三食目.納豆チャーハンカレー

 「で、早速なんですけど」

次の日、いつもより少しだけ早く出勤した大空はカウンターに座るなりずいっと目の前にいるマスターに身を近よせる。

「昨日のことでしょう?」

マスターはかけていた眼鏡を曇らせながらティーカップにコポコポと紅茶を注いだ。まるでこの時間に来ることが分かっていたかのように、今出来上がったばかりの紅茶を差し出した。

「わー、ありがとうございます」

一礼してから大空は口に運ぶ。最近は昼間でも肌寒くなってきたため暖かい紅茶がありがたい。ほっと一息ついてから大空はとあることに気がついた。

「そういえば大樹と小太郎は?」

律や小太郎がいないのは良くあることなのだが彼がいないのは珍しい。

「散歩に行っているよ」

散歩なんてそんな小洒落た趣味があったのかと少し感心したが大空はすぐに閃いたように「ああ」と声をあげる。

「小太郎の付き添いとか?」

小太郎はよく一人で散歩に出掛けているがいつも一人というのもつまらないものなのだろう。それで大樹を誘ったというわけではないだろうか。

「いいや、むしろ逆かな」

「え?!」

散歩をするなんて意外だと思ったがたまには外の空気を吸いたくなるのも当然なのかも知れない。

「散歩が趣味とか意外すぎるかも」

「大空さんは、何か趣味はあるかい?」

「趣味、かあ…。私万年帰宅部だったしなあ。あ!逆にマスターは何かないんですか?趣味!」

マスターはグラスを拭く手を一瞬止めてから再び手を動かし始めると口を開く。

「私は人の話を聞くのが趣味、ですかね」

「あーだから喫茶店開いたんですかぁ。納得ーって違う違うこんな話じゃなくて、昨日の、そう昨日の話が聞きたいんですよ」

別の話をしているうちにすっかり頭から抜けてしまっていた。

「やっほー!マスターに大空ちゃん!もうやってる?」

せっかく思い出したのだがタイミング悪く早くも一人目の常連が来店してしまった。

「ええ、もう時間ですからね。どうぞお好きな席に」

大空は仕方なく残っていた紅茶を飲み干すとメニュー表を持って常連の元へ向かった。この日は土曜日ということもあってかいつもより人が多くなかなか聞く暇がない。忙しいというよりは、この店に来る常連の大半はお喋りな人が多いためそれに付き合っていたら結局17時半まで手が開くことはなく気がつけばもう閉店時間を30分ほど過ぎていた。

「つ、疲れた…」

大空は上半身をカウンターにダランと寝そべさせる。

「ふふ、大空さんは相変わらず大人気だね」

「そ、そう見えます?」

「ええ、私は人の話を聞くのは好きだけど、話すのはあまり得意ではないので大空さんがいてくれて助かるよ」

「へへっ」

大空は嬉しくて机の下で足をパタパタと動かす。

「何やってんだ、落ち着きねえな」

急に背後から声が聞こえたせいで思い切り肩をびくつかせてしまった。

「いやびっくりしすぎだろ」

大樹はふっと鼻を鳴らすと同じようにカウンターに座る。

「急に声をかけたお前が悪いぜ今のは」

小太郎も同じタイミングで戻って来ていたようで尻尾で大樹の頬を軽く叩きながらカウンターの上に登ってきた。

「いやいやそれにしてもビビりすぎだろ今のは。まじおもしれー」

相変わらずこちらをいちいち小馬鹿にするような物言いだ。

「あーうるさいうるさい。あんたと話してるといっつも話脱線しちゃうんだから今日は黙っててよ。私は昨日の話が聞きたいの」

「昨日のって…ああ、あれか」

大樹は一度納得したような表情を見せたものの「いやでも…」と言葉を続ける。

「そのことなら昨日俺とか律が説明したじゃねえか。あれが全部だよ」

「おや、もう説明していたのかい」

「ああ、マスターが昨日の人となんか話している間にな」

確かにきいた。それは間違いないのだが

「説明って言ったって、せいぜい死んじゃった人に思い出の料理を食べさせてあげるってレベルの簡潔なものじゃない」

それではむしろ謎が深まるというものだ。大空はその先が知りたい。そう思ってマスターに尋ねているのだが帰ってきた返事はあまりにも残念なものだった。

「いやその通りだよ。ここは夜になると亡者が訪れる。私はその人に思い出の料理を食べさせる。それ以上でも以下でもないんだよ」

「…そ、そんなぁ」

「ま、昨日律も言ってたけどさ、そういうもんだと思うしかねえと思うな俺は」

「…まあ、幽霊と普通に会話できるんだから、そういうものもある、よね」

大空は昨晩と同じように自分に言い聞かせる。もちろん納得できていないのは自分が一番理解しているのだがどうすることもできない。

「でも幽霊と普通に会話できるのは大空ぐらいなもんだぜ」

「ちょっと小太郎やめてよ。今せっかく自分を納得できそうなところだったのに」

大空は口を尖らせる。

「それなら納得できるまで夜も来たらいいじゃねえかよ。どうせ暇だろ?」

最後の一言は余計だが確かにそれはいい案かもしれない。大空はマスターをチラリと見る。

「いいけれど、夜来る時はちゃんと親御さんには連絡しておくんだよ」

「いいんですか?ありがとうございます!それじゃあ私一回家に帰りますね」

大空が席をたつと「なんだよ帰るのかよ」と小太郎は残念そうな声をあげる。

「仮眠とらないと、夜起きてられないかもでしょ?どうせ数時間後にまた会えるからさ」

「人間は大変だなー」

大樹がやや棒読み気味でそういった。

「太陽だってたまに寝てるじゃないか」

「いや小太郎よりは寝てねえって」

「オイラは猫なんだぜ?」

「今は化け猫だろうが」

二人がやいやいと話しているのを尻目に大空は店を出た。


 「ただいまあー」

「大空ーおかえり!見てみてじゃじゃーん!職場の人からプリンもらったのよー!今食べる?」

大空が帰ると母は化粧台の前で派手目の化粧を施している。おそらく少し前に帰ってきたばかりなのだろう。普段パートの時に使っている鞄がガサツに置かれていた。

「いや仮眠とろっかな」

「あら、またどこか行くの?」

母は唇に赤いリップを塗りながら「えー」と声を上げた。

「……友達が暇だから遊ぼって。夜からだから今のうち寝とかないと」

一応母には店のことは言わないことにした。こんな夜になってもバイト先に行くなんて母はきっと許さない。そんなにずっとバイトをしなくても大丈夫と、母は言うだろう。私が頑張るからと。

大空は隅に寄せていた布団を広げるとそこに寝転がった。

「それはいいんだけど、気をつけてよ?大空はあの人みたいに…」

。おそらく父のことだろう。あの人みたいにいなくならないで

そう言いたいのかも知れない。

「私はママを捨てたり…一人にさせたりなんかしないよ」

「……。ちゃんと、言わないといけないのは分かってるのよ」

「え?」

どういう意味か聞こうとしたがその時見えた母の横顔が大空の口を止めた。

大空は話題を変えるように上半身だけ起こすと散らばった化粧品の中から先ほど母がつけていたリップを手に取った。

うわっディオールの新色じゃんこれ。

「…ねえママ、このリップお客さんからの貰い物?」

「え?そうよー。よく分かったわね」

やはりそうか、全くこれを渡した客とやらは金だけ持っていてセンスが悪いようだ。

「ママはこういうキツい赤よりオレンジとか肌の色に近い色のが似合うと思うよ」

「えーあらそうなの?やだあもう塗っちゃったわ。ってもうこんな時間!私もう行かなきゃ!じゃあね大空、気をつけるのよ!」

母は小さいカバンを手にするとバタバタを忙しない様子で家を出て行った。

 大空が小学生の頃から母はスナックとパートを掛け持ちして働いている。大空もそんな母の姿を見て育ったため将来は必ずいい就職先について楽をさせたいと意気込んでいたものの大空は成績が悪かった。別に勉強していなかったというわけではない。どちらかというと他よりよくやっていた方だったと思っている。

母は「すっかり私に似ちゃったわねー」と全く気にする様子もなく豪快に笑った。

どんなに努力しても地頭のいい奴には勝てない、早々にそう悟った大空はどんな職場でもいいとと思っていたのだがこのご時世、どこを探しても給料が低い割に休みがないのだ。それならバイトを掛け持ちしていた方がよっぽど稼げる。そして今に至ると言うわけだ。

と言ってもこのままフリーターと言うのもよくないことはよくわかっている。早くいい職場を探さないとと思ってはいるものの最近周りでありえないことばかり起こるため、就職について考えている余裕など頭になかった。

「ふあーあ」

大空は大きな欠伸をすると部屋の電気を決して眠りについた。


 「思ったけど、幽霊ってそんな頻繁に来るものなの?なんも考えないしに来ちゃったけど…」

もう時計は午前二時、大空が店に来てからそろそろ一時間が経つ頃だが一向に来る様子はない。マスターが出してくれた紅茶もすっかり飲み終わってしまった。

「来るさ、毎日来る。」

律が手元の本に目を落としながら短く答える。

「なんだその本?」

大樹は不信感をあらわにした様子で本の表紙をじっと見つめる。

「黄泉の國で貰ったものだ。自分が書いたものだから是非読んで欲しいってな」実は先ほどから大空も気になっており大樹に便乗するかのように背表紙を覗き込んだ。

「『転生したら死神だった件について』…」

ラノベじゃん。

「…ってなんだそりゃ。小説ってこんなんだっけか?」

「小説、と言うよりラノベかな…。転生、し、死神、系の…?」

死神が死神系のラノベを読んでいるのが少し面白くて大空は思わず顔を背けて肩を振るわせる。

「ラノベ?」

大樹と律は聞き慣れないと言って様子で首を傾げる。

「ライトノベルっていうジャンルの小説かな。私はそもそも文章読むの嫌いだから読んだことないけど、最近よく聞くし人気なジャンルかな、多分。ていうか現世?のものを持ち込めるんだね」

「申請すればな」

まぁ実物と言うよりはコピーしたものをって感じだけどなと律は最後に付け足した。

「へぇ」

結構便利な世界なんだ...。幼い頃は死んだらどこに行くのかと考え夜眠れなくなったこともあったがこんな世界だと知った今、昔の自分にその事を教えてやりたいとしみじみ思った。

「なあ律。それ読み終わったら貸してくれよ」

両手で頬杖をつくと本を指さす。

「いいけど、珍しいな。いつも読みたがらないくせに」

「だあって律がいつも読んでるやつ全部難しそうなんだもん。でもそれは表紙にめっちゃ絵描いてあるし読みやすそうじゃん」

「まあいいけど」

二人のゆるい会話を聞いていると

「客だぜー」

と小太郎の同じくゆるい声が後ろから聞こえる。振り返ると確かにそこには小太郎とその後ろにだらけた様子で立つ一人の女性がいた。


 「ど、どうぞ」

マスターに言われ大空は女性に一杯のお冷を出す。

「大空さんも一緒に話を聞きましょうか、この方とも年齢が近そうですし」

マスターのありがたい言葉のおかげで大空は女性のすぐ隣で話を一緒に聞けることになった。

「え、てかおねーさんいくつ?」

突然ナンパ師のような声の掛けられかたに大空は思わず「え」に濁点がついたような声をあげた。

「じゅ、十九です…」

「へーじゃあうちの一個上じゃんね」

女は「ウケる」と言いながら水を口に運ぶ。

え、何が?と言うよりこの人私より年下?!

大空は女の容姿をざっと目で追う。根元が伸びプリンのようになった髪に、濃いめな化粧に派手な爪。失礼なのはわかるがどう見ても高校生には見えなかった。

「てかアタシのネイルかわいくね?変えたばっかだったんだよねー…」

「は、はあ…」

女の物言いに困惑しているとマスターが軽く咳払いをした。

「すみませんが、まずお名前をお伺いしても?」

「あー川霧美穂かわぎりみほ。エルジェーケーでーす。美穂ってよんでねー」

女は顔の横で大きくピースを作ってウインクする。

「エ、エル……」

マスターは言葉の意味がわからないのか小さく復唱する。

「ラスト女子高生。高校三年生って意味です」

大空は耳打ちをするようにそう伝えた。

「な、なるほど」

流石のマスターも困惑しているようで何度か咳払いをしていた。

寧ろここまでマスターを困惑させることができるこの美穂という女性は割とすごいのではないかと変な関心の目で見てしまう。

「キャラ濃いなー」

奥の方で大樹の呟く声が聞こえた。大空は聞こえたらどうするんだとそっと美穂の方を見たが、特に聞こえたという事はないようだ。

「ここにくればさあ、食べたい料理が食べれるんでしょ?」

そういうと髪をかき上げた。

「ええ、そうですよ。ですがその前にあなたのことを聞かせてくれませんか?」

「アタシの事?」

美穂は「うーん、、そーねー」と唸りながら腕をくんだ。

「…アタシは、中学まではザ普通だったんだよね。田舎の芋って感じ。ほっくほくだよー?んで、中学の時に母親の浮気が原因で離婚したんだよねー。それで親父と二人暮らしになったんだけどさー、中学なんて反抗期じゃん?しかも父親と二人とかまあそん時のアタシには耐えらんなかったって感じ。家には帰りたくないし、だからだんだん深夜まででも一緒に遊べるような柄の悪い同級生と遊ぶようになって、そっからちょい悪の先輩とかとも連むようになったんだー。万引きとかタバコとか?まあとにかくイキってた。今思うとダサいよねー。その度に親父は学校とか店とかに謝罪に行ってた」

そこまで言うと美穂は「マジやばいよねー…はは」と苦笑いする。

今のこの様子を見るにきっと過去のことについて反省しているのがわかる。かと言ってやったことが全て無くならない事というのも分かってるのだろう。美穂は強く下唇を噛んでいた。

「そしたら…高二になったばっかりだったかな。親父倒れたんだよ。癌だったんだって。あっという間に死んじゃった。ほんとびっくりだよ、人ってあんな簡単に死ぬんだ。私も死んじゃった…。そこらへんで出会った男のバイクに乗ってたら事故でさ。もうさ、ほんとなんでアタシ…」

美穂は言葉を詰まらせた。大空は何も声をかける事はできなかった。

「…話してくれてありがとうございました。では川霧さん。今あなたが首にかけているその時計、一度私に見せてくれませんか」

「え?ど、どれ。どれのこと?」

おそらく服の隙間から見えるこのチェーンも昨晩の稲垣と同じように生前から美穂がつけていたものではないのだろう。

「これですよ」

大空は首に見えるチェーンを代わりに少しだけ引っ張り出す。

「何、これ…?」

「それは懐中時計です。あなたはこの針が二周、つまり二週間が経つまでに黄泉の國に行かなければいけません。この説明はおそらく亡くなった時に聞いたことでしょう」

「は、はい…。聞いたけど」

大空もこの懐中時計についてここまで詳しく聞いたのは初めてで美穂の時計を一緒になってじっと見る。見ると時計には太く七本の線が刻まれている。言うことは一メモリが一日だと言うことが容易に理解できた。

「少し借りますよ」

マスターは懐中時計の蓋を開ける。

「そしてね、この針を逆に回していくとあなたのこれまでの人生を見ることができるのです。と言うわけで、少し失礼しますよ。ああ川霧さん。彼女も一緒に見せてあげてもよろしいですか?何分なにぶんまだ経験が少ないものでよかったら、と思いまして。どうです?」

「え?ええ、まあい、いいですけど」

おそらく彼女はまだ状況がよく飲み込めいないのだろう。あまり考えることなくすぐに了承した。

「では大空さん、川霧さんの手を握ってください」

大空は言われるがまま手をそっと控えめに握る。

「動かしますよ」

てっきり前回のようにコマ送りのような感じで見えるのかと思っていたのだが今回は違った。ビデオ映像、本当にその通りだった。一つ違うといえば今自分たちが座っているカウンターだけは存在していると言うところだけだった。


 初めの映像は誕生日のようだった。その次は運動会、お泊まり会。

しかし、しばらくすると一人の男がまだあどけない顔をした美穂の肩を掴んでいる映像に変わった。

「母さんとは離婚することになった。これからは父さんと一緒に暮らそう」

「……。」

川霧は返事をしなかった。ただ先ほどと同じように下唇を噛んで下を向いていた。

するとキュルキュルという音と共に今度は学校へと場所が移った。

 夕日がさす教室の中で一人川霧は頬杖をついて窓の外をみている。

「晩御飯何食べようかな」

そう呟きながら財布の中に入っている5000円札を眺める。

「どうしたの川霧さーん。そんな札見つめてさぁ」

教室に入ってきた少し派手目な男女が声をかける。

美穂は少し驚いた素振りを見せた。側から見たらカツアゲに見えなくもない。

「あ、うち父子家庭でさ。夕飯代いつももらってるんだ」

「あーそういえばいっつもコンビニ飯だもんねー」

「う、うん」

目の前にいるセーラー服姿の美穂は隣に座っている人物とはまるで別人だった。

「てか父親と暮らすの、なんつーか息苦しくね?」

一人の女子生徒が美穂の前の机に腰掛ける。その言葉を聞いた美穂は少しだけ声をあがらせた。

「そう、そうなの…!」

「あはっやっぱあ?いやうちも父子家庭だからさめっちゃ分かるわー。てかどうせ晩飯一人なんでしょ?じゃあうちらと一緒に遊ぼうよ!」

「いいの…?あ、遊びたい!」

きっとここが美穂の人生を変える大きな分岐点と行ってもいいのだろう。そこからはとても早かった。長いスカートを短く折る。メイクをする。授業をサボって遊びにいく。お金なくなって万引きをする。

 転落人生。人の人生にどうこう口出しするのは良くないが一言で表すならこの言葉だろう。

しばらくそんな映像が続いていたのだがだんだんと美穂の父が映ることが多くなる。しかもそのどれもが謝罪している映像なのだ。

学校に、お店に、暮らすの親に。何度も何度も謝る映像ばかり連続して流れるのだ。

「な、何よこれ、ちょ、ちょっと止めてよ」

隣で小さく震えた声が聞こえた。バレないように視線だけを動かすと美穂の目は見ているこちらが不安になる程泳いでいる。それでも映像は止まることなく流れ続けた。

「申し訳ありません。申し訳ありません」

なんの関係もないこちらの心臓が苦しくなってきて耳を塞ぎたい気持ちでいっぱいだった。

「ねえ、ねえもういいって、ほんとにさあ」

「申し訳ありません。しっかり言って聞かせますので」

「やめてってば!」

「申し訳ありません」

「ねえ聞こえないの?!もう終わっていいって!」

「申し訳ありません」

「ねえ!やめて!もうやめてって言ってるでしょ!!」

美穂の絶叫に近い声が聞こえた時映像はまるで見計らったかのように動きを止めた。

やっと終わったのだろうか。大空も美穂もそう思った時。突然画面が変わり映し出されたのは雨の日の葬儀場だった。遺影の中に映るのは美穂の父だった。

「ふざけないで!!!」

美穂はこちらの手を振り払ってから怒りをあらわにして机を強い力でたたく。

ようやく映像は終わり驚くほど一瞬でいつもの景色に戻った。美穂は肩で息をしている。あたりは静寂に包まれ秒針の音だけがやけに大きく聞こえた。

「何?なんなの?なんでアタシはこんなもの見せられないといけないのよ!」

静寂を破ったのは言わずもがな美穂だった。

「…何よわかってるわよアタシが悪いんでしょ?!あんたたちはそれが言いたいだけでしょ!ほんとに意味わかんないんだけど!アタシのせいで親父が死んだとでも言いたいわけ?そんなわけないでしょ!アタシは一回も親父に育ててくれなんて頼んだ覚えも学校に謝ってくれって頼んだ覚えもない!全部あいつが勝手にやったことなのよ!」

美穂は言葉になっているかも怪しい声で怒鳴り続ける。マスターは何も口を挟まなかった。大空は、口を挟まないと言うより言葉が出なかったの方が正しかった。振り払われた手がじんじんと熱を持つ。

「そもそも何?浮気されるような頼りがいのないあいつが悪いんじゃない!離婚しなかったらこんなことにもならなかった!アタシだって死ななかった!知らないわよ!知らない!アタシ何も悪くない!!」

ガシャン!

突然何かが割れるような音が聞こえた。再び店内には静寂が訪れる。大空はてっきり美穂が怒鳴っている拍子に何かを落としてしまったのかと思ったのだがどうも違うらしい。大空はよくよく思い出してみて音が聞こえたのは隣ではなく、奥の方だったと思い出し、恐る恐る後ろを振り返る。見ると律が手でも滑らせたのかコーヒーカップを床に落としてしまったようだ。

「だ、大丈夫?」

「なんだよ、びっくりしたなあもう。……おい。…おいってば、大丈夫か?律?」

大樹の言葉に律は一切返事をしない。どうやら自分がカップを落としたことにも気づいていないようだった。

「おい律!」

肩を揺さぶられ律はようやくハッとしたように「な、なんだよ」と反応する。

「いや、それこっちのセリフな。カップ落としてんぞ」

「え、あっ……」

律は急いで床に散らばった破片を拾おうと手を伸ばす。

「おいおい危ないぜ」

カップが落ちる前に危険を察知して逃げていたのか一つ隣の机の上で毛を逆立てた小太郎が律に注意する。

「いや、大丈夫だ。別に俺は…」

しかしそんな言葉を無視して律は破片を手で拾っていく。

「こら律、危ないから触らないよ」

マスターが軽く宥めるような口調で、奥から持ってきた箒を使い床を掃き始める。

「す、すみません。俺がやります」

「…そうかい。ありがとうね」

律はマスターから箒を受け取り大樹は何も言わずにちりとりを手にした。

「あ、あとこのカップも弁償します」

「いや、いいんだよ。最近ティーカップを増やしすぎてしまってね、いくつか捨てようと思っていたところなんだ。だから気にしなくていいんだよ」

「…すみません」

律は深々と頭を下げてから静かに床を掃く。

「珍しいよな、そんなぼーっととするなんてさ」

大樹はちりとりを器用に使って大きな破片を集めながら言った。

「疲れてるんだろ、休んだほうがいいと思うぜー」

「……いや、大丈夫だ。悪かった」

「……」

いつもとは違う雰囲気に大樹と小太郎は困惑した様子で顔を見合わせた。


 「騒がしくしてしまって申し訳なかったね」

カウンターに戻ってきたマスターが美穂にそう声をかける。

「……。あ、あのごめんなさい。あ、アタシ」

先ほどの威勢はどこへやら、今の間にすっかり冷静になっていたようだ。

もしかしたら律はこれを狙っていたのだろうかとも考えたが、それにしてはやはり様子がおかしい。きっとたまたまなのだろう。

すっかり元気を無くした美穂にマスターはいつもと変わらない優しい声をかける。

「いいえ、お気になさらず。他にも同じような方はいらっしゃいますので」

「…ごめんなさい」

美穂はすっかりおとなしくなって俯きながら長くきらめく爪をいじる。まるで別人だ。

「では少々お待ちください」

マスターはそれだけいうと冷蔵庫から食材を次々取り出す。

卵、ネギ、納豆、にんじん、ジャガイモ…。

次々と具材が出てくるがこれから何が作られるのかさっぱりだった。しかし美穂は材料を見て気づいたのか「あ…」と小さく声を上げた。

 三十分ほどだろうか。マスターは完成した料理をカウンターの上に出す。

「納豆チャーハン」

米と卵と納豆。それだけが合わさったシンプルなチャーハンが大皿に盛られている。しかしこれで終わりではないのを大空はわかっていた。作る工程を見ていたので当たり前だ。あともう一つはカレー。

二品作ることもあるんだ…。

そんなことを考えているとマスターはレードルに並々一杯分のカレーを注ぐとそれを別の器に入れる、のではなくそのままチャーハンの上にかけた。

「えっ」

絶対に別々で食べた方が美味しい、そう思ったのと同時につい声が出てしまった。

マスターはカレーをかけ終えるとスプーンと共に美穂に差し出す。

「あ、ありがとーございます」

小さく頭を下げるとスプーンでそれを少し混ぜ合わせてから口に運ぶ。

「……」

ゴクリと音を立ててそれを飲み込むと悲しそうに少しだけ微笑んだ。そして何も言わずにそれをどんどん口に運んでいく。皿に盛られた納豆チャーハンカレーはあっという間に彼女の胃の中へと消えていった。

 「はあーー…」

美穂は大きく息をついてから背もたれにもたれかかる。

「お、おいしかったです、か?」

どうしても味が気になった大空は遠慮気味に聞いたみた。その言葉に反応して美穂は目だけをこちらによこした。一瞬まずいことを聞いてしまったのかと内心焦ったが彼女はすぐに笑った。

「気になる?ははっやっぱ普通こんな食べ方しないもんね」

「は、はい」

美穂はスプーンで残った米粒を集めながらぽつりぽつりと話し始める。

「親父が作るチャーハンっていつも量が多いんだよ。二人じゃ食い切れないぐらい。アタシそれが嫌でさ飽きたから食べたくないって言ったんだ。もともと反抗期ってこともあったけど。そしたら味変だってレトルトカレーかけ始めて。それが異常に美味しくてさ、あの時は笑ったなあ。まさかの組み合わせで。でもそっからすぐにグレ始めてもう食べることは無くなったんだ。多分親父なりに気を使ってたんだと思う。あれから何回か自分でこっそり作ったけどあの味は作れなかった」

美穂は再び大きなため息をついてからしばらく沈黙する。

「…ねえ、黄泉の国ってさどんなところ?」

そう小さな声でそう尋ねてきた。

「え、えっと…」

大空は前に律から教えてもらったことを思い出しながら説明する。

「人が、輪廻するまでの時間を過ごすためのところみたいです」

「そこって何かあったりするの?ずっとそこで過ごすの暇にならない?」

「え、っとぉ……」

思いだぜばそんな詳しいことまで聞いたことがなかった。

「暇にはならないと思います。あそこには娯楽施設や遊戯施設などあるので」

大空が困ったことに気がついてか律は椅子に座ったまま、代わりに説明してくれた。

「へえー…そうなんだ」

美穂はそういうと大空に向かって耳打ちをする。

「ねえあの人も店員なの?」

今まで何も会話をなかった者が大空より詳しいことに疑問に持ったのだろう。美穂は律のことを怪訝な様子で見つめている。

「いえ、彼は死神です。多分私より詳しいかと…」

「死神…。じ、じゃあもうひとつ教えてほしんだけど輪廻するまでってどのくらいかかるの?」

「人によります」

律は一切こちらを向くことなく最低限の言葉で答えた。

大空は律の仕事姿を見たことはないが、普段話している様子を見るにもう少し丁寧に回答するのだと思っていた。それとも仕事中はいつもこのような感じなのだろうか。しかしマスターを見てみると少し心配そうに律の様子を伺っている。やはりいつもと少し違うのかもしれない。先ほどもグラスを落としていたところをみるとやはり疲れが溜まっているのだろう。

大空は律に負担がいかないように美穂とは自分が話そうと声をかけた。

「美穂さんは、早く生まれ変わりたいんですか?」

「……いや、そうじゃない」

そういうと美穂は少し迷った素振りを見せてから口を開く。

「親父をさ、探したいんだよね。会いたいんだ、もう一回。やっぱ会って話したいっていうか、謝りたいっていうか…。都合いいのはわかってるんだけど。ねえ、アタシ親父に会えると思う?」

「あ……。」

きっと会えますよ。簡単には言えなかった。何せ黄泉の国などいったことはないし、その場所のルールなども知らない。しかし輪廻するまでの時間は確か結構な期間があったはずだ。不可能なことではないのだろうか。そう伝えようとした時、大空よりも先に口を開いたのは律だった。

「会えるわけないだろ」

一瞬聞き間違いかと思った。自分の耳がおかしくなってしまったと思った。

しかしそれは前に立っているマスターの顔を見れば一目瞭然だった。明らかに動揺した顔で律の方を向いている。聞き間違いでも耳がおかしくなったわけでもないようだ。

「えっ……」

美穂の表情は明らかに引き攣っている。そんな言葉をかけられると思っていなかったのだろう。人間だれしも自分にとって都合のいい言葉を期待するものだ。

「会えるわけないっていってんだお前みたいな奴が」

律の声色は震えていた。しかしその震えは怖いだとか悲しいだとか言うもでは無いというのは聞くだけでわかる。何かに大別するのであれば怒りな気がする。

「……。」

マスターを見たが意外にも律を止めようとする素振りは一切見せてはいなかった。

「さんざん迷惑をかけ続けてきた分際でよくそんなことが言えるな。自分のために親がどれだけ苦労したのかお前は何もわかってない…!」

律はその場から立ち上がるとこちらの方、正確には美穂の方へ向かってきた。怒りの矛先が自分でない事は理解しているのに反射程に体を後ろにのけぞらせてしまった。。

「お、おい、律やめろよ!」

大樹は律を静止しようと同じように席から立ち上がると腕を掴む。律はそこで足を止めた。こちらとの距離は二メートルほどまで近まっている。

すると間に入るように小太郎は机の上に飛び乗り律に向かって構えるような姿勢をとった。律はその状態になってもなお言葉を続けた。

「終いにはなんだ?自分は頼んでない?勝手にやったって?ふざけてんじゃねえよ!頼まれなくてもやらないといけない状況を作ったのはお前なんじゃないのか!お前がそのことをもっとわかっていれば、お前の親は死ななかったんじゃないのか?自分のせいで親が死んだって、考えたことないのかよ!そんな奴が親にもう一回会っていいわけがないだろ!!」

「律、もうやめなさい」

そこでようやく、マスターが静かに口を開いた。

見ると頬が濡れていた。美穂がではない。涙を流していたのは律だった。

「………外で、頭冷やしてきます」

律はそれだけ言うとドアの方へと足を進める。律の背中はいつもの何倍も小さく見えた。律がドアノブに手をかけた時

「ちょっと待ちなさいよ」

美穂は立ち上がりつかつかと律の方へ向かっていく。律は首だけこちらに向けて「なんだよ」と低く呟く。

「なんだよ、じゃないわよ。あんたアタシに対して言い逃げするなんていい度胸ね!ちょっとこっち向きなさいよ!」

美穂はすごい剣幕で律に向かって指をさす。

「……。」

律はそれでも振り向こうとしなかった。痺れを切らしたのか美穂は律の腕に触ろうと腕を伸ばす。それに気づいた律はものすごい速さで触れられないように腕をあげるとその反動で背中をドアにぶつけた。。

「おい、俺に触んな!」

「……何?なんで触られたくないの?触ってほしくないくらいにアタシが嫌い?まあそんなのはどうでもいいや、それよりアンタようやくこっち向いたわね!頭を冷やすのは勝手だけどまずアタシの意見も聞いてから!それからよ!」

まるで宣戦布告をするように指をさす。予想だにしない展開に大空は驚くことすら忘れ二人の様子をまるで試合観戦でもしているかのような気持ちで見守った。

「は、はあ?意味がないだろそんなことしても」

律は体の向きを変えずに腕だけ伸ばしてドアノブを捻ろうとした。

「いいの?逃げるんだったらアタシあんたが吐くまで触ってやるけど」

「……っ」

どうやら美穂の方が一枚上手といってもいいらしい。と言っても美穂自体はなぜ律が触ってほしくないのか微塵も理解はしていない。それは当たり前のことだ。しかし人を意図的に悪霊化させるなど律なら絶対にしない。他の死神はどうか分からないが運よく律にはその言葉が効いたようで「……わかった」結果そう言わせた。美穂のかけは見事成功したということだ。

「では、もう少し話しましょうか」

マスターは二人分の飲み物をテーブルの上においた。

 「ねえ、マスターって全部見越してたとか、流石にないよね?」

二人が座る席から離れた場所に大樹と座る。小太郎は机の上で毛繕いをしながら同じように二人の様子を伺っていた。

「流石にないだろ、とは言い切れねえな」

大樹はから笑いをする。

 「言いたいこと言ったらさっさと行けよ」

律は大きくため息をついていつものようにコーヒーを口に運ぶ。

とは言っても明らかに動揺しているということは普段見ている大空達からしたらすぐに分かった。

「はー何その態度。そんな態度取るんならずっと言ってやんないから」

「…………。」

「あはっ怒ってるー」

美穂はそう言って煽るように手を叩く。律は重々しくため息をついた。律からすれば彼女のようなタイプは心底苦手なのだろう。先ほどから一切目を合わせようとしていない。

「そーれでっ、なんの話だっけね」

「俺に言いたいことがあるんだろうが…!」

「あ!そうだったそうだったあ」

「……」

美穂はそういう性格なのかわざとなのか分からないが、律の気持ちを逆撫でするのに非常に向いていた。見ているこちらがハラハラするほどだ。

「んー、まああんたが言ってたことは何も間違ってないし、アタシが悪いのはわかってる。実際、アタシがいなかったら親父も死ぬことはなかったと思ってる」

「……そのことなんだが、さっきは勢いでああいったけど実は人の寿命ってのは大体決まってるんだ」

黙ってしまった美穂に律は決まりが悪そうに言った。

「え、そうなの?」

「ああ、といってもそれまで送ってきた人生によって多少なり変わることはあるがせいぜい一、二年だ」

「……そう」

そういって少し黙った。その表情は悲しみと安堵が入り混じったようなものだった。

「許されたいとか思ってないって言ったら嘘になるけど、それでもアタシは謝りたいの。自分勝手だって分かってる、今更遅いって分かってる、でもさ…。謝らないとアタシ、先に進めない。もう死んじゃってるし、先に何があるかとかわかんないけどさ、自分なりのケジメなんだよ。だからあんたが何を言ってもアタシは探すの。文句言わないでよね」

「……言わねえよ」

そこでようやく律は美穂の顔を見る。

「行ってもすぐに会えるとは限らない。黄泉の國っていうのは広いんだ。そうそう簡単に会えるなんて奇跡は起こらない」

「……うん」

「でも時間だけはある。やるだけやればいい。……と、俺は思う」

律の言葉に美穂はニッと口角を上げる。

「意外と優しいよねー。でも安心してよ!私運だけは超いいから!ありがと」

運がいいやつは事故で死なないだろと呟いた律の言葉が聞こえたのか聞こえていないのか美穂はニヘっと笑って見せた。

「ほら、もう行け。せっかく好きなところ行けるんだから」

「はいはい、分かったもう行くよっと。明日の朝までぶらぶらしてそしたらすぐ黄泉の國って場所かなあ」

美穂はグーっと伸びをする。

「俺としてはギリギリまでここにいて欲しいんだがな」

律はぼそっとそんな事を言う。

「え?なん……。あ、分かった!あっち《黄泉の國》でアタシに会いたくないんでしょ!やっぱ前言撤回あんた最低だわー」

うわーと美穂はオーバーリアクションを取った。

「はぁ、分かってるなら良かった早く行け」

「チェッわーかったてば。速攻で行ってやるから」

「……」

美穂はその場から立ち上がるとマスターに深く辞儀をした。

「いろいろごめんなさい。でも、料理食べれてよかったです!」

「いいえ、こちらこそ」

マスターも軽く一礼で返した。

「おねーさんも話聞いてくれてありがとね!マジ美味いから納豆チャーハンカレー、いつかやってみてよ」

「そうだね。やってみる」

大空はそう言って笑いかける。

 美穂が外に出る前、半開きになったドアの前で再び振り返り律の方を見る。

「あんたも早く先に進めたらいいね」

そんな意味深な言葉を投げかけた。

「………はあ?なんだそれ」

「んー別に?何もないならないで良いけど。たださっきはアタシに怒ってるんじゃなくて、もっとに怒っているように見えて…」

その言葉に律は眉間に皺を作ると「俺やっぱりお前嫌いだわ」と吐き捨てるように言った。

「あはっお揃いじゃん、アタシもだよ!じゃあね!」

ドアはバタリと閉められた。


 「今日は本当にすみませんでした」

律はその場で大きく頭を下げる。すこしの間の後、マスターはゆっくり口を開く。

「結果彼女も元気に前を向けたようだし良いんだよ。でもこれからはお客様にああ言う態度は控える、いや、金輪際しないようにね」

顔は笑っているものの言葉の圧は強かった。当事者でない大空でさえ謝りそうになる雰囲気だった。

「も、もちろんです」

律はズボンの横をシワが出来るほど握っていた。

「お前たちも、悪かった」

「別にー気にしてねえけど。珍しいな、律があんな感情的になるなんて」

「……悪い」

「別に攻めちゃいねえけど」

「……」

律は再び黙り込んだ。落ち込んでいるというよりまた何か考え事をしているように見える。

「ほら、もう今日は帰れよ」

小太郎がその場に突っ立ったままの律の足を頭でグイッと押す。

「あ、ああ。そうする。じゃあ俺はこれで」

律は最後にもう一度マスターに頭を下げてから黄泉の國へと帰っていった。

 「悪かったな」

ぼーっと律がいなくなった場所を見つめていると大樹がそう声をかけてきた。

「え、何が?」

「いや、何がって…」

大樹は少し言いにくそうに頭をかいた。

「だって俺が今日来いって言わなかったらこんな場面に出くわすことなかっただろ?だから悪かったと思って」

「別にそれは大樹が謝ることではないでしょ?別に誰が謝ることでもないけど」

「そうだとしてもやはり気疲れはしたでしょう?私の方からも謝罪します」

マスターはこちらにほのかに湯気立つホットミルクを差し出しながらそういった

「いえ、そんな。気にしてないです。……でも、あの」

そうは言ってもやはりなぜ律があそこまで怒ったのか、そして最後の美穂の『あんたも早く先に進めたらいいね』とはどういう意味なのか、気になって仕方がなかった。

「律のことか?」

大樹の言葉に大空は頷く。

「俺も気になるんだよな、あいつのこと。なあマスター、ちょっとで良いから律のこと教えてくんない?」

顔の前で手を合わす大樹にマスターは少し困ったように笑った。

「言ったところで君たちに何ができるんだい?」

「それは……」

マスターの的確な質問に大空も大樹もすっかり黙ってしまった。きっと何もできない。悩みを人に話せば楽に気持ちも楽になるなんて綺麗事、律には通じないと分かっているからだ。

「本人が話す気がないのなら私から言う事も難しいかな、デリケートな話になってしまうしね」

「そう、ですよね。すみません」

大空は自分の考えが軽率だったと反省した。マスターは小さく首を横に振る。そしてグラスを洗い始めた。

「かわりにオイラが教えてやるよ」

「ちょ、ちょっと待って」

いきなりの言葉に思わず大空は小太郎の話を静止した。

「お前さっきの話聞いてなかったのか?」

大樹も呆れた様子で机の上に登って来た小太郎の腹を突く。小太郎は器用に尻尾で大樹の手を叩いた。

「私から言うのは難しいって言ったんだぜ」

だから自分以外が言うのは大丈夫と、まさかそう言うことなのだろうか。

信じがたいと言う表情を隠さないまま大空はマスターの方に目をやった。マスターはというとこちらの声が聞こえない距離にいないわけでもないのにただ黙ってグラスを拭き続けていた。

「マジか…」

思わず声が漏れる。

「別に聞きたくなかったら聞かなくてもいいんだぜ?べ、つ、に」

そう言われてしまったら多少罪悪感があっても聞きたくなってしまうのが人の性というものだろう。

「聞かせて欲しい、かも」

大空の言葉に満足そうに頷いてからチラリと大樹の方も見た。

「俺も…。」

「よし、じゃあ二回も説明しないからよく聞いておけよ。あいつは…」


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