ちょっと買い物へ

香久山 ゆみ

ちょっと買い物へ

 ちょっと買い物へ。

 そう言って家を出たきり、母は帰ってこなかった。

 ――そんな話を耳にすることがあるのは、実際にそんなことがこの世界のどこかで起こっているからなのかもしれない。そして、それはまさに私の母のことなのだ。

 私が十歳の時、母は「ちょっと買い物へ」そう言って、ふわりと家を出たきり、そのまま姿を消してしまった。お醤油を買いに行ったきり戻ってこない母を待ちきれずに、ひとり食卓で母の作った夕飯を食べた。大好きなオムライスだったはずなのに、おいしいとも思わずにただ黙々とスプーンを口に運んだ。なんだかざわざわとした不安のまま夜を過ごして、深夜近くに帰宅した父の姿を見て安心して、わんわん泣き出して、スーツのままの父に抱きつき、そのまま朝まで泣きやまなかった。私は、母が帰ってこないと必死に訴え、どうして帰ってこないのと泣き尋ねた。父はじっと黙って難しい顔をして、私の頭を大きな手でいたわるように優しく撫でてくれた。見上げた父の瞳がなんだか哀しい海を湛えるようだったので、私はそれ以上何も聞かなかった。

 それから数ヶ月の間、家には度々祖父母がやってきて、深夜まで居間で父と何か話し合っていた。時折祖母が声を荒げるのが聞こえて、私はひとり部屋の中で布団に包まってぎゅっと身を硬くした。父は警察に捜索願も出したようだけど、依然として母は見つからなかった。私も、放課後や休日に、母の姿を求めて、商店街やスーパーや町中を歩き回り、時々母の後姿によく似た面影を見たような気がしてどきりとすることもあったけれど、やはり母は見つからず、中学校に上がる頃には、母のいない生活にも慣れてしまった。

 しかし、あれから何年経っても、ふとした拍子に母のことを思い出しては涙することがある。最後に、切らせたお醤油を買いに出かける母を、玄関先まで見送った。あの時の母の横顔。決意に満ちた目をしていたような気もする。なぜ母は忽然と姿を消してしまったのだろう。母はどこへ行ってしまったのだろう。幼い私を置いて。あんなにも私を愛してくれていたのに。一体母の身に何があったのだろうか。なぜ母は。

 今、私はあの頃の母と同じ年齢になった。

 母が買い物に出たのと同じ日、同じ時間。あの時の母と同じ服装で。台所で夕飯を作り、居間で宿題している娘に声を掛ける。私は母の姿を辿る。母の跡を追いかけることで、母を見つけられると信じて。娘が玄関先まで見送ってくれる。夫は深夜まで帰ってこない。「お醤油を切らせたの。ママが出た後、ちゃんと鍵をかけるのよ」

 ちょっと買い物へ。

 そう言って私は家を出る。母の足跡を辿るために。決意を胸に。

 扉の向こうでは、十歳になる娘が無邪気に手を振っていた。

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