第36話 エピローグ
どこかの窓が開けられているのだろうか。
あたり一面に広がる色とりどりの花や草木が一斉に揺れた。
ステンドグラスから差し込む夕陽の光が乱反射して俺の視界を覆った。
目の前に座るお姫様——クロエは俺の様子など歯牙にも掛けない様子だ。
マイペースにゆっくりとティーカップを置いた。
碧眼の大きな瞳が真っ直ぐに俺へと向けられた。
「今回の一件ですが色々とありがとうございました」
「まあ、その……よかったな」
学院の講義はすでに終わっている時間。
放課後の図書館塔の最上階。
小さな植物園のような庭園で俺とクロエは待ち合わせていた。
ノノ先生との死闘を何とか切り抜けた俺たち二人は疲労困憊もあったが、あの後、校庭の異変に気がついた教授たちが駆けつけた。
もちろん王宮をこっそりと抜け出してきたクロエを探していた王宮魔道師たちや騎士団たちが続々と駆けつけた。
そして、なぜか俺だけが現場に残されて根掘り葉掘り質問をされた。
全くこんな時だけクロエはお姫様特権を行使して優雅に帰ったのだから良い迷惑だった。
そんなこんなで俺は眠いまなこを擦って事情を説明した。
と言ってもなぜグール化したのかという根本的な理由はわかっていないため、その点も含めて正直に事情を伝えた。
ただし騎士団に説明した後に、さらに学院の教師たちにも懇切丁寧に一から話すことになるとは、到底考えてもいなかったが……
そして一通り各関係機関からの質問へと答えるように、一連の事情について説明を終えて解放された時にはすでに一日が過ぎてしまっていた。
いや、どうりで眠いわけだよ。
てかこの学院の教師たちはもう少し生徒を労わるという気持ちはないもののか。
疲れた身体を何とか動かして寮の部屋へと戻ると一通の手紙が届いていた。
その手紙の差出人であるクロエは金色の髪を耳にかけた。
「ふふ、そう言って頂けると助かります」
「それで今日の用件は?」
「ふふ、その前に——このお茶とっても美味しいですよ?ですから、さあどうぞ」
クロエは先ほど入れてくれた紅茶へと視線を落とした。
やたらと高級そうな茶葉なのだろう。
きっと魔力を強化する魔素のようなものが含まれているのかもしれない。
いずれにしても疲れていてそれどころではない。
正直、すぐにでもベッドで眠ってしまいたいくらいだ。
「ああ、後ほど頂くよ。それでわざわざ呼び出した用件を話してくれないか。正直、疲れているから帰らせていただきたいのですがね、お姫様」
「ふふふ、そんなに怒りにならないでくださいよ、とっても目の良いチューヤ様?」
「……目が良い?」
「ええ『心眼』使いとお呼びした方が良かったでしょうか」
「『心眼』……聞いたこともない言葉だな」
「ふふふ、誤魔化さなくても良いのですよ?」
クロエはなぜか俺の返事をこれっぽっちも信じていないように笑みを浮かべている。
くっそ、このお姫様は俺の力に気がついたのか。
やはりおいそれと目の前で心眼を使用したのは早計だったかもしれん。
いや、心眼なしでは到底、吸血鬼相手に勝てるはずもなかったのだから仕方なかったんだ。
などと正当化しても後の祭りか。
「っち、仮に腹黒王女様のおっしゃる通り……俺が『心眼』などというけったいな能力を持っているとしてその証拠はあるのか?」
「ふふふ、何度も私の前で見せてくれたではないですか。それにチューヤ様は気が付いていないようですが『心眼』を使用している時、目の色が茶色から薄い青色に変わっていましたよ」
「――⁉」
おいおい、『心眼』を使っている時に術者の瞳の色が変わるだなんて話は聞いたことがないぞ⁉
心眼を俺へと植え付けた赤い髪の吸血鬼ヘラの姿が脳裏に浮かんだ。
果たしてあいつは俺に心眼を授けた時にそんな説明をしていただろうか。
いや、そもそも領地で使用した時だって、瞳の色が変化しているなどという指摘をされたことはなかった。
「ふふふ、そのような反応をなされている時点で自白しているようなものですよ。ねえ、チューヤ様?」
「いや驚きのあまり声が出なかっただけだ。確か……今思い出したが『心眼』は未来や過去をも見通すと言われる伝説上の能力だよな?それを俺が有しているって?ははは、生憎そんなたいそうな能力は持ち合わせていない」
「なるほど、あくまでもしらを切るつもりですか」
「いや、しらを切るも何もそもそもそんな能力持っていない」
「わかりました。ところで私、光属性が得意なんです。ですから——」
「なぜ立ち上がる必要がある……?」
「こんなこともできてしまうんですよね」
「おい、なぜこちらに近づいてくるんだ?」
クロエがテーブルを避けて俺の真横に座った。
なぜか端正な顔が近づいてきて——
「何がしたいんだ――っ⁉」
唇が触れた。
「……ん」
この腹黒王女様は何を血迷っているんだ⁉
王女としてのストレスからの反動で痴女にでもなったのか⁉
いや、それよりもこんなところ誰かに見られたらスキャンダルどころじゃない。
なんとか身体をひくようにして身をよじった。
椅子が後ろへとバタンと倒れた。
「ふふ」とクロエの碧眼が細められ頬が僅かに朱色に染まった。
「――なっ⁉」
『心眼』が強制的に発動した⁉
一気に情報が脳内に入り込んでくる。
赤、青、黄に染められたステンドグラスの天蓋にわずかに施された魔術式。
庭園の壁にはツタがはびこり、わずかにずれた壁の隙間から空気の流れていること。
ホレホレ草の苗が植えられている花壇。
不自然にもテーブルの上に置かれたままの魔力を吸収するための魔石。
視界に入ってくる様々な情報が抑えられない。
頭の奥が押されるような痛みがとめどなく押し寄せてくる。
「俺に何をしたっ⁉」
クロエの口もとが僅かに動いた。
「自分でコントロールすることはまだできないんですね?」
「なんのことだよ」
テーブルの上に置かれている魔石に手を伸ばそうとして——魔石が砕け散った。
こいつわざと魔石を破壊したのか。
「あらあら。ごめんなさい。魔力操作を間違えてしまいました」
「——お前っ⁉︎」
「ほら、あの時のように私から魔力を奪えばいいのではないですか?」
クロエはサディスティックな笑みを浮かべて俺へと右腕を差し出した。
細くて色白い肌から溢れるように微力な魔力の流れを感じる。
少しでもこの頭の痛みから逃れたくて、クロエの腕を強引に引き寄せた。
クロエは「ふふ」と微笑んだ。
……ああ、もうどうだっていい。
この痛みから逃れることができるのであれば何だっていい。
目の前の白いテーブルに、クロエの身体を押さえつける。
ガシャンという音が微かに聞こえた。おそらくテーブルの上のカップや皿が落ちたようだ。
クロエの両肩をテーブルに押さえつけたまま、見下ろす。
わずかに細められた碧眼の瞳が俺を見ている。
「はやく魔力を吸い取ってください」
「……」
だめだ……もう我慢できない。
俺はクロエの言いなりになってただ貪るように魔力を吸い始めた。
すぐにクロエの「……ん」という甘美な吐息が聞こえ始めた。
何かを我慢するようでいて、今にでも掻き消えそうな声だ。
徐々に圧迫するような頭の痛みが和らぎ、俺は誤魔化すようにクロエから離れた。
……って危ない。このまま別の行為すらもしてしまいそうになってしまったではないか。
乱れた呼吸を整えて、クロエは身体を上げた。
「ふふふ、私、ちょうど護衛が欲しかったところでした」
「……引き受けるわけないだろ。俺はそこそこの金持ちの娘と結婚してヒモになるんだからな」
「ふふ、させませんよ?それに、そんな簡単に拒否しても良いのですか?」
「こっちにだって自由という権利があってだな——」
「ええ、そうですか。本当に残念です!でしたら国王であるお父様に『心眼使い』の居場所をお伝えしなければなりません。もちろん、その後は魔術省へ連絡が行き稀有な存在として人体実験もあるかもしれませんね。まあ、その前に、学院の教授たちから尋問——いえ、解剖されるかもしれませんね」
クロエはニコッとした満面の笑みを浮かべた。
要するに今まで通り学院生活を続けたければ言うことを聞けと言うことらしい。
くっそ、なんて卑怯な脅しだ。
「……わかった」
「あら、お声が小さくて返事が聞こえませんでしたが?」
「――ぜひとも護衛の任務をお引き受けいたします!」
クロエは俺の返事を聞いて満足そうな笑みを浮かべた。
天蓋から差し込む月の光に照らされて金色の髪が青白く乱反射した。
少しだけ神々しい聖女のようだと思った。
まあ、中身は腹黒いがな。
それにしても、なんだか急に瞼が重くなってきやがった。
こんな時に疲れがピークに達したとでもいうのか。
「ふふ、やっと効果が現れたみたいですね」
「何を言って……いる……何で……足が動かないんだ」
「ふふふ、疲れているみたいなので、この話はまた今度にしましょ」
「そうか……じゃあ……帰らせて……もらう」
ダメだ……視界が不鮮明だ。
それに妙に頭がふわふわとする。
あれ……いつの間にかクロエがすぐそばにいた。
碧眼の瞳がじっと俺を見ていた。
「さあ、チューヤ様、今はお休みになってください」
「何をした……?」
「ふふふ、ひ・み・つです」
ああ、だめだ。
もう限界だ。
まぶたを開けることができそうになかった。
薄れゆく意識の中で視界が捉えたのは——
うっとりした表情で口元に笑みを浮かべたクロエの姿だった。
(完)
クズ勇者と腹黒王女の偽英雄譚〜今日も寄生先を探すために、鍛錬に励む〜 渡月鏡花 @togetsu_kyouka
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