ミタマアライ

香久山 ゆみ

ミタマアライ

 まとまった休みに、久方振りに当地を訪れる。十数年ぶりに取得できた五連休、命の洗濯だ。

 見渡す限り人工物のない河原から石場を上ると、鬱蒼と木々に覆われた道が続く。途中に遊興施設が数件あったが、昔は川の近くまで店が並んでいた。風俗店も多く、働く女達が早朝に河原に佇む姿を見掛けたものだ。歓楽街は衰退したが、人の数は昔と変わらぬ。

 一定の間隔で川岸に並ぶ人々。しばらく歩いてちょうどいい場所を見つける。他の人達同様、水面に向かってしゃがむ。懐に入れていたものを慎重に取り出す。改めてずいぶん汚れてしまっている。元の色が分からぬほど。掌大のその玉を水に浸す。さらさら水が流れる。ひやりと気持ちいい。親指の腹で玉の表面を擦る。黒い汚れが取れる。だが汚れの層は厚く、まだまだ本体には届かない。ぎゅっぎゅっと水中の玉を洗う。きれいになるまで何日掛かるだろう。連休中に汚れを落としてしまえるだろうか。ただ無心で玉に向かう。

 一時間程で腰が悲鳴を上げ、水辺から離れ岩場に腰を下ろして一服する。眺めると、水に入る者、河原で休む者、老若男女が視界に入る。点在する人々が言葉を交わすことはほとんどない。皆、玉を磨くことに専心している。皆が汚れを落とすのに、川はどこまでも澄んでいる。河鹿の聲や、遠く不如帰の鳴くも聞こえる。穏やかな気持ちでぷかりと紫煙を吐く。昔来た時はそんな余裕もなく夢中で玉を磨いていた。うんと伸びをしてから、立ち上がり再び川に下りる。

 結局夕方まで河原にいて、宿に入ったのはとっぷり日が暮れてから。馳走を食い、温泉に浸かると生き返る心地がする。遅い時間のせいか、露天風呂には先客が一人だけ。

「こんばんは」、「こんばんは」。なんとなく挨拶を交わす。先客は柔らかな髪の美青年で、人懐こい貌をしている。こんな場所まで一人旅に来るようなタイプには思われないが、他人には分からぬ悩みもあるのだろう。

 青年はここへ来るのは初めてだという。想像より長閑で安心したと笑う彼に、昔はもっとごちゃごちゃしていたと話してやると素直に驚く。聞き上手につい話し過ぎてしまう。話が一段落したところで青年が先に上がる。

「二日しか休めなかったんで、早朝から頑張ってなんとか明日中にきれいにしないと」

「とはいえあまり根詰め過ぎるなよ」

 青年は「ありがとう」と微笑んだ。

 翌日昼前に河原に出ると、すでに日は高く辿り着くまでに汗だく。対岸に昨夜の青年を見つけた。この暑さの中朝から頑張っているとはご苦労だ。玉はきれいになったろうか。青年は無表情にごしごし手を動かしている。ふと顔を上げた青年と目が合う。ぱっと笑顔で会釈する彼に、俺も笑顔で手を振った。

 昨日に引続き川に入ったり休んだりしながら玉を洗う。落とせど落とせど黒い部分は消えない。玉はどんどん小さくなっていくのに。

「あっ!」

 悲鳴に頭を上げると、対岸で青年が呆然と立ち尽くしている。空っぽの両手をだらりと下げて。水面を見遣ると先刻まで彼の掌に収まっていたはずの玉がぷかぷか流れていく。美しい桃色の玉。見惚れるうちに玉はどんどん流れてゆき、誰も拾ってやることができないままついに見えなくなってしまった。振り返るとすでに青年の姿はそこになかった。

 玉はしっかり磨けていたろうか。汚れが残るままだと来世に影響するという。その夜も次の夜も露天風呂で彼を見ることはなかった。「わざと手を離したに違いない」と噂する客がいたが、俺はただ聞こえないふりをした。

 最終日。五日間洗い続けて、ようやく元の色が見えてきた。ずいぶん小さくなっちまったけど。こんな小さい玉で、よくもまあ毎日虚勢を張り頑張っていたものだと苦笑する。

 岩場で一息ついていると、すぐ先の水辺にまだ十歳程の少女が見えた。小さい掌に大きな玉を乗せて、今にも落っことしそうで見てられない。煙草を消し、声を掛ける。

「貸してごらん」

 素直に玉を渡す少女に、代りに自分の玉を預ける。大きな玉だが汚れて日が浅いのか、力を込めるとみるみる汚れが落ちる。自分のを洗う時よりも慎重に玉を握り込んで洗う。

「おじさん、もういいよ」

 河原から覗き込む少女が声を掛ける。「あと少しだから」と応えると、「全部落とさなくていいんだよ」と真っ直ぐに言う。前に来た時に教えてもらったのだと。こんな幼い子が、それも何度も来る場所ではないのだが。

 水から上がり少女に玉を返すと、まだ少し汚れの残る玉を大事そうに受け取る。「おじさんも」と返された玉を見ると、待っている間に磨いてくれたのかまだ半分近く黒いながらもぴかぴかしている。確かになかなか悪くない。「ありがとう」と言うと、少女はにかっと笑った。一緒に河原を後にする。

 明日からまた仕事だ。

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