第6話

 女は血のように赤い髪をし、空よりも濃い青色の瞳で俺を見つめていた。

 どちらも自前の物らしい。


『初見だとびくつかれるんだよね。が、外国の人ですか? ってさ。なんて答えるべきかね? 名乗ればいいかな?』


 名前は 黒鳥龍文くろとりたつふみ

 男みたいな名前の女と過ごした四ヶ月は、十年経った今でも色褪せないほどに、濃密なものだった。


◆◆◆


 兄貴と会った一月後、俺は退院し、その足で最初に兄貴の家に向かった。

 和子ちゃんに頼まれたのだ。先に俺の家で荷物をまとめているから、兄貴の家に行って呼んできてほしいと。

 引っ越し代はもらえたけれど、正直荷物は少なく、家具も備え付けの物だから、業者を呼ぶほどじゃない。もう一人誰かいれば、それで足りる。

 新居は既に和子ちゃんが見つけて契約もしてくれた。後は荷物を運ぶのみ。

 きっかけは情けないものだけど、予定外の新生活にワクワクしてる自分もいる。

 この引っ越しが終わったら、近所迷惑にならない程度に楽しく三人で飲めたらいいなと、そんなことを考えながら、兄貴宅の扉を叩いた。

 叩いた。

 叩いた。

 叩いた、けれど誰も出ない。

 留守なのか。でも和子ちゃんが事前に退院日を伝えたと言っていたのに。

「兄貴! 黄橋の兄貴!」

 呼び掛けても返事はない。

 どうしたんだろうと、尚も叩き続けたら──扉が僅かに開いた。

「兄貴、どうしたんですか!」

 兄貴が開けてくれたのだと思ったけれど、向こうから何か言ってくれることもなく、開いた扉もそれ以上開かない。

 少し躊躇いつつ、扉に手を掛ける。

 扉の傍には誰もいなかった。

「……っ!」

 兄貴の家には何度か来たことがある。

 三階建てアパートの二階の端っこ。便所と台所以外に部屋は一つだけ。開けてすぐ見えるのは、ゴミに囲まれた万年床と家主。よく人を呼べるよなと思いながら、何度もそこで酒盛りをした。

 ──なのにそこには何もない。

 薄汚れた畳と、正座する女の背中しかそこにはない。


「ヘルンさんのさ、雪女って知ってる?」


 振り返らず、女は問い掛ける。

「吹雪の日に、気紛れに助けてやった男と夫婦になって、子供も産まれた。それなのに男がたった一つの簡単な約束を破ったせいで、女は泣く泣く別れるはめになったっていう、アレ」

 そんな話だったか。

 主観混じり過ぎてないか?

 突っ込みたかったけれど声は出ず、部屋の中に入って扉を閉めた。

「私は雪女じゃない。でも、真似したっていいよね?」

 ゆっくりと、女に近付く。

 二階の端っこは兄貴の部屋で、兄貴以外に人は住んでいなかったはず。

 ありえないが部屋を間違えた可能性もある。けれど、こうして俺が入ってきても、咎められることはない。

 何より、背中しか見えないが……どことなく既視感があり、声に聴き覚えがある。

 ──和子? いや、違う。今頃彼女は俺の家で荷造りしているはず。

 だけど、和子がちらついて離れない。

「育ててもらう子供も傍にいない。あの娘達は自分の好きなように生きている。なら、約束を破った人は──殺してもいいよね?」

 恐ろしいことを言っているのに、足は止まらない。

「オッサムは私を別の女の名前で呼び、私とのことをごっちゃんに話した。だから川に突き落としたの。いつもの悪癖で片付いたよ」

 足は止まらない。

「ごっちゃんも私を別の女の名前で呼び、私とのことをサクくんに話した。だから毒を盛ったの。身体に残らないのを選んだから、病死で片付いたよ」

 足は止まらない。

「結局さ、昔の女のことなんてどうでもいいんだよね。忘れられないとかほざいて、蔑ろにするんだ」

 足が止まった。

「さて、サクくん。私は誰なのかな?」

 女は振り返らない。

 声に感情も乗っていない。

 けれど空気が、ここで間違えたら死に直結することを教えてくれた。

「……君、は」

 声が震える。

 怖くないと言えば嘘になる。

 ──けれど、それ以上に、きっと、


「龍文」


 信じられないって感情が勝っていた。

 膝から崩れ落ちて、その背を抱き締める。

 和子にはまだ触れたことがないから知らない。でも一枝とも、それ以外の女とも、全然違う感触。

 この女だ。

 この女をずっと、俺は──。

「龍文っ……」

「……」

 女は吐息を溢し、振り返る。

 女の顔はだった。

「……ぁ」

 間違えた。

 俺も、青柳の兄さんみたいに間違えた。

 急速に沸き上がる罪悪感からすぐに身体を放し、距離を取ろうと立ち上がり掛けた瞬間、和子の口は何か呟いたように動いて──瞬きの間に、

「は?」

「正解だよ、サクくん!」

 赤い髪に、青い瞳。

 どこからどう見ても、目の前の女は黒鳥龍文で、彼女は嬉しそうに俺の手を取った。

「君は間違えなかったね! 偉いぞサクくんっ!」

「……あ、れ」


 はて、こんなにテンションが高い人だったか。

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