ドーナツの穴だけ食べる

香久山 ゆみ

ドーナツの穴だけ食べる

 暗い部屋。蝋燭の赤い炎が私を囲む。

 狭い、畳敷きの部屋に寝かされた私の周りに、何本もの蝋燭が並べられる。十本? 二十本? 五十? 百? いや、もっと? わからない。幼い私には数え切れないくらいの数。蝋燭の炎で、室内はむんと息苦しい。

 熱い。怖い。助けて。

 けれど、蝋燭が倒れてしまうのではないかと思って。炎が私を包んでしまうのではないかと。怖くて身動き一つ取れない。息をすることも。こわい。は、は、は、と、不規則に呼吸が浅くなる。自分の息で蝋燭が倒れてしまうのではないか。そう思って、息を止めてしまいたいのだけれど、できない。こわい。くるしい。

 視線だけでお母さんを探す。どこ? どこ?

 どこにもいない。

 部屋の隅では、白装束を着た老婆が、気味悪く唇を引き攣らせているだけだ。

 そうだ、お母さんは出て行ってしまった。私を置いて。私を、この老婆に預けて。部屋の外にいるだろうか。それとも先程通された薄暗い居間に? それとも、もっと遠くに行ってしまった? どこにせよ、きっと、私が声を上げたって、お母さんは助けに来てくれない。

 この老婆に、封筒に入ったお金と、私を預けて。「お願いします」と、お母さんは老婆に頭を下げた。「見学なさりますか?」と言う老婆に、お母さんははっきりと首を横に振った。だから、私ひとりでこの部屋の中に連れてこられた。

 お母さんは知っているだろうか? 私が真っ裸にされて身動きも取れないように寝かされていることを。知らないから、私をひとりで預けたのか。それとも、知っていたから、見ないようにしたのか。わからない。けれど、どちらにせよ、きっと助けてくれない。

 老婆はただ気味悪い笑みを浮かべたまま私をじっと見下ろしている。下から炎に照らされたその顔は、まるで幼稚園の時に絵本で見た山姥のようだ。なにか、呪文のようなものを唱えるのかと思っていたけれど、老婆はただじっと私を見ている。まるで値踏みするみたいに。

 ずいぶん長い時間ただじっと見つめられて。私は恐怖で身動き一つ取れなくて。ただ、ちりちりと蝋燭に炙られるようで、熱くて。汗だけがさらさらと、私の顔から体からあちこちから流れて、じきに、私はお風呂に入ったみたいにびっしょりになった。喉が渇く。視界がぼやける。

 ぼんやりした視界の隅で、ようやく老婆が動くのが見えた。祭壇から何か取り出す。長い木の棒。先には白い紙がひらひらと付いている。

 ああ、あれでぶたれるのだろうか。そう思ったのに、ぼおっとしているせいか、なぜだかまるで怖くなかった。

 これで、お母さんが私のことを愛してくれる。そう思ったからかもしれない。

 あの棒でぶたれて。

 私は悪魔祓いされる。


 母は、美しい人だった。優しくて、親切で、誰からも愛される母だった。けれど、母は私を愛さなかった。

 いつから愛されなくなったのか。わからない。けれど、幼稚園に入った頃には、まだ優しいお母さんだった気がする。それが、いつの間にか。

 ――お前には悪魔が憑いている。悪魔の子。

 母は私にそう言った。二人だけの時にはいつも。

 母は、周囲の人にはいたって優しい人で、いつもにこにこしていた。なのに、家に帰るとまるで豹変したみたいに、私を怒鳴りつけた。だから、私はなかなか幼稚園から帰りたがらなくなったけれど、そのせいで余計に母を苛立たせたりした。

 ――お前のせいで。

 ――お前のせいで、私の人生はめちゃくちゃになった。もっと、幸せになるはずだったのに。お前のせいで。

 ――お前がのろまだから、隣の人に笑われるのだ。

 ――どうして他の子ができることができないのだ。お前なんて私の子じゃない。

 ――お前のせいで、私には自由がない。

 そう言って、いつもヒステリックに私を罵った。父が帰ってくるまでずっと。押入れの中に隠れた私を家中探し出してまで。

 けれど、それはあくまで私と二人きりの時だけだった。他に人がいる時や、父がいる時も、母はいたって優しく美しい母だった。

 だから私は。

 だから私は、母にこそ悪魔が憑いているのではないか。そう思って、つい、母に言ってしまった。

 そこから母の錯乱振りはさらに激しくなった。

 ――母親に向かって悪魔と言うなんて!

 そうして、私はついに、小学一年生の夏休みに、祈祷師の老婆のもとに連れて行かれた。逆らいはしなかった。母に怯えきって逆らうなんてもってのほかだったし、それに。悪魔祓いをすることで、母が納得して、優しい母に戻ってくれればそれでいいと思っていた。

 けれど、悪魔は祓えなかった。

 老婆はそう言った。

 この子供に取り憑いているのは強力な悪魔だから、一度では祓いきることができない。

 そう言われて、母は何度も私を老婆のもとに連れて行った。父に黙って用意したお金を、毎回老婆に渡していた。何度行っても悪魔は私の中に残っているから、母は変わらずヒステリックに私に当たった。私は、お母さんこそ悪魔祓いするべきだと思ったけれど、老婆はそんなこと考えもつかないようだった。つまり、老婆はペテン師なのだろう。なのに、まるで悪夢みたいな日々の中、私と母は何度も何度も老婆のもとに通う。母は私の悪魔が祓われると信じて。私は、いつか母が納得してふつうのお母さんに戻ってくれることを信じて。……怖くて、拒否するなんてできなかった。母は知っていたのだろうか。あの狭い密室で、裸にされた私がどんな目に遭っていたのか。

 誰に見咎められることも、気づかれることさえなく、母と私は通い続けた。

 二年生に上がる春に、老婆が逮捕されるまで。

 老婆が逮捕された時、警察の人がうちにも聞き込みに来たみたいだった。

 父は、その時初めて事態を知って、驚いていた。強い口調で母を問い詰めたけれど、母は何も知らないと、ただ泣くばかりだった。父は、私にも一度だけ「大丈夫か?」と訊いた。私は「大丈夫」だと答えた。それ以外の答えを知らなかった。

 結局、母は知らないの一点張りで、警察からそれ以上追求されることもなく、周りの人に噂が広がるようなこともなかったので、父もこの件に関してはそれ以上聞くことをやめた。本人たちが何もないと言うのだから、何もなかったのだろう。そう結論付けたようだった。

 しかし、それ以来、父はあまり家に帰ってこなくなった。残業が増えて、私たちが寝静まった頃に帰宅する。珍しく母が起きている時間に帰ってくると、階下からは口論する声が聞こえてきた。けれど、聞こえるのは母の声ばかりで。父は何も言わなかった。私とも、あまり口を聞かなくなった。

 だから、家の中は、これまで以上に、母と私の二人だけの世界となった。


 けれど。

 母はいなくなってしまった。私の体が少しずつ女のものへと変化していた小学五年生の秋に。私と、父を置いて。あんなに鮮やかだった銀杏の葉がいつの間にか一枚も残らず消えてしまうように。ひとり消えてしまった。

 母がいなくなった。これで私はやっと解放されたはずだった。普通の生活を送れる。

 だけど、その頃にはもうすでに、私は普通とは違うものになっていて。

 同い年の少年少女が集まる教室の中。みんなそれほど変わらぬ姿かたちをしているはずなのに、なぜだか私は異質で。

 何か違う。

 心にぽっかり穴が空いているような。そんな感じ。ああ、きっとこれは。幼い頃に祓われて、欠落してしまったのだ。人間として大事な何かが。

 祓われてしまった私の一部。私はそれを探し続ける。

 それが何なのか分からないまま、中学に上がった。母の不在にも未だ慣れないまま。

 中学に上がると、同級生たちは、少しずつ「個性」というようなものを出し始めて、同じような子たちでグループを形成していった。

 私はどこにも入れなかった。

 きっと、私には個性のようなものがないから。ただぼんやりと、一人で教室の隅に座っていた。いじめに遭わなかったのは幸いだけど、もしかしたら私にはいじめるほどの価値すらなかったのかもしれない。

 空気よりももっと存在感のないような感じで、日々を過ごす。

 一人でいること自体に不安を感じるようなことはなかったけれど、それでもあの思春期の少年少女が作る一種独特な世界の中で、孤独でいることはやはり居心地の悪いもので、もう面倒臭いから消えてしまいたいと思うものの、それすら億劫で。早くここから出たい。けれど、ここから出たって、どうせ私の行く当てなどないのだ。この世界のどこにも私の居場所などない。私を必要とする人などいない。だって、実の母に捨てられた私なのだもの。

 そんな風にただ無気力に季節を捲っていたところ。

 中学生活も半ばで、友人ができた。

 彼女、野田さんは、いかにも大人しい地味な少女で、入学当初の皆がグループ形成に勤しむ一番大事な時期にうっかりいじめられていたものだから、どこのグループにも入れず、そして二年生になった頃にはいじめグループにも飽きられてしまって、要するに彼女も孤独な少女だった。

 そんな彼女を慰めていた唯一の友が読書で、私は彼女の二番目の友人となった。

 はじめての友人は、たいそう面倒臭いもので。まるで拾われたがっている捨て犬みたいに私のあとをついてきて。ずっとつきまとわれるのも面倒なので、たまに相手をしてやると嬉しそうに尻尾を振って。そんなぞんざいな扱いを受けるにもかかわらず、私の何を気に入ったのか、野田さんはしぶとく私についてきた。そうやって無心に懐かれると悪い気もせず、いつの間にやら交わす言葉は増えていき、私たちはいわゆる「友達」というものになった。

「あなたはフラットに私に接してくれたから。同情も偏見も、嘘もなく。だから、もっとお話したいと思ったの」

 のちに彼女はそう言った。それはただ、私が空っぽなだけなのだけれど。興味がないのだ、何ものにも。でも、私も野田さんの「重くない」ところがよかった。仔犬のようだと思ったのも始めのうちだけで、そう感じたのもむしろ私に「友人」に対する免疫がなかったせいかもしれない。彼女は同年代の少女たちが振りかざすような「友達」ではなかった。休み時間に一緒にトイレに行ったりしないし、移動教室だって別にばらばらで行ったって平気だったし、ましてや、「私たちずーっと親友だよね」なんて甘い猫撫で声を出すようなこともなかった。そんなこという輩に限って長続きしないのだ、と言いたいけれど、実際長続きしなかったのは淡白な私たちの方だったので、まあ何も言えないか。

 ともかく、私にはじめての友達ができた。

 それも、なかなか悪くない友が。

 互いに深く干渉するわけではないのに、やはり一緒にいる時間が長いと気を赦してしまうものなのか、徐々に私のガードも緩んできて、好きな食べ物や、テレビドラマみたいなくだらない話から、少々込み入ったことまでお喋りするようになっていった。それはなんだか大草原の真ん中に一本立った大木に二人でこっそり登ってきゃっきゃとはしゃぐような、不思議な、馬鹿みたいな感じで。もしかしたら、私、一人の時の方が哲学的で賢かったのではないか、なんて思ったりするほどだが、でも、彼女と一緒にいるのはなんだかくすぐったくて、無防備に安心してしまう感じだった。

 だから、つい、彼女に情けない相談をしてしまった。

 放課後に野田さんの家に遊びに行った。野田さんそっくりのお母さんが出してくれたジュースとお菓子を持って、彼女の部屋に入った。

 とりとめのない雑談。

 窓から冬の射すような夕陽が差し込んできた頃に、彼女がぽつりと呟いた。いじめられてつらかったこと。今でもいじめグループをみると心臓がぎゅっと縮み上がってしまう。そんな弱い自分が嫌なのだと。もっと強くなりたいんだ、と伏目がちに呟く彼女をとても素敵だと思った。愛おしいと。

「野田さんは弱くない。優しくて純粋な心で。今のままで十分だよ」

「そんな。私なんて。暗いし、弱すぎて。なんで他の子みたいに普通にできないんだろう、って」

「普通」。その言葉がちくりと私の胸を刺す。

 そうか、だから私は彼女と一緒にいるんだ。その時、ようやく腑に落ちた。

 思春期とは愚かなものだ。同級生たちは皆、自分は他の人とは違う「特別」であることを望んでいる。称賛されたい、愛されたい。なのに、彼らの行動は矛盾している。似たような仲間たちとグループを作り、皆で同じアイテムを持ち、必死で流行に取り残されないようにして。好きな芸能人さえ。「特別」であることを夢見ながら、結局「普通」でいることに安心感を覚えている。仲間から取り残されないように齷齪している。その中でかろうじて、いかに他の人よりも共通知識が多いかで存在意義を保とうとしている。

 私にはそれが理解できない。たぶん、野田さんも。

 私たちは、ただ普通であることを渇望するのに、そこに入ることができない異質な存在。皆が望まずしてできることが、私たちにはできない。そんな不安定さが私たちを結びつけたのかもしれない。

「私も。普通になりたいの」

 ぽつりと言うと、野田さんが小さく首を傾げた。真っ直ぐに私を見つめている。

「ただ、普通でいたいの。だけど、他の人とは何か違って。たぶん、私には何か大事なものが欠落しているから。だから、私は普通になれない。どこかおかしい。きっと、異常なの」

 なぜ彼女にそんな打ち明け事をしたのか分からない。夕陽が、小さな部屋を、私と彼女さえも、すべてを真っ赤に染めてしまっていたから。だから思わずそんな生身の台詞を吐いてしまったのかもしれない。

 じっと私の目を見ていた野田さんは、そっと微笑んで、

「大丈夫だよ」

 と言った。

「大丈夫。私たちはちょっと変かもしれないけれど。異常なんかじゃない。ただ、不器用なだけよ」

 そう言って、そっと私の肩に触れた。友と触れ合うのは初めてで。彼女はおそるおそるといった風にいかにもぎこちなく私に触れて、私も、思わず身を竦ませたりしたもので、互いに笑ってしまった。ほんと、不器用だね。って。

 そうだ、と言って、彼女は立ち上がり、部屋の一面を占める本棚の前に立ち、一冊の本に手を伸ばした。

「ねえ。本当に異常なのはこういう人をいうんだよ」

 そう言って、カミュの『異邦人』を私に差し出した。

 読んでみて。彼女が貸してくれた本を、私は早速に読んでみて、そうして、私は安心した。――私は、普通だ。

 その本の主人公は「異常」で、サイコパスというものかもしれない。

 そんな主人公のムルソーの気持ち、私には分からなかった。全然、分からなかった。太陽のせいで人を殺すなんて、それでへいきでいるなんて、私には理解できない。

 私の中に、安堵の思いが満ちる。

 感謝を込めて、友人に本を返した。

「ありがとう。私にはムルソーが理解できなかったよ」

でしょ、と友は微笑む。

「ね。お母さんが死んだ翌日に海水浴に行くなんて、普通の人間じゃないでしょ」

 え。

 私の笑顔がぴくりと引き攣る。

 そこは。私はその箇所はなんとも思わなかった。

 だって、私も。

 幼い頃の記憶が過ぎる。

 まだ母が家にいた時。幼い私は、祖父が亡くなった時に、悲しみよりも先に学校を休まなければならないことを心配していた。祖父が危ないのだと両親がリビングで話しているのを聞いて、それは困るなって、葬儀が土日に当たるように上手いこといけばいいなって。そんなことを考えていた。


 結局、私をかわいがってくれた祖父は金曜日の夜に亡くなり、土曜日がお通夜で、日曜日が葬儀ということになって、私は安堵していた。母が用意した黒いワンピースは、映画で見た魔法使いの少女みたいにかわいくて、何度も自分の姿を玄関の鏡に映した。

 葬儀の日。「最後に見てあげて」と見せられた祖父の顔はまるで蝋人形みたいで。「友引だから」と棺にお人形を入れられた様子も、まるでおままごとのようで。幼い私には、なんだか偽物のお葬式みたいだった。

 大人たちは泣くけれど、私は何が悲しいのか分からない。

 母の美しい涙は周囲の涙を誘う。大人の世界はまるでお芝居みたいだ。皆に愛される美しい母。私も。泣かなきゃと思って、泣いた。嘘泣き。けれど、懸命に一途に、涙を溢してみせた。母に叱られないように。認めてもらえるように。

 けれど、そんな猿芝居はすぐに母に見破られて。親族らが皆よそに外した時に、母はそっと私に冷ややかな言葉を浴びせた。今まで泣いていたとは思えぬような冷たい目で。

 ――お前には悲しいという感情さえ無いのね。やっぱり出来損ないの不良品だわ。醜い顔。そんなものを見せるくらいなら泣かない方がまし。もう私の前で泣かないでちょうだい。

 それから、私は泣かなくなった。いや、そもそも泣くということがどういうことなのかすら分からないまま。

 散々泣いてお悔やみを述べていた親戚たちが、葬式振舞いの食事の席では馬鹿みたいに大声でお喋りして、大伯父さんなんて顔を真っ赤にしてがっはっはと大笑いして。それが正解で、私が不正解。彼らの行為が「普通」で、私は「異常」。どうしても理解できなくて。その頃からずっと、私には人間社会の論理が理解できないでいる。


 図らずして野田さんから、私が異常であるということを突きつけられ、それからは彼女といてもなんだか居心地が悪かった。私のせいで彼女が「普通」から遠ざかってしまうのではないかと。

 だから、高校で彼女と別々になったことには、寂しさよりもむしろ安堵の方が大きかった。私と離れて高校生活が不安だと嘆く彼女は、あまりにも普通の女の子で、私は思わずほころばずにはいられなかった。

 高校生活は、本当に馬鹿みたいに平穏で。

 母ほど美しく成長しえなかった私。恋沙汰のような浮いた出来事はまるでなかったし、友人に恵まれた高校生活を送るでもなかった。かといって、中学時代のように、孤独であることを敏感に怯えるような空気もなく、私はただそこに存在していた。ぽっかりと。

 無為に日々を送り、授業料を出してくれている父のために申し訳程度に勉強し、とはいえ大体はぼんやりと教室の窓から空を眺めていた。

 乾いたグランドの上に、青空が広がる。どこまでもずっと続く空が。

 学校なんてまるで籠の鳥のようだ。

 愚か。

 朝から夕方まで、ずっとこの灰色の箱の中に押し込められて。自由もなく。

 政経の先生が「先進国」とか「民主主義」なんて胸を反らす度に、思わず鼻で笑った。嫌なガキ。いや、私は。高校生って、子供なのだろうか、大人なのだろうか。自由がないのだから、大人ではないだろう。

 大人になれば、自由になれるのに。

 漠然とそんなことを思う。

 けれど、自由になって、そして、私は何をしようか。

 成りたいものなんてない。行きたい所もない。何をするか。それを考える時に浮かぶのは、いつも母のことだ。

 母に会いたいわけではない。むしろ、戻ってこないことを祈っている。

 うちでは父も私も、あれ以来母の話はしない。いや、そもそも父娘の会話すら無いに等しいのだけれど。

 父は私のことを汚らわしい娘だと思っているのではないか。異常な老婆に悪魔祓いなぞされて。それに、あの母の娘で。そんなことを思うと、私から父に話しかける気にならず。父から話しかけられることもなく。ただ、同じ家で生活を共にする関係。父への愛情は? と訊かれると答えられない。けれど、情はある。私みたいな出来損ないを育ててくれて、大学まで出してくれる。本当に感謝している。

 だが、私は高校を卒業すると家を出る。

 母を失って以来ずっと感じてきた居心地の悪さ。それは家の中でもそうで。家にいると、否が応でも母の不在を感じずにはいられない。私も、父も。

 だから、私はここから飛び出す。

 失われた私の欠片を探すために。

 ずっと探している。

 自由になるために。

 どうしてだろう。

 本当は、あの時に私は自由になれたはずなのに。


 幼いあの日。母を失って、私は自由になったはずだった。なのに、現実には逆で。

 ずっと傍らにいた母。私の一挙手一投足に目を光らせて。些細な過ちすら赦さなかった。四六時中母の監視下に置かれて。母に怯えて。まるで母のお人形のようだった。私を自由にするのは母だから。だから私には自由はなかった。

 母がいなくなれば、私は自由になるはずだった。

 なのに。

 あの日、母を失ってからずっと、私は存在意義を失ったみたいだ。ぽっかりと私の中に穴が空いてしまって。

 毎日学校から帰宅すると、母の姿を、面影を探す。愚かな私。

 ああ、もしかして。私の欠落した部分。その、私の空洞を埋めていたのは、母だったのだろうか。でも、もう遅い。母が戻ることはないのだから。

 私は、母が帰ってこないことを望んでいる。怯えている。未だにずっと母の幻影を捜しながら。

 きっと、もう、この欠落は埋まることはないのかもしれない。


 埋まることがないと思っていた私の空洞。それは案外あっさりと埋まってしまった。

 大人になった私。

 つまらない日々を過ごし、つまらない大人になった。

 学生時代にあんなに籠の鳥であることにうんざりしていたのに、金融関係の会社に勤める今、出社後は退社時間まで、許可なく自由に外出することはできなくて、相変わらず籠の鳥だ。私の愚かさを物語る。

 生活ぶりも仕事ぶりも可もなく不可もなくで。まあぼちぼち。

 あんなにも自分の異質さに悩んでいたのに。

 あまりにも平凡な日常を過ごしている。友人もなく恋人もなく仕事もイマイチで趣味も特技もない。何もない、平凡な私。ただ空虚な欠落感だけをいつまでも抱えている。

 恋人はいないといったけれど。私に興味を示す男がいた。

 一人で観に行った映画館で声を掛けられて、なんとなく一緒に食事することになって、そのままそういうことになった。

 男が何者かは知らない。

 私よりも少し年上のようだけれど、年甲斐もなくちゃらちゃらしていて、会社勤めではないだろう。自称・IT関係の起業家、だそうだ。けれど、いつも連絡するとすぐに繋がって会えることから、あまり信用はしていない。話す内容もなんだかふわふわと夢みたいで馬鹿みたいだ。ゴッホの悲しみだとか、月面旅行の実現可能性だとか。だけど、それが私にはちょうどよかった。なんの気兼ねもなくて済んだから。

 そうして、私にぽっかり空いていた穴はこの男によって埋められた。

 空っぽの男によって。だから、私の穴は会う度せっせと男が埋めてくれたけれど、埋まったところで、空っぽのままだ。

 なのに、私は男と会うことをやめず、私の空っぽを差し出すこともやめなかった。男に自らを与えた。それは愛なのか。否。男は確かに優しかったし、居心地もよかった。けれど、私には愛というものが分からない。ただ、わずかばかりでも空虚を埋められることを望んだ。どんな形であれ、求められること、必要とされることに、居心地の良さを感じていた。

 それは、怠惰な充足。

 だから、結局私は空っぽのままだ。

 

 しかし、そんな退廃的なものは平穏に続きうるものではない。

 ある日、男は私の前から姿を消した。

 いくら連絡しても繋がらない。男のことは何も知らなかったので、そうなるともうどうしようもなかった。

 母を失い、男も失った。

 私には何もない。

 全部、手から零れ落ちていく。私が不完全だから。出来損ないだから。だから、上手くいかない。

 ちがう。

 本当は。

 私が。

 私が馬鹿だから。自ら失ってしまった。

 そうしていつだって、失ってから大事なものに気づくのだ。


「ドーナツの穴だけ残して食べる方法って、知ってるかい?」

 いつか男が言った。また馬鹿な質問だと笑うと、これは哲学的な問題なのだと男は答えた。

 哲学者ってそんな馬鹿なことを考えているの。そう言うと、男は愉快げに声を立てて笑った。

「そうだよ。とても馬鹿なことを考えている。真剣に。人間なんて皆そんなものだよ」

 私には男が何を言わんとしているのか分からなかった。

 男はそっと、私のやや乱れた髪に触れて言った。

「きみは」

 すこし哀しくて、優しい瞳で。

「きみは、いつもドーナツの穴だけを食べようとしているみたいだ」

 そう言って、私の髪をそっと撫でた。私は答えなかった。彼の言いたいことが分からなかったから。

「いつも、なんだか生きづらそうにしている」

 そう言う男に、搾り出すように答える。

「だって、私はあなたみたいに自由じゃないもの」

 男はそっと私の頬に触れる。じっと私の瞳を見つめる。

「もっと自由になればいいのに」


 そんな些細な出来事を反芻するほどに、私はいつの間にか男にのめり込んでいたのだ。

 あの時の男の真っ直ぐな目を見て、私は何か懐かしいような気がした。そして、そんな懐かしい思いに引き寄せられるかのように。

 コトン、と郵便受けが鳴る。

 玄関から戻ってきた父が、「今年も届いているぞ」と一枚のハガキを差し出す。

 お正月にだけ帰省する実家へ、私宛に届く年賀状はただの一枚きりしかない。

 野田さんから。

 中学時代の友とも、高校へ上がってからは疎遠になってしまった。けれど、律儀な彼女は毎年ちゃんと年賀状を送ってくれる。生真面目な近況報告の手書き文面とともに。

 ああ、男のあの真っ直ぐな目は、彼女に似ていたのだ。ようやく思い当たる。

 記憶の中の野田さんは、いまだに中学生の少女のままだ。

 あの茜色に染まった野田さんの部屋を思い出す。

 真っ直ぐに私を見つめる彼女の目を。

 それは。

 友情とか恋愛感情とかよりももっと尊いもので。――無償の信頼、とかきっとそんなもので。

 きっと私は同じようには返してあげることができなくて。

 だから、怖くて逃げてしまった。


 私が自ら廃除したのだ。友も、男も、母も。


 あの時、私の内面を見通すかのような男が怖くなって。私は男を拒絶した。

「もう会いたくない。あんたみたいなロクデナシ。まともな仕事だってしていないくせに。二度と顔も見たくない」

 男の哀しそうな顔を忘れることができない。

 母も。

 だから、母が帰ってくることを恐れた。断罪されることを。


 ほんとうにほんとうに幼かった頃。まだあの恐ろしい老婆に出会う前。私は無邪気に母を信頼していた。きっと、友や男が向けてくれたものと同じように、一心に母を見つめていた。

 けれど。

 その視線が報われることはなくて。

 私はまともな母の愛というものを理解できぬまま成長する。それでも幼い私は、少しでも母の期待に応えようと、必死に母の愛情を求めた。母は私を愛さなかったけれど、手離しもしなかったから。だから私は必死に母の期待に応えようとした。いつか母に愛してもらえると信じて。けれど、そんな無抵抗な従属に甘んじていられるのも、無知な幼少期のうちだけだった。

 母の期待に応えるべく必死に勉強する中で、成長する中で、母の愛への疑問は膨らんでいった。それでも、体の小さなうちは、偉大な母に楯突くなんて考えられなくて、その感情は抑圧されていたのだけれど。

 小学五年生の私。母の言いなりだった幼い私は、大人へのほんのわずかばかりではあるが入口に立っていた。

 はじめて母に反抗した。

 母を、拒絶した。

「あんたみたいな子供、生まなければよかった」

 いつものように吐き捨てた母に、私は生まれて初めて言い返した。

「私だって!」

 その時に、ずいぶん久しぶりに母の目を見た気がする。

「私だって、あんたみたいな最悪な母親から生まれてきたくなかった! こんなんなら生んでくれなくてよかったのに!」

 母は明らかに狼狽していた。

「なんてこと! あんた、ママがいらないっていうの」

 気丈に応えた母に、私は言い放った。

「いらない!」

 その時の私は、きっといつもの母そっくりの目をしていたかもしれない。

「あんたなんていらない。もう消えてよ! あんたが消えてくれないなら、私が出て行く!」

 母はさっと目を逸らした。泣いてはいなかった。けれど怒っているようでもなくて。小学生の私には母の感情を読み取ることはできなかった。

 でも、そういえば、長いこと母の目を見た覚えがなかった。怯える私が母の目を見ることはもちろんなかったし、母から見つめられたという記憶すらなかった。

 翌朝目を覚ますと、母はいなかった。

 母は去った。

 ただ私が追い出したせいだと、私が憎いから、愛想を尽かしたからだと、ずっと思っていた。

 けれど、大人になった今なら分かる。あの時目を逸らした母の顔。ほとんど無表情だったけれど。――あれは、絶望。

 なぜ母が絶望したのか。

 きっと。私を失ってしまったから。母の空っぽを埋めていた私を。

 母の空っぽの部分に生まれた小さな私。母の腹から出たあとも、私は母の一部だった。母こそ私に依存していたのだ。

 だけど、そんなことを今さら思ったところで。何が正解だったのかなんて分からない。

 ならば、私は反抗なんてせずに、ずっと母に従っていればよかったのか。

 ちがう。きっとそうじゃない。

 ――男ならそう言ってくれると思う。


 けれど、男はそうは言ってくれなかった。

「この親不孝者!」

 と冗談めかして笑うので、幾分私の心も軽くなる。やっぱり私にはこの男でないといけないのだと思う。

 音信不通から半年ほど経って、男はふらりと帰ってきた。

 新しく立ち上げなおしたという会社の、肩書き付きの名刺をこれ見よがしに差し出して、「どうだこれで文句なかろう」とにやりと笑った。本当に馬鹿な人だ。生まれて初めての涙を流してしまった私に、私以上に戸惑っていて、ざまあみろだ。

 愚かな私だけれど、もう彼を失いたくなくて。自分の愚かさをさらけ出すことにした。もしも、また私が馬鹿なことをしても、愚かな私のすることだからと、笑って許してほしくて。

 母がもうこの世から姿を消してしまったのではないかと心配する私を、彼は一笑した。

「きみみたいな女を生んだ母親が、そんなに弱いはずないだろう。どこかでしぶとく生きておられるよ」

 ひどい言い様だ。

「心配ならば、新婚旅行がてらお母さんを捜索の旅に出ようか」

 なんて、勝手に結婚話を進めようとするので、油断も隙もない。のらりくらりとかわす私の留守の間に、実家に遊びに来たのだというから驚きだ。父から電話を受けた時には、飲んでいたコーヒーを噴き出しそうになった。この男こそ、「普通じゃない」。

 けれど、母を捜す旅というのもいいかもしれない。いつか心の準備ができたら。その旅の中で、ずっと探していた私の欠片が見つかるかもしれない。

 なのに。

「見つかるわけないじゃないか」

 だなんて。膨らました私の頬を突きながら、彼が言う。

「はなからきみは何も失ってなんかいない。そこはもともと空いていたんだよ。それは、空っぽではなく、遊びというんだよ」

 遊び? 首を捻る私に、「ほら、機械の部品とか、ハンドルとかにある、余裕の部分」と彼が補足する。

「みんな、人生でいろんな出来事にぶち当たるから、遊びの部分が用意されているんだよ」

 まるで当たり前のことみたいに言うものだから。すんなり納得してしまった。あんなにも探し求めていたのに。まるで青い鳥みたいだ。そう呟くと、「だから、ないんだってば」、頑固だなあと、男は愉快げに笑った。

 本当に不思議な男だ。不思議で、大切な。

 ふと、「ドーナツの穴だけ残して食べる方法」のことを思い出した。いつか男が教えてくれた。あの後すぐに男はいなくなってしまったから、自分で答えを探そうとした。インターネット上で流行った有名な問いらしい。男は哲学的な問いだと言ったけれど、ほかにも、物理派は巨大ドーナツを高速で回転させてみたり、工学派はドーナツを限界まで削ろうとしたり、はたまた芸術家は穴を描き出してみせようとしたり、本気か冗談か皆いろいろなことを考える。――遊びの部分って、なんだかそういうものなのかもしれないな。


 私の穴。

 そうか、もともとここには何もなかったのか。

 そう思うと、不思議なことに、私の空っぽはふわふわと何か温かなもので満たされていくようだ。

 ずっと探していたものが、今。

 私の中の空っぽの場所。

 でも。

 私は男に告げる。驚くだろうか。

 今、私の空洞だった場所に、あなたと私の未来がいるのだと告げたら。

















 母が見つかったのは、その翌月だった。


 母方の親戚から連絡があった。その電話は、喜びと戸惑いが混じった複雑な声色だったけれど、私はただ、娘ですら探すことを放棄した母を彼らはずっと捜していたのかと感嘆した。

 電話口での叔父の戸惑いの理由はすぐに分かった。母は、また。

 新興宗教にどっぷりと嵌まっていたところを、保護されたのだという。

「会ってみるかい?」

 叔父は遠慮がちに言った。幼い私が母からどんな仕打ちを受けたのかを知っているから。けれど、遠慮がちなのはその表層だけで、会ってみるかい、その響きには当然会って然るべきだという確固たる意思が感じられた。彼は、母とは違って良き叔父で、母の失踪後もずいぶん私を気に掛けてくれた。けれど。優しさとは難しいものですね。彼が正しいと思うものが、私にとってはどうなのか。そこまで熟慮してはくれないのだ。自分が正しいと思うことを無心に信じている。私にはまだこのような人間の思考が理解できないでいる。ただ割り切ることしかできない。

 母に会うことにした。


 私が母に会うために、叔父は小料理屋の個室を用意してくれた。「うちには中学生の子供がいるから」、だから叔父の家で会うことはできないという。それは、母がもはやふつうの家に置くことのできない「異質」なものであるということなのか。返す言葉が見つからない。そうして私は、こうして母に会うまでの数日間、母がどこに滞在しているのか、気にも留めなかった自分を恥じた。

 私は一人でやって来た。

「一緒に行こうか?」と心配する彼を断って。父にも声は掛けた。けれど、一瞬逡巡した父の表情に、「先に、私ひとりで会ってきてもいいかな」と、私から父の同席を止めた。

 畳敷きの小さな一室で、母を待つ。

 何が書かれているのやら分からない掛け軸のぐちゃぐちゃの筆文字は、まるで私の心のようだ。

 心臓と、頭が、ばくばくぐるぐると激しく回転する。私が追いつかないくらいに。今の自分の感情が、恐怖なのか喜びなのか悲しみなのか怒りなのか、それすら分からなくて、考えることをやめる。――こわい。――そうか、私は怖いのか。思わずぎゅっと腹に手をやる。そこで。

 さっと、襖が開いた。

 叔父が入ってくる。その後ろから、一人の女、――母が。

 彼女の姿は、あまりにも変わり果てていた。美しかった母。目の前に立つ女は、ぶくぶくと太って、原形を留めない。その目も。虚ろにきょろきょろと鈍く光る。十五年間。失われた歳月が、母を遠くへ連れ去ってしまった。けれど、私は一目で。一目で母を感じた。

 母は、ちらりと私に目を遣ったが、なにも発しなかった。まるで何もないみたいに。

 叔父に促され、母は私の対面に着座した。座った姿は、いっそうお饅頭みたいだ。

「詳しい説明は……、前回話したからもういいね」

 叔父からはすでに、母が宗教団体で食い物にされていたという経緯は聞かされていた。

 私が小さく頷くと、叔父も了解したと頷き返して席を立った。部屋から出る前に、叔父は母の肩にそっと手を載せたけれど、母は何の反応も示さなかった。

 小さな部屋に、母と二人きりになる。

 醜く変わり果てた母。

 重い沈黙が充満する。私の中の幼い少女が小さく身を震わす。

「……久しぶりだね」

 堪りかねた私が口火を切る。母は鈍光りする目をゆっくりと上げ、焦点の合わない目で私を見つめる。じっと。じーーーーーーっと……。そうしてもごもごと口を動かし、にたりと口角を引き攣らせる。

 そしてねたりと口を開く。

「お前のせいで」

 母が言う。

 ただそれだけで。

 私の体の奥深くから、幼い恐怖が這い上がってくる。

 こわい。

 こわいこわいこわい。

 がたがたと体が小さく震えそうになり、私は腹を抱え込むようにぎゅっと身を小さくする。抱えた手の下には、私の小さな欠片が。まだ「いのち」と呼べるほどの大きさもなく鼓動を感じることもない。けれど、そこには確かに私のものではない温もりがある。私の中から生まれるけれど、私ではないもの。でも、とても大事なもの。

 私は。

 私にはこの子がいる。彼がいる。友がいる。父がいる。

 けれど、母には誰もいなかった。

 いや、私が唯一の母の空白を埋める欠片だった。けれど、私は母のもとから去った。そして、母はたった一人で空っぽを抱えることになった。

 目の前に座る母は、記憶の中の母より二回り以上も大きな体躯をしている。なのに、小さい。とてつもなく小さい。大きな大きな空っぽを抱えているから。

 母はその救いを宗教に求めたのだろう。けれど、残念ながらそこで空っぽを埋める欠片は見つからず、それどころか穴はどんどん大きくなっていった。そこにはもう「ふつう」さの欠片もなく、ただ一目瞭然に「異質」な母が鎮座する。知らず流れた一筋の涙を私はさっと拭う。泣いてはいけない。泣きたいのは母なのだ。

 そのような思考に至った自分自身に驚く。今、母を憎む気持ちはどこかに沈み、ただ彼女を救いたいと思う。私の、母なのだ。

 幼い日に私を囲んだあの恐ろしい蝋燭の炎を思い出す。けれど、今、その赤い炎の中に小さく蹲るのは私ではない。母だ。

 目の前の母は、ばくばくと無表情なまま御膳を平らげていく。まるで私など存在しないように。小鉢も、湯豆腐も、天麩羅も、鯛の御頭も、味わわれることなくその腹に落ちていく。空洞を少しでも満たそうと。けど、満ちるはずない。

 ――お母さん。――一度はその手を振り払ってしまったけれど。今ならば。

 母の手を離れることで、私はささやかながら自身の空っぽに向き合う術を得た。今ならば。今の私ならば、あなたに対峙することができる。受け止めることもできるかもしれない。

 お母さん。

 真っ直ぐに母を見つめる。

 彼が、友が、私を見つめてくれたように。幼い私が母を見つめたように。もう一度。ただ、真っ直ぐに。

 何から話そうか。

 体の奥から幼い頃の恐怖がふと顔を覗かせようとする、けれど、大丈夫。今は傷を癒す居場所がある。それに。私は、強くなった。彼女に向き合えるほどに。自分の弱さを知ることで、強さを得た。

 私は、母を変えられるだろうか。彼女が私の世界の在り様を変容させたのと同じくらい大きな影響を、彼女に与えられるだろうか。

 今からでも、遅すぎることなんて何もないのだと、信じたい。

 そして、願わくば。結婚式に出席してくれるだろうか。私たちの赤ちゃんを抱いてくれるだろうか。やさしい私のお母さんとして。

 なんて、虫が良すぎるだろうか。楽観的過ぎるだろうか。だとしたら、彼のせいだ。と思って、思わず「ふふ」と笑いが零れる。それにびくっと母の体が反応して、ぎょろりと目を上げた母と目が合う。十五年ぶりに。

 私はゆっくりと口を開く。

「あのね、お母さん。ドーナツを穴だけ残して食べる方法って知っている? ――」

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ドーナツの穴だけ食べる 香久山 ゆみ @kaguyamayumi

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