満天で満点

 目的地のショッピングモールの最寄りは、俺と伊吹が待ち合わせをしたターミナル駅が最寄り駅というわけでもなかったが、地下鉄を使ったところで、5分と短縮はできなかったので、そこから歩いていくことになっていた。毎日数キロと水の中を泳いでいる伊吹からしてみれば、地上を数百メートル歩くのなんて、軽い散歩にもならないだろう。むしろ、文化部の鏡というか、もはや名誉帰宅部員ですらある俺の方が、彼女的には心配なようで「ちょっと歩くけど、さすがに大丈夫だよね?」と聞かれてしまった。

 だから俺は

「あまり俺をなめるなよ。小学生時代、朝礼の校長先生の長話の最中に、失神して倒れた回数で俺の右に出るものはいなかったぞ」

 と返してやった。あの回数はきっと今でも破られてはいないはずだ。

「それ、全然大丈夫じゃないよね!?」


「だから、中学に入ってからは、気を使って、自主トレに励んでいたのだ」

 走り込みと、軽い筋トレが俺の日課である。鍛錬を積み、身も心も健康に。健康は精神は健康な身体にこそ宿るものだ。これは俺の高い意識がなせること。いつも公園を走っている、綺麗なお姉さんとお近づきになりたいからだ、なんてことは決してない。そんな下心はないと、ここに断言しよう。この間、すれ違う時に、笑顔であいさつされたけど、全然、嬉しくなんてなかったんだからね。というか、俺がある日突然いなくなったら、お姉さんも心配するだろうから、やめるにやめれないのだ。これも俺なりの、名前も知らない彼女に対する気配りなのだ。

 でも、彼女が、ある日突然、隣に男を連れて走っていたら、俺は次の日から走るのやめると思う。これも気配り。俺のこと気にせず、安全に走って欲しいからね。


「え~~本当?」

 その瞬間、腹に与えられた感触に、背筋がゾクゾクした。伊吹が疑り深い目を俺に向けて、さわさわ俺の腹の辺りを触ってきたのだ。何しやがるんだ、この女は。

 俺は身を捩って、伊吹の魔の手から逃れた。

「ほんとだ。意外と引き締まってるね」

 その悪魔は、逃げる俺を嘲笑うかのようにニタニタ笑っていた。


 全くこの子は。この間、気安く男に触るなと教えたばかりなのに、もう忘れているらしい。

 いつも水着を着ているせいで、そこら辺の感覚が一般人とはずれているのではないだろうか。男子の裸を見慣れているせいで、触ることにも躊躇がなくなっているのではないか。

「やい伊吹。俺はお触り禁止だぞ?」

 お婿にいけなくなっちゃうだろ?

「ああ、ごめんごめん。げんくん、女の子に触られるの苦手だったんだっけ」


「逆に、俺がお前のお腹触ったら、お前、怒るだろ?」

 伊吹は不思議そうな顔をした。

「別に、怒んないよ。……触りたいなら触る?」


 そう言って、伊吹は腹を突き出してくる。


「……遠慮しとく」

「そ?」

  

 俺が触るまいと高を括って、ハッタリを言ったのか、本当に触られても何も思わないのか。


 そんな俺の気持ちを知ってか知らでか、伊吹は言った。

「まあ、なんかあれだよね。距離感って大事じゃん」

「どういうことだ?」


「私だって、いくらなんでもよく知らない男子に体触られたら、気持ち悪いって思うし、知らない男子のお腹触ろうとは思わないもん」 

「……じゃあ、何か、伊吹は俺と腹の探り合いがしたいのか?」

「その言い方だと、大変、仲が悪そうに聞こえるね。私達、もっと仲良しじゃん」

 なかよし……。ほんとかよ。


「要するにどういうことだ?」

「スキンシップも、コミュニケーションの一つじゃない?って話」

「そうか?」

 

「だって、握手とか、ハイタッチくらいなら、別にしても構わないでしょう? よほど嫌いな相手じゃなければ」

「うん、まぁ」

「気づいてほしいときに、肩トントンするのも、別に不自然じゃないでしょう?」

「それは、そうだが」


「だったら、仲いいなら、お腹触るくらい、別によくない?」

「いや、そうはならんやろ」

 何なの? 俺を猫かなにかだと思ってるのかな? 俺が猫だとして、俺は警戒心の強いタイプの猫だ。不用意に腹をなでてくる人間には牙を剥く。シャー!!


「ははん、げんくん、相当引きずってるね」

「何の話だ?」

「前に話してくれたじゃん。仲良かった女の子がいたけど、失恋して、ちょっと女性不信になっちゃったんでしょ?」

「いや、だから、それは俺の友達の友達の話で」

「あーはいはい。友達の友達ね」

「信じてないな」


「とにかく、そんなに女の子が苦手なのに、よくデートに誘おうって思ったね」 

「それは──」

 葵先輩に言われて、と口から出かかった言葉を、すんでのところで飲み込んだ。危ない危ない。葵先輩から忠告されていたんだった。


「どうしたの?」

「まあ、あれだ。部活の仲間と、交友を深めるというのも、大事なことだからな」

「そっか」


   *


 目当てのショッピングモールが近づくにつれ、駅前並みに人の数が増えていき、入口が見える頃には、前後左右人に囲まれる状態になっていた。

 先程から、伊吹とはぐれてしまい、姿が見えない。


 連絡を取ろうにも、スマホを取り出そうとして、うっかり落としてしまえば、無事に手元に帰ってきそうにない。


 俺は首を伸ばして、トイレの前の方にスペースがあるのを見つけて、人混みを掻き分けながらそちらに向かった。


   *


 入店早々、揉みくちゃにされた俺達は、どうにか人混みを抜けたところで落ち合い、自販機横のソファで休憩していた。

「思ったより混んでるね」

「だな」

「あのさ、提案なんだけど」

「何だ?」

「手繋がない? また、はぐれそうだし。手ぐらいなら、触っても平気でしょ?」

 またまたご冗談を、と思って、伊吹の顔を見てみるが、彼女は真面目な顔をしている。冗談を言ったわけではなさそうだ。


「……俺、手汗やばいよ?」

「別にいいよ。汗くらいかくよ。生き物なんだから」


 伊吹は立ち上がり、「ん」と手を差し出してくる。


 郷に入っては郷に従え、という。あくまでホストである俺は、ゲストの彼女の言う通りにするのがマナーか。彼女からすれば、男友達と手を繋ぐくらい、どうということのない話なのだろう。

 彼女は「汗くらい」とは言っているが、一度汗を拭ってから、俺は彼女の手を取った。


 伊吹は人混みを縫うように歩き始める。

 伊吹の手は、俺の「女子の手」のイメージ通りにすべすべしていて、そしてほんのり温かかった。

 流石に恋人つなぎではない。それでも緊張を拭えない俺は、ビチョビチョと汗が吹き出てくる。

 こういうときくらい、止まってくれと思うが、止まれ止まれと思うほど、余計に汗が出てくる。


 よし諦めよう。伊吹さんには保湿剤とでも思って我慢してもらうか。


 汗を止めることを諦めた俺は、話でもして、気を紛らわせることにした。


「何か、お目当ての店とかあるのか?」


 新しく出来たモール、といっても、全国展開している、総合スーパーの新店舗なので、そう、とびきり目新しい店があるというわけではないと思う。

 それにもかかわらず、伊吹さんは一も二もなく、この場所を指定してきた。

 まあ、新しいショッピングモールって、ワクワクするよね。分かるよ。


「実はね、こういうものがあるのだよ」


 伊吹が自慢げな顔で、鞄から取り出し、ちらっと見せてきたのは、二枚のチケットだった。人にぶつかって落としかねなかったので、彼女はすぐに鞄の中に戻す。


 映画の鑑賞券だと思った俺は

「なんの映画だ?」

 と尋ねたのだが

「映画じゃないよ。プラネタリウム」

 と伊吹は返してきた。


 ほう。プラネタリウムとな。


「いくらしたんだ? あとで払うよ」

 と、俺が言ったところ


「あ、いいよ。これ貰い物だから。なんか、パパが仕事の付き合いで貰ったんだって。友達と行ってきなさいって言ってくれたの」


 そうか。優しいパパなんだな。でも多分、パパもまさか、男の友達とは想定してないんじゃないだろうか。バレたら俺、殺されやしないだろうか。


 それにしても、ショッピングモールにプラネタリウムか。珍しいな。一体どんなものだろうか。葵先輩と行った、かの世界最大のプラネタリウムが、割と近くにあるのに、新しくプラネタリウムを作るとは、何か特別な策を講じないといけないような気もするが。


 上映時間も近かったので、俺達はプラネタリウムがある最上階へと向かった。

 

 入口のところで、「おとなのプラネタリウム」と書かれたポスターが目についた。天文学とは、みたいな真面目な話をするのかと言えば、どうやらそういうわけではなさそうで、字体を見るに、あんなことやこんなことを連想させるもののようだ。

 まさか冗談だろうと、あんなことやこんなことと、星空をどう結びつけるのかと思ったのだが、下の方を見たら、『未成年は鑑賞できません』と記載されていた。どうやら本当に、エッチな話をするらしい。


 ぼーっとそのポスターを眺めていたら、伊吹がジト目でこちらを見ていることに気がついた。


「げんくんのえっち」

 心底軽蔑したような目。

「ちょ、待てよ」

 俺はポスター見てただけだよね? なんでエッチ認定されなきゃならんのだ?

 弁明しようとしたが、伊吹は聞く耳を持たず

「ほら、早く行くよ」

 と俺の手を引いて、中へと入っていった。


   *


 そこのプラネタリウムは、科学館のものとは趣向が違っており、科学館が学問よりだとすれば、こちらはエンタメよりの内容だった。また映像も、鮮やかな色で、さすがに普通のプラネタリウムとは一味違っていた。なるほど、この質の違いがあれば、世界最大のプラネタリウムがそばにあろうと、集客に関係ないわけか。

 

 シアターから出てきた伊吹は

「面白かったね。別なのも見てみたいなあ」

 と軽く伸びをした。

「エッチなやつをか?」

 

 伊吹は胡乱そうに俺を見て、非難するかと思いきや

「……それは、まぁ、二人とも大人になったらね」

 大人になったらいいのかよ。絶対見たあと気まずくなるだろ。


「なんか、カップルシートっぽいのもあったな」

「ああ、あったね。今度はそっちにしてみる?」

「いや、やめとこう」


 そんなものに寝転がったら、プラネタリウム見るどころじゃなくなっちゃう。というか周りの視線が痛い。少なくとも、ミニスカートを履いている女子を、そんなものに寝そべさせるわけにはいくまい。


 その後、二人でランチをして、適当にモールをぶらついてから、解散することにした。


   *


「ありがとな。今日は遊んでくれて」

 駅での別れ際、違う路線に乗るという伊吹を見送りに、改札まで来た俺は、彼女にそう告げた。


 伊吹は微笑む。

「ううん。こちらこそ、誘ってもらえて嬉しかったよ。またどっか遊びに行こうね」


 バイバイと手を降って、改札の向こうへ歩いていく伊吹が見えなくなるまで、見送ってから、俺も帰路についた。


 

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