第117話【番外編】炙りしめ鯖

 その日の朝、紫乃は天栄宮てんえいきゅうにていつものように、真雨皇国しんうこうこく各所より集められた選りすぐりの食材を吟味しているところだった。

 荷車に載せられた食材たちは、皇帝陛下の口に入るのにふさわしくどれもこれも一級品である。

 その中の一つに紫乃は目を奪われた。


「しめさばか」

「おうよ! 老広湾ろうこうわんで水揚げされた新鮮な鯖を、傷まないように塩と酢と砂糖で締めて、飛脚が全速力で雨綾うりょうまで届けた逸品だぜ。陛下も喜ぶこと間違いなしだ!」

 天栄宮に運ばれてくる食材を一手に引き受ける調達番の声を聞きつつ、紫乃はしめ鯖を見つめた。

 ざるに乗っている三枚に卸された鯖の鱗は青々としており、艶やかな光沢が美しい。


「よし、夕餉ゆうげにはこのしめ鯖を出そう。ついでに自分達の朝餉にもしめ鯖を食べよう」

 紫乃はしめ鯖を載せた笊を持ち上げ、ほこほこする気持ちで御膳所の厨へ向かった。

 御膳所ごぜんしょくりやについている食料蔵に、氷と共にしめ鯖を保管する。

 それから紫乃は、自分達の朝餉用のしめ鯖を持って持ち場である夕餉の厨に向かった。

 厨で用意をしていると、暖簾をくぐって頭に手ぬぐいを巻いた男が入ってくる。

 夕餉の厨で働いている伴代ばんだいだ。


「おはようございます、紫乃姐さん。こんなに早くから厨に来て、朝餉はどうしたんですか?」

「これからだ。その前にちょっと準備したいことがあって」

「へえ……おぉ、旨そうなしめ鯖ですね」

「だろう?」


 紫乃たちの朝餉は普段、使用人用の建物についている厨を使うのだが、本日の朝餉ではその前にこのしめ鯖を使って一工夫を施したい。

 準備を始めた紫乃を見て、伴代はピンと来たようだった。


「姐さん、手伝いますよ」

「ありがとう。じゃ、七輪と炭を持って行ってくれるか? 私はしめ鯖と包丁とまな板を持っていく」

「お安い御用で」


 紫乃と伴代は諸々の道具を持って御膳所の外に向かった。

 御膳所の外は土を踏み固めた広場になっている。ここで紫乃は炭に火をつけ、七輪に網を乗せる。網が頃合いに温まったところで、本日の主菜であるしめ鯖を皮をうらにして網の上へと載せた。

 じゅうじゅうと音を立ててしめ鯖の表面が焼けていく。

 鯖の脂が網目を通って滴り落ち、炎がより一層強く高く爆ぜて燃えた。

 紫乃は菜箸を持って真剣な面持ちでしめ鯖を見つめていた。

 質の良い鯖の脂を燃料に得た七輪の炎はどんどん温度と勢いを増しており、油断していると一瞬で黒焦げになってしまう。紫乃は頃合いを見逃すまいと、瞬きもせずに鯖を凝視し続けていた。

 今だ。

 紫乃の紫色の瞳は、その一瞬をとらえた。

 さっと菜箸でしめ鯖を持ち上げると、素早くまな板の上へと載せる。

 鯖の皮は程よく焼けており、所々が焦げている。ぷすぷすと皮が持ち上がって踊っており、焼きたて特有の鯖のいい香りが充満していた。

 炙りしめ鯖の完成だ。


「おー、旨そうっすね」

「うん。味見しよう」


 紫乃の焼いたしめ鯖を覗き込んだ伴代がそう感想を漏らしたので、紫乃はまな板の上で湯気を立てる鯖を手早く薄く削ぎ切りにした。


「はい、伴代」

「どうもっす」


 並んで二人で一切れずつ、炙りしめ鯖を口にした。

 舌の上で鯖の身が程よくほどけ、脂がとろける。パリパリに焼けた皮の食感とほんのり焦げた苦味が絶妙だ。

 紫乃と伴代は顔を見合わせ、頷いた。


「美味いっすね」

「ああ」

「あー、ここで朝餉にしたいなぁ。そうだ。飯握って持ってきましょうか」

「いい考えだと思う」

「よし、じゃあ俺、早速使用人用の宿舎で握り飯の用意してきます」


 伴代は膝を叩いて立ち上がると、使用人用の宿舎に走り去って行った。

 紫乃はこの隙にどんどんとしめ鯖を七輪で炙っていく。あたりには鯖を炙る香ばしい匂いが立ち込め、煙と共に天高く舞い上がり、天栄宮中に鯖の存在を主張し始めていた。


「紫乃ーっ!」


 と、ひたすら鯖を炙っていると、上から元気な声と共に花見が振ってきた。相変わらず化けるのが下手くそな花見は、頭からぶち模様の耳を生やし、猫又の尻尾を臀部から覗かせ、いつもと同じ緑と白の縦縞模様の着物を桜色の帯で締めている。


「おはよう、花見。今朝は早いね」

「いい匂いがしたからつられたんだニャア。何作ってる?」

「炙りしめ鯖。食べる?」

「食べる!」


 紫乃の問いかけに即頷いた花見に、紫乃は笑って薄く削いだしめ鯖を用意した。

 すると次々に舞い降りてくる、人外の者たち。


「紫乃姐さん、いい匂いがしますのう」


 と言いながら野狐やこの野菊が現れ、


「ぬし、今度は何を作っている」


 と言いながら窮奇きゅうき白夜びゃくやが現れ、


「姐さん、柿を食わないか⁉︎」


 と言いながらタンタンコロリンの禅寺丸ぜんじまるが現れた。


「炙りしめ鯖。食べる?」


 紫乃が聞くと全員頷いたので、今焼き上げたばかりの一切れの鯖を切って丸ごと渡すと、妖怪四匹が囲ってむしゃむしゃ食べ出した。


「うみゃあ。紫乃のご飯は相変わらず美味いなあ」

「ですのう」

「花見、食べ過ぎじゃないか。なくなる」

「柿もいいけど鯖もいいなぁ!」


 人外者にも気に入ってもらえて何よりである。

 一心不乱にしめ鯖を食べていた四匹であったが、同時に顔を上げると、皿を持ったまま跳躍して御膳所の屋根の上に移動した。

 何だと思って見ていると、直後に聞こえてくる大勢の人の声。

 大量の握り飯を盆の上に載せて運ぶ伴代を筆頭に、ぞろぞろと天栄宮で働く使用人たちがやって来るではないか。


「おぉーい、姐さん! 皆炙りしめ鯖が食べたいらしく、連れてきました!」

「いい匂いだなぁ!」

「朝から炙ったしめ鯖が食べられるとは、豪華だぜ」

「握り飯としめ鯖、最高のご馳走だ!」


 使用人たちは既に炙り上がったしめ鯖を見て、おぉ、と喜びの声を上げた。

 大の大人たちが「食べていいですか!?」と喜色満面で聞いてくるので、紫乃は笑いながら頷く。


「人数が多いから、一人二切れずつ食べよう」

「二切れあったら、握り飯が二個食えるってもんだ!」

「おうよ!」


 などと言いながら、焼き上がったしめ鯖を皆が次々に食べ始めた。

 大人の男の拳大ほどもある握り飯を、削ぎ切りした炙ったしめ鯖と共に食べる使用人たち。

 紫乃は自分の朝餉どころではなくなり、伴代と共にひたすら七輪でしめ鯖を炙り、削ぎ切りにする作業を続けた。

 もうもうと立ち上る煙に乗った鯖の香りが人々を引き寄せるらしく、どんどん人が集まってくる。

 そのうち御膳所で働く御料理番たちもやって来て、鯖を焼く人手が増えた。


「旨いなぁ」

「脂ののり具合が最高だ」

「パリッと焼けた皮の焦げ目が絶妙」


 などと言いながら、あてがわれた握り飯二つとしめ鯖ふた切れを食べ、


「ご馳走さん」

「これで今日も一日頑張れるな」


 と口々に礼を言っては使用人たちが去って行く。

 ようやく終える頃には、もはや日が高く昇る時分となっていた。


「ふぅ……ようやく終わったか」

「姐さん、お疲れ様っす」

「じゃあ、自分達の朝餉にしよう」


 気がつけば残ったしめ鯖はふた切れのみだったが、御膳所の御料理番たちで食べる分には足りるだろう。

 紫乃は網と炭を取り替えると、自分達用のしめ鯖を炙り始めた。

 頃合いを見計らって、焼けたしめ鯖をまな板に移し、削いで行く。

 全員に行き渡ったところで握り飯と共に食べると、ひと働きしたせいなのか味見をした時よりも美味しく感じた。

 お酢と塩で締めたしめ鯖の酸味と塩味。炭火で炙られて最大限に引き出された旨味。

 たまらないなぁと思いながら残った最後の一切れを口にしようとしたその時、紫乃の右手首ががっと掴まれた。

 何者かの影が紫乃に覆いかぶさり、そのまま右手首が持ち上げられる。見上げた先には美麗な顔立ちの男がいて、紫乃があ、と思う暇もなくその男の口の中に炙りしめ鯖が吸い込まれていった。


「この炙りしめ鯖は旨いな!」

「陛下……」


 良い顔で鯖を咀嚼するのは、短くなった黒髪に紫乃と同じく紫色の瞳を持つ美丈夫。

 紫乃の朝餉用の炙りしめ鯖は、皇帝陛下凱嵐がいらんの胃袋へと消えて行った。

 途端、その場にいた御料理番たちがざっと地面に頭を擦り平伏する。


「陛下!」

「これはこれは、このような場所まで足をお運びいただくとは……!」

「いい匂いがしたもので、つられてな。朝餉の途中に邪魔をした。顔を上げよ」


 国の頂点に立つ人物の唐突な出現に皆が恐れ慄くが、凱嵐自体はさしてそうした形式ばった挨拶を必要としていないことを紫乃は知っていた。むしろ格式を大事にしているのは、凱嵐の右腕と称される賢孝という人物だ。彼はなかなかに面倒臭い性格をしている。

 凱嵐はしゃがみ込んだまま口をあーんと開け、期待に満ちた目で紫乃を見つめている。


「陛下、何をしているんですか」

「旨かったからおかわりが欲しい」


 紫乃のこめかみに、ピシッと青筋が走る。

 紫乃のしめ鯖は、先の一切れで最後だ。大切にとっておいたそれは、凱嵐が食べてしまった。もうない。

 紫乃は箸を握りしめ、凱嵐を睨め付けながら言った。


「陛下……三枚におろして差し上げましょうか」

「何故⁉︎」


 紫乃が怒っている理由がわからない凱嵐は、突然の紫乃の物騒な発言に問い返してくる。

 紫乃は理由を言わず、立ち上がると仕事をするべくぷいと御膳所の厨へと消えて行った。

 残された御料理番たちと凱嵐を取り囲む空気は気まずい。

 御膳所の屋根で一連のやりとりを見ていた花見が降りてきて、しゃがみ込んだままの凱嵐の肩を叩いた。


「紫乃はにゃあ、朝からワテらと使用人たちのためにずっと鯖を炙って、さっきようやく朝餉にありつけたところなんだ。そんで大事にとってあった最後の一切れを、おみゃあに食べられたもんだから、そりゃあ怒るに決まってる」

「何? そうだったか……」


 凱嵐は花見の説明に納得し、顎に指を当てて思案した後、立ち上がって紫乃を追いかけ御膳所の中へと入って行く。

 後に残った御料理番たちは、朝餉を再会しながらこんな会話をしていた。


「陛下、紫乃姐さんのこと好きだよなぁ……」

「姐さんの作る飯は美味いからな」

「機嫌治るといいな」


 

「紫乃」


 御膳所の夕餉の厨で心を落ち着かせていたら、陛下がやって来た。


「お前の朝餉を横取りしてすまなかった」

「いいんです。この天栄宮にあるものの全ては陛下のもの。であれば、私の炙りしめ鯖も陛下のもの」

「怒ってるな」

「怒ってません」

「ならこっちを向け」


 紫乃がツーンとしていると、そんな風に言われる。紫乃は己の心と葛藤しつつ、しかし皇帝の命令に逆らう訳にはいかないと凱嵐の方を渋々見た。凱嵐は顔を顰めた。


「顔が怖い」

「元々こういう顔です」


 凱嵐は短くなった黒髪をかくと、あからさまに困った顔をし、それから手を打った。


「夕餉にもしめ鯖を出すつもりだったか?」

「はい」

「ならば俺の分を紫乃が食べていいぞ」

「えっ」

「詫びだ」

「流石にそれは頂けません。陛下のために一番良いしめ鯖を用意しておりますから」

「なら俺が食べた一切れ分、お前も俺の分を食べるというのはどうだ」

「それくらいなら、まぁ……?」

「よし。ならば決まりだ。俺の分の炙りしめ鯖を食べるがいい」


 凱嵐はそれだけ言うと、厨から出ていった。

 本当に紫乃の機嫌を取るためだけに来たらしい。


「……変な皇帝」


 呆気に取られて凱嵐が出て行った厨の出入り口を見つめつつ、紫乃はそう呟く。

 なお宣言された通り、紫乃は凱嵐の夕餉用に作ったしめ鯖から毒見用の他にもしめ鯖を一切れ多く頂いた。

 凱嵐用に用意しておいたしめ鯖は抜群に美味しく、紫乃は朝の不機嫌さを吹き飛ばした。

 


+++

おかげさまでこの度、今作品がカクヨムコン8のプロ作家部門にて特別賞を受賞することができました。

これからも良い作品をお届けできるよう、精進いたします。

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