見ざる言わざる
伊吹とのフィールドワークを終えた週明けの放課後、いつものように部室に向かったら、いつものように内海が一人で読書……ではなく、勉強をしていた。先週も読書をせずに勉強をしていたし、勉強熱に目覚めたのだろうか。
「最近、勉強ばかりしてるな」
挨拶代わりに、そんなことを口にしながら、俺は荷物をおいて、彼女の斜め向かいの席に座った。
「もうすぐ中間テストよ」
内海は顔もあげずに、すげなく答える。
なるほどなるほど。世の中には中間テストというものが存在し、学生たるもの、その準備をすることは、当然である、というのが世間一般の認識らしい。
「内海って頭良いのか」
「あなたよりはね」
なんだろう、そのアメリカ映画みたいな売り言葉。別に買わないけどさ。
「なんか問題出してくれよ」
喧嘩を買う代わりに、クイズを要求する。よほど平和的な返し方だ。
断られるのも予想したが、存外内海は乗り気になったようで
「英単語でいいかしら」
と顔を上げる。
「ああ」
内海はこほんと軽く咳払いをして、英単語クイズを出してきた。
「motivation」
「動機」
「synchronization」
「同期」
「same-year classmate」
「……同期」
「copperware」
「多分、銅器」
「palpitation」
「何言ってるか分からんが、どうせドウキ」
最後のドウキを答えたところで、内海は少し驚いたような顔をした。
「あら、意外と勉強してるのね」
「あのな」
「じゃあ、次行くわよ」
「まだ続くのかよ」
俺の気持ちなぞお構いなしに内海さんはノリノリで続ける。
「broom」
「……
「abandonment」
「放棄」
「regulation」
「法規」
「revolt」
「知らんけど、どうせホウキ」
内海は俺を小馬鹿にしたように、鼻で笑った。
「ふーん。あなた、勉強だけは得意みたいね」
「お前、馬鹿にしてるだろ」
ふざけた出題の仕方しやがって。
あとなんだよ、勉強だけはって。他が全部だめみたいじゃないか。
「別に馬鹿になんてしてないわ。ただ、思ったより頭が悪くなくて驚いたのよ」
「それを馬鹿にしてるっつってんだよ。俺がお前と同じ高校に通ってるってこと忘れてないか?」
その言葉に心底同調するような顔で彼女は頷いた。
「そうなのよ。そこが私の高校生活最大の謎なのよね。というか、もはや神宮高校七不思議の一つだわ。あなたが私と同じ高校に入れたことが」
こいつ!?
鋭い、というか憎悪すら感じる言葉に
いやいや落ち着け、俺。深呼吸だ。ふぅふぅ。
この子の、俺に対する攻撃的な態度を辞めさせるのは、相当な労力を以ても、困難を極めるはずだ。相手にするだけ、無駄である。
内海の言っているようにテストも近いし、俺も勉強でもするべと、席に着いたところで、葵先輩に言い付けられていた宿題が、この女を外に連れ出さない限り完遂されないことを思い出して、厄介ごとは先に終わらせてしまおうと、思い至った。
何の間違いか、警戒心をどこかに置いてきてしまった伊吹さんは、ひょこひょこ俺に付いてきたが、かの邪智暴虐の嬢である、内海さんには、今度こそ、凄絶に切られるはず。だがそんなこと、今更という話だ。俺の心はすでにミンチである。これ以上どうもなりようがない。
さっさと言って、この戦いに蹴りをつけよう。
「ところで、今度の休み、どっか出掛けないか?」
伊吹を誘うときとは違って、すっとそんな言葉が口からスラスラ出てきた。言い終えてからも、えずくような自己嫌悪感は生じない。
そうか。そういうことか。
葵先輩の言ってた意味が、今なら分かる。
普通に考えたら、内海と伊吹のどちらが怖いかといえば、内海が怖いと思うだろう。
しかし今考え直せば、確かに内海さんに返り討ちされるのは想定通りというか、まあ、でしょうね、みたいな感じで、どれだけひどい舌鋒で切られても、大したダメージにはならないが、伊吹さんに真顔で「ごめん、マジで無理」なんて断られた日には、本当にマジで無理なんだろうなって思うし、本当に凹むし、立ち直れる気がしない。不登校になる気すらする。
そんなラスボスというか裏ボス伊吹との戦いを乗り越えた今の俺にとって、内海なんて、ファーストステージのクリボーくらいにちょろい敵だ。
さあ、存分に俺を罵り給え。痛くも痒くもない。俺を踏み潰したところで、また新しい俺がやってくるのだ。俺は何度でも蘇る。
内海は俺の目を見つめて答えた。
「そう。別に構わないけれど」
マンマ・ミーア!?
「おい、お前今なんと言った」
どうやら耳にゴミが入ってしまったようだ。およそ内海の口から出てくるはずのない言葉を聞いてしまった。
「……だから、別に、あなたと出かけても構わないと言ったのだけれど」
……は?
「お前、正気か?」
到底認知しがたい文言に、甚く動揺した。
「正気かって、あなたが誘ってきたんじゃない」
内海は怪訝そうに眉を顰めた。
一体全体どういうことだってばよ。
何が起きている。こんな世界、俺の知っている世界じゃない。おかしい、何かがおかしい。
「それで、どこにいくというの?」
すっかりパニクっていた俺だったが、事前に入手していた彼女の情報に基づき、念の為、というか万が一を想定して、考えておいた場所を、震える声で提案した。まさかその万が一が起きてしまうとは。
「……モンキーセンターなんてどうだ?」
「遊園地じゃない方よね?」
内海は確認を取ってくる。
「そうだ」
モンキーセンターにはモンキーパークという遊園地が隣接しているのだが、そちらはどちらかというと子供向けの施設なのだ。別に大人が遊びに行っても問題はないとは思うが、あの内海澪がジェットコースターとかに乗ってキャッキャウフフ騒いでいるのは想像できない。
それに俺と内海の二人で遊園地とか普通に無理だろ? 二人きりで待ち時間とか、絶対もう地獄じゃん。二人でメリーゴーランド乗ってる絵面とか、地獄を通り越してもはや笑えてくるだろ。
「ふーん。お猿さんなんて、部室で散々見てるけれど。……そうね。たまには別のお猿さんを見に行くのもいいわね」
部室のお猿さんとはなんのことかな? 気になるけど、聞かないでおこう。
「テスト明けの土曜日でいいか?」
内海は考えるような顔をしてから、
「……いえ、土曜日は用事があるから、日曜がいいわ」
何の気まぐれか知らないが、賽は投げられてしまった。もう後には引けない。
*
中間テストは、入学早々行われた実力テストのことを抜きにすれば、高校に入ってから初めての定期試験で、進学校に入った自覚のあるものは皆、それなりにやる気を出して取り組んでいた。
俺もそこそこ頑張った。
我が神宮高校では、下から二十一番に入ると、ブラックジャックという称号を得る。下から二十一番、つまりは席次が普通科三二〇人中三〇〇番以降になるということだが、聞くところによると、ブラックジャックになれば、ありがたいことに、親が呼び出され、学年主任と、担任とで開かれる、素敵な四者面談に招待されるらしい。それに加えて、進級判定会議という、たいそうな名前のカンファレンスの議題になれるという特典までついてくる。
まあ、要するに、平穏に高校生活を送りたければ、勉強を頑張りなさいということだ。
俺は最終的に、総合成績がちょうど上位一割に滑り込む形で、初の試験を終えた。名誉帰宅部員で、他の連中より時間があったとはいえ、頑張ったとは言えるのではないだろうか。
ちなみに、内海は一桁順位だったらしい。
うちの高校では、上位一桁にいれば、学部さえ選ばなければ、国内の大学ならどこにでも行ける、と言われている。
顔がいいくせに、頭までいいとは、可愛くないやつだ。なぜ天は、やつに二物を与えてしまったのだろうか。
世の中は不公平である。
*
「お待たせ」
その少女の声を聞き、俺はスマートフォンから顔を上げた。そして目を見張った。
「……いや、時間通りだ」
彼女は時間通りに待ち合わせ場所にやってきた。
「ええ、知ってたわ。……どうしたの? ボーッとして。随分間抜けな顔をしているわよ」
「いや、別に」
「そ? じゃあ、いきましょうか」
間抜けな顔というのは、随分な言い草だったが、気を取られたのは確かだった。
見惚れていた、というと少し語弊があるが、彼女の私服姿を見て、目を奪われてしまったのは、事実だった。
「内海って、普段はそういう格好をしてるのか」
コンコースを歩いて、乗り換え先の路線に向かう最中、俺は、隣を優雅に歩く内海のレトロガーリーな装いを一瞥して、彼女に尋ねた。上は丸襟のチェックシャツに、下は確か、ジャンパースカートといった類の服か。なんというか、およそ彼女が着ないような趣向の服に見えたから、少々意外だった。その、しまむらにも、ユニクロにも置いてなさそうな服、一体どこで買うんだろう。
そして今日の内海はかっこよく胸が突き出していた。素材やシルエットの違いか、シャツをインしているせいか、いつもはほとんど主張をしない彼女の胸部が今日は「私はここにいますけど、何か?」と主張をしている。
普通に考えれば、セーラー服というものは学問をするための装いだ。だから防犯のためや、思春期の男子生徒を徒に刺激しないように、体のラインを極力隠すデザインをしているのは当然のことなので、セーラー服を着ている時の印象より大きく感じるのは当たり前かもしれない。正直に言えば、ちょっとどきりとした。
でも伊吹みたいに露出が多くないのはすごく助かる。隣にあんな格好の女の子がいたら、ドキドキしちゃうからな。内海さんはただでさえ俺をドキドキさせてくるしな。そんな内海が助平な格好をしたら心臓が爆発してしまう。助平な格好をした女の子に、毒舌なんて吐かれたら、誰だってドキドキするよね? 違う?
内海はいつもどおりの澄ました態度で答える。
「別に。今日は遠出をするから、いつもと違う趣向にしただけよ。というか、あなたの好みに合わせただけ」
「……お、お前は俺をロリコンかなんかだと思っているのか?」
「違うの?」
「違わい!」
「だったらそんなにハアハアしないでよ。怖いわ」
落ち着け、俺。まず息を整えよう。……ふぅ。よし。
ほら、いきなりこれだ。もう心拍数120は軽く超えてるぞ。俺がスマートウォッチとやらをつけていたら多分心拍アラートが鳴りまくってると思う。
こいつと話していると息は荒くなるし、胸はドキドキするし、冷や汗はかく。調べたところ、自律神経失調症というやつらしい。
ほんとお前、責任取れよな。お前のせいで病気になっちゃったぞ。
「言っておくがな、俺はどちらかというと、お姉さん派だ」
「あら、そうなの。てっきり、ロリコンか、さもなければペドだと思っていたのだけど」
「あのな」
俺が、とんでもない誤解をされていたことに、驚愕している横で、内海は自分の服を眺めながら、肩を落としていた。
「だったら、他の服にすればよかったかしら」
「いや、別にそれが駄目ってわけじゃないし、似合ってないわけじゃないけど……」
ただ、意外だったというだけで、似合ってるか似合ってないかと聞かれれば、似合っているといえるし、俺が先入観を排して、まっさらな状態で彼女を見たとすれば、可愛いとさえ思えただろう。
そんなことは今の俺と彼女との間柄では、口が裂けても言えないが。
「なんだか引っかかる言い方ね」
「……よくお似合いですよ」
「そう。どうもありがとう」
ほれみろ。雛人形みたいな澄まし顔をしやがって。そこで、照れ笑いするようなうぶな可愛さでもあれば、俺だって素直に褒められるんだ。
多分。
知らんけど。
***
犬山線の列車に乗り込んで、しばらくは立ったままだったが、何駅か過ぎると、乗客も減り、俺も内海も座れるようになった。人間半分ほどの距離を空けて、俺たちは並んで座り、スマホを見るでもなく各々車窓を眺めて、暇を潰していた。
そんな折
「お昼のあとはどうするの?」
と内海が唐突に尋ねてきた。
「どうするというと?」
「動物園、見て回るだけなら、2時間で足りると思うわよ」
猿を全て見終えた後どうするのか、という話か。
「……いや、特に考えていなかったけど」
というか、猿を見たら、昼前だろうが何だろうが、帰る気でいたからな。
「そう。だったら、城下町でも見て回る? あなたさえ良ければ」
城下町というのは、無論のこと、これから行く犬山の城下町のことだろう。
断る理由も見当たらなかったので、首肯する。
「俺は別に、構わんが」
「じゃあ、決まりね」
犬山の城下町か。確か、小さい頃行ったことがあったとは思うが、どんなものだったかは、記憶にない。内海の口ぶりからすると、下調べで気になる店でも見つけたのかもしれない。
そうこうしているうちに、モンキーセンターの最寄駅に到着し、そこから、センター行きのバスに乗り込んだ。
ひまわりの花束〜ツンツンした同級生たちの代わりに優しい先輩に甘やかされたい〜 逸真芙蘭 @GenArrow
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