織羽 第二章


 「暇ね」


 卓子テーブルに右手で頬杖をついた美月みつきは、ぼんやりと視線を泳がせて窓の外を行き交う人々を眺めていた。

 額を温める春の日差しが心地よい。気を抜くと眠ってしまいそうだ。


 あれから幾月か経ち、身体中を埋め尽くしていた傷は大分えてきた。しかし左腕は相変わらず折れたままだ。左腕が自由にならないだけなので早々に出て行こうと何度か試みたが、その度ににっこりと微笑む織羽おりばの無言の圧力に屈して、結局今日まで厄介になっている。

 この街は警備が行き届いているのか、美月を追いかけて物騒な連中が迫ってくることもなかった。

 とはいえ、振りきって飛び出すこともできるが、この場所が妙に心地よくて離れがたくなっているというのが本音だ。


 「暇なのはいいことだよ」

 

 向かいに腰かけた癖のある金髪の男が、金縁眼鏡の奥の鳶色の瞳を手元の書物に落としながらそう口にする。

 その中身がなんとなく気になって、美月はぬうっと首を伸ばし中を覗き込んだ。しかし何やら記号や文字などで埋め尽くされているのが目に入ると、途端に目眩がしてきた。目元を押さえ込んで呻く女に、織羽はくすくすと笑う。

 「悪魔の書ね、それは」

 美月は忌々しげに呟いた。織羽はそれを聞くとまた可笑しそうに口許を緩める。一頻ひとしきり笑うと、でも、と続ける。


 「あながち間違いでもないね。これは占術の書だから」


 女は首をかしげた。目の前の男は占星術師であって呪術師ではなかったと記憶している。まさか占星術でも場合によっては悪魔を呼び出したりするのだろうか。いや実はこの男は占星術師などと名乗っているが実は悪魔を召喚するその手の怪しい人物だったりするのでは――。


 「変なこと考えてるでしょ」

 

 はっ、と現実に引き戻されると、織羽が額を指差している。つられて思わずその場所に手を当てると、ぎゅっと力を込められて皺のよった自分の眉間に触れた。


 「何か考えてるとき、いつもそこが険しくなってる」

 「別に、あなたを悪魔の手先とか思ってないし」


 美月が指先で眉根に寄ってしまった筋を丁寧に伸ばしながら口にすると、織羽はいよいよたまらずといったように吹き出した。笑われた方の女は渋面を作ると、鼻を鳴らして話の続きを促す。男は目尻に溜まった涙を拭いながら語り始めた。


 「占いはね、その人の全てをつまびらかにしてしまうんだ。見た目から性格、どんな人と結ばれるかまで、何もかも」


 織羽はふと言葉を区切ると、目を伏せた。


 「――知られたくない過去も、知りたくない未来も」


 そういうところが悪魔的だよね、と彼は苦笑する。

 そんな風に自嘲して欲しかったわけではなかったので、美月は戸惑ってしまった。


 「――だけど、あなたが助けた人は、たくさんいるじゃない」


 この数ヵ月、美月はすぐそばで織羽の姿を見てきた。占術について詳しいことは正直よくわからないが、不安げな顔で訪ねてきた客たちが彼と話して帰る頃には晴れやかな表情をしているのを目の当たりにしてきた身としては、そのように自虐的になって欲しくない。

 なにより、美月自身が、その優しさを一身に受けてきたのだ。彼の心根の清さを、彼女が一番よくわかっている。

 それでも織羽は、やはり自嘲するように目を伏せる。


 「――おれが助けられるのは、助かりたい人だけなんだよ」


 低く発せられたその言葉がやけに物悲しく響くのを、美月は聞き逃さなかった。

「何かあったの?」

 赤琥珀の瞳が、目の前の男を心配そうに覗き込む。織羽はしばらく黙っていたが、つと顔を上げると、美月を見つめて切り出した。


 「おれには親友がいたんだ。数年前に亡くなったけど」

 

 彼は訥々とつとつと、藤之助という名の親友について語り始めた。

 藤之助はこの街の隣にある花街の娼妓だったこと、彼は藤の花が好きだったこと、彼のお気に入りの藤の木が見える縁側でよく語り合ったこと――。織羽は親友との思い出を、ひとつひとつ噛み締めるように数えていった。

 「藤之助はね、病気だったんだ。わかったときにはもう手遅れだった」

 美月は怪訝な顔をした。手遅れになるなんてことがあるのだろうか。だって藤之助の友人は

 彼女の疑念を感じ取ったのか、織羽は頷いて続ける。

 「あいつは占いが嫌いだった。どうせ決まった人生なのに、占ったって仕方ない、って」

 何かを堪えるかのようにぎゅっ、と目を瞑ると、彼は掠れた声で絞り出した。

 「おれは本人が望まないなら占わない。本人が知りたくないことを他人が知るべきじゃないから。でも」

 織羽は顔を両の掌で覆うと、苦しそうに息をつく。


 「あの時、ておけばよかったって、今でも思うんだ」

 

 後悔の念が滲むその声を、美月は黙って聞いていた。なんと声をかけていいかわからない。

 だが美月は思った。ていたところで結末は変わらなかったのではないだろうか。織羽だってきっとそんなことはわかっているはずだ。

 占いは、迷いを整理してその人がどう進むかを決める手助けをするのが本懐だ。それを聞いた上で、行動を決めるのはあくまで本人なのだ。占術師にできるのは道を示すまでにすぎない。

 藤之助は己の運命を受け入れていた。いや、諦めていただけかもしれない。いずれにせよ、籠の鳥であった彼が自らの行く末を覗くことを拒んだ理由が美月にはなんとなくわかる。


 「その人は、これ以上、絶望したくなかったのね」


 ただでさえ、己ではどうにもならない日々だ。それがよかろうが悪かろうが、そこに決められた未来があるなんて、いよいよ逃げ場がない。それならいっそ、何も知らない方がいい。美月の胸がちくりと痛んだ。――これは身に覚えのある感情だ。

 織羽がゆっくりと顔を上げた。潤んだ鳶色の瞳と目が合う。


 「過去は覆せない。だけど未来は変えられたかもしれない」

 「でも、あなたはそうしなかった」


 美月は目の前の男のきつく握り込まれた拳に右手を添えた。てのひらに、冷たく緊張した彼の手の感触が伝わってくる。


 「彼の心を、守ったのね」


 男は頷いた。たまらず伏せられた両目から涙がこぼれる。美月はそれを拭ってやりながら思わず微笑んだ。


 (やさしいひと)


 きっと織羽なら、藤之助の未来を見通して病を退けられたかもしれない。病に限らず、彼を良い方向に導けたかもしれない。それはもしかしたら藤之助の命を長らえさせられたかもしれない。

 けれどそれは、ひとつとして藤之助の望むことではなかっただろう。


 「おれは藤之助に死んで欲しくなかった、生きたいって思って欲しかった」


 でも、と彼は嗚咽混じりに漏らす。


 「藤之助のことが、大事だったから」

 ――大事だからこそ、その意志を守ったのだ。


 美月は静かに立ち上がると、織羽の後ろに回ってそっと震えるその背を抱いた。

 

 この男は自分を頑固で、騒がしくて、図々しいなんて評しているが、その実、「親友に生きていて欲しい」というただひとつの願いを、親友が望んでいないからという理由だけで叶えることができなくなってしまうような人間なのだ。織羽はいつだって、肝心なところで相手の望みを優先してしまう。――たとえ自分自身を傷つけることになってもだ。


 (やさしいひと――やさしすぎるひと)


 黄昏時の日差しに照らされた織羽の白い項が、やけに切なく映った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

行く春の白藤へ まめ童子 @mameponeartwork

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ