【テーマ】五月九日、野球選手

 誰かが言った。


 ──この雨は、日本の終わりを告げる雨なんだ。


 それはもちろん、嘘である。

 嘘であるが、その言葉は妙に信憑性の高い噂として人々の中に根付いてしまった。

 なぜなら、この日本では一年以上もの間、毎日雨が降り続けていたから。一日の降水量はそれほど多くない。一時間につき一ミリメートルにも満たない程度。

 これでは、傘を差さずとも問題はない。けれども、塵も積もればと言うように、毎日止まらず降り続ければ問題は山積してくる。


 雨によって緩んだ地盤が崩れ、地滑りを起こした。

 雨によって作物は枯れ果て、高騰した食物を奪い合う光景は珍しくなくなった。

 雨によって人々はみな家に籠り、鬱々とした雰囲気が街を満たした。

 そうしてやがて。

 雨によってダムは決壊し、一部の地域は水の底に沈むだろうと予想された。


 それ故に、人は口々に嘯いた。


 ──日本は、雨によって滅ぶ。


〇 


「……ここにも、居ないか」


 少年の足音だけが、響いていた。

 人の気配は一切ないマンションの廊下。ここの住人も、大慌てで出て行ったのだろう。割れたガラスや置き捨てられた荷物なんかが転がっている。その中の一つ、誰かに踏みつけられ、そのうえ多量の雨を吸ったぬいぐるみを拾う。


「……わ」


 持ち上げるや否や、ぬいぐるみから水が滝のように流れた。

 びちゃびちゃと足元を濡らす。

 少年は俯き、穴の開いたスニーカーを見る。泥汚れのこびりついたそれは、あまりにも少年の足に対して小さな靴だった。


「うっかりだな。ま、いいけど」


 もともと傘など差さない主義の少年は、既に濡れ鼠。

 今更足が濡れようとも、大した問題はなかった。

 少年はぬいぐるみを落下防止の鉄柵に立てかけ、また、歩き出す。


「誰かぁ……いませんかぁ?」


 声を張るけれど、それに意味がないことくらい、少年も理解している。

 日本の滅亡が謳われてすぐ、国際線のチケットを買い求める人間が増えた。真っ先に芸能人たちが日本を出て、次いで政治家。そして、最後は一般家庭。

 中には飛行機のチケットを高値で売りさばく人なども居たほど。

 日本人は皆、日本という国を見限り、沈みゆく泥舟を放棄したのだ。


 尤も、それでも日本に残った人間もいる。

 それは、増していった雨によって飛行機が止まり、日本に留まらざるを得なくなった者が大多数。少数派は、日本を愛するがゆえに共に心中する決意を固めた者や、経済的な事情から国外への逃亡ができないと諦めた者。他には、一縷の望みに掛け、雨が止むことを待っている者や、雨を神と崇め始めた者などもいる。

 しかしながら、少年はそのどれにも当てはまらなかった。


「ま。こんな状況なら仕方ないよな」


 淡々と、一部屋、また一部屋と丁寧に人の姿を探す。

 ──もし仮に、ここに人が住んでいたら、大惨事だ。

 誰にともなく、少年は呟く。


 ほどなくして、全ての部屋を回った彼は、マンションの屋上に向かった。

 小雨の降りしきる空は厚い黒雲に覆われており、辺りを漂う濡れたコンクリートの匂いは黴臭い。泥や土はヘドロと化して、屋上のそこかしこにこびりついている。


 けれども、少年の目は朗らかであり、同時に、煌めいていた。


「おぉ!」


 歓声を上げた少年は屋上の縁に立ち、眼下に広がるゴーストタウンに向けて叫ぶ。


「俺が‼ この日本の王だ‼ 国民よ‼ 立ち上がれ‼」


 その言葉には、何の意味もないだろう。

 ただ、高揚した気分が吐き出させたというだけ。

 実際、少年はすぐさま顔を赤くして縮こまった。


「はっずかしいなぁ! くそぉ‼」


 絶叫はすぐに笑い声に代わる。

 お腹を抱え、身体が汚れることなど気にも留めずに転がりまわる。

 ──と、気づく。


「あ」


「ひっ」


 屋上前の扉。

 そこに、先ほどのぬいぐるみを片手に持った幼い少女。薄汚れた衣服には、穴が開いていて、そこからはあばらの浮き出た腹が覗いている。ぼさぼさに伸びた髪の毛から落ちたフケが肩の辺りに積もっていた。

 少年は、彼女の幼すぎる見た目から、おそらく就学前の児童であろうと推察する。

 少年は深い溜息。

 これもまた、昨今の問題。尤も、それを取り上げる報道官もニュースキャスターもコメンテーターも日本からいなくなってしまったのだけれど。

 いわゆる、捨て子。

 国際線の値段は極端に釣りあげられ、一人五十万はくだらない法外なものとなっていた。それ故に、子供を放置して、自身が命を繋ぐことを優先した親たちが居るのだ。


 少年は舌打ちを飛ばした。


「あーぁ、もう、せっかくの気分が台無しだよ」


 背中のばねを十全に使い、飛び上がるように起き上がる。


「ひっ」


 少女は恐怖で飛び上がり、少年に背を向けて走り去ろうとするが、


「まぁまてよ。ご飯あるよ? お菓子もね」


 かつての日本であれば児童誘拐として警察のお縄になってしまいそうな言葉と共に、怯え切った眼の少女に声を掛ける。

 立ち止まり、振り返った彼女は一瞬、少年がリュックサックから取り出した缶詰と袋菓子を見て、目を輝かせる。が、しかし、すぐさまその眼に疑念と不安を滲ませる。


「……おか、おか、し……あのね、おにい、さん。こわい、ひと?」


 涙声。掠れた声は栄養失調によるものだろう。

 憐みの視線を抑えるように、顔いっぱいに笑顔を浮かべた少年は言った。


「いいや。お兄ちゃんは──正義の味方さ」


「セイギの……ミカタ?」


「えっとね。格好いい、ヒーローのことだよ。分かるかな?」


「ヒーローって……アンパンマン?」


「そ。プリキュアみたいなものさ」


「ぷぅきゅあ? アンパンマン‼」


 プリキュアは、少年が中学一年生の頃に放送が終了していたことを思い出した。

 苦笑しながら、少女に手招く。


「ほら。一緒にご飯食べよ? 今までよく頑張ったね」


「うん‼」


 駆けだした少女を受け止めた少年は、彼女の全身から発される匂いに一瞬だけ顔を顰めたが、すぐさま取り繕って、一層強く抱きしめてやった。


「わ、わぁ、なに、するのぉ?」


「……頑張った。本当に、頑張ったなぁ……たった一人で、良く、これまで生きててくれた。本当に、ありがとう」 


 幼い少女の温かさに、少年は涙を流していた。

 決して、少年少女は血の繋がった兄妹などではない。それどころか、今まさに出会ったばかりの他人だった。

 けれども、少年は他者の不幸というものに人一倍敏感だった。

 それ故に、彼はほんの数分間だけ少女を強く抱きしめた。

 

「……ごめんよ。お兄さん。キミが生きていてくれたことが嬉しかったんだ。名前はなんていうの?」


 少年が訊ねると、少女は缶詰の魚を食む手を止めて、嬉しそうに言った。


「とーか‼」


「とーかちゃんか。良い名前だね」


「うん! ママがつけてくれたの‼ あのねあのね‼ わたし、ごがつきゅうにちにうまれたんだけどね! その日はキリの日なんだって‼ だからね! わたし、とーかなの‼」


 嬉しそうに話す彼女に、少年は少しだけ顔をゆがめた。彼は、母親に捨てられてもなお、母を愛する彼女の純粋さに胸が痛んだのだった。

 だからこそ、彼は一言、


「……うん。うん。いい、お母さんなんだね……」


「うん! ママね、いつかわたしをむかえにきてくれるんだって‼」


「……じゃあ、それまで健康で居ないとね」


「うーん。むつかしいこと……」


「たくさんご飯食べて、たくさん寝て、たくさん遊ばなきゃね、ってことだよ」


「そっか‼ ねぇ、これもっとたべていい?」


 首を捻る少女の手には、かつてどのコンビニでも手に入れられたチョコレート。台形の小さなそれを、少年はいくつも持っていた。

 全て、リュックサックの中から取り出し、少女に手渡す。


「お兄さん、ありがとぉ!」


 歓喜して包装を破った少女を見て、少年は微笑んだ。



 やがて、少女は腹を満たし、眠りについた。

 日が沈んだかどうかすら分からないまま、おもむろに少年は立ち上がる。

 リュックサックに突き刺していた金属バットをとる。一つだけ、野球ボールも。


「……よし、やるか」


 呟くと同時に、どこからか警報音が響く。

 それは、もはや時刻を知らせる鐘と同義になった、ダム放水時の警告音。

 それから推察するに、今の時刻は午前七時。

 空を覆い尽くす黒雲によって、昼夜の感覚は完全に破壊されていた。

 警告音に目を覚ました少女が、眠い瞼を摩りながら少年の背中を見る。

 それに気づくこともなく、少年は呟いた。


「さぁ、試合開始と行こうじゃねぇか」


 少しだけ乱雑な言葉遣いは、自分自身に向けた鼓舞。

 軽いストレッチのあと、彼はバットとボールを手に取った。

 軽やかな小走りでマンションの縁まで進み、立ち止まり、深く頭を下げる。


 少年の頭の中に、かつて何度も立ったグラウンドの黒土が想起される。ざわざわと鳴り響く観客席からの声を一身に浴びて、どこか誇らしい気持ちになったのを覚えている。じりじりと照り付ける日差しが熱く、天を仰ぐと野球帽のツバの裏に仲間たちが書いてくれたメッセージが目に入り、自然と闘志が燃え上がる。


 そんな、いつかの夏の残滓を味わい、やがて少年は顔を上げた。

 彼の顔からは、もはや先ほどまでの優しい微笑みを求めることはできない。獣じみた凶相はいっそ暴力的で、とても彼が先ほど自称した正義の味方からは程遠い。

 けれど、それは、戦いに赴く戦士の顔だった。

 とは言ったものの、彼を形容するのであれば、正義の味方、戦士、などと言うありふれた言葉では足りない。

 そう──彼のような男こそ、こう言うべきなのだろう。


 ──怪獣と。


 彼は、野太い絶叫を飛ばす。


「──プレイッ‼ ボォオオルッ‼」


 その声を合図に少年はバットを構える。

 頭と両足を線で結んだとき、丁度二等辺三角形となるようにゆるく足を開く。

 右手に持ったボールを軽く放り、すぐさまその手でバットを握る。

 宙に舞い、細い放物線を描いたボールがゆっくりと落ちる。

 すう、と少年は息を吸い込む。

 彼の眼は、白球に釘付け。

 テイクバック。ステップ。

 右足を強く踏み込む。

 それに伴って左足は微かにたわみ、バットを握った腕は急旋回。

 息を呑むほどに美しいフォームのまま、バットの芯はボールを捉える。

 かきぃいぃいん。

 快音が鳴る。


「ぅぅううぅうううぅぅあああぁあああああああああああ‼」


 少年の絶叫が鳴る。

 バットから離れた硬球は天高く打ち上げられ、そのままどこまで遠くに伸びていく。ホームラン。その確信が彼の腹から湧き上がる。

 けれども決して油断はしない。

 フェンス直撃の単なる長打になり得ることもある。

 空を駆ける点を目で追いながら、少年はさらに叫ぶ。


「行け! 行け! 行け! いっけぇえええええええええ!」


「が、が、が、がんばれぇえええぇえええぇぇ‼」


 少年の声に合わせ、少女もまた、叫んだ。

 何が何だか分かっていない様子の彼女だけれど、それでも、懸命だった。

 やがてボールは、真っ黒い雲に吸い込まれて消えていくだろう。

 だが、それだけである。

 少年の行動には、何の意味もない。

 きっと、誰もがそう断じるだろう。


 その時、マンション全体から何かが軋む音がした。同時に、地響きのような轟音。それは、少年の打席によって生じた衝撃波が、マンションを崩壊させたというだけのこと。

 少年はバットをリュックにしまい、駆けだす。


「さぁ‼ とーかちゃん‼ 逃げるぞ!」


 少年は叫んで、少女の身体を抱き上げ屋上から飛び降りた。高さ五十メートルはありそうなマンションからの垂直落下は、まず間違いなく自殺行為。

 けれど──。


「ひゃああぁああぁあぁわぁああぁああぁあん‼」


 絶叫しながら大号泣の少女を強く抱きしめた少年。

 彼は、足元の地面を睨み、まっすぐ、足を突きだす。


「ぬぅううぅううんッ‼」


 着地の瞬間、全身を滑らかに回転させ、全ての衝撃を殺した。

 かろうじて突き上げたショックは少年のぼろ靴を完全に破壊するだけにとどまって、決して少女に届くことはなかった。


「わぁあああぁあああぁん! ぅえええぇえぇえぇえぇん‼」


 座り込んだ少年の腕に抱かれるまま錯乱する少女に対し、彼は言った。


「とーかちゃん。空、見てごらん」


「へ──わぁ‼」


 ボールは今まさに、黒雲に吸い込まれた。

 瞬間、


「は、晴れたぁ‼」


 少年の打球によって生じた強風が厚い黒雲を吹き飛ばしたのである。

 それはさながら蜘蛛、もとい雲の子を散らすような光景だった。


 遠景にはまだ、雨雲は残っていた。けれど、ひとまずこの町の上空から、決して止まない雨を降らせる雲は消え去った。




 これは、誰も知らない一つの事実。

 国民が日本を放棄したとき。

 一人の野球少年が蜂起した。

 彼はいつか、甲子園に出たいという一心で鍛錬を続けた。

 その結果、彼の身に一つの奇蹟が舞い降りた。

 それこそが、人知を超えた──打球が雲を吹き散らすほどの膂力。

 彼はその力を用いて、日本全国の町で雲を払った。

 その事実を、わが身可愛さに国を捨てた者たちはまだ、知らない。




「おそら‼ まっさお!」


 大喜びで手を叩く少女に、少年は言った。


「とーかちゃん。俺、いつか甲子園のヒーローになるんだ。だから、見ててくれよ?」


 呆然と、少女は問いかける。


「お兄さん! 怪獣みたい!! 名前は……」


「あぁ、そう言えば、自己紹介がまだだったね」


 少年は帽子を脱いで、片手に持って一礼。

 顔を上げ、微笑んで、言った。


「俺の名前は、マ──」



 それから数年後、雨の止んだ日本を、熱狂の渦に巻き込んだ男が居た。

 そんな彼についたあだ名は、やはり、あの時と同じ怪獣ゴジラだった。










ま○いひ○き選手ごめんなさい。

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SSS(スーパーショートストーリー) 糸巻庄司 @itomaki_shozi

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