第118話<書籍化記念SS>紫乃と調理道具の手入れ
厨に常にない音が響く。
シャーッ、シャーッという音は、包丁を研ぐ音だ。
峰と呼ばれる刃と反対部分に人差し指を添わせ、あごと呼ばれるでっぱった部分に親指を当て、柄を握る。
包丁がブレないようにしっかりと握りつつ、研ぎ石の上に包丁を置き、角度に気をつける。包丁を真横にせず、小指一本分が入るくらいわずかに浮かせた状態で、刃を手前にして研いでゆく。
力を入れすぎてはならない。
この塩梅がなかなか難しいのだが、紫乃は包丁に傷がつかないよう注意深く研いだ。
明け六つの荷物が到着するよりなお早いこの時間、夕餉の厨にいるのは紫乃だけだ。
途中に通ったじさまが差配を振るう朝餉の厨からは人が行き交う物音と出来た料理のいい香りがしたので、朝餉の厨はもうすでに準備に入っているのだろう。
明け六つの荷物が届く前に、用意できるものは用意しているに違いなかった。
何せ料理というのは時間がかかる。
水を汲み、水瓶を満たすところから始まり、薪を裏からとってきて火を熾し、かまどを使える状態にする。
漬物を瓶から取り出し糠を落として切り揃え、肉の下処理、魚を捌き、野菜は洗って泥を落として皮を剥き、料理に合わせて綺麗に切る。
時間はいくらあっても足りはしない。
しかも陛下のために十膳を用意し、献立は一汁三菜ともなれば尚更だ。
「……よし、出来た」
紫乃は研いだ包丁を検分する。
刃こぼれもなく、よく整えられた包丁はきらりと銀色の美しい光沢を湛えていた。
研ぎ石の手入れをしてから片付けをし、厨を振り返る。
しんと静まる御膳所の厨というのは新鮮だった。
厨にはいつも、大勢の御料理番が詰め、皇帝陛下凱嵐のために料理を作っている。
紫乃は御料理番たちに指示を出しながら料理をするのだ。
そのひとときはたまらなく楽しい時間だった。
明けの荷物で食材を選ぶところから始め、準備をし、夕餉を作る。
丸一日を通して料理のことだけを考えていればいいというのは、紫乃にとってまさに天国のような場所である。
「まだ明け六つには時間があるから、ついでに鍋の手入れもしようかな」
紫乃が人差し指を顎に当ててそんな風に独り言を言うと、厨の扉がガタリと開いた。
「紫乃ぉ〜」
「花見」
いつものごとく、猫耳を生やした少年姿の花見が厨の中に入って来た。
「どうしたの?」
「紫乃が布団にいなかったから、厨かなって」
寝ぼけ眼を擦りながらそう言う花見は、厨の中に入ってくるなり小上がりに上がってそこに寝そべった。
「……眠かったらまだ部屋で寝てていいのに……」
「ワテは紫乃が居ないと寝れにゃい……ぐぅ」
言いながらも花見は半分夢の中に行ってしまっている。その様子を見て紫乃は眉尻を下げて苦笑を漏らした。
最近では花見は紫乃の周りに増えた他の妖怪と一緒にいることが増え、以前よりも二人でいる時間は減った。が、たまにこうした発言をする。
紫乃が花見に近づくと、大の字に寝そべった花見は、幸せそうな顔をして寝ている。
「……白夜、禅寺丸、もう呑めないにゃあ」
どうやら他の妖怪たちと酒盛りをしている夢でも見ているようだった。
あまりにも満ち足りた表情をしているため、起こすのも忍びない。このまま寝かせておいてやろう、と思う。
「何かかけるもの……これでいいか」
紫乃は厨の壁に立てかけてあった筵を手に取ると、花見の上にかけてやる。
布団などがあればよかったのだが、あいにく厨にそんなものは存在しない。
まあ今は春先だし、これでも問題ないだろう。というかそもそも花見は妖怪なので、寝冷えて風邪を引くこともないのだ。
「よし、じゃあ、鍋の手入れに取り掛かろう」
寝ている花見を起こさないように注意しつつ、紫乃は今度は鉄鍋の手入れに取り掛かったのだった。
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