干し肉の味

凡人

短編

夜が長くなり、風が山から吹き降ろすようになって来た。木の葉は黄や赤に色を変え、枝を離れて風に舞い落ちて、やがて土に戻ることになる。

もうじき寒くなる。食べ物も無く、冷たい風や雨、時には雪を避け、洞穴の中で震えながら過ごした苦い記憶が甦って来る。

「嫌だ、空腹を抱えて寒さに震えるのは、もう嫌だ!」

タークは、感覚としてそう思った。しかし、そうは言ってもあの寒い日々は嫌でも直ぐにやって来る。その前に少しでも多くの獲物を獲って、腹を満たすだけではなく、肉を裂いて風通しが良く陽の当たらない所に吊るして乾かし、保存しなければならない。熊の毛皮も欲しい。少しでも多くの食べ物や毛皮を得て女達に分けてやり、強い男と認めさせたい。そうすれば体を開いてくれるだろう。たった一度経験した柔らかい肌の感触と天にも昇るような股間の快感を忘れられないのだ。クロタイの目を盗んでクキと言う女が一度体を開いてくれた。しかしそれは、ただ一度だけで、それ以降クキに近付く機会も無いし、クキは目を会わせようともしない。あの時はクキの方から誘って来たのに、とタークは思う。


タークはクロタイが率いる十人のファミリーの中の一人だ。ファミリーの中で、大人の男はクロタイとオライ。女はコイヒ、ミフ、クキの三人で、クキが一番若い。子供はタークの他に小さな子供が四人、ターク以外は何れも女の子だ。タークは大人になり掛けた年頃。オライは老人である。


クロタイは毛深い大男だ。気に入らないとすぐにタークを殴る。蹴ったりもする。タークはクロタイの子ではない。


あの日から何回寒い冬を越えたのだろうかとタークは思う。こんな風に寒い季節が間近に迫っていたあの日の夕刻。その頃ファミリーを率いていたタークの父・カタイが一人の大男を担いで洞穴に戻って来た。男の体はずぶ濡れで冷たく、且つ弱っていた。川で溺れかけているのを見付けて、引き上げたようだ。何故そんな事になっていたのかは分からない。カタイは、冷えきった男の体をコイヒ、ミフ、クキの三人の女達に、体温で代わる代わる暖めさせた。そして男の体温が戻ると、鹿の肉を与えた。

タークの母はそれ以前に病のため死んでいた。女達は何れもタークとは他人である。

五回ほど夜を迎え、次の朝になる頃には男は元気を取り戻した。


運命の悪戯だろうか? カタイが男を運んで来た事を機に舞台が転換し、ファミリーの形が変わる事になる。

男が元気を取り戻してから三回目の夜を過ごした後の晴れた日、オライと共に狩りに出たカタイが戻らなかったのだ。カタイの指示で、その日、クロタイはまだ洞穴に残っていた。

夜まで待ってもカタイとオライは戻らず、朝になって傷だらけのオライが一人で戻って来た。オライは身振り手振りで何が起きたかを語った。オライの説明に寄ると、カタイは、熊を獲ろうとして逆に殺されたのだと言う。

オライの案内でクロタイとタークが現場に出向き、引き裂かれた無惨なカタイの死体を回収して来て洞穴の近くに穴を掘り、母の胎内に居た昔に戻して天に帰すため、体を丸めて膝を抱えさせるようにして埋葬した。体から離れて魂が浮遊してしまい、天界への帰路を迷わないように、石を抱かせる。既に硬直していたカタイの体を丸める時には、何回も骨がへし折れる音がした。


小さな山を越え半日ほど歩くと、幾つものファミリーが一緒に住んでいる所が有る。だが、カタイ一家はその集落とは離れた所にずっと住んでいた。冬の日、タークは父に背負われてその集落に行った事が一度だけ有る。集落の住人達は、カタイを見ると集まって来た。笑顔で手を握ったりカタイの肩を軽く叩く者も居た。厳つい顔をした集落の長らしき男が出て来て、懐かしげにカタイに声を掛け、腕を掴んで引き寄せようとした。カタイはその腕を外して苦しそうな表情を見せて後退りし、何度も頭を下げた。寂しげな表情を見せて一度竪穴住居に姿を消した長は、干し肉をぶら下げて戻って来た。カタイは、また、何度も何度も頭を下げて干し肉を受け取った。タークがそんな風に卑屈な態度を取る父を見たのは、後にも先にもその時だけだった。

戻ると父は、まずタークの母にそれを食べさせようとした。だが、暫く前から病を患っていた母は、既に食べる力も失っていた。その夜こそ乗り越えはしたが、間も無く母は死んだ。獲物が獲れず食料が不足する日が続いていたのだ。病で弱っていたタークの母がまず犠牲になった。カタイが持ち帰った干し肉で他の者達は命を繋ぎ、その後カタイは獲物を獲る事が出来た。タークはその時母を失い、今度は父を失う事になった。


カタイを失ったファミリーがその後どうすれば良いかは必然的に決まった。カタイが担ぎ込んで来た男・クロタイがそのまま居座って獲物を取って来るようになった。

まだ幼かったタークには詳しい経緯は分からない。獲物を取って来る者が居なければ飢え死にするしか無いのだから、女達に取って、この男、つまりクロタイが居てくれたことは幸いだったに違いない。カタイと同じように、何らかの事情で元々居たファミリーを離れ、恐らく行き場の無かったクロタイに取っても、それは幸いだったはずだ。

ところで、クロタイは何故溺れかけていたのか? それは分からないが、溺れていたと言う事を考えると、一般的には、ファミリーの中で罪を犯した者が、処刑として、縛られて川や沼に放り込まれると言うことは有った。


そんな風にして今の生活が始まった。クロタイはタークを追い出そうとはしなかったが、大人になり掛けて来たタークが女達に近付くのを嫌った。仕方無くタークは洞穴の奥の暗闇で岩壁にもたれてじっとしていることが多くなった。オライもクロタイに媚びるのみでタークに構おうとはしない。大体タークには、このオライと言う老人が誰なのか分からない。死んだ父と血が繋がっているのかどうかも分からない。恐らく他人なのだろう。何故なら、タークが幼い頃からオライは居たのだが、触れ合った記憶が殆ど無いのだ。ただ居たと言うだけなのだ。クロタイと同じように、行き倒れているところをカタイに保護されたのではないかとタークは思っていた。


近付く冬。飢えに対する恐怖とクロタイに対する嫌悪感。ファミリーの中で居場所の無い孤独感。毎日が嫌で仕方がない。

狩りに行くと、必ず勢子をやらされる。勢子と言うと、大勢でワアワア騒いで獲物を追い立てるイメージが有るが、タークは一人でそれをやらなければならない。獲物を見付けると隠れて反対方向に回り込み、石や木の枝を投げて声を出し、クロタイとオライが居る方向に獲物を追う。風上に立つ事は危険だ。獲物が鹿や小動物であればまだ良いが、熊や猪だと逃げられるだけではなく逆に襲われる可能性が有る。クロタイとオライが仕留め切れず、手負いにさせたりすれば、パニックに陥った獲物が突進して来たりもする。正に命懸けだ。


ある日タークは、草陰の穴で五匹の狼の子を見付けたが、親が戻ってく来ると危険なので慌ててその場を離れた。しかし、気になって次の日に行って見ると狼の子達はまだそこに居た。タークは隠れて様子を見ていた。暫く見ていたが、やはり親は現れなかった。夜を経て次の日にまた行ってみた。すると、五匹のうち一匹が死んでいた。他の四匹も痩せ細っている。タークは四匹を洞穴に連れ帰った。クロタイに見つかったが、生かして置いて太らせ、寒い冬に獲物が獲れない時に食べれば良い。その頃には大きくなっていて、もつと多くの肉が得られるはずだと訴えた。クロタイは了承した。と言うよりも関心が無いように見えた。痩せ具合を見て、直ぐ死ぬと思ったのだろう。

子狼達は乳飲み児ではなく、柔らかい肉なら食べられるほどの大きさになっている。命を繋げてやりたいと、タークは強く思った。自分に割り当てられた獲物の肉の一部を噛み砕いて子狼達に与えた。毛皮に包んで抱いて寝たが、夜を三回過ごした後一匹が死んだ。しかし、残りの三匹の命は何とか繋ぐ事が出来た。子狼達は餌をくれるタークに纏わりついて甘えて来る。孤独なタークにはそれが嬉しかった。纏わり付いて来る子狼達に暖かい何かを感じ満たされた。

食べてしまいたくないと思った。冬に食べてしまうより、大きく育てたら狩りを手伝わせることが出来るのではないかと思い付いた。もし、狼に狩りを手伝わせることが出来れば、もっとたくさんの獲物を獲ることが出来る。そうなれば、空腹を抱えて寒さを凌がなければならない夜も少なくなるのではないかと思った。狼の子を、このまま育て続けたいと思った。だが、食べる物が無くなれば、クロタイは狼の子達を食うと決めるはずだ。それには逆らえない。狼の子達を守るには、多くの獲物を獲って食べる物が無くならないようにするしか無い。

狩りに行くとタークは必死に獲物を追った。猪に追われて崖から落ちそうになったことも有るし、迫って来る熊に足がすくんで、もう終わりかと思ったことも有った。その時クロタイの投げた槍が熊の目の前を掠めた為、驚いた熊は反転して逃げ去った。命拾いをした訳だが、獲物を逃したことでクロタイは不機嫌になり、タークを殴った。


その日も、クロタイ、オライ、タークの三人は狩りに出て、三人の女達と上の三人の女の子達は、団栗拾いや野草摘みや水汲みのために出掛ける。一番下の女の子と二匹の狼の子は留守番だ。

その日は、逃げられるばかりで獲物を獲る事が出来ず、三人は歩き回ってくたくたになるのみだった。クロタイは不機嫌になって、八つ当たりで意味も無くタークを蹴ったりする。それに対して、タークはただ我慢しているしか無かった。

更に歩き回ったが、鼠一匹捕れない。クロタイがタークの頭を拳で殴った。我慢していたタークが、キッとなって一瞬クロタイを睨んだ。それを見たクロタイは、激昂し「ウオーッ」と叫びながらタークに襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を始めた。タークは両手で頭を抱えて防ぐしか無かった。股間を蹴り上げられ、痛さの余り踞った。またクロタイの唸り声が聞こえたので見上げると、両手で持つほどの大きさの石を振り上げている。

「殺される!」と思った。一か八か、クロタイの両足に飛び付き、しがみついて倒すしか無いと瞬時に思った。

だがその時、ズドンと音を立てて石がタークの目の前に落ちて来た。大きく反って後ろに倒れて行くクロタイの体をタークは見た。真っ赤に染まった木槍の先がクロタイの腹の皮を突き破って突き出ているのが目に入った。槍先の周りから血が溢れ出し、腹全体を赤く染めながら、クロタイの体は後ろに倒れ込んで行き、槍の柄に邪魔されて横向きに倒れた。

その後ろに、突っ立っているオライの姿が有った。無表情なオライの顔が次の瞬間、僅かに緩んだ。そして、親指で自分を指してから人差し指でタークを指差し、頭を少し下げる。

「お前に従う」

そう意思表示しているのが分かった。オライが自分を助けてくれた事は意外だった。何故かは分からないが、オライはタークに従うと言う。衝撃から覚めたタークは我に帰り、今何をしなければならないかを考え、微笑んで少し頭を下げた。


腹と口から血を流し横たわったクロタイの死体をタークは見ていた。クロタイが死んだ以上、今後は自分が食べ物を獲らなければならない。今までも狩りのやり方は見ていた。だが、今後は自分自身の手で仕留めなければならないのだ。上手く出来るだろうかと思う。経験から言えば自分がオライに従う方が良いのだろうが、オライは何故、いち早く自分に従うと言う意思を示したのか? タークはそう思った。年寄りだから長くファミリーを率いて行くことは難しいだろうが、暫くの間先に立ってくれれば、タークとしては、その間に学んで行ける。そう思ったが、オライとしては、突然病に襲われたり体が不自由になった時捨てられる事を恐れたのかも知れない。何れ従わなければならないとしたら、最初から従う意思を示す事に寄って、無用な争いを避ける事が出来ると思ったのかも知れない。どんな生き方をして来たのかは分からないが、永く生きているうちに、争いを避けながら生き延びる術を身に付けて来たのかも知れない。 顔には出さなかったが、クロタイに対する敵意を秘めていた可能性も有る。或いは、タークを助ける事に寄って、カタイへの借りを返したつもりなのか? タークには分からなかった。オライの真意は分からなかったが、任された以上怖じ気づく訳には行かないと思った。ここで怖じ気を見せたら一人前の男とは認められないだろう。

従ってくれるにしても、オライの経験と知識には頼らなければならない。もし、十分な食料が確保出来なかったらどうしようと言う不安は有る。己を含めて九人の命を繋いで行かなければならないのだ。簡単な事では無い。クロタイに命じられたくは無い事だったが、もし、食料が底を突けば、狼の子を食うと言う決断を自分が下さなければならないだろう、とタークは思った。


その時、ふと思い付いた。狼の子ではなく、まずクロタイを食えばいい。タークはそう思った。食ったことは無いが、干して保存すれば、人の肉も他の獣の肉と同じように食えるだろうと思ったのだ。だが、クロタイの肉だ。どんな味がするのか? あの男の肉など不味くて食えたものでは無いかもしれない。吐いてしまうのではないか。そんな懸念が残った。

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