第5話

 兄さんとの思い出話は、やっぱり兄貴のがずっと多く、話していて少し淋しくなってきた。今後もあの人の悪癖を止めながら、楽しくやっていくのだと思っていたのに。

 それでも口は止まらず、止めることなく、間もなく面会時間は終わる。

「今日は来てくれてありがとうございます。退院したら一杯やりましょうね」

「その前に引っ越しは?」

「手伝ってくれるんすかっ! さっすが兄貴、大好きです! 尊敬してます!」

「この場では聞きたくなかったな」

 乾いた笑いを響かせ、丸椅子から立ち上がるも、兄貴は部屋を出ていかなかった。

 笑いを引っ込め、無表情で俺を見下ろしている。

「……兄貴?」

 呼び掛けても足は動かず、その代わり口が動いた。

「──俺もさ、昔、青柳みたいな女がいたんだよ。好き合って、でも別れた、そんな女」

「……っ」

 無意識に両手を力んだようで痛みが走り、思わず顔をしかめる。

 俺に構わず兄貴は続ける。

「何が、って言ったらいいのか分からんけど、えらく綺麗な女でな、あいつから求められない限り、俺は全然手を出せなかった」

 兄貴がっ? と突っ込む所だろうが、声が出ない。

「ただ、一緒にいられたらそれで良かった。旨いもん食って、芝居観て散歩して、ただ横になって何があったか話しながら寝て、起きたら当たり前のようにそこにいる。ほんと、あいつにはそれしか求めてなかった」

 けれど、いなくなった。

「青柳の時と違って川に飛び込んだわけじゃないみたいだが、机の上に手紙があった。──今まで楽しかったです、だとよ」

 声が出ない代わりに、目を見開いていた。

 俺の目を無表情で見つめながら、兄貴は告げる。

「聞いたよ。青柳の女も、同じ言葉を遺してたと」

「……」

 頭の中で、一人の女の声が響く。


『だってサクさん、■■■■が■■■■でしょ?』


 別の女の姿が、脳裏を過った。

「サク、訊いてもいいか。お前も、ひょっとして」


 耳障りな音がする。


 反射で目を細め、少ししてから病室の扉に目を向ける。ここ、一人で過ごせるのはいいけれど、材質のせいか扉の開閉音が死ぬほどうるさいのが欠点で、これが嫌で早く退院したくて堪らなかった。

 さて、扉には一人の女が立っている。

「……間違えました」

 俺と兄貴を睨めつけて、すぐに扉を閉める。

 あまりのうるささに瞼を閉じたら、「……悪いっ」と妙に焦った感じの兄貴の声が聴こえた。

「もう行くわ。退院したら俺の所に来い、分かったな?」

「は、い」

 それだけ言うとさっさと兄貴は出ていき、またあのうるさい音を耳にした。

 静かになり、落ち着くのを待って、瞼を開ける。

「……」

 ──今まで楽しかったです。

 口頭でそう言われたことはない。それには、ずっとタメ口で話し掛けてきて、俺にもそうしていいと言った。

 四ヶ月間ずっと。

 あの手紙だけが、例外だった。


 サクくん。


「……っ!」

 うるさい音と共に、女の声が耳に届く。

「ご友人との一時を邪魔してしまいすみません。あの方、帰られたのですか?」

 さっき、扉を開けた女だ。

 当たり前のように女は入ってきて、当たり前のように丸椅子に腰掛ける。

 当然だ。

 そもそも彼女が、ここに座っていたのだから。

「もう帰る所だったから、気にしないでよ、和子かずこちゃん」

 俺の言葉に、彼女はそっと微笑んだ。


『だってサクさん、■■■■が別にいるでしょ?』


 彼女は元々、一枝ちゃんの家に勤めていた女中さんで、実は俺の小説のファンでもあり、雇い主からの伝言を届けに行くのも自ら名乗り出たのだと。

『たった一度、お話しができたらと伺いましたが……人間というものは度し難いほどに強欲なのですね』

 そう言って何度も見舞いに来てくれて、その間に、一枝ちゃんの家は辞めてきたらしい。曰くケジメなのだと。

 雇われる立場のまま、雇い主の娘を傷物にした(してないと言えばまぁ、嘘になる)男の傍に侍るのは如何なものかと。

『別にいいのです、サクさん。蓄えはそれなりにあります、しばらくは働かなくても平気でしょう。ですので、どうか退院した後も、傍に置いてくださいませ』

 そしてもう一度、彼女は言った。

『別にいいのです。貴方の心に、他の誰かがいたとしても。ただ傍にいられるなら、それで』

 一枝ちゃんは、それが許せなかったのに。


『だってサクさん、愛する人が別にいるでしょ?』

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