キンモクセイ香るトイレの河童のお姉さん

雨蕗空何(あまぶき・くうか)

キンモクセイ香るトイレの河童のお姉さん

 キンモクセイの香りはトイレの香り、というイメージが、一定以上の年代にはあるらしい。

 僕はその年代からは外れているけれど、トイレのイメージは分かる人間だ。祖母のうちで、確かにトイレの芳香剤にキンモクセイの香りが使われていたから。




 JR名古屋駅。金時計前。

 待ち合わせの定番にして、みんなが集まるせいで目当ての人間を探しづらいという、実は待ち合わせには不向きな場所。

 とはいえ平日で仕事終わりの時間にもギリギリ早い今なら、人の量はいくらかマシだ。マシ、という程度でしかないけれど。

 そんな中で僕は、金時計前のエスカレーターの横にもたれかかっていた。待ち合わせではない。これからどうしようか、途方にくれていた。


「……あの、うちまで着いてきたりしませんよね」

「んん、さすがにそこまでは……と思ってたけど。これからどこ行くか、考えてないんだよねぇ」


 僕の隣。同じようにエスカレーター横にもたれかかって、物憂げに視線を上に向ける、河童がいた。

 ……河童がいた。


「どうした少年、頭をかかえて。悩みがあるなら、この河童のお姉さんが聞いてあげるよ」

「現在進行形で隣に河童のお姉さんがいる状況に悩んでます……あともう二十歳はたちをとっくに過ぎてます」

「あははは、そうだった。赤ちゃんのころからちょくちょく京都に来てくれてたから知ってるはずなのに、人間の歳ってつい分かんなくなっちゃうね」

「はあ、そうですか」


 ずるずると、床にお尻を下ろしてしまう。

 礼服を着ていることに下ろしてから思い至ったけど、気にしないことにする。結婚式の招待は今のところないし、あったとしてももし線香のにおいが残っていたら困るから、どのみちクリーニングに出すつもりだ。

 隣で河童のお姉さんが、同じようにお尻を床につけて、ペットボトルのお茶を飲んでいる。くちばしなのに器用だな。


「最近はこういうお茶でもおいしいねぇ。けどまぁ……照子てるこの淹れたお茶が、一番だよねぇ」

「ああ、おばあちゃん……お茶にはこだわってたもんね。遊びに行ったらいつもみんなにおいしいのを淹れてくれたし、おみやげに毎回お茶っ葉を持たせてくれた」


 京都本場の宇治茶。そういえば、しばらく飲んでいない。また、飲める機会はあるだろうか。少なくとも、おばあちゃんが手ずから淹れてくれたお茶は、もう飲めない。

 法事だった。おばあちゃんの。その帰りだった。一人暮らししてる名古屋に戻ってきて、そうしたらなぜか河童がついてきた。

 沈黙。人波のざわめきの中で、僕と河童のお姉さんだけが、違う世界に切り取られてしまったような気がした。なぜだか、キンモクセイの香りがした。

 周りの人間は、ここに河童がいることに気づく様子もない。そういうふうになっているのか、気づいてもコスプレかなんかだと思ってるのか、見て見ぬフリをしているのか。

 ややあって、河童のお姉さんは、喋り出した。


「照子とはね。子供のころからの付き合いだった。照子の実家のトイレに住まわせてもらってて。トイレってさ、昔はかわやって言われてて、つまり川なんだよ。河童のすみかになったんだ」


 僕に聞かせるというより、自分で思い返すために喋っているのだろうか。

 河童のお姉さんは、ずっと正面を見ながら、硬そうなくちばしで器用に発音する。


「トイレでのんべんだらりと過ごしてた私に、照子はなぜだかよくなついてくれた。危なっかしい子だったから、結婚して家を出るときにもさ、心配になって、だから私はついていった。それ以来、私はずっとあの家のトイレに住み着いてたんだ」


 キンモクセイの香りがする。

 つまりそれは、残り香なのだろう。

 おばあちゃんちのトイレに置いてあった、ずっとこのお姉さんとともにあった、芳香剤の、すみかの、思い出の残り香。


「ずっと、そこで、見届けた。子供を産んで、育てるのも。孫ができて、孫に、きみたちに囲まれるのも。旦那さんを見送るのも。そして照子も……みんなに、見送られて……」


 声が湿って、お姉さんは目元に指を当てた。


「悲しいなぁ。いつか別れの時が来るなんて、分かってたのに。悲しい……照子が死んじゃって、私、悲しいよぉ……」


 泣きじゃくるお姉さんの横で、僕の心が、ずきりと痛んだ。

 僕はおばあちゃんと、それほどずっと一緒に過ごしてきたわけじゃない。夏休みや冬休みに、親に連れられて帰省したくらい。それでも死んでしまって、悲しい。せつない。

 それなら隣のこの人は、もとい河童は、本人の話によれば子供のころからずっと一緒にいて、ずっと同じ屋根で暮らしてきて、きっとその喪失感は、僕が感じるものよりもずっと大きなものなんだろう。

 ジャケットのポケットに入れた黒いネクタイと数珠の重みが、今さらになって、存在感を増した気がした。

 お姉さんは涙を拭いて、また遠く前を向いた。


「……もう、あの家には誰もいなくなるからさ。だからいっそ、外に出ることにした。外に出て、どこか遠くに行くことに。思い出の場所に留まり続けるには、悲しみの方が、大きすぎるからさ」

「それで……僕についてきた?」

「お葬式に来てた中で、きみが一番遠くに住んでいたから。……それと」


 不意に、お姉さんの視線とくちばしがこちらに向いて、指が伸びてきた。


「似てるんだ。この、あごのあたりの形。照子の面影がある。照子の若いころに、よく似てるよ」


 そう言って、お姉さんはあごを指でなぞってきた。

 自覚はなかった。おばあちゃんに似てるなんて。言われたこともない。けれど若いころの話というなら、そうなのかもしれない。歯が抜けていなくて、ほおが垂れ下がる前の顔立ちということなら。

 ただそれよりも僕は、なでてくるお姉さんの指の意外なほどのなめらかさに、つい、どきどきしてしまった。なめらかというか、ぬめらかって感じだけど。水かきもついてるけど。

 どきどきをごまかすように、僕は口を開いた。


「もしかして、このまま僕の家に居着こうとか考えてません?」

「んーや、先に言った通り、そこまではせずに一人旅しようと思ってたんだけど……本当、どこに行こうね。このまま東に行き続けるのか、それとも」


 お姉さんは、ぼうっと天井を見上げた。

 なんとなく、僕も一緒に見上げる。

 人波のざわめきは、やっぱりどこか、遠かった。

 そうしてまた、お姉さんは、口を開いた。


「キンモクセイ……」


 指を鼻のあたりに当てて――くちばしだから、鼻の穴はその根元あたりにあるんだろう、鳥と同じなら――残り香を確認するようにして、言った。


「キンモクセイは、やっぱり恋しいな。ずっとその香りの中にいたから。芳香剤しか知らなくて、実物がどんなものなのか知らないけど」

「言われてみれば、僕も……」


 スマートフォンを取り出して、検索してみる。ウィキペディア。


「見た目、こんなんなんだ。オレンジ色? の、小さい花が集まって咲いてる感じみたい……」


 河童のお姉さんに画面をのぞき込まれながら、スクロールする。項目を順に見ていく。


「日本には自然の分布はなく……栽培地は東北から九州まで……」


 お姉さんが、ぐいぐいのぞき込んでくる。

 ちょっと、距離が近くて、ドキドキするというか、いや違うなこれ、首を傾けているから頭のお皿から水がこぼれそうでドキドキするというか、待ってちょっとこぼれてる、頼むから礼服もスマホも汚さないで。

 ともかく、見ていく。やがて、文化の項目。


「都道府県・市区町村の木に指定している自治体……静岡県が、県の木に指定してるんだ。あれ? 市の方で、静岡県の中の掛川市と袋井市が市の木にしてるみたい。ここは県と市の両方で、キンモクセイが指定されてるってこと?」


 僕の言葉を聞いて、お姉さんは興味深そうにスマホに顔を近づける。目の前にうなじ。緑色だけど。背中に甲羅もついてるけど。お姉さんのいい香りが鼻腔をくすぐる。キンモクセイの香りだけど。


「掛川市ってさぁ、川って入ってるなら、大きな川があるのかな? それだったら、河童にとって過ごしやすいところかもね」


 今までトイレに住んでたんじゃ、と言おうとして、やめた。おばあちゃんが死んで、別の家庭のトイレに住み込もうという気持ちは起きないのかもしれない。

 掛川市のリンクをたどる。


「地理……逆川って川があって、これが掛川の由来みたい」

「ふーん。川以外には何かある? 名産とか」

「名産は、この産業ってところを見ればいいかな? ……ん」


 掛川茶。


「全国最大規模の緑茶の栽培地……らしいですよ」


 僕はお姉さんに目を向けた。

 お姉さんも僕に目を向けて、見つめ合う形になる。

 それから、お姉さんは自分の手元を見た。

 飲みかけの、緑茶のペットボトル。

 しばらくそれを見やって、手の中で転がしてみて、ややあって、くちばしからぽつりと言葉が漏れた。


「おいしいお茶は……飲みたいねぇ」


 しみじみと。

 またしばらく、沈黙が降りた。

 そうしていて、人波のざわめきを遠く聞いて、それからお姉さんは、すっくと立ち上がった。


「うん。行ってみよう。掛川。照子の家からほどよく遠くて、キンモクセイもおいしいお茶もあって、ほどよく思い出を懐かしむこともできそうだ」

「キンモクセイ、ちゃんとあるのかな……市とか県の木って、自分が住んでる街のやつも把握してないけど、ちゃんと植わってるもんなのかな」

「なければないで、そのときまた考えるよ」


 お姉さんの声は、そして見上げた表情は、晴れやかに明るくなっていた。緑色だけど。


「で、掛川ってどうやって行くの? 新幹線?」

「えっと、路線情報……あ、こだまで名駅から掛川まで乗り換えなしで行けますね」


 スマホを見せて、お姉さんは把握してうなずいた。


「分かった。行ってみるよ。ありがとうね、相手してくれて」

「あっ、あの」


 早々に出発しようとするお姉さんの背中を、僕は呼び止めた。

 甲羅を背負った背中から、くちばしが振り返ってくる。

 言葉があんまりまとまらないまま、僕は言った。


「そのうち……今度、遊びに行ってもいいですか」


 お姉さんは、僕の顔を見つめた。

 それからにぃーっと、くちばしを笑顔にしてみせた。


「住む場所決めたら、手紙送るよ。スマホは持ってないからね」


 水かきのついた手を振って。

 お姉さんは、新幹線の乗り場に向けて去っていった。

 金時計前は、仕事終わりで増えた人波と、ざわめき。

 その中に一人、溶け込むような気分がしながら、僕の口は一言、疑問をつぶやいた。


「おばあちゃんちのトイレ、ずっと水洗式だったけど、どこに住んでたんだろう」


 人波とざわめきの中に、つぶやきは溶けた。




 秋。

 僕は掛川に遊びに来た。

 JR掛川駅の北口を出て、昼前の陽光を浴びる。駅舎の木造の建物の感じが、なんだかよくて写真を撮って。

 それから、北に向けて歩く。県道をまっすぐ進んで、アスファルトの路面が途中から石畳に変わり、そのまま進めば、橋。

 橋の下に流れるのは、あのとき話していた、逆川。

 お姉さんから届いた手紙によれば、ここに住むことに決めたとのこと。

 橋の欄干らんかんにもたれて、しばらく、川の流れを見てみた。

 この中のどこかにあるはずの、緑色を探して。


「やあっ」

「うわっ!?」


 熱い感触が、急にほおに押しつけられた。

 びっくりして飛びのくと、あの河童のお姉さんが、手に紙コップを持って立っていた。


「久しぶり。来てくれてうれしいよ。掛川茶淹れてきたから、一緒に飲もう」

「はあ、どうも……」


 なんとなく釈然としない気分になりながら、紙コップを受け取った。

 ちょっと風情がないけれど、香りだけで普段飲んでる安物のお茶とは違う気がした。

 きちんと淹れられてるのかちょっと不安だから、後でお茶屋さんを探して、ちゃんとしたのを飲んでみるつもりだけれど。


「本当にさ、来てくれて、うれしい。きみには照子の面影があるから、懐かしく感じるよ」


 元いた場所から遠くに行きたがったわりには、なんて言おうかとも思ったけど、言わないでおいた。

 思い出の場所で過ごすのが悲しくても、思い出から離れて暮らすのは、きっとさみしいのだろうから。


「ここからお城が見えるでしょ。掛川城。御殿に行こうよ。お気に入りなんだ」


 喋りながら、歩く。

 お姉さんは楽しそうだ。水かきの足音はぺたぺたと軽やか。それが普段からなのか、僕が来たからなのかは、分からないけれど。

 ただ緑色の体から感じるにおいは、キンモクセイの香りでなくて、川のものと思われるにおいだった。


「いいところだよ、掛川。新しい知り合いもできたし、逆川も過ごしやすいよ。ずっとトイレに住んでたからさ、いざ川に引っ越すと、広々としていいね」


 楽しそうに、お姉さんは喋り続ける。

 なぜだかそのことが、もやもやした。

 ずっとトイレに住んでいた河童が、おばあちゃんちに住んでいた河童が、川の河童になってしまったからだろうか。

 あの日、香っていたキンモクセイの香りが、すっかり落ちてしまったからだろうか。

 もやもやしたまま、御殿に着く。入場料を払い、入り口をくぐって。


 ふわり。香る。


 顔をめぐらせた。御殿の入り口のそば。

 甘い香りを漂わせて、キンモクセイの木はただあるがまま、花咲かせていた。


「いいところでしょ」


 そうお姉さんに声をかけられるまで、しばらく間があった。

 それまで僕は立ち尽くしていて、今もずっとキンモクセイを見上げたままだけれど、お姉さんがにんまりしているのは声のトーンだけで分かった。

 お姉さんのはずんだ声は、さらに続いた。


「それでね、それでね。お城の方に、井戸があってね。そこに住んでる妖怪とも友達になってさ。協力してもらったんだ」

「え、協力? え、何?」


 お姉さんの水かきのついたぬめらかな手が、僕の手を取った。

 どきりとしたのは一瞬で、次の瞬間には、ぎょっとしていた。


「え、霧? えっちょ、なんか急に霧が出て、真っ白なんだけど?」

「そ。井戸の友達にやってもらった。それでねー、いくよー!」

「わ、ちょ、えー!?」


 掛川城には霧吹井戸というものがあって、お城が敵に攻められたときに霧を吹き出して、お城をすっぽり覆い隠してしまった。という伝承があると知ったのは、後になってからで。

 このとき僕は、お姉さんに抱え上げられて、そういえば河童って相撲が大好きな力持ちだった、なんてことを考えたりしながら、甲羅に座らされて、それでお姉さんはすいすいと浮き上がっていった。


「ちょっと、空飛んでる!? どうなってんの!?」

「霧の中を泳いでるんだよ。私も気をつけるけど、落ちないように注意してねー」

「ちょっとこれ、いや高いよ!? 怖いんだけど!?」


 竜宮城に向かう亀よろしく、お姉さんは僕を乗せて、霧の中を泳ぐ。

 眼下に掛川城や、御殿や、公園を見下ろして、空を進む。

 ときどき、何かがこちらを見上げて、手を振ってくる。ヒトじゃない何か。


「井戸から霧が吹き上がるの、ちょっとウォシュレットみたいじゃない?」

「お城に失礼だよ!? 謝ろう!? あとその中を泳ぐの微妙な気持ちになるからやめよう!?」


 泳ぐ。泳ぐ。

 下からいろいろなものが、手を振ってくる。

 僕は半分パニックで、どきどきして、甲羅にしがみついて、けれど多分、このどきどきの半分は、わくわくしていたんだと思う。

 耳にはお姉さんの笑い声が届いて。

 そして鼻にはまた、キンモクセイの香りが、ふんわりと届いた。




 キンモクセイの香りはトイレの香り、というイメージが、一定以上の年代にはあるらしい。

 僕にもそのイメージはあった。今はまた、違うイメージがある。

 この奇妙な知り合いとの、思い出の香り。

 それがこれからの、僕のイメージだ。

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