その違いは大事だからな

 ゴールデウィークが終わり、休みボケした体と心にお構いなしに、平日の日常がやってきた。


 夢と希望その他諸々で胸を膨らませ、あんなことやそんなことを期待しながら、高校の門戸を叩いた俺達一年生も、高校生活に慣れてきて、クラスの雰囲気はすっかり弛緩し、皆の顔からは、入学当初の緊張した面持ちはすっかり消え去っている。

 県立神宮高校はここいらではそれなりに名の知れた高校で、地方進学校のご多分に漏れず、国公立信奉が強く、卒業生の8割超が国公立大学に進学している。

 それの是非はおいておいて、地域の中学校で上位1%から2%の成績の生徒が集まってきているような学校なので、正直なことを言えば、学校行事なんて目もくれずに、余暇をすべて勉強にあてるような、勉強大好き人間ばかりが入学してくるものだと思っていたのだが、そんなことはなかった。

 もちろん、放課後に物理実験室で高校課程を逸脱した微分方程式なり線形代数なりを解いて、キャッキャウフフと喜んでいる、変態はいるにはいるが、それは少数派で、ほとんどの生徒は、他の人よりちょっとペーパーテストが得意なだけの、どこにでもいる普通の子供にすぎない。

 だから本音を語らせれば、勉強するより遊んでいたいし、部活のほうが楽しいし、ゲームだってしたいのだ。

 つまるところ勉強は楽しくて楽しくてしょうがないからやっているというより、やるしかないから我慢してやっているのが実情だ。それを考えると、ペーパーテストが人より少し得意というより、我慢が人より少し得意といったほうが、同志たちの特徴をよく表しているかもしれない。

 受験戦争とは忍耐との勝負なのだろう。

 乃木大将も「勉強忍耐は才力智徳の種子なり」と言っていたしな。陸軍のお偉い大将が言うなら間違いない。若人は大丈夫だいじょうふになるためにも忍耐を以て勉強しなければならないのだ。そういえば葵先輩もになりなさいと言っていた。あれは耐え忍んで勉強して立派な人になりなさい、という意味だったのか。さすが執行委員長になる人は言うことが違う。

 ちなみに授業中の卑猥な言動でおなじみ、我らがOB、外野先生は京都御所の近くにある、国立大学を卒業しているらしい。授業中に下品な冗談を我慢できない、忍耐力のかけらも持ち合わせていない御仁が、だ。経歴詐称か、そうでないなら何かの間違いだと俺は思っている。


 それはそれとして、ともかく、大部分が普通の高校生ということだ。

 であるから隣の高校や、さらにその隣の高校でなされているであろう連休明けのお決まりのように、どこに行っただの、部活をしていただの、そんな他愛もない話が教室のあちこちから聞こえてくる。誰も朝からおいらはオイラーが好きなんだと言ってオイラーの公式について熱く語ったりはしていない。いや、一部、「俺の愛は力積アーイ!」と叫んでいる変なやつもいるが。多分あれは幻覚か何か。それか神宮に巣食う座敷わらしかポルターガイストの一種。気にしたら負け。気にしない気にしない。


 俺には連休中の出来事について話をする相手がこのクラスにはいなかったので、粛々と授業の準備をした。仮に話をする相手がいたとしても、女子の先輩と二人で出かけていただなんて、誤解を生みかねない話をしたとも思えないが。


   *


 放課後になり、俺はいそいそと部室へと行き、実質的な部室の主である内海にあれやこれや二口三口、ご挨拶代わりに嫌味を言われたあとは、静かに本を読んでいた。


 内海はカリカリと勉強をしている。

 そうやって、黙っていい子ちゃんにしていれば可愛いのに、口を開けば悪態ばかり。顔を無駄遣いしている。俺に内海の顔が使えたら、馬鹿な男どもを平伏させて、須臾にして内海帝国を築けると思うのだが。


「なにか?」

 俺の視線に気づいたのか、内海は鬱陶しそうにこちらを見てきた。

「別に」

「そう。なら、あまり私が可愛いからって、そんな欲情の籠もったいやらしい目で見ないでくれるかしら。気が散るわ」

「へいへい」


 勉強したいなら帰ればいいのに。変わっているやつだ。


 別に俺も内海の邪魔がしたくて見ていたわけではない。俺は葵先輩から言いつけられていた、到底達成できないような任務があるのだが、内海をデ……フィールドワークに先に誘うか、伊吹を先に誘うか、という問題に直面していた。別に順番の指定はされていないので、どちらを先に誘ってもいいのだが、どちらを先にしたところで結果が変わるとも思えない。

 どうせ断られるに決まっている。  

 断られたあとのことまでどうするか、先輩には聞かされていないが、俺を死地に送り出したのだから、上官としてその責任は取ってもらい、傷ついた分俺を慰めてほしい、と俺は所望する。

  

 伊吹にやんわり断られたあとで、内海に凄絶に断られるか、内海に凄絶に断られたあとで、伊吹にやんわり断られるか。

 後者の方が若干心のダメージが大きくなるような気がする。

 よし決めた。先に伊吹にフラレに行こう。それがいい、そうしよう。


 俺は眼の前の死刑執行人を闘志を秘めた瞳で、密かに睨んだ。今のうちに勉強でもしておくがいい。俺の発言に身を震わせ、身の毛もよだつような体験をする日は、すぐそこだ。


  *


 しばらくして内海が中座したところ、入れ替わりに伊吹が部室にやってきた。


「よう」

 俺はそんな彼女を見上げる。


「やあ」

 伊吹は元気に手を上げ挨拶を返してきた。


「今日は水泳部の方はいいのか?」

「昨日遠征だったから、今日は軽く基礎トレして終わり」

「そうか。連休中、家族とどっか遊びに行ったりはしたのか?」

「部活でそれどころじゃなかったよ」


「そうか」


 伊吹は荷物を置いて、席についた。


「あ~~、私もどっか行きたい! 遊びたい!」

 彼女は手と足をバタバタさせ、まるで子供みたいに駄々をこねた。

 

 普段であればそんな十五歳児は放って、読書に勤しんでいただろうが、今の俺は事情が違う。

 

 彼女の発言は渡りに船というやつではないか。

 

 こんな自然な流れで彼女を誘うことができる機会は、もうないだろう。それどころか、外出欲が極限まで高まっている、今の彼女を誘えば、連れ出しに成功すらできるやもしれぬ。

 奇貨居くべし。


 俺は己の中に眠る、ありとあらゆる力を一点に集中し、一瞬だけ鋼の精神を手に入れた。

 女の子をデートに誘うために。

 いや、間違えた。デートじゃない。フィールドワークだ。崇高にして、清廉にして、潔癖のフィールドワークだった。そこの区分はきっちりしておかねばいけない。


 いやそんなことは今はどうでもいい。せっかく錬成した俺の精神力が破裂する前にさっさと言ってしまおう。

「あのさ、伊吹。もしよかったら、今度の休み、どっか遊びいかね?」

 いい終えた瞬間俺の精神力は瓦解し、自己嫌悪感だけが残った。

 なんだよ、どっか遊びいかねって。ナンパみたいじゃないか。いや、ナンパには違いないのか。

 客観的に見たら、俺、超気色悪いな。ていうか主観的に見ても気持ち悪いから、どう見ても気色悪い。さっきから脂汗でぬらぬらしてるし。うわ、俺、きっしょ。気色悪いが服を着て歩いてるよ。

 もう死にたい。

  

 断られるんだろうな。ああ、もうヤダ。明日から学校来れない。

 絶対SNSで晒される。

 これは確定ですね。わいの社会的立場が御臨終遊ばせました。元からそんなものはない。


「え、いいよ。行きたい! どこ行く?」

 伊吹は食い気味に返事をしてきた。


「え、いいの? 俺と二人なんだけど、本当に大丈夫?」

 二つ返事でオーケーを貰えると思ってなかった俺は、驚いて、自分が聞き間違えたのではないかと、逆に確認を取ってしまった。確認したことでさらに気色悪さが増してしまったな。もうどうしょうもないなこいつ。 

 いやでも、伊吹さんももしかしたら複数人と思っているかもしれないし。いや多分そうだな。というか絶対そう。じゃなきゃOKするはずないもん。


「大丈夫って、げんくんから誘ってきたのに、変なの」

 ところが伊吹はそう言って笑っている。


 いや、だって、俺も一応男の子なわけですし、危機管理的観点からして、そのあたりの懸念は当然あって然るべきだ。伊吹さんも、年頃の女の子なのだから。

 彼女が、俺と彼女とでなにか起こるわけなんかないと信じ切っているのだとしたら、まあ、それには確かに俺も同意はするし、実際そうなる以外の如何なる結果もありえはしない。

 であるからして、俺がこんな事を言ってしまえば、Mr.気色悪いが気色悪いことを発言したことになり、自意識過剰も大概にせいよと、四方八方からなぶり殺しにされること必至なので、黙る他ないのだが……。

 

 でもだよでも。ほんと、男に誘われても、気安くついてっちゃだめだぞ? 優良物件改め安全物件であるところの俺だからいいものの。

 そこんところ、果たして彼女は分かっているのかね。


   *


 迎えた次の休み。


 あのあと、どこに行くか二人で話して、伊吹の希望で、二年ほど前に名古屋駅近くのセラミック工場跡地にできた、ショッピングモールに行くことになった。俺も行ったことはなかったし、伊吹も今回初めて行くという。


 俺は待ち合わせ時間より少し早めに行って、伊吹を待っていた。葵先輩と出かけるとき以上にソワソワする。葵先輩にはどちらかと言うと引きずられるように外に連れ出されていたから、あまり緊張しないで済んだのだが、今回は違う。俺から伊吹を誘ったのだ。いつもとは勝手が違う。

 葵先輩とのフィールドワークが練習だとすれば、今回は本番だ。

 俺のことを駄目なやつだとわかって対応してくれる相手とは訳が違うのだ。本音でズバズバグサグサ俺の心を刺してくるに違いないのだ。

 命がいくつあっても足りない。



 そんな感じでぷるぷるしながら伊吹のことを待っていたら、程なくして彼女はやってきた。

「おまたせ!」


 俺は待ち合わせ場所に現れた伊吹を見てひっくり返りそうになった。

 こ、この女、なんちゅう助平な格好をしているんだ。

 すけすけブラウスだと? すけすけ過ぎて、下に着ているキャミソールが見えているじゃないか。ねえ、キャミソールって下着じゃないの? 見えてていいの? 極めつけはミニスカートだ。丈がいつものセーラー服より10センチほど短い。お父さん、男子の前でそんな足出していいなんて言ってないよ? グレたの? グレタさんなの? 布面積小さくすれば環境にいいってことなの? 人類はそのうち全裸に戻るの?

 

 

「どう?」

 伊吹は両手でスカートの裾を持ち、さして広くないその面積を広げた。筋肉で引き締まった健康的で蠱惑的な太ももが裾からこんにちは、とこちらを覗いている。

 何だこれは。何かの罠か? 俺を試しているのか? 葵先輩に仕組まれた罠か? 遠くで俺をモニタリングしてるのか? 

 俺は念の為、あたりをさっと見渡した。それらしき人物も、カメラも見当たらない。さすがに思い過ごしか。

 

 俺は伊吹の方に向き直った。顔をよく見ると、目の周りがピンク色で、キラキラがついているのが見えた。そのキラキラ、目の中に入ったりしないのかしら。あと唇がいつもよりぷるぷるしている。

 キラキラぷるぷるが眩しくて、彼女の顔を直視できなかった俺は、彼女の胸元の方に視線を下げた。のだが鎖骨やらキャミやらが目に入って駄目だったのでスカートの方までそのまま視線をスライドさせたら、結局太ももが眩しくて、目が焦げそうになった。何だこの女。人間閃光弾か? 


「短いな」

 女の子は制服より短いスカートを履くのは危険だと思う。伊吹さん、制服でも短いし。校則だと膝の皿より下に裾が来ないといけないのだが、ほとんどの教師は、膝にスカートがかかっていれば見逃してくれる。


 ところが伊吹さんときたら、膝頭がギリギリ全部見えそうなくらいの長さで履くんだよ。風紀委員や生徒指導部の先生が注意するかどうか迷うくらいの長さ攻める遊びでもしているのかな? 今のところ怒られたことはないらしい。顔がいいとそういうとき得をする。このご尊顔を引っ提げた女の子に注意するなんて、教師ならともかく、彼女いない歴イコール年齢の陰湿な風紀委員ども(俺の仲間)には無理な話だろう。話しかけただけでちびりそうだもの。分かるよ。可愛い子に嫌われるのは辛いもんな。

 ちなみに俺が女子の制服規定に詳しいのは、俺が女子のスカートを舐め回すように見ている変態だからではもちろんなくて、葵先輩から教えてもらったからである。俺は断じて変態ではないのである。


「いや、スカートの長短の是非を聞いたわけじゃなくて。ていうか言うほど短くないし」


 さすがの伊吹さんも、今日は攻めすぎたかと自省して、俺にスカートが短いのを指摘してもらいたいのかと思ったのだが、どうやら違ったらしい。では何を尋ねて……。

 閃いた!

「ああ、そっちか。下から覗いたらパンツが見えそうだ」

 ジャージとか下に履いたほうがいいんじゃないか?

「そっちってどっち!? スカートなんだから当たり前でしょ! 変態!」

「いやだって、どうだって聞かれたから、見たまま、思ったことを言ったんだが。というか俺は変態ではない」

 おめかしした女子を直視できないくらいにはピュアな俺を捕まえて変態呼ばわりとは。


「私は、可愛いかどうか聞いたの!!」


「あ~~、そっちのパターンね」

「いや普通、そうでしょ!?」


「なんというか、あれだな。鼻血が出そう」

 いや、ほんとに。勘弁してほしい。献血はいつだって足りていないのだ。こんなところで、大量出血をして、貴重な輸血製剤を消費するわけにはいかない。赤十字社に怒られてしまう。

「なにそれ。どういう意味?」

「つまり可愛いか可愛くないかで言えば、可愛くないことはないって意味だ」


 伊吹は不服そうに唇を尖らせつつも

「……普通に可愛いって言えばいいのに」

 といい、それから小さくガッツポーズをして「えへへ」と照れるように笑った。

 違うぞ伊吹。俺は『可愛くないことはない』と言ったのであって、『可愛い』と褒めたわけではないからな。可愛いからってあまり調子に乗るなよ。


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