第6話 尼になりそこねて候こと
皐月 五月
毎年恒例行事である外堀桜の花見
一日目に香子は出掛けた
行くつもりなど無かったのに
道世から有無も言わせずの勢いで
「いいから行きなさい」
と言われ
仕方なく女中のキネと一緒に外堀へ来た
適当な場所で
「キネ、一緒に桜餅を食べましょう
ラク蔵の作る桜餅は美味しいのよね」
「ですがお嬢様、
ですから私は遠慮します」
「キネったら、
私の
そう言って
桜餅を手に取り口の中へ運んだその時
「香子殿」
と大きな声で呼ばれ
振り向くと
「いやあ、お会いできて良かった」
と言いながら
「旨そうな桜餅ですね」
と座り込み重箱に手を伸ばし桜餅を食べだした
余りにも自然で
当たり前のように振舞う
香子は桜餅を口にくわえたまま呆然と見ている
「これは美味しい、香子殿が作られたのですか」
香子は慌てて、いえ違います
と答えようとして
桜餅を喉に詰まらせ
惣太郎が急いで茶を差し出した
その二人の様子を見てキネが
「それでは
キネは辻原家の
今日、キネを付けたのは道世の差し金で
惣太郎が来たら香子と二人きりにするよう
道世から言い聞かされていたのだ
香子が生まれる前から辻原家に勤めるキネは
道世の言葉で今回の花見は
見合いの花見である事を察していた
帰ろうとするキネに惣太郎は
「帰りは私が香子殿をお宅までお送りするゆえ
辻原家の皆様にはそう伝えておくれ」
と言い
「はい、
キネは惣太郎の言葉に
嬉しそうに返事をして帰って行った
―― ―― ――
キネは生まれた時から仕える香子への
辻原の家族も使用人達も誰も口にはしないが
その思いは同じであり心重く日々を過ごして来た
だが、いま自分が目にした惣太郎の振る舞いは
明らかに香子に想いを寄せている
なんと嬉しいことよ
あの方に
亡くなった大旦那様も大奥様も
きっと、あの世でお喜びになる
そう思うとキネは嬉しくて顔が
―― ―― ――
香子は
春の日を浴び誇らしく
耀き咲き誇る桜を見つめながら
なぜ
自分の
結婚相手を探すなら他を当った方が良いだろうに
自分と居ては時間の無駄ではないか勿体無い
早く嫁を取り絢様を安心させるのが孝行なのに
何とも吞気な人だ
と考えながらも互いに気兼ねなく話が弾む
香子はふと不思議に思った
惣太郎と一緒に居る時は
兄達や
気を遣わずに居られるのは何故なのかと
時太鼓が鳴り花見の終了を知らせると
惣太郎は進んで片付け
「さあ帰りましょう、約束通りにお送りします」
歩き出す惣太郎の後ろを香子は付いて行く
先程までは
急に無口になり前だけを見ている
辻原家の前に着くと
意を決したように惣太郎は香子を見つめ
「香子さん、私は貴女が好きです」
香子が
「
良いお友達だと思っております」
と明るく返すと
「そうでは無く、友では無く」
そこまで言うと大きく息を吸い
「香子さんに私の妻になって欲しいのです」
香子は思いも寄らぬ告白を
冗談だろうと思ったが
惣太郎の目が真剣であるので
戸惑い暫く無言で
そして静かに話し出した
「
醜い傷がございます」
「その事ならば
お
それに私にも傷は有ります
子供の頃に木から落ちて」
と笑いながら
自分の尻を叩いて見せる
香子もつられて笑い出した
「返事は今すぐにいただけなくて結構です」
「はい」
「でも、良いご返事をお待ちしております」
―― ―― ――
その夜
香子は
道世はいつも通りなのに
「今日の花見はどうであった」
と
香子の眉が動いた
「大兄上、私が
花見でお会いしたのは
偶然では無く
妹に見抜かれ
それを横目に道世が
「良いではないですか、好きな方と桜を見た方が
楽しいでしょう。
それで
「何かとは」
「二人の今後についてです」
「お返事はまだしておりません」
「求婚されたのですね、
なぜ直ぐにお受けしなかったの」
「
思ってもいなかった事
直ぐにお返事など出来ません」
「まあ、貴女は
自分で気が付いていないのですか」
「義姉上、何を言われるのですか。
私は惣太郎様に、そんな気持ちはありません」
「まったく兄妹して色恋に
香子、
「いえ嫌ではありません」
「ではお話するのは」
「嫌ではありません」
「もう二度と
「えっ、それは、寂しいと思います」
「それを恋と言うのですよ
貴女は惣太郎殿に恋しているのですよ」
そう道世に言われ
香子は初めて自分の
惣太郎が相手だと
何の気兼ねも無く伸び伸びといられるし
他愛もない事で一緒に笑える
惣太郎に二度と会えないと考えただけで胸が切ない
これが恋なのか
そうか、私は惣太郎殿が好きなのだ
「
でも好いた方のためにする苦労は辛くは無い
だから
「義姉上も大兄上に恋をしていたのですか
だから辻原に嫁に来られたのですか」
「当たり前です
女主人の居ない家へ嫁ぐのです
嫁いだらその日から苦労するのは
百も承知でした
それに冷や飯食いの義弟はいるし
そのうえ幼い義妹を
母親代わりに育てなくてはならないし
好いたお方の為でなければ
そんな苦労は買えません」
思いかけず妻の胸の内を聞けた
すっかり上機嫌になり
「香子、
だが辛かったら戻って来ていいのだぞ」
「貴方、縁起でもない。過保護が過ぎます」
道世に
首を
―― ―― ――
こうして惣太郎との縁談が決まり
香子は登城し
奥女中の剣術指南役の
「そうかそうか、それは良かった」
と喜び快く
「のう香子、人生とは何が起きるか分からない
面白かろう」
「はい」
「人は一本の道しか歩めぬ
されど道は無数に有り
どの道を選ぶかは
選んだ道を胸を張り楽しめ」
「はい、お言葉を胸に刻み生きて参ります」
―― ―― ――
秋には惣太郎と香子の祝言が執り行われた
祝言の席で
道世は綾と
「香子には、何かと行き届かない事も
多いことと存じます
それは全て今日まで育てた私の落ち度
どうぞお怒りは全て私にお当てになり
香子の事は末永く
可愛がってくださいますよう
伏してお願い申し上げます」
道世の願いに惣太郎は
「香子は私が惚れ込み
頼んで妻に来てもらった
生涯大切にし、決して粗末に扱わぬと
この
身命をかけお誓い致します」
と頭を下げた
この二人の遣り取りに感動し
宴の場は一瞬静まり返った
香子はそっと袖で涙を拭いた
母の顔さえ憶えていない自分を
愛情深く我が子のように育ててくれ
行く末までも案じてくれる義姉
そして皆の前で堂々と
生涯大切にし決して粗末に扱わぬ
と言い切ってくれた夫
二人への言葉に言い表せない感謝の心が
涙となって溢れくる
これから先、どんな苦難が起きようとも
自分が選んだこの道を
胸を張って生きて行こう
そう香子は心に誓う
可愛い妹の輿入れの嬉しさと寂しさで
酒を煽り酔った長兄の
「
お前を八つ裂きにする」
と惣太郎に言い放ち
それに続いて忠之亮と同じ思いで
酒を煽った次兄の
「そうだ、その時は容赦せぬからな」
と呂律の回らない口で、くだを巻く
「あなた達、婚礼の席で恥ずかしい
いい加減になさいまし」
道世に一喝され青菜に塩となった
そして今度は妹を思う兄達の情に感動し
優しい笑いが宴の場を包んだ
―――――――――
杉岡家では
直ぐに江戸屋敷へと旅立った
息子夫婦が旅立って直ぐ
城下の屋敷を引き払い
農村で畑を耕しながら
一人隠居生活を送っていた
その
祝言をあげて間もなくに
離縁した元妻の
実家は兄が隠居し
甥が家督を継いだので肩身が狭い
とこぼす多佳を
「既に離縁した仲である」
と静かに突き放した
「離縁とは、これの事ですか」
と多佳は
それは重延が香子を裏切り
千鶴を
重延を斬り捨てようとした
あの日、あの時に
重平太が多佳に渡した三行半であった
「
重平太は驚いた
「長年連れ添ったのに
貴方の本意が分からないとでも。
私が世間から後ろ指刺されるのを不憫に思い
私を守るための三行半でございましょう」
全くその通りの三行半である
あの時の重平太は多佳を守りたい一心であった
「貴方は辻原家への
こうして何年も一人で身を潜めて暮されてきた
ですが香子さんも
もう十分に
ですから私をここに置いてくださいまし」
「今更、三行半を渡した者を置く訳にはいくまい」
「貴方は実家で
思ってくださらないのですか」
「思わぬはずが無かろう
今でも
「私の幸せは、嫁いだその日から
貴方の隣で共に生きる事だけなのです」
重平太は多佳の言葉に目を潤ませながら
「そうか、それが
ここに住めばよかろう」
こうして離れ離れであった重平太と多佳は
いま肩を寄せ合い
―――――――――
出世をし暮らし向きも随分と余裕ができ
住まいも広くなり奉公人も増え、順風満帆であり
子宝にも恵まれ
その一人息子も三才となり
真野沢家は毎日が
明るい笑い声に満ちていた
惣太郎は誓い通り
香子を大切にしている
絢女は足腰が弱り家の事は全て香子に譲り
今は
そして間もなく生まれる
二人目の曾孫の誕生を待ちわび
香子の腹を触っては
「この腹の形は
家の中が華やかになる」
と嬉しそうに微笑む
ある日の午後
絢は曾孫に昼寝をさせていたのだが
家事をする香子の耳に息子の
「お
と泣き叫ぶ声が届いた
何事かと慌て部屋を
絢は小さな曾孫の手を優しく握り
微笑みながら息を引き取っていた
―― ―― ――
絢の葬儀が終わり一段落し
遺品を整理していると
文には
【
幼くして両親を亡くし寂しさに貧しさに耐え
よくぞここまで立派に育ってくれた
これからも
殿のため武士として務めを果たすこと
香子を嫁にした事
心優しく心強き香子を嫁にできたのは
真野沢家の誉れと心得よ
共に生涯、互いを
曾孫まで抱かせてもらい
お婆婆は
これも全ては
香子が尼になりそこねて
ー完ー
尼になりそこねて候 桶星 榮美OKEHOSIーEMI @emisama224
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます