までもこれからもずっと」

「……うん、うん。俺も…俺もだよ」

それからしばらく、今までの溝を埋めるように二人は抱きしめ合ったまま涙を流した。ああなんだ、こんなにも簡単なことだったなんて。こんなことならもっと早く行動しておけばよかった。

「…そうだ律、お腹空いたんじゃない?」

ぽんぽんと子供をあやすように律の背中を優しく叩きながら母がそう声をかけてきた。言われてみればそうだ。もう夜だと言うのに口にしたのは朝に食べたサンドイッチ一つとコーヒー一杯ぐらいだろう。

「うん」

その返事を聞くと母は笑って「なら久々にアレ作っちゃいましょうかね」そういって律の体に回していた腕を解いた。今更ながらなんとなく泣き顔を見られるのは恥ずかしくて律は鼻をすすりながら顔を横にずらしてから口を開く。

「あれって?」

「あら覚えてない?あなた大好きだったでしょ、ほら…」

「「鶏肉とトマトのスープ」」

「ふふっやっぱり覚えていたわね」

母は嬉しそうに笑うとエプロンを身につけると冷蔵庫からいくつか食材を取り出し始める。

自分の好物を覚えていたわけではない。むしろ忘れていたくらいだ。しかし瞬間的に口に出していたのだ。一度思い出して仕舞えば確かにそうだったと納得ができる。確かにあの料理は律の大好物だった。小学生の頃の徒競走で一番を取った時も、志望校に受かった時も、自分の誕生日も。ご褒美に何が食べたいか聞かれたら必ずそれを頼んでいた。そう言えばいつだったか何か特別な調味料を入れているわけでもない、高級食品を使っているわけでも無いのに何故こんなにも美味しいのか聞いたことがあった。すると母は少しも迷わず「愛情よ」と答えてみせた。それも自信満々にだ。

「ふっ」

そんな事もあったなとつい笑みが溢れる。

「なぁに?一人で笑っちゃって。あ、そうだ。せっかくだから律も一緒に作りましょうよ」

「うん」

「じゃあとりあえずこのニンジンを乱切りにしてちょうだい。」

母に指示されるまま律は人参に刃を入れて慣れた手付きで切っていく。

「あら意外と上手ねえ」

こちらの手元を見ながら母は感心するように息をつく。

「いや、意外とってなんだよ。前から結構やってただろ?」

「あら?そう言えばそうだったわね。ふふふっ」

「そうだよ」

母と普通に会話をする。もう二度と叶うことのないと思っていたそんな普通で大切な日常が今目の前にある。その事実が嬉しくて心臓の奥がくすぐったい。

「そうだわ、ねえ律。あなたって今どんな風に暮らしてるの?お友達はできた?」

「ん?んーそうだな」

頭の中には考える間もなくたくさんの人の顔が浮かぶ。マスターに小太郎、太陽に大空そして誠と結城。

「…できたよ。みんないい人ばっかりだ。話したいことが、聞いて欲しいことがたくさんあるんだ」

「ええ、ちゃんと全部聞かせてね」

「うん。そうだなまずは…」

 半分ほど話し終えた頃には料理は懐かしい香りを漂わせて完成した。

「さ、器を出して。冷めないうちに食べちゃいましょ!」

ざらついた触り心地が妙に落ち着く陶器の器に真っ赤なスープとゴロゴロの肉や野菜がたっぷり注がれていく。器並々に注がれたスープをこぼさぬように机へと運ぶ。机には他にもトースターで焼かれた食パンとサラダがすでに準備されている。

「フランスパンでもあればよかったんだけどねぇ」

眉を下げて笑う母に「昔もずっと食パンだったよ」と言うと可笑しそうに笑った。

「それもそうねっ。さ、いただきましょ!」

木製のスプーンで器からこぼれないようにそっとスープをすくって口に入れる。

トマトの酸味とバターの香りが口に広がりパセリの香りがすぅっと鼻から抜けた。

ああ、そうだ。この味だ。

律は無言で次々と口にほおばっていく。スープを三回口に入れてパンを食べる。

あっという間に並々盛られていたスープは空になった。

「おかわりもあるわよ。食べる?」

「うん、食べる」

スープを胃に運んだことで少し暑くなった律は

占めていたネクタイを緩めボタンをひとつ開けた。

「じゃあ器ちょうだい?…あら、律それ」

器を受け取った母がもう片方の手で律の首元を指さす。

「え?」

第一ボタンが開けられたシャツを見ると何やら金属のチェーンがチラチラ光って見えた。

ドキリと心臓が大きく一回なったのがわかった。チェーンに指を這わせてを出してみる。

「あら律もその時計持っているのねぇ。懐中時計って言うのかしら」

「これ…」

一体いつからあったのだろうか。

実際手に持ってみてわかったことなのだがこの時計は全く重さがない。そのため一体いつから合ったのかが分からない。

母にあった時だろうか、それとも食事をとった時だろうか。そこでふと気がついた。

「あれ、母さんは…つけてないの?」

ブラウスからのぞかせる首元には何も無かった。母は知らないのだろうか。自らの意思であっても事故であっても、一度時計を外してしまえば

「時計はもう二度と戻ってこないんだ、昔の記憶もだんだん思い出せなくなる。知ってるの?」

困ったように知ってるわよと頷く。

「初めはつけていたのよ。映画館に行けば昔の思い出が見れるだなんて素敵じゃない。でもね、見れば見るほど苦しくなるのよ。この時はこうできたんじゃないか、もっと他に出来る事はあったんじゃないかって」

苦しんでいたのは律だけでは無かったのだ。母も同じように自責の念に駆られていたのだろう。律は「そっか」と小さく相槌をうった。

「でも別にいいのよ、律に会えたんだから」

「…そうだね」

律はカチカチと動く秒針を一瞥してシャツの中に戻した。

母は立ち上がると二杯目のスープを次にキッチンへと向かった。

その時ピロンという機械音が律のポケットの中から聞こえた。スマホを取りだして見てみると二件のメッセージが送られている。

『どうだった?大丈夫?』

『上手くいってるんなら明日の仕事休んでゆっくりしてろよ』

結城、誠の順で送られてきたメッセージを見てふっと息を漏らす。

『大丈夫。ありがとう。そうさせてもらうよ』

と返すとすぐに二人分の既読が着いた。

『なんだよ珍しく素直じゃんw』

『こんなの久々っていうか初めて見たかもー笑』

『いっつも一言だもんな』

『そうそう』

三人のグループでは二人が次々とメッセージでやり取りしている。いつもなら面倒くさいと思うところだが今日はそんなふたりのやり取りを眺めていた。するといきなり写真が一枚送られて来た。写真に写っているのは結城と誠の自撮りだった。

『一緒にいるのかよ』

ならスマホではなく直接やり取りすればいいものを、と呆れ笑いが出る。

「お友達?」

一杯目と変わらぬ量につがれた器をこちらに差し出してきながら母が尋ねてきた。

「うん。……友達」

「そうなの。さっき言ってた喫茶店の子?」

「ううん、この2人は…」

そう言いながら先程送られてきた写真を見せようとした時、「ん?」とある違和感に気がついた。このふたりの写真の奥に売っている鍋、見覚えがある。いや鍋どころか先程は気づかなかったが部屋にも心当たりがありすぎる。

『ちょっと待て、お前ら、これ俺の部屋でやってるのか?』

『そうだよー』

『気づくの遅すぎだろw』

『戸締りはちゃんとしないとねー』

吸った息を全て吐くように長いため息がでる。

「ど、どうしたの?」

そんな様子を見て、漫画なら必ず空に飛ぶ汗が描かれそうな表情で首を傾げる。

「ふっ…いや、それが…ははっ」

伝えようとしたがそれよりも先に笑いが出てしまう。こんな事は何時ぶりだろうか。こんなしょうもない事なのに笑いが出てしまう。

「面白い子達なのね」

こちらが笑っているのを見て安心したのか目を糸にする。

「面白い、な。確かに。後、すごいいい奴らなんだ」

「聞かせてくれる?」

「うん」

 その日は何年かぶりに寝付きが良かった。いつもは布団に入ってからも眠れない時間が続くのだが、今日は電車の中で寝たと言うのに布団に入った後からの記憶がなかった。

強いて言えば夜中だか明け方辺りか、誰かに頭を撫でられる感覚で緩く意識を戻した。が、夢か現実かわからず律は気にせず再び目を閉じ眠りについた。

 今何時だ…?

体が赴くままに目を開けると空はもう陽が登っていた。眠気まなこで律はスマホで時刻を確認する。

「…っ!え、十時?!」

ガバッと布団を捲れ上がらせながら律は飛び起きた。何度確認しても時刻は十時、見間違いではなかった。

「まじかぁ…」

寝すぎのせいかぼうっとする頭でリビングに入ると母がテレビをつけながら裁縫をしていた。

「あら。なんてねっふふ。よく寝てたわねぇ。ご飯食べる?お腹すいたでしょ」

「…うん」

朝目が覚めたら母がいる。やっと母に会えた、そのことを再度実感でき嬉しさが腹の底から込み上げる。

「ねえ、母さんはもう食べたの?」

親どりについていく雛のように律は母の背中を追いそう声をかけた。

「何いってんの、当たり前でしょ?もう十時よ」

「それもそっか」

律がそういって笑うとそうよーと母も笑った。

数分もすると机には具沢山の味噌汁にハムエッグ、白米と焼き魚とサラダが並べられた。洋風なのか和風なのか判断がつき辛いところだがそんな普段ないような朝食も子供に帰ったようで楽しかった。

 「おいし?」

寝起きとは思えない食べっぷりを見せる律を見ながら母はそう聞いてくる。口に味噌汁を含んだ状態で大きく一度頷いてみせた。

「そう?なら良かった」

そういって裁縫を再開するわけでもなくただ食事をする律のことを頬杖をつきながら眺めている。ずっと見られているのは照れ臭かったがわざわざ指摘もしなかった。

 「もう帰るの?もっと居たらいいのに」

昼過ぎ駅まで見送りに来てくれてた母は残念そうに眉を下げる。もっと居たいのはこちらも一緒だ。叶うならずっとここに居たいとさえ思う。しかしそうもできないのが悲しい現実だ。

「またすぐ来るよ。母さんも、暇な時は俺の家に泊まりに来たらいい」  

「それもそうねっ。時間はたっぷりあるんだもの」

そういうと母はこちらに向かって両手を広げて見せる。周りの目もあった気にせず律も手を広げて懐抱する。

「…ちょっと大きくなったんじゃない?」

「ははっ…そんなわけないよ」

「…大きくなってたのね、律」

「……」

目の奥がジンと熱くなっていたのが分かり「じゃあ俺もう行かないと」そういって母から離れた。これ以上いるときっと人前にも関わらず泣いてしまうことになるだろう。

「そうね、気をつけてね」

そういって母は律の手に何かを握らせるとこちらに手を振る。そんな母に一度頷いてみせてから背を向け駅の改札口を抜ける。

電車に乗り込む前に後ろを振り返ると母は笑ってまた手を振った。今度は律もそれに応えるように小さく振り替えしてから乗車した。車掌の声でゆっくりと電車が動き出す。見えなくなる最後まで母は手を振っていた。

律はもう見えなくなった母がいた方向を名残惜しく数秒見つめてから空いている席に座った。

先ほど何を渡されたのだろうと律は右手を開いてみる。すると中には手のひらにぎりぎり収まるくらいの大きさで作られたお守りがあった。和柄に糸で「お守り」と刺繍されている。おそらく母の手作りだろう。今朝はこれを作っていたのだろうか。器用だなと触っていると中からカサリと音が聞こえた。どうやら

中に何か入っているようだ。

「これは…」

中には四つ折りにされたメモ用紙が入っていた。

「あなたが生まれてきたことが私の一番の誇りです。生まれてきてくれてありがとう。愛しています」

そう三行のメッセージが書かれていた。

「俺も、なんか手紙、書けばよか、ったかなぁ」

堰を切ったように涙が溢れてくる。

最近涙もろいなぁ。なんて考えながら律はメモをお守りの中に戻してそのままスーツの内ポケットに大切にしまった。


 「随分と顔色が良くなったねぇ」

出勤するなりそう結城にそう声をかけられる。

「え、やっぱり…」

そういって顔をさすると「自覚あるんかーい」と横から誠にツッコミを入れられる。おかしな話、今朝顔を洗った時に鏡に映る自分が一瞬他人かと思ってしまったほどだった。

「まあ何はともあれ無事解決したみてぇで良かったよ」

「…ああ、本当に二人ともありがとう」

そういって頭を下げると二人は謙遜するでもなく「じゃあ今度何かお礼に奢ってもらおうかなー」などと現金なことを言い始める。

「や、焼肉くらいなら…」

律がそう言うと二人はガッツポーズをして喜んだ。早くも何を食べようかなどと悩んでいる。

「気ぃ早すぎだろ」

そういって思わず笑い声を上げると二人はこちらを見て目を丸くした。

「え、な、何…?」

いきなり黙られてしまってはこちら動揺せざるをえない。

「いや、俺お前の笑った顔見るの初めてだわ…」

「私もぉ。結構笑うと幼くなるのねぇ」

いつものように明るく言ってくれるならまだしもそんな真顔の状態でまじまじ言われてしまうとなんだか気恥ずかしい。

「そ、んなことないだろ…。別に笑ったことぐらいあっただろ」

二人の視線から逃れるため外方を向く。

「いやそんな事あるよぉ。だって律のそんな笑顔って今まで全く想像できなかったもん」

「笑うっつったってお前、あったとしても鼻で笑うくらいだろうが」

「あと愛想笑い100パーセントのねぇ」

「そうそう!こっちに気を遣ってんのは分かるけどあれは大根役者すぎだよなあ」

「あははっわかるぅ」

少し黙って聞いていればひどい言われようだ。それに少々盛り上がりすぎだ。周りの目が痛い。そろそろ一回黙らせないといけないな。

律は小さく咳払いをして口を開いた。

「…楽しそうなところ悪いが、俺はお前らが勝手に俺の部屋で勝手に鍋使って勝手に飯食ってたことは忘れてないからな」

「あ……」

二人は水を切ったように静かになる。

「…っとぉ、そろそろ仕事でもしよっかな〜」

「私もぉ…今日は忙しいんだったぁ」

二人は急に真面目な素振りを見せるとパソコンの方に体を向ける。

「二人も十分大根役者だな」

さっきの仕返しというわけではないがボソリとそう呟くと二人は

「「いやいやいやいや」」

と顔の前で大きく手を振る。そこから再びどちらの方が下手くそなのかと言うとてつもなくどうでもいい論争を始める。そんな二人に挟まれながら律は黙々と仕事を進める。

「おい、何関係ないふりしてんだよ」

「そうよぉ」

自分に話が戻ってくる予定ではなかったため「いや俺関係ないだろ?」とつい声のボリュームを抑えずに言ってしまった。

「ゔぉっほん」

少し奥の席で誰かの嘘っぽい咳払いが聞こえた。きっとこちらに向けてのものだろう。流石の二人もまずいと思ったのか急いでパソコンに向き直るとようやくまともに仕事を始めた。

 あと少しで休憩になる、そんな時間にふと後ろから声をかけられる。

「ねえ君、受付ので君を呼んでほしいって子が来てますけど」

「え?」

振り返るとおそらく受付で働いているであろう地味な男が立っていた。

「誰が呼んでるんですか?」

「さぁ?聞いてないですね。でも同職の方だと思いますよ」

真面目な風貌に似合わず雑な仕事をするなと思いながらとりあえず「ありがとうございまず」とお礼を伝える。

「いえ、仕事ですので」

そう言うと男はさっさと戻っていった。

「愛想ねえなぁ」

ため息混じりの声が耳に届く。

「ここじゃああ言う人も珍しくないけどねぇ」

結城の言う通りだろう。ここの世界では働きたくて働いている人など一握りもいない。

死神で知り合いなんてこの二人以外いただろうか…。ひとまず会いに行けばわかるか。律はパソコンを閉じると受付へと向かった。

 「なんでここにいるんだよ…」

待っていると言うのは彼女のことだったのか。内股気味で椅子に座るのは少し前にあったばかりの美穂だった。彼女もまた全身黒のスーツにネクタイを締めていた。

「あはっそのセリフ二回目ー」

美穂は顔の横にピースサインを作って見せる。

「俺になんの用があるんだ?」

「んー、ここじゃなんだからさっ。ちょっと付き合ってよ」

 そう言われて連れてこられたのは仕事場近くの公園だ。

「で、どうしたんだよ。わざわざこんなところまで来て」

そう言いながらベンチに座る美穂にすぐそこの自販機で買ったオレンジジュースを渡す。

「あっありがとーっと。んでさ早速なんだけど!」

律が自分用に買ったプラックコーヒーのプルタブを開けながら少し離れた隣に腰掛けるとすぐに美穂はこちらに距離を詰めてキラキラと目を輝かせる。

「この間の人ってさぁ、アンタのお母さん?」

「…そうだよ」

「うわぁ〜やっぱり?めっちゃおめでとうなんだけど!」

美穂はパチパチと手と手を合わせて拍手をする。

「あのなぁ、勝手におめでとうとか言ってるけど、もし俺と母親がうまく行ってなかったらどうするつもりだよ」

「えー、女の勘ってやつ?今日見てすぐわかったもん。あのあとうまくいったんだーって。めっっちゃ顔色良くなってっし」

「……」

「ていうかさぁ、アンタがお母さんに会えたのちょっとくらい私のおかげ無い?」

「はぁ?」

何を言っているんだこいつは。律は言葉の意図が掴めなかった。

「え、だってさぁ?あの時私とぶつからなかったらそのまま帰ってたんじゃないの?」

「……そんなこと、ねぇよ」

「声ちっちゃ」

美穂はイタズラをする小学生のような笑みを作ると「なぁんかお礼して貰わないとなぁ」

などとまるで誰かのようなことを言い出した。

なぜ自分の周りは同じような事を言う者ばかりなのだろうかとため息が出る。

「嘘に決まってんじゃん!あはっこれでじゅーぶん」

そう言ってオレンジジュースをブンブンと振り回す。半分ほどの容量になったジュースの表面に泡がたつ。

そーかよと適当に返事をして今度は律が質問をしてみる。

「そう言うお前はどうなんだよ。親父さん探してんだろ?」

「あ、あー…。まぁ、ね」

途端言葉を濁し始める美穂に触れてはいけない事だったのかと焦った。

「い、いや、その」

美穂は頭を下げ大きく肩を落とす。泣き始めてしまったのかなで肩が小刻みに震えている。

今の言葉を何とか無かったことに取り繕うとしたのだが、慣れないようなことをしようとすると余計にまごつくだけだった。

「ぷっ……あはは!」

突然美穂は大声で笑い始める。

「え…」

ついに頭がおかしくなってしまったのかと思い律は言葉を失った。ポカンとする律と一人でに爆笑している美穂、そんな対象的な二人が横並びで座っているのだ。周りから怪訝な目を向けられても仕方ない。

「いや、ごめんごめん。ま、まさか、あはっそんなに、動揺するとは思わなかった、から」

美穂は苦しそうに喘ぎ喘ぎ言葉を創った。

「ほら、見てんこれ」

そう言って差し出されたスマホの画面には美穂と男性の二人が写っている。美穂は軽やかにウインクをして見せているが、片方の男は写真慣れしていないのか、分かりやすいほどに緊張している。

「実は、もう既に見つけちゃってるんだよねー」

「ま!…じか。凄いな…」

自力でみつけ出したのだろうか、それには流石の律も感心せざるを得なかった。

「よく見つけれたな…」

「んまーねー」

美穂は腰に手をやりふふんと鼻を鳴らす。

「まあ、ほとんどはね?これのおかげちゃおかげなんだけどー」

そう言って苦々しく笑いながら自身の服装を指さす。これ、というのは死神のおかげという事なのだろうか。そういえば会った際もこの服だったなと今更ながらに思い出した。

「いやてかさぁ!私のこの服見て何かないわけ?!」

本当に感情の起伏が凄いな。そう思いながら「どういうことだよ」と眉を顰める。

「いや、いやいやいやぁ。私、死神になっちゃったんだよ!?」

「うん、まぁ。だろうなって感じだし。」

律は冷静に返す。その返事にえーっ、と眉を大きくさげ、口を大きく開きオーバーリアクションをして見せる。

「なにそれぇ。ほんっとに失礼だよねー。」

「当たり前だ。逆に言うがよくなんの罰も受けないと思ってたな」

うるさいなぁと美穂は口をとがらせる。

「でも、これのおかげってどういう意味だ?」

少し考えてみてもやはりよく意味がわからない。律は話題を戻して聞いてみる。

「うんー。私さ、今家庭訪問?みたいな仕事してるんだよねー。色んな人の家回って困ってる事ないですかーって。で、あったら報告するか、私が手伝うかって」

「ふぅん」

そんな仕事もあるのか。と言うことはあの時も美穂は仕事であそこを訪れていたのだろう。

「ははっ。興味なさそー。意外とキツいんだからね?まあいいや。んで、何時だったかなぁ、たまたま休んだ人の代わりにいつも行かない範囲の家に行ったんだけどさぁ。まさかのそこで見覚えのある名前はっけーん!って、その日の予定じゃなかったけどまぁ行くしかないよね!って感じ!」

「すごい行動力だな」

「まぁねー、逃げ出すアンタとは違うってことよ!」

「…うるせぇぞ」

「声ちっちゃ」

律は右手に持ったコーヒーを一気に口に運ぶ。

「さぁてとっ。仕事戻ろっかなぁ」

ぴょんと反動をつけて立ち上がる。

「仕事行くんならそれ直しとけよ」

そう言って視線をコーヒーから移さないまま自身の首元を指さす。

「え?あー本当にまじめだねー」

そう言いながらも緩んでいたネクタイを上まで閉めた。

「さっさと行け」

「はいはーい。ほんっと変わんないね。…あぁでもちょっとは変わったかも」

「ん?」

「じゃね!」

最後の言葉の意味を聞く前に美穂は小走りで去っていってしまった。変わった、と言うのはどの辺りなのだろう。やはり顔だろうか。

…まぁいいや。

辺りにふわりと優しい風が吹く。律は目にかかった前髪を直しながら席を立った。

髪、少し切ろうかな、そんな事を考えながら律は胸元で微かに揺れる時計をそっと止めた。


「え、それまじ?」

「ああ」

店を閉め、静かになった店内で大樹の声が響く。

「ってことは、解決ってこと?」

「そうなるな」

小太郎は律の目の前に移動すると右足でりつの襟首を引っ張る。

「確かに時計もあるみたいだぜ」

「ほんとだ!」

二人はこちらの首元をまじまじと見つめる。

「え、ちょっと待てよ。なら俺らが、いや大空が不法侵入って罪を犯したことも意味なかったってことかぁ?」

大樹は片眉を上げて大空の方を見る。

「ちょっと言い方!バレてないんだからいいじゃない!」

大空は机をドンッと叩いて反論にならない反論をした。

「その考え方もどうかと思うぜ」

「あ、そっか」

こたろうの冷静な突っ込みに大空はハッとして口元を手で抑える。

「意味ないことなんてない。あそこに行かなかったら多分俺はまだ母さんには会えてなかったと思うし。ありがとうな色々協力してくれて」

「…ほぉーん、まぁならいいけどよ!」

「えへへ…困った時はお互い様だしね!」

大空も大樹も何故か少し照れている様子だった。二人して同じように口をとがせている。

「な、なんだよその反応」

律の言葉に「だって、ねぇ?」と二人で顔を見合わせる。

「律にそんな、感謝されると思ってなかったし…」

「なんか慣れねぇよなぁ」

そんなにも俺がお礼を言うことはおかしいのかとややショックを受ける。

「無事に解決できたみたいでよかったよ」

お盆に二人分の紅茶一杯のコーヒーとミルクを乗せてマスターがこちらにやってくる。

「はい、ありがとうございます。あの…それで実はもう一つマスターにお願いがあるのですが」


「お前料理なんて出来たのかよ」

野菜を切る律に大樹は何故かこちらを疑うような目で見てくる。

「生活能力低そうなのに…」

ボソッと大空も酷いことを言ってくる。

一応これまでのお礼も兼ねて母から教わったスープを振舞おうとキッチンを貸してもらったのだが、驚くことに冷蔵庫には必要な食材が全て揃っている。まぁどの料理でもよく使う物だからと言ってしまわればそうなのだが。

「何作ってんの?」

「俺の、思い出の料理」

「へぇー楽しみっ。私料理できないから尊敬するなぁ」

「出来ないのか!意外だぜ」

カウンターの外とはいえずっと見られていると少し緊張する。

鶏肉を切り終わったらバターを予め引いていたフライパンで軽く焦げ目が着くまで焼く。

「既に美味そう」

大樹の独り言に大空もウンウンと大きく頷く。焼きあがったら切った野菜と鶏肉を鍋にトマト缶を入れて一緒にグツグツと煮込んでいく。

10分ほどに混んだらバターを入れたさらに煮込む。根菜に箸が通るようになったら上からパセリをかけて出来上がりだ。

四人分の器に盛り付けて机に並べる。

鍋を人と一緒に食べた事などはあるが一から自分で作った料理を食べてもらうだなんて初めてのことで少し不安だった。

「んっ美味しい!」

「めっちゃうめえなこれ!」

「うん。とても美味しいね」

「こりゃいけるぜ!」

皆の反応を聞きほっと胸を撫で下ろす。

ちゃんと出来たみたいで良かった。律も同じように口に運んでみる。

「……?」

「ん?なんだよ。変な顔して。別に不味くないだろ?」

確かに不味くはない。味だって美味しい。しかし母が作ってくれたものとは何かが違う気がしてならない。何か調味料の入れ忘れでもあっただろうか。いやそんなことは無いはずだ。野菜の切り方まで細かくメモをしていたのだから。

『隠し味はね…』

母の言葉が表情が、そのまま頭に再生される。

ああそうか。それはきっと俺には無理だ。あの隠し味は母だけの特別なものなのだ。

「ふっ」

「…何笑ってんだ?変なやつだぜ」

「いや別に。ただ、俺にあの料理は一生作れないなって思っただけだ。俺だけの特権って訳だ」

その言葉に大樹は「なんだそれ。なんかずりぃぞ」と不平を鳴らした。


「それ、どうすんだよ」

食べ終えた皆の食器を洗う律の首元にに大樹は指を指す。

「……。」

「見てみるかい?まぁもっとも、思い出の食事は今食べてしまったから見るだけなら君一人でもできるがね」

隣で焙煎をするマスターにそう声をかけられる。確かに黄泉の國の映画館に行けばいつだって見ることは出来る。

「俺は……見ません。この時計は、外します。」

律は濡れた手のまま自分の首の後ろに手をかける。母が時計を外し、過去を振り返らず今を生きるというのなら息子である俺もそれに沿うのが生き方というものだ。

「みんなには悪いとは思うよ。時計を取り戻して過去を見るために今まで手伝ってもらっていたんだから。でも俺はやっぱり…」

「まぁいんじゃねえの?その時計はお前のもんだし、どう使おうが所有者の勝手ってやつだろ」

大樹は頬杖をつきながらそう言ってみせる。

「それもそっかぁ」

大空もその言葉に納得した様子だった。

「君が決めたことなら自信を持ってするといいよ」

マスターの言葉を最後の引き金に律はチェーンの金具を外した。

「あ……」

手のひらに置かれた懐中時計は最後に大きく一回秒針を刻むとまるで金の砂のようにサラサラと指の間から零れていく。

「綺麗…」

大空が言葉を漏らす。

時計は五秒もしないうちに完全に手の中から消え去った。指の間から落ちたはずの残骸も不思議とどこにも見当たらない。

「これでまた一からだな」

大樹の言葉に「そうだな」と笑った。

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