第7話

 何気なく雪女の話を読んだ時、俺達のことを思い出したらしい。


「娘が出来てからそれっきりじゃん? 今はそれなりに稼いでしっかり生活してるようだけど、昔は若さ故の行き当たりばったり感が凄まじい生活してたでしょ? ちょっと子育て一緒にやるの無理だなって離れたんだけど、娘達も巣立って落ち着いた今、あいつらどうしてんだろって気になって、ちょっかい掛けに来ちゃった」

 兄貴と兄さんはいくつの時か知らないけれど、俺は十代の終わりに彼女と出会った。

 再会した彼女は、あの頃と変わらず、二十歳前後の女の子に見える。とても、巣立つような娘がいるように見えない。

 てか、娘達?

「三姉妹なの。上がごっちゃん、真ん中がオッサム、下が君の娘」

「……ぇ」

 どんな顔をすればいいのか。

 頭が上手く回らないが、それでも、何かおかしいことは分かる。

 それを指摘する言葉が思いつかず、龍文のお喋りは続いた。

「サクくんにも言ったけど、付き合ってる時に約束したよね、私のことを無闇に吹聴しないって」

「……あ、あぁ、そういえば」

「あの二人は呼び間違えた上に、約束を破った。最悪だよ。……好きだったのに」

 泣きそうに顔を歪め出したから、ほとんど無意識に彼女の身体を抱き寄せる。ついでに背中を軽く叩いたら、嬉しそうに頬擦りしてきた。

「サクくんは間違えなかったから、それでいっか」

「……」

 黄橋の兄貴に、青柳の兄さん。

 どちらも大切な、尊敬できる年上の友人。

 彼女が彼らを貶すたび、彼らとの楽しかった記憶が甦る。

「私ね、いきなり会ったらびっくりするだろうから、一旦別の人間になって近付いたの。オッサムとごっちゃんが呼んだのは、そっちの名前。微妙に私の要素顔に残してるんだから、私の名前を呼べばいいのにね」

「俺にも同じことを」

「してたよ。言わなくても分かるよね?」

 思い当たる人物がいる。

 顔を思い出そうとしても、龍文の姿へと塗り潰される人物が。

「和子は」

「そう、私。だから君の家に和子はいない」

「……そっか」

 こんな状況ではあるけれど、その言葉に少しほっとした。

 帰るかどうかも分からない人間を待ちながら、一人で荷造りをしている女がいないなら……それでいい。

 俺の様子を見て、更に彼女は身体を寄せてくる。

「サクくん、ごっちゃんとオッサムは死んだよ」

「……うん」

 何でそんな残酷なこと、嬉しそうに何度も言うんだろう。龍文にとっても、好きな相手のはずなのに。

 そしてその声で、酷いことを口にする。


「──だから書いて、追悼小説」


「……っ」

「三人が仲良しなのは皆が知ってること。オッサムとごっちゃんが立て続けに死んで、残ったサクくんが何もしないのはどうなのかな」

 殺したのは誰なのか。

「それに私、サクくんの小説好きだし。だから書いて、桜の話」

 桜。

「二人も書いてるじゃん。上か下かの」

 二人に話し掛けるきっかけになった物語。

 どっちも好きで、素晴らしくて……。


「上と下と来たら、サクくんはどこを書くの?」


「……どこ、か」

 兄貴と二人の時に、兄貴の小説について話をした。

 かなり恥ずかしがっていたけれど、嬉しそうなのが隠しきれてなくて、好きだなこの人って思った。

 兄貴も兄さんも、もういない。

 龍文に殺され、彼女は俺の腕の中。

 ──敵を討つべきか。

 完治したばかりとはいえ、女の細首を絞めることなどわけないはずで、彼女はすっかり油断している。

 殺せるのは自分だけと思っているのか。

 彼女の身体を軽く押し退け、自由になった手を、彼女の首に持っていく。

 この首に、何度花を咲かせたか。

「──サクくん?」

 首が傾き、青い瞳が俺の手を見つめる。

「サク、くん?」

 視線は、手に注がれている。

 それなのに、至近距離から見られているような錯覚に陥った。

「……大好きよ、サクくん」

「俺、は」

 何か、言おうとして──何も言えなかった。

 何もできなかった。

 絞め殺すはずの手はだらりと下がり、動けなくなった俺を見て、龍文は満面の笑みを浮かべると、軽く肩を押してきた。

 重力に逆らう気力もなく、俺の身体は畳の上へと倒れていく。

「ねぇ、サクくん。呼んで。もっと呼んでよ、私の名前。さっきみたいに、何回も何回も。サクくんに、呼んでほしいの」

 返事をする気力もない。

 名前を呼んでしまった時点で、俺の負けだ。

 意味もなく天井を見上げたのと、龍文が俺の身体に乗っかってきたのは同時で、ふいの重さに瞼を閉じれば、暗闇の世界に少しだけ安らぎを覚える。

 龍文の好きなようにさせている間、瞼は閉じたままにしておいた。


 ──全部、悪い夢であればいいのに。


◆◆◆


 桜の花びら舞い散る中、俺と兄貴、それに兄さんが、酒を浴びるように飲んで、楽しく盛り上がる。そんないつも通りの賑やかな日常を書こう。


 物語の中でしかもう、あの二人に会えないのだから。

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桜の中にあるもの 黒本聖南 @black_book

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