恩を返しなさいよ、鶴

よなが

前編

 たしかに亀ヶ谷深幸かめがやみゆきには恩がある。

 

「恩を返しなさいよ、鶴」


 けれども壁際まで迫られ、脅されるのは予想外であった。

 きっと小さく叫び声をあげていたに違いない、彼女が顔を紅潮させていなかったのなら。実際には私のほうも顔を熱くして息を呑み、その時が来るのかどうか緊張していたのだった。




 彼女との出会いは三年余り前に遡る。中学三年生の冬、高校受験当日のことだった。例年、寒い日であっても粉雪が舞う程度の私の地元で、その年は珍しく最高数センチに及ぶ積雪があった。

 

 毎朝起きるのがつらかったのを覚えている。冬はつとめて、なんて嘘だなと思った。それに道が凍って滑りやすくなっているのは、単に転倒の恐れのみならず、受験生として縁起が大変よくなかった。今のうちに滑るだけ滑っておけば受験本番で滑り(=不合格)はしないと主張する輩もいたが、私はただの一回も滑りたくなかった。

 雪景色を楽しむ情趣は持ち合わせておらず、その時季はいかに安全に登下校を済ませるかを最優先に考えて、一歩一歩慎重に通学路を進んだものだった。

 

 そんな私であったのに、受験校の最寄り駅に到着した時に思わず空を仰いだ。その日の朝に起きたときは降っていなかったのに、電車の中で窓については溶ける小さな粒でしかなかったのに、駅を出たところでまるで祝福の如く降り始めたその真っ白な神秘についつい見蕩れてしまった。傘を差すのを忘れて眺めてしまった。

 だが、それがいけなかった。正確には、うっかり立ち止まってしまったのがまずかった。後ろからきた誰かが私にぶつかった。躱そうとしてくれたはずだ。それでも部分的に衝突して、呆けていた私は「あ、あっ、あっ!」と情けない声を徐々に大きくして、ついには転んだ。つるつるりんと、すっ転んだのだ。


 何が起きたのかを理解するのに時間がかかった。

 数秒が長く感じられた。一瞬、意識が飛んだ気がする。荷物がバッグから冷たい地面にぶちまけられていた。そこにはもちろん、受験票だって入っていた。慌てる。私はかき集める。降ってくる雪の冷たさが痛い。ぶつかってきたであろう張本人は謝罪もなしにそそくさと立ち去る。ふくよかな体格でスーツを着た人。いや、どうだろう。あの人だったのかはわからない。そんなことよりも、筆記用具や参考書、ノートをあるべき場所に戻してあげないといけない。全部元どおりにして、正しい姿で受験校に向かわなければならない。

 地面に赤い雫が垂れたことで、鼻血が出ているのに気がついた。雪の冷たさを痛いと思ったが、実は鼻頭を打ち付けた痛みだったわけだ。冷静にそう考えられるのは今であって、当時はさらにパニックとなった。ぽたりぽたりと赤色が地に塗られ、そこに降り注ぐ雪は透明。すぐに消えていく。


「大丈夫?」


 大人の女性の声だと思った。うずくまる私の背中に触れて、ハンカチを私の目の前に出してくれる。それから俯く私の顔を覗き込むようにした。

 美人だった。凛とした顔立ち。くっきりとした目元。細眉が外へと少し上がっている。

「自分で抑えて」とそのままハンカチを鼻に当てられる。私は言われるがままにそれを手で抑える。

 そして彼女がまだ地面に散らばっていたものを拾い集める。他の誰かが手伝う気配もあったが、結局は大した量ではなかったので彼女だけでどうにかなった。彼女がバッグに全部詰め込んでくれた時になって、ようやく私は彼女もまた受験生なのだと察した。その制服に見覚えがあった。

 第三中学。他でもない、私が通う中学だった。


「まだ時間に余裕はある。駅構内で鼻血が止まるまで待つべきよ。……あたしの言っていることわかる?」


 間を置いて、私は首をぶんぶんと縦に振る。「そんなに振らなくていいから」と苛立った声を彼女は返してきた。私がそう感じたのは、つまり最初の優しい大人の声から一転して非難する調子であると捉えたのは、彼女があの亀ヶ谷さんだったからだ。


「早く立ちなさいよ。鼻だけじゃなく膝でも打ったの?」


 私は首を今度は横にぶんぶんと振った。亀ヶ谷さんは露骨に顔をしかめるも、今度は何も言わない。と思ったら「じゃあ、立って」と急かす。おそるおそる立ち上がる私を、身振りで駅構内に入るよう促す。小さな駅だ。待合室の椅子はそう多くない。私の状態を見て、譲ってくれた人がいた。そうして私と亀ヶ谷さんは並んで座った。

 彼女が言うように時間に余裕はあった。そのつもりで家を出たのだから当然であるが、そのときの私は掛け時計を見てそれを確かめた。


「あんた、同じ中学よね」

「は、はい」

「名前は?」

「……鶴園舞つるぞのまいです」

「へぇ、ついてるわ」

「え?」

「あたしは亀ヶ谷。鶴と亀で縁起がいい。でしょ?」

「は、はぁ」

「なに、文句あんの」

「ないでしゅ」


 鼻を抑えたままだったせいで、変な声になってしまった。

 ちがう。怖かったからだ。何かと悪い噂の持ち主であった亀ヶ谷さんと関わることになって、泣きそうにさえなっていた。一言で表すなら不良。それが噂から私が知っている彼女だった。美人なのに不良。不良なのに美人。美人だから不良? わからない。心を落ち着かせないといけなかった。 

 彼女は私と同じ高校を受験しようとしている。特別に進学校というわけではないが、でも不良生徒が通う場所なんかじゃない。当時の私はそんなことを思った。助けてもらったくせして、どうしてあの亀ケ谷さんがここに、と考えてしまった。


「鶴園。あんた、ぜったい合格しなさい」

「えっ!?」

「驚いてんじゃないわよ。いい? あんたが落ちたら、あたしが後味悪いじゃない。そうでしょ。助けてやったんだから、うかりなさいよね。転んだせいで実力が発揮できませんでした、ってのは無しだから」


 早口だった。でも言っている内容はわかった。意図もなんとなく。

 彼女は彼女で不安だったのだろう。膝の上で無意識に手を揉んでいる彼女に、かける言葉が見つからなかった。

 しばらくしていると出血が止まったか訊ねてくる。おずおずと確認してみると、あともう少しかかりそうだった。「ティッシュにするわ」と彼女がポケットティッシュを取り出す。ハンカチをどうすればいいか迷った。血濡れであるそれをそのまま返すわけにはいかないが、手頃な袋もなかった。私の表情を読んで彼女が「それ捨てるわ。安物だし」と私にティッシュを差し出しつつ、ハンカチを回収する。


「あ…………」

「そんな顔しないで、怒るわよ」


 私は彼女がハンカチをゴミ箱に捨てるのを止められず、見ているしかなかった。

 その後、数分間黙ったまま過ごした。血が完全に止まると、彼女は私にトイレで顔を洗ってくるように言った。「最初から、洗面所で血を流せるだけ流すべきだったわね」と呟いて、舌打ちした。


「じゃあ、あたしは行くから」


 トイレに向かう私の背中に彼女が言う。私は振り向く。まだきちんとお礼も言っていないのだった。


「ま、待って」

「断る。もう転ぶんじゃないわよ、鶴」


 私に背を向ける彼女が、微笑んだ気がした。その笑みは不良というよりも、不敵で、雪にはない魅力があった。

 それまで私を鶴と呼んだのは、小学生の頃の同級生男子一人だけであり、その彼も私が嫌がり続けたこともあって呼ばなくなった。

 けれどそのとき亀ケ谷さんに呼ばれて悪い気はしなかったのだ。


 思い出してみれば、なんだか少女漫画の冒頭部分のようである。女の子同士だけれど。

 

 現実というのは残酷というか、風情がまるでなく、私と亀ヶ谷さんの二人は揃って不合格という結果になった。


 そうして私は彼女を亀と呼び捨てることはおろか、あの日助けてもらった感謝もまともに言えずに、中学校を卒業してしまったのである。



 高校時代、私たちが会って話をしたのは専ら電車の中でだった。

 高校一年生の六月半ばだったと思う、通学時に車内で彼女と再会した。別の高校に通うことになり私と制服を異にする彼女と。


 いわゆるギャルがそこにいた。

 中学時代と比べて、素行不良が加速していた。そのときに私が抱いた印象はそうだった。髪は茶色に染めていたし、いくつかの金属製の装身具が彼女をきらきらとさせていた。化粧だってしていた。それらは高校一年生の私にとってある種の憧れでもあったが、どちらかと言えば非行のシンボルであるよう認識していた。

 そんな彼女をあの亀ヶ谷さんだと私がすぐにわかるはずもなく、声をかけてきたのは彼女からだった。


「なんだ、鶴じゃん」


 私に気づいて笑った彼女。その呼称と、やはり不敵な笑みとが、記憶にあった雪の日の亀ヶ谷さんと目の前にいる梅雨の日でも眩い女の子とを結びつけた。

 聞けば、いつもは一本か二本遅い電車に乗っているが、ちょっとした悪事――――大した話でもないから、と彼女は教えてくれなかった――――をしたせいで朝早くに校内の清掃をしないといけなくなったらしい。

 対して、私はというと、人ごみが嫌いなので朝に練習がある運動部でもないのに早めの電車に乗っているのだった。

 

「そっか。なら、鶴に飽きるまではこの時間帯でいいか」

「へ?」

「スマホ出しな。連絡先交換するから」

「えっ、えっ?」


 断ると何をされるかわからなかったので、素直に従う。そのつもりが、焦ってもたもたしてしまう。そんな私に彼女は「あのさぁ」と不満げな声をあげる。


「どうしても嫌ならいい。でも、ほら。鶴と亀。縁起いいじゃん」

 

 怒られるかと思いきや、彼女はまた笑った。ただ今度はぎこちなかった。


「そ、それ、あの時も言ってくれたよね」

「うん? ああ、受験の日な。てか、そのときしか話してないか」

「あの! あのときはごめんなさい。あと、ありがとう」

「……やっば。恥ずかしいわ」

「恥ずかしい?」

「だって、あたしさ、鶴に向かって落ちるなよって言っておいて、このザマでしょ。なぁ、勢いで髪染めたけど、似合っている?」

「ま、まぁまぁ」

「そこはがっつり褒めとけよ。どうっすかなぁ。戻そっかなぁ」


 亀ヶ谷さんは話してみると、わりと普通の女の子だった。私は彼女と連絡先を交換して、それから平日はほとんど朝に顔を合わせた。彼女が後に乗ってきて私が先に降りる。重なる四駅分で重ねる時間。都会だったら四駅なんてあっという間だよね、なんて言ったら田舎でよかったじゃんと返された。

 

 もとから私より背が高かった彼女はどんどん身長が伸びていって高三で170センチ近くまでになった。私は150センチ後半のまま。電車の中で、視線が交差するときはほとんど私が彼女をやや見上げる形だった。胸囲や腹囲に関しては「ずるいな、鶴は」と稀にスキンシップを交えながら羨まれた。私からすれば彼女の身長のほうがほしかった。むしろ、彼女と同じ目線で立てたのなら、と思うことが少なからずあったのだった。

 

 亀ヶ谷さんとは時折、短めの電話をすることもあったが、休日にどこか一緒に出掛けることはなかった。彼女には彼女の親しい友人がいて、私は私で数は少ないが友人がいた。

 

 一度、二年生の春だったかに、帰りの電車で彼女を見かけたことがある。傍には彼女と同じぐらいきらきらとした女の子が一人、それから二人の男の子。何て言えばいいんだろう、ギラギラ? 男の子たちは私のクラスの子がイケメンだと騒ぎそうな顔立ちをしていて、その体躯も引き締まっていた。私には縁遠い存在だ。その中に亀ヶ谷さんがいるのが、不思議に感じた。朝、会って平然と話している彼女が、その時は別人に見えた。そのときに寂しさも感じていたのに気づいたのは、ずっと後になってからだ。



 高校二年生の夏休みの終わりのある日。その一日だけが例外的に彼女と休日に顔を合わせた日だ。「暇しているんだったら、花火大会いかない?」と誘われた。私の数少ない友達は誘ってくれていなかった。

 午後七時。待ち合わせ場所に着くと、彼女が浴衣姿でいるのにびっくりした。かなり。私はラフな恰好だった。おしゃれなんて微塵もしていない。


「いやさ、彼氏もどきにドタキャンされちゃって」


 開口一番、きまり悪そうに彼女が言った。初耳だった。


「もどき?」

「そう。あと、そいつのせいで何人か友達なくしちゃったんだわ」

「えっと……」

「いいよ、無理してなんか言わなくて。悪いけど、今日はそばにいてよ。屋台のやつ、たこ焼きでもリンゴ飴でも何でも奢るから」

「綺麗だよ」

「は? 何が。花火、まだ打ちあがっていないけど」

「亀ヶ谷さんの浴衣姿、綺麗」

「…………ありがと」

「お世辞じゃないよ」

「わかるよ。鶴はそういうの苦手って。それでいいんだよ。自分を着飾って、必死に取り繕って、相手に気に入られようとするのは馬鹿な奴なんだ」


 その時の亀ヶ谷さんの表情、薄暗い中に浮かぶそれがどこか悲しげであったから、気がつけば私は彼女の手を握っていた。「はぐれると困るから」って、後付けの言い訳。そして帰らないといけない時間になって別れるまで、手を繋いでいたのだった。



 高校三年生になってすぐの頃、電車で将来の話をした。自然と話の流れがそうなった。亀ヶ谷さんは私と同じで、就職活動をするつもりはなく進学を志望していた。四年生大学でなくてもいいと話していた。


「鶴はさ、リベンジすんの?」

「リベンジ?」

「高校受験失敗したじゃん。だったら、大学はいいとこ目指しているのかなって」

「そういうわけじゃ……」

「なんて、あたしが言ってもって感じか。あーあ、もしあたしがもうちょっと勉強できたら、目指せたのかも」

「何を?」

「何をって……鶴と同じところ」

「どうして?」

「え。改めて聞かれると困るな。理由、か。考えとく」

「うん」


 彼女は私の進学志望先を聞いた。実のところ私は将来設計なんて全然していなかった。どうして、と反射的に返してしまった理由もそこにある。

 自分の成績に合っていて、学部は教育学部か法学部かで、一人暮らしするつもりではあるけれど実家から公共交通機関で二時間以内で云々と簡単に揺らいでしまうような志望校を選んで模試を受けていた。

 

 将来が決まる。何十年も続いていく未来。それを決める。決めないといけない。

 だったら、「いっしょにいたいから」や「友達だから」などと、そんなのは理由にならないと私は考えていた。ましてや、亀ヶ谷さんが私に対してそんな気持ちになるわけないって。

 

 その数日後だったと記憶している。彼女はなんだかんだと染め続けていた髪を元の色に戻した。そして「ちょっと本気出すわ」とどこか照れくさそうに私に言った。

 私と同じところを目指すつもりらしかった。でも、その理由は言葉として聞けずじまいだった。でも……嬉しかった。

 どうして、という言葉が喉につっかえるどころか、胸中からもなくなっちゃうぐらいに。


 それから一年足らずが経過して、私たちは同じ大学に合格して、通うことになった。私が教育学部であるのに対して、彼女は文学部だった。理数科目がうまくいかなかったから半ば消去法で、と彼女は言っていた。

 文学部と一口に言っても学科はさまざまで、彼女はその中でも社会心理学を専攻したいと考えているみたいだった。難しそうと私が言うと、何にも知らない子供たちに物事を教えるほうが難しいってと苦笑された。私は教師を志していたわけでもなかったし、それに自分が教える側の大人になれるとも信じられなかった。

 私は何にも知らない子供以上大人未満の存在でしかなかった。


 彼女と同じアパートに住むことになったのは偶然ではない。

 合格発表の直後に、鶴さえよかったら、と住む場所をいっしょに探すのを彼女が打診してきた。快諾した私に、なんだったらルームシェアの物件を探してみようかとまで提案してきた。けれど要件を満たす物件は少なく、家賃の支払いは両親頼みであったから、結局、お隣さんで妥協した。1Kの住まい。私たちそれぞれの城。馬も騎士も付いていない。

 

 白状しよう。

 大学一年生の春、この時既に私は彼女に特別を感じていた。

 恋をしていた。どうしようもなく。

 厳密にいつからというのは、もはやわからない。わかるのは、自分のこの気持ちは彼女に悟られてはいけない、秘めておくべきということだった。

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