第17話 【パラレルワールドへようこそ!】
優吾はやけに黒光りしている革靴に目を落とした。
こんなになるまで靴を磨く人とは、一体どんな人だろう?
優吾は男性とおぼしき人のズボンから腰へと目線を上げていった。
見上げてみると、人のよさそうな老紳士といった風貌の老人が立っていた。
茶色いつばの低い帽子の両脇からうなじへと、銀色がかった柔らかそうな白髪が、馬の尻尾のように伸びていた。
ご老人は優吾の絵に関心を持ったらしく、煙草を口にくわえながらプカプカ煙をはく合間に、
「ほほう、いい絵だね」
と、しきりに誉めた。
この老人が立ち去った後、優吾はしばらく呆然として階段に座っていた。
まさかこんなに簡単に自分の絵が売れるとは、思っても見なかった。
一枚二千円。
老人は五枚とも買うと言って、一万円札を優吾に差し出した。
優吾の一万円札を手にした指が震えた。
いまの優吾にとって、一万円札は、半年分の時間以上に価値があった。
優吾は、そのまま上野動物園に足を向けた。
入場口に並んだ切符の販売機の前には、人だかりが出来ていた。
懐かしい光景だった。ここへ来るのは久しぶりだ。
ホームレスになってから、優吾は、なるべくここへ来るのを避(さ)けていたような気がする。
数人の子供たちが切符を買うために並んでいる。
待ちきれなくて押し合いをしている様子も優吾には、どこか見覚えがあった。
小学校三年生の時、優吾ははじめて友達同士で上野動物園に行った。
まだ低学年だった子供たちにとって、それはまさに冒険だった。
そう、あの時の自分たちも我先に切符を買おうとして、販売機の前で押し合った。
それで中々切符が買えなかった記憶がある。
動物園に入ると、子供たちは走ってパンダを見にいった。
パンダのいる小屋の前には人だかりがして、カメラを構える人たちで賑わっていた。
みんな口々に、「かわいい」とか、「パンダだ」とか言っていた。
優吾たちも人だかりを押し分けるようにして、パンダを見にいった。
まるで人の波を泳いでいるようだった。
わくわくした。
子供だった優吾がはじめて体験した冒険だった。
あの時、はじめてパンダというものを見ることになったが、正直な感想は「なーんだ! 」だった。大人たちが騒ぐほど、可愛くない。
むしろ、可愛いというには大きすぎた。
動きものっそりとしていて、見ていて退屈した。
パンダ舎に入って行き、再びパンダを眺めた優吾は、子供の頃とは違った印象でパンダを見ていることに気がついた。
思わず口をついて出た言葉は、なかなか可愛いもんだな、だった。
優吾は大人になった。
きっとそれが原因なのだろう。
今では、パンダの体格も大きいとは思わなくなり、のろのろと歩く姿も個性的だとさえ思える。
ガラス張りのパンダ舎の中を歩き回っていたパンダが、眺めている優吾の方へ近づいてきた。そして、ガラスを隔(へだ)てた優吾の目の前でふいに立ち止まり、どかんと腰を下ろして座った。
その途端に、優吾のまわりで見ていた見物客が、声を発して身を擦り寄せるくらい優吾のそばに寄ってきた。
ガラス越しの向こうに座っているパンダが優吾の顔を見上げた時、
「なかなか可愛いもんでしょう」
と、どこからともなく声が聞こえてきた。
優吾はこの声がどこから聞こえてくるのか、すぐに理解した。
目の前に座っているパンダが語りかけたのだ。
優吾は最近、パンダの夢を観るようになってからというもの、近いうちにきっと、パンダと話すことがあるかもしれないと感じていた。
その通りだった。
「君は誰だい? 」
優吾は自然と、自分の心の中で呟くように、語りかけている。
「リンリンさ。君のほうは? 」
「ヤマダユウゴというんだ」
「知ってるよ。もう身体はだいぶいいの? 」
「お陰様で。君らには本当に世話になったな」
「ここの動物たちはみんな世話好きが多いのさ」
「なるほど……」
優吾は頷きながら笑った。
そんな優吾をじっと見ていたリンリンは、不意に、こう聞いた。
「君はどうして僕と言葉が通じるんだい? 」
「それはこっちが聞きたいくらいだよ。三年前からカラスの言葉だけは理解できるようになったんだ。最近では、長老のアイアイとも話せるし、君とだってこうして話せるんだから驚きさ。でも……」
「でもなんだい? 」
リンリンがいくぶん首を伸ばして聞く。
「でも……パンダたちとは、ずっと昔から今のような感じで話してきたような気がするんだ」
「どういうこと? 」
「分からない。自分でもよく分からないんだ。不思議なんだが、最近よく夢を見る。冷たい氷河の中に閉じ込められた大きなパンダの夢や、枯れた桜に灰をまいて花を咲かせるパンダの夢も見た。そんな夢から目覚めた時には、何か妙な予感がするんだ」
優吾は不安そうな目つきで、リンリンを真正面から見つめる。
「…………」
リンリンは黙っている。
「……いつか自分が……パンダに変身してしまうんじゃないか。夢を見るたびにそう思うんだ。ひょっとして、自分はもともとパンダに生まれてきて、今は何らかの原因で人間の恰好をしているだけじゃないか。そんな思いが日増しに強くなってくる……」
リンリンは、優吾の顔を下から覗き込みながらしばらく黙り込む。
その間にも優吾の回りには、パンダを見に来た観光客たちが絶えず人だかりをつくり、賑(にぎわ)っている。
この間、優吾は考えていた。
パンダになら何でも打ち明けることができる自分のことを。
やはり、自分は何か変なんだろうか?
不意に、リンリンの声がした。
「ユウゴは、正真正銘の人間さ。パンダの僕が言うんだから間違いないよ」
優吾は苦笑いしながら、頷いた。
「また遊びにおいでよ」
リンリンが丸い目を優吾に向ける。
「そうだね。また来るよ」
優吾はそう言うと、背を向け、人込みをかき分けて行った。
パンダ舎から出ると、動物病院の方に足を向けた。
歩いているうちに、白くてドーム形の大きなテントが見えてきた。
いつの間にできたのだろう。サーカスでもやっているのだろうか。
大きな円形の入口の前には、人だかりがしている。
何気なく近づいていくと、子供たちが着ぐるみのパンダを取り囲んでいた。
20人は居るだろうか。まだ小学校にも上がってないような幼児たちだった。
男の子はパンダの回りをちょこまかと跳びはね、女の子は手をつないでいる。
「ピエロじゃなく、着ぐるみパンダか……」
優吾は苦笑して、また歩きだした。
それにしても、この子たちの親はいったいどこに居るんだろう?
辺りをキョロキョロ見回しながら、子供たちのそばを通り過ぎようとしたその時、
どこからともなく声が聞こえてきた。
優吾は、目を見張り、立ち止まる。
確かに聞いたことがある声だった。
今しがた話したリンリンの声のようだった。
と同時に、幸福村を訪れた時のジャイアントパンダ、或いは枯れた桜に花を咲かせたパンダの声のようにも聞こえた。
しかし、次の瞬間、 ハッキリと耳もとで声がしたのが分かった。
「パラレルワールドへようこそ!」
着ぐるみのパンダの声だった。
優吾は振り向きざまに、着ぐるみのパンダを見た。
〈完結〉
パラレルワールドへようこそ! 夢ノ命 @yumenoto
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