第16話 【力の限り】
優吾は、今まで自分が隠れていた木の前に立った。
それは丁度、パンダの目の前に飛び出すような恰好になった。
パンダの方もひたりと足を止めた。
四本足で立った状態で、優吾の目を下から除き込む。
互いに見つめ合う時間が続いた。
優吾はふと、気がつく。
自分は過去に何度もこうやってパンダと目を合わせたことがあったことを。
そうだ、こうやって見つめ合った。
あれは、いつだったろう。
優吾はパンダの目を見つめたまま、それをしきりに思い出そうとする。
「上野に平安を取り戻すのに、力の限りを尽くしなさい」
口は開いてはいないのに、目の前にいるパンダの声が、優吾には聞こえた。
何故だろう。こうやって見つめ合っているうちに、確かに優吾は、互いに見つめ合うことで、声とは別の種類のコミュニケーションのパイプが、パンダとの間に生じたような気がした。
それは目から伝わる電波のようなものが、直接的に脳に響いて、言葉に転換されるのではないだろうか。優吾は、瞬間的にそう思った。
目に見えないパイプを通って聞こえてくるその声は、こう続ける。
「そのためにも、ユウゴ……そろそろ決めなければ……」
そう言うと、パンダは突然、その場で二本立ちになり、手につかんだ粉をパッと振りまいた。その拍子に、目の前に深い霧のようなベールがかかり、優吾の意識は曖昧(あいまい)になってきた。
気がついた時には、朝だった。
頬を包み込む陽光の温もりに心地よく目を覚まして、上半身を起こした。
まだ葉をつけていない銀杏の枝々が、頭上に見えた。
優吾は、ゆっくりと立ち上がった。
小屋の屋根が風で飛んだらしく、横に滑り落ちていた。
優吾は、しきりに下を見回してみた。
銀杏の葉っぱは、どこにも落ちていなかった。
〈2012年4月3日〉
その日、優吾は、銀杏の木の下でパンダの絵を描いた。
面白いことに紙を手にした時には、何も考えなくても勝手に手が動いた。
何故だろう。まぶたを閉じると、大きな一匹のジャイアントパンダの姿が目に浮かんでくる。優吾は、パンダの絵を立て続けに五枚描いた。
やはり、そうだ。
優吾は、描き上げると我に返り、自分の描いた絵にじっと見入った。
氷の中に閉じ込められたパンダ。優吾が描いた絵は、五枚ともその絵だった。
優吾の頭の中から、どうしてもそのイメージが消えない。
いや、消えないというより、棲(す)みついているといった方が正しいかもしれない。
昨晩、夢に見た枯木に花を咲かせていたパンダも、思えばずっと前に夢に見た氷河の中に閉じ込められたパンダと、どこか雰囲気が似ていたような気がする。
朝、目覚めた時、いつの間にそこにいたんだろうという感じで、優吾の頭の中の一隅に、氷河が出現した。それからどこからともなく、頭の中に冷気が降りてきて、氷河はどんどん縦横に広がっていき、やがて地面の全部を埋めつくした。
優吾の脳裏に冷たい風が吹きすさび、思わず、背筋が寒くなる。
優吾はそんな光景を頭に描いたまま、上半身を起こした。
その時、氷河の地面がスローモーションで斜めに傾いた。
そして、等身大を映す鏡のように、氷河が前に立ち上がる。
優吾は思わずハッとした。
目の前の氷河の中には、大きなジャイアントパンダが座った状態のまま、凍り付けになっていたのだ。
優吾はまさかと思って、自分の頬を両手でさすってみる。
撫でているうちにホッとした。
目の前の、氷河の中にいるパンダは、まさか自分の姿なのではないかという疑いを優吾は一瞬持った。
まるで鏡の中に映る自分の姿を見ているような……そんな錯覚を覚えた。
それほど氷河の中に閉じ込められているパンダを見て、優吾は親近感を抱いたのだった。
自分のような気がしたことが不思議だった。
起きたら、無性に絵を描きたくなった。
紙を手にした途端、鉛筆がスルスル動いていた。
たちまち五枚の素描が出来上がる。
あの、氷河の中に閉じ込められたパンダの絵だ。
優吾はそれを、銀杏の木の下で一時間ばかり眺めた。
自分が描いたとは思えないほどの出来ばえだったからだ。
その絵の中のパンダは、今にも動き出しそうに思えた。
氷河に亀裂が生じ、硬い氷のかけらが飛び散り、ジャイアントパンダがのっそりと立ち上がる。
その絵を見ていると、優吾はいつのまにか、その光景を想像している。
自分が描いた絵なのに、これほどリアルな絵は今まで見たことがなかった。
優吾は絵の出来ばえに感心して、何度も頷(うなず)いた。
「これは売れるかもしれない――」
思わず、独り言が漏(も)れる。
さっそく優吾は、公園内の似顔絵を書く画家が何人も腰かけている階段の所へ行って、そこの一隅に腰かけた。
拾ったばかりの新品の白い水玉のシートを広げ、その上に五枚の絵を置いていくと、
優吾はときおり空に目をやりながら、前の大通りを行き過ぎる通行人を眺めた。
気持ちのいい晴天だった。
どこかでしきりにカラスが鳴いている。
何人もの通行人の足音が階段に響いた。
しゃがんでいる優吾の太股(ふともも)の部分に、それは男ならタンタンと、女ならコツコツという様々なテンポを含んだ足音が響いた。
階段を前後から行き過ぎる通行人の中で、黒光りした小さな革靴が優吾の目の前にふいに立ち止まった。
〈続く〉
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