プロローグー2


 一方その頃、このフェリーチェ家の末娘である少女は屋敷の階段を二つ上がった先にある自室にいた。名をエレアノーラ・フェリーチェ。彼女はこの日も日課である刺繍に没頭していた。外では雨風が騒がしく、絶えず部屋のガラス窓を叩いている。そんな窓際に座って集中していたエレアノーラは、自ら屋敷内の異変に気付くことはできなかった。

「…作り始めて二カ月、あともう少しね…!」

 手元にある布は、大事な婚約者へ渡すためのハンカチだ。元々刺繍は苦手だったのだが、指に怪我をしながら、ここ最近になってようやく納得ができるものが作れるようになったのだ。このハンカチはそんな努力の集大成であり、完成まではあと少しというところまで来ていた。

 日頃は綺麗なウェーブをかけているピンクブラウンの美しい髪を一つに束ねて集中する。現段階の達成感と、渡した際の婚約者の反応を想像しながら上機嫌で模様を施していたエレアノーラの元に、誰かが大きな音を立てながら部屋の扉を開けた。


「なっ、なに!?」


「……エレン、」

 それは、エレアノーラの兄であるマルクシームだった。“エレン”という呼び名は、家族や親しい間柄の知人、婚約者に呼ばれる際のエレアノーラの愛称だ。

「…マルクお兄様?」

 彼は少し息を切らしながらどんどんと近付いてくる。エレアノーラは彼が何やら焦ったような表情をしていることに気付き、手に持っていた針と刺繍を傍らの台に置いて兄の元へ駆け寄った。

「いつもノックをするのにどうしたのですか?」

 エレアノーラが疑問を最後まで口にする前にマルクシームはガッと手首を掴み、部屋の外へ連れ出そうとする。


「早く逃げるぞ」


「え…?」


 突然の出来事に困惑したエレアノーラは、困惑しながら若干の抵抗を見せる。

「ど、どういうことですか?」

 足を止めようとするエレアノーラと、それを気に留める様子もなくブツブツと独り言を呟きながら引っ張るマルクシーム。掴まれている手首は少しずつ痛くなってくる。いつもは優しい兄の様子がおかしい。その原因を探ろうと廊下に気を向けた時、エレアノーラはようやく気付いた。今までは雨風の音で分からなかったが、下の階に続く階段の方から微かに足音や無数の声がする。それはどれも聞き馴染みのないものだった。

「……何が起こっているの?」


 エレアノーラが困惑して抵抗の力が弱まっている間にマルクシームはどんどんと足を進め、気付けば母である公爵夫人の部屋にいた。エレアノーラは母の部屋に入ることを禁止されていたため、こんな状況だが生まれて初めてこの部屋に足を踏み入れた。

「まさか母上から渡されたこの鍵を俺が使うなんて…」

 マルクシームはそう言って、懐から特殊な装飾が施された鍵を取り出した。それは幼い頃に一度、母の持ち物として見たことがあったものだ。彼は母のベッド脇にある小さな棚に近付くと、何やら裏側に手をまわしてカチリと何かを押す。すると、母のベッドがほとんど音も立てずに動き、一見何の変哲もなかったその部屋に大きな扉が現れた。


 兄の手に握られている鍵によく似た装飾が施されたその扉からは、なんだか気味の悪い雰囲気が感じられた。何故そう感じたのかは分からない。しかしマルクシームはまさにそこへ入ろうとしている。


 ……ここに入ってはいけない気がした。


 エレアノーラは、今度は兄を問い詰めるように声を張り上げた。

「…——私にもきちんと説明して下さい!お兄様!!」

「っ!? 大声を出すんじゃ……!」



「見つけたぞ!!」



 エレアノーラの声でマルクシームは一瞬の動揺を見せ、扉に鍵を挿し損ねた。そのタイミングで騎士団はこの部屋にたどり着いたようで、6人ほどがぞろぞろと入って来た。出入り口を押さえられ、追い詰められたも同然だった。

「クソ……!!」

「…マルクシーム・フェリーチェとエレアノーラ・フェリーチェだな」

 何も分からないこの状況で唯一理解したのは、彼らが王都騎士団だということ。であるならば、フェリーチェ家は何か“してはいけないこと”をしたのだろう。


「手に持っている物を放し、手を挙げなさい」


 しんと静まった緊迫した空間で、観念したように扉の鍵が硬い音を立てて床に落ちる。その音を皮切りに、二人の騎士がマルクシームに近付いた。

「マルクシーム・フェリーチェ、貴殿は拘束を命じられている」

「うっ…」

 抵抗する術もなく、彼はエレアノーラの前で拘束され始めた。

「お兄様…!」

 彼女は思わず駆け寄ろうとしたが、兄に触れる寸でのところで間に騎士団長が入って制止する。ほとんど座り込むような姿勢のエレアノーラが団長を見上げる。その表情は、天井の明かりで逆光になってよく見ることはできなかった。

「エレアノーラ嬢、貴方にはご同行を願おう」

 まるで同意を求めるような言い回しだが、断る選択肢など無いことを知っている。


 断れば拘束、ただそれだけだ。



「……分かり、ました」




 騎士に囲まれながら自らの足で玄関ホールへ向かうと、そこには残り数人の使用人がいるだけで、両親と他の姉兄の姿はなかった。しかし騎士たちが名前を口にして話しているということはすでに捕まり、連行されているのだろう。自分たちの背後にある広い屋敷には、もう人の気配は残っていなかった。


 今日は、いつも通りに時間を過ごして、夜には家族と夕食を共にし、就寝前に婚約者へプレゼントする刺繍を完成させるという、なんてことないいつもの通りの日。……になるはずだった。

唯一違ったのは、屋敷を包む悪天候というだけ。



 ……これから家族は、私は、一体どうなってしまうのだろう。


 数日後には下町へ忍んで、友人たちとお茶会の約束をしていたはずだ。




 ——それに、婚約者にはなんて言えばいいのだろう。そもそも、会うことは叶うのだろうか。



「ロイ、様……」


 エレアノーラは愛しい人を想い、ひと際不安に押し潰されそうになった。齢15歳。もうすぐこの国で言う成人にはなるが、それでもか弱い少女である。



 外は未だに雨風が吹き荒れていた。しかし、先ほどよりは落ち着いている。まるで屋敷内の騒ぎとともに訪れ去ったかのようだ。いつものように乗り物に行くまでに傘をさしてくれる使用人がいるはずもなく、雨に降られ、部分的に濡れる衣服が肌に張り付く。意識すればするほど不快で、他に意識を向けるようにした。



 それが、仇になったのかもしれない。



 最初は聞き間違いだと思った。だって、こんな状況でこの場所に、その人がいるわけはないのだから。

 ……聞き馴染みのある声だなんて、きっと勘違いだ。そんな淡い期待を抱いて、おそるおそる視線を上げる。


 その先にいたのは、今、最も会いたいと願い、こんな形では会いたくなかった人物。



「どう、して……」





  ——ロイ・ノルデン。騎士団を率いていたのは、エレアノーラの婚約者であった。




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フェリーチェの追憶 ~記憶を失った令嬢はモノに宿った想いを辿る~ 篠田μ @ShinodaM

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