後編

 亀ヶ谷深幸かめがやみゆきが隣に住んでいる。

 

 そのことを実感するまで半月がかかった。大学の学部が違えど、一年生が受ける講義は一般教養に分類されるものが大半であったから、同じ講義をいくつもとっていると、自然と学内でも彼女といる時間が多かった。

 自然と、と表現してみたけれど現実はそうでもない。なぜなら、私と彼女とでは容姿も性格もまるで異なっていて、交流する人間も違って、だからいつの間にか疎遠になってしまうほうが自然だと私は考えていたのだ。

 事実、彼女は私が興味を持たずに、むしろ忌避してしまうようなサークルの新歓にいくつか参加していたし、並んで歩けば声をかけられるのは決まって彼女であったし、春風さえも私には向かい風なのに彼女には追い風で吹いているように思えた。


「変わりたいって本気で思うなら、あたしが変えてあげる」


 五月の大型連休を前に、私が自身の地味さを卑屈にも亀ヶ谷さんに愚痴っていると、彼女が真剣な顔でそう言った。

 

 メイクもおしゃれも、男の子のあやし方だってなんだって教えてあげると口にするのだった。魅力的な提案だった。とても。心が躍るを通り越して、心臓が止まってしまうぐらいに、どきりとした。自分の何倍、何十倍も輝いている彼女が自分を大切な友人扱いしているのが伝わってきた。

 でも、結局断ってしまったのは彼女の手を煩わせたくなかったのと、自分がそこまで本気でなかったのと、それから私は友達でいたいわけではなかったからだった。

 

 気づいてしまった恋心の宥め方を知りたくはあった。

 大切な友人というポジションで満足できない自分を見つけたくなかった。見ないふりをし続けることにした。けれど、そうしているうちに、つまり彼女と下手に距離をとっているうちに、友達でさえいられなくなるとは予感していた。

 

 いつの間にか、疎遠になってしまう。自然に。大学一年生の春、私が思い描いたこの未来は打ち砕かれる。他でもなく彼女が打ち砕いてくれる。


 連休が明けると、早くも春が去って初夏の匂いがした。

 亀ヶ谷さんが私の部屋に上がり込む回数が増えたのだった。驚いた。遊ぶ人なんていくらでもいるだろうに、男女問わず、きっと素敵なひと時を過ごせる部屋に招かれだってするだろうに、それなのに彼女は私の殺風景な部屋にいた。

 

「鶴のとこが一番落ち着くんだよ」


 そんなこと言われる私の身にもなってほしい。クッションの一つはすっかり彼女専用となってしまった。彼女がいないときに、そのクッションを触るのすら躊躇ってしまう、でも触れたいと感じる私に配慮してよ。

 そんなわけで私は大学に入学してから一カ月して、彼女が隣に住んでいる実感を失いつつあった。彼女は暇なときは私の部屋にいるのである。壁を隔てた向こうではなく。同じ空間に。まるでいっしょの部屋で生きているふうに。

 

 ただ、私は「暇なの?」と訊いたことはなかった。訊けなかった。それを確認した瞬間に、たとえば彼女に電話がかかってきて誰かが彼女を部屋からさらってしまうのを想像してしたから。もしくは彼女からはっきりと「暇じゃなければ、こんなとこいないって」と嘲笑でもされたらって怯えた。

 後者については、言わないよね、そんなのあり得ないと信じつつも、でも彼女が学内や街で誰かに声をかけられる度に、信じられなくなってしまう私がいた。

 

 そんな私の独占欲を悟られるのはもっと怖かった。

 

 何気なく彼女が私の髪を撫でる時に、彼女を直視できないその理由、並んで歩いているときに手が軽くぶつかるだけで顔を熱くするそのわけ。

 そういうの全部、知られたくなかった。いっそ、彼女がいなくなったらと思って夜に眠り、嫌な夢から覚めて朝起きた時に彼女に会いたくなる、声を聞きたくなる、体温を感じたくなる自分にまいった。




 それは五月最後の日だった。

 私は同じ教育学部の子に誘われて、とある学習塾でアルバイトを始めようと考えていた。亀ヶ谷さんとのいっしょの時間は減る。わかっていた。

 よっぽど人格に問題がない限りは、私たちの通う大学の在校生なら採用されるという話だった。それでも履歴書が必要であり、高校時代にアルバイト経験のなかった私は初めてそれを書くことになった。

 自分の長所やアピールポイントを記入する欄でペンが止まる。そんなのないって思ってしまう。ネットで検索すればそれらしいのが書けるかな、とスマホを操作しようとしたときに、亀ヶ谷さんからメッセージアプリの着信があった。彼女は私の知らない友達とお出かけ中のはずだった。


『フリージアとスズランだったらどっちが好き?』


 どちらとも名前を耳にしたことがあるが、はっきりとその形まで思い出せなかった。画像検索してみると、スズランのほうが特徴的で可愛く感じた。けれど同時にその釣鐘状の花を、気落ちしているときの自分に重ねてしまう。それに毒があるのだという。花言葉は純潔や純粋。私が彼女に抱く気持ちとは違う。

 

『フリージアかな どうかしたの?』

『秘密』


 すぐさま返ってきた二文字をしばし眺めた。

 それから、彼女がフリージアの花束を私のために買ってきてくれるのを夢想した。ないない、と即座に打ち消す。花瓶一つだってこの部屋にはないのだ。そもそも、私も亀ヶ谷さんって花にあまり興味がないし。花柄のワンピース一着持っていない。

 

 一時間足らずして、亀ヶ谷さんが帰ってきた。ちがう、すぐ隣の彼女の部屋に戻らずにそのまま私の部屋に来たのだ。私はというと、書くだけ書いた履歴書をテーブル上に出したまま、うとうとしていたところだった。

 チャイムを鳴らしてドアをコンコンコンと叩く。彼女のいつものやり方。念のため、とドアスコープ越しに彼女を視認。それから開けて、入ってもらう。


「ねぇ、鶴」

「どうかした?」

「えいっ」

「ひゃあっ!? なんで抱きしめるの?!」

「軽くでしょ。慌て過ぎ」

「でも、今までこんなスキンシップなかった」

「それは、まぁ……うん。どう?」

「どうって……わかんない」


 いきなり過ぎて、困る。出先で何があったのだろう。スキンシップ系女子に目覚めるような出来事があったってこと? それは何? これからは私相手にも簡単に触れるの? そんなのダメ。身がもたない。


「わかんないか。――――フリージアの香り、しない?」

「へっ?」


 亀ヶ谷さんが私から離れる。そして小さな玄関からキッチンを抜け、洋室へ。

 私が香りのことを、そしておそらくその香水をつけた意図を訊こうとすると、彼女がテーブル上の履歴書を見やって「これは?」と逆に訊かれてしまった。「見ちゃダメ」と隠しつつ、私は事情を説明する。


「塾でバイトかぁ。鶴だったらいい先生になれそう」

「今のところ、不安しかないよ」

「中学生や高校生の男子、勘違いさせんなよ。鶴、可愛いのにけっこう無防備で、あと天然だから。なぁ、同じ大学のやつは多いの?」

「わりとだって。知っているのは、誘ってくれた子だけ。他の子と仲良くできる自信はないなぁ」

「そっか。じゃあ、やめたら」

「え?」


さらっと彼女が言う。本気っぽく。不意打ちに虚をつかれた。


「なんて顔してんの、冗談よ、冗談」


 笑った。ちゃんと冗談だった。

 私、どんな顔していたんだろう。バイトをするのをやめたら、もしそうしたら、亀ヶ谷さんはいっしょにずっといてくれるの?

 当の彼女は座って、いつもと同じようにクッションをつかう。


「どうしたんだよ、鶴。えっと、言い方悪かった? あたし、鶴だったらほんとにいい先生に……」

「わかんない」

「鶴? なんで泣きそうになってんだよ。ひょっとして、そのバイトって無理やり誘われたのか」

「ちがう。バイトは関係ない。ううん、関係ないってこともないけれど……」

「とにかく座りなよ。あたしがくつろいでて、部屋主が突っ立っているって変だろ」


 彼女に従う。テーブルを挟んで正面に腰掛けようとしたのを止められ、「ここ」と言われて彼女の真横に座った。そんな指示、これまでしたことなかったのに。香水も、前に好きじゃないって言っていたのに。

 変なのは亀ヶ谷さんもだ。


「何があったわけ?」


 あの時と同じだった。

 転んだ私にハンカチを出したときの彼女、その声。優しくて、今は愛おしくてたまらない声だ。


「わかんないよ。でも……」

「でも?」

「これからどんどん、いっしょの時間がなくなるんだろうなって」

「それってもしかして、えっと、あたしとの?」

「それ以外ないでしょ」

「怒るなよ」

「怒っていない」

「じゃあ、悲しい?」

「悲しくない」

「じゃあ、なに」

「嫌だなって思う。それだけ」

「……そっか」


 力のこもっていない呟きは彼女らしくなかった。

 沈黙が降ってきた。それを私が破る。おそるおそると。


「亀ヶ谷さん、ごめん。あのね、今は一人にして。お願い」

「一人がいいのか」

「たぶん」

「そっか」


 淡々としたやりとり。もっと聞いてくれないんだ、ってわがままにもなる。でも言葉にできない。

 亀ヶ谷さんが立ち上がる。ゆっくりと、玄関へ向かう。一歩ずつ。

 その袖や裾を握ってしまえたら、と思いもするけれどできない。それでもなんとか私は立ち上がって、玄関まで行き、彼女の背中に声をかける。彼女はもうドアノブに手をかけている。


「ねぇ、亀ヶ谷さん―――――これからも私と友達でいてくれる?」


 私は涙が零れそうになっていた。

 目を拭う。彼女を見る。彼女はドアノブから手を離して、振り返る。その顔は何か決意があった。私は怖くなる。その恐怖が現実に、言葉となって襲いかかる。


「いられないかも」

 

 笑った。冗談、なんだよね?

 また涙が零れそうになるのを抑えた。なんとか寸前のところで堪えた。笑い返さないとって思った。そうしたら明日には仲直りして、何事もなかったようにできる、って。


「なぁ、鶴。あたしさ、思い出すよ。その顔。初めてあたしたちが会った日のこと。覚えている? 忘れていないよな」

「……うん」


 掠れた声で肯いた。


「鶴さ、最後の登校日まで声をかけてくれなかったよな」

「か、亀ヶ谷さん、来ていなかったでしょ」

「知っていたのか」

「お礼言おうと、それに謝ろうと探したから」

「一か八かだったんだよね、あの受験。で、手ごたえなくて。だから、もういいやって。そういう状態で鶴と会ったら、当たり散らしていたかも」

「嘘。亀ヶ谷さんはそんなことしない」

「していたよ。そのときは鶴のこと、なんとも思っていなかったんだから」

「……今は?」


 私の問いかけに彼女は靴を脱ぎ、近寄ってきた。ほんの二歩で触れようと思えば触れられる距離となる。私にとっても彼女にとっても。

 

 彼女は再び私を軽く抱きしめて、それからすっと私の身体を方向転換させる。私はなすがままになる。背中が壁につく。どこにも逃げられない。


「恩を返しなさいよ、鶴」


 赤面。私と同じぐらい? それとも私よりも? 

 吐息がかかる距離の亀ヶ谷さん。顔を真っ赤にして、恩を返してと頼んできた。

 

「ど、どうすればいい?」


 やっとのことで絞り出した声。

 夢なんじゃないかって。彼女が今、私に向けていると思える感情が偽りで、気のせいか気の迷いで、私ばかりが願っている想いなんじゃないかって。ひょっとしてお酒に酔っている? でもまだ二十歳じゃない私たちだ。


 亀ヶ谷さんが目を閉じて息を吸う。そして吐いて、私を見つめ直した。 


「あたしは、あんたが好きだ」

「っ!」

「友達じゃなくて、恋人になりたい。そういう好きなんだよ」

「な、なんで」

「理屈じゃない。あたしは、あんたとずっといたい。そばにいたい。鶴を近くに感じていたいんだ」


 涙が流れた。血でもなければ雪でもなく。それが頬を伝うのだった。

 そして彼女の香りを感じた。きっとフリージアでもスズランでもない、亀ヶ谷深幸の香り。私が大好きな香り。


「鶴…………あたしを受け入れてくれる?」


 彼女が私の目元を拭う。とめどなく溢れてくる涙を彼女が止めようとする。そんな彼女の手をとって、私はしっかりと見つめ返す。時間の進みがとても遅い。世界が私たちのために止まっては進みを繰り返している、なんてことまで考えちゃうぐらい。


「私も好き。好きなの、亀ヶ谷さんのこと。好きで好きでしかたないよ」


 私の言葉、私の気持ち。それが彼女に届いた。彼女が私に口づけをしようとする。

 思わず私は目を閉じる。 


「鶴――――」

「イヤ」

「え?」


 私が目を開くと、そこに目を丸くしている亀ヶ谷さんがいた。


「こ、こういう時は、ちゃんと名前でお願い」


 仕切り直しに私たちは笑い合う。


「舞、好きよ」

「私も深幸が好き」

「あたしは名前で呼んでほしいって言っていないけど?」

「じゃあ、呼ばない」

「うそ、呼んでよ」

「深幸……キスしてくれる?」

 

 そうして私たちは唇を重ねる。身を焦がす想いを伝え合う。長く、深く。何度も。

 

 落ち着いたら何を言おう。どんな言葉が必要だろう。それとも何もいらない?

 

 ああ、でも、そうだ。

 

 鶴と亀で結ばれて縁起がいいって笑い合えたら嬉しいな。

 

 末永くよろしくねって――――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

恩を返しなさいよ、鶴 よなが @yonaga221001

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ