終章・後(了) 暫く



 空が高い。

 見詰めながら火鼠はそんな、当たり前の事を思っていた。

 本城の天辺に座っている。大広間の事では無い。今も城の修復は半ばどころか手を付けるのも未だという様な具合だから、確かに其処からでも空は見えるだろうが、違う。

 屋根の上。

 寝転がってぼんやり、雲が流れるのを見ていた。春の日はまだ終わらない。暖かな陽気がずっと、穏やかに流れている。遠くでは人の慌ただしく動く声がする。若い山草の匂いだけが、妙に青く鼻先に香る。

 瞼を閉じる。

 鼠は、一日の半分程度は寝て過ごす物だから。

「何処だろ……」

 なんて思っていると、聞き覚えの有る声がした。

 むくりと身体を起こす。立ち上がるのは面倒だったから、そのまま屋根の上に手を突く。ただ身を乗り出すだけの横着で、その姿を捉えた。

 城の庭先。

 髪の青っぽく色付いた女が、きょろきょろと、何かを探し回っている。

「おい」

 だから、火鼠は声を掛けた。

 女が顔を上げる。目が合ったから、火鼠は自分の顔を指で差す。あたしか。あたしだったらしく、女が笑って頷く。

 降りてやるか、と腰を上げようとした。

「あ、いいよ! 上る!」

 どうせ暇だし待つのも良い、と火鼠は思ったから、そのまま腰を落とし直した。が、想像していた上り方とは大分違う物を見せられる事になる。

 その場から、女は走り始めたのだ。

 明らかに城の中に入るための向きではなかった。中に入って階段を上る、という当然の行程を踏まえる気が無さそうで、真っ直ぐに壁に向かって走っている。死角に入れば、「よっ」と軽々とした声がする。

 如何考えても、と思いながら結局火鼠は、腰を上げて覗き込んだ。

 すると其処に、跳び上がって、軒を左腕一本で掴んで、さらに腕だけで跳び上がるのを繰り返す、そんな奇妙な人間の姿が目に映った。

 おいおい、と思う。思っている内に目の前の、最後の軒をその左腕が掴む。

 はしっ、と掴んで。

 ばきっ、と音がした。

「わっ――」

「っと、」

 危ない、と思ったからその手を掴む。

 ひょい、とそのまま片手で引っ張り上げて、抱き留める。抱き留められた方は、恐る恐る、と後ろを振り返って、自分のした事を確かめる。

「……壊れた?」

「壊したな」

 下の方まで覗き込んだ。「だよね」と言った。罪を潔く認める性質かと思われたが、その後に「人がいないのは確かめたもんね」と続いた。何よりだな、と相槌を打ってやれば、振り向き直して女は――レキは、礼を言ってくる。

「有難う。左腕、早く慣れたいんだけど中々上手く行かなくて」

「放っておきゃあ、その内馴染むよ。刀や着物と違って、身体に繋がってんだ。もうちっと薄く広がるし、身体も勝手に使い方を覚える」

 んで、と続けたのは。

 まさかその曲芸を見せたいが為に自分を訪れた訳でも無かろう、と思ったから。

「どした。あの兄ちゃんの所に行って」

「うん。出世した」

 背筋は伸びているが、嬉しさも滲んでいる。そんな声色と表情でレキが「近習になった」と語るのを、へえ、と火鼠は聞いていた。予想出来た事でもあった。花精の定めていた法は、亡き後まで決して変えてはいけないという物でもあるまい。受け継いだ者が変える余地を残してある。

 初めから、誰かに託す事を考えていたのだから。

「そうかい。良かったな」

「うん。良かった。近い内に姫に挨拶に行くから、それがちょっと緊張するけど……」

「堂々としてりゃいい。あんたの方が強いんだから」

 そういう問題かなあ、とレキは言った。そういう問題ではないという事は、恐らく三百年経っても人の世では変わっていないだろう。火鼠も知ってはいたが、あえて言った。そういう問題だ。

 下の方で不意に、声がした。

 どたどたと、複数の足音。広間の方だ。まさか物盗りが押し入って来た訳ではあるまい。そう思っていると「随分こっぴどくやられたな」と声が拾えた。修復を行う職人達が、様子を見に来たらしい。隣ではレキが気まずそうに、先程自分が破壊した軒を見詰めている。

「そ、そう言えば」

 そして話を逸らした。

 別にその程度の損壊は物の数にも入らなかろうと思うが、蒸し返す程の事でもない。ああ、と相槌を打ってそれに乗ってやれば、しかしその逸らした先もまた、本当に気になってはいた事なのだろう。不思議そうな顔をして、レキは軒から大して視線を外さないままで言った。

「火鼠、よく此処まで上れたね。鼠返し、苦手だって言ってなかったっけ」

「知ってるか? 上り下りをするのには、階段って便利な物が使えてな」

 知ってます、と拗ねた口調でレキが言う。でも、と尚、質問は続く。

「屋根まで上ろうとしたら……」

 こんこん、と爪先で突いて教えてやった。

 並んだ瓦の、ごく一部。覗き込んだレキの前で、足の先で引っ繰り返してやる。

「隠し扉が在った。梯子も付いてたから、それでな」

 へええ、と感心の声が上がる。でもそうか、と納得する言葉も。瓦が崩れたら、誰かが上って直さなくちゃいけないもんね、と。

 実際の所は、と火鼠は思う。

 城を建てた者が、高い所を好む誰かの事を、覚えていただけな気もするが。

「あんたも覚えておいた方がいいぞ。じゃなきゃ『落ちても死ななそうだから』って、嵐の度に瓦の修理に駆り出される様になる」

「……まあ、それはそれでいいけど。ちゃんとやり方さえ教えて貰えれば」

 ぱたん、とレキは丁寧に、手でその扉を閉じた。

 うん、と火鼠は大きく伸びをして、息を吸う。下ろす。遠い山の端を見て、思う。

 そろそろ頃合いか、と。

「んじゃ――」

「あっ、」

 次は何だと思えば、レキの視線の先。庭に白い煙が立っていた。

 火事か、とは思わなかった。見慣れた物だから、その正体はすぐに分かる。

「灰……?」

 しかし、それが如何して其処に在るのかまでは、直ぐにはピンと来なかった。灰の奥で、恐らく二人だろう。人間の慌てている姿が微かに映る。背は低く、使い走りらしい。布らしき物も見えれば、何となく分かる。運んでいる途中で、取り落とした。

 そして、途方に暮れている。

「ちょっと私、行ってくるね」

 また外から降りようとした人間がいたので、何も言わずに火鼠はその女を抱えた。わ、と声がする。上るのは苦手だが、下りるのは得意だ。

 ひょい、と一足、空に舞う。

 と、と下りれば大層驚かれるだろうと思ったが、使い走りの童の二人は、しかし灰に紛れて見えなかったのかもしれない。火鼠がレキを地面に下ろし終えてから、一拍遅れて此方を見た。

「レキ殿?」

「も、申し訳有りません! すぐに片付けます!」

「あ、いえ。謝る事は有りませんけど……如何したんですか、これは」

 知り合いか、と小声で訊ねれば、うん、とレキは答えた。南前の者らしい。

「灰です。その、此度の襲撃で城の一部が焼け落ちて。修理の為にもまずはどかそうと。しかし捨て場所も困りますし、一度使い道が無いか調べてみると言って、シオウ殿が」

「ただ、重みで袋が破れてしまって……」

 あらら、と火鼠は思う。見覚えが有るどころの話ではなく、己の生した物らしい。

 そう、とレキは頷いた。運ぶ先を二、三、訊ねた。それからうん、と頷く。この場は私が片付けておくので、お二人は仕事を続けて下さい。これだけでは無いのでしょう、と。

 暫く迷った様子を見せていた二人だったが、結局は言われた通りにした。元より慣れぬ仕事で、始末に困っていたらしい。遠ざかっていく間に何度も礼を言い、頭を下げ、それにレキがずっと律儀に応えていたのが、火鼠の印象に残る。

 近習とか言ったが、本人がこれでは雑用係も良い所かもしれん、と。

 布を拾い、灰を纏め始めた彼女を見ながら思う。最後の後始末と思えば手伝ってやりたい気も起きて、屈み込む。

 その時、隣で。

「そう言えば、知ってる?」

 顔を近付けて、レキが囁いた。



 望みは無いだろう。分かっていたから、これはただの付き合いだった。

 灰を纏めて、ぐるりと庭を歩いた。意外な事にレキは繕い物も大した物で、さらりと袋を直して、危う気なくそれを運べる様にした。そして童の二人掛かりだったのを軽々と抱えているのは、最早それ程驚く事ではあるまい。

「花に灰、ね」

 枯れ木の前に居た。

 それはあの夜――三妖を討った後に、広間から見たのと同じそれ。二度と花を付ける事は無いだろうと思われた、その木の前だった。

「私も、聞いた事は有るって位だけど」

 隣でレキが灰袋を地に置く。水が入っているかの様に形は歪んで垂れ落ちた。寝そべった犬に、少し似る。

 聞けば、何の事は無い話だった。

 或る所で、或る男が灰を振り撒いた。するとまだ眠っていた花が、辺り一面にぱっと咲いたと言うのだ。

「でも、前に遠目から此処を見た時、凄く綺麗だったから。また見られるなら、見てみたいと思って」

 嘘の話ではないのだろう、と火鼠は思う。霊術か妖術か、はたまたそれと関わりの無い、自然の成り行きか。何かしらが働いて、確かにその時、灰に花は咲いたのだろうと、そう思う。

「ま、あたしもちょっとは見てみたいな。花精の拵えた庭が、どんなもんだったか」

 けれど。

 そういう話ではないという事も、火鼠は良く分かっている。

 庭の花が咲かないのは、これが花精の生み出したものだからだ。彼女が枯れて、全てが枯れた。それだけで、だから、眠っている花を起こすのとは訳が違う。

 見れば、その樹の枝ぶりは痩せ老いた女の手の様に乾いている。花どころか、固い芽の一つも見当たらない。根は張っているのではなく埋まっているだけで、幹もまた、立派なのは外見ばかり。ひょっとすると中身は腐って、すっかり洞になっているかもしれない。

 腕の良い者が土塊で拵えた模造の品と言われれば、それで納得してしまう。その程度の物で。

 きっと、花精が都で聞いた花の恋の顛末も、そして三妖の語った己等の顛末も、真実で。

 だからその後に起こった事は、何も、想像から外れた事では無かった。

 袋を解いた。レキと一緒になって灰に手を沈ませ、一握を掴まえる。そして枯れ木と向き合えば、別れの様に大きく、手を振った。

 そして、当たり前の事が起こる。

「……咲かないな」

 枯れ木は、何らの変化も見せはしなかった。

 手を叩いて、灰を散らして、火鼠は思う。過ぎ去った物が、もう其処に無い事を確かめるだけの行いだったと。不思議と虚しさは無い。変わってゆく物が全てで、変わりゆかぬ物はこの世に無し――。ただそれだけの、当たり前の事。

 知っていた事をもう一度、この目で思い知らされた。

 そう、思っていたから。


「ね。明日、また見に来ようか」

 その言葉に、酷く驚かされた。


 隣を見た。慰めでは無かった。ただレキは当たり前の、自然の事としてそれを口にしただけだった。気負いも憂いも、何も無い。澄んだ顔付きで、佇んでいる。

「明日、」

「うん。明日……は分からないけど。毎日続けてたら、来月には咲くかもしれないし。あ、でも。そうしたら春が終わっちゃうか」

 そうなったら次の年、と。

 言うでもないのに、レキが言ったのが分かった。彼女は灰に手を白くして、見詰める瞳には、枯れ木が映る。けれど彼女が見ているのは、決してそれだけでは無かった。

 火鼠もまた、その木を見上げた。己の目には、既に亡き跡としか映らない。そして事実、それは古き夢の墓標に他ならない。

 それでも――。

「そうか、」

 墓標に立ち寄る、生者が居る。

 死体が埋まる樹の傍には、必ず今日と、明日を生きる者が居る。


「そういう、もんなのか」

 そして自分は、まだ生きている。


 ん、と不思議そうにレキが顔を上げた。何を知ったのか、と訊きたがる顔。言って伝わる物とも、伝えたい物とも思わなかったから、火鼠はただ笑って返す。彼女は首を傾げる。分からなくて良い、と火鼠は思う。分からないままでも、誰かに教える事は出来るのだから。

「明日も来るなら、寝床を探さなくちゃならねえな」

 言って火鼠は、城を親指で差した。

「何処か、空いてる部屋は有るか」

「あ、うん。一杯有る……筈だけど、如何だろう。城はまだ崩れて危なそうだから、南前の屋敷に来た方がいいかも。それにそっちの方が、私も話を通し易いし。ああいや、でも、そうか」

 ざ、と砂利を踏んで、レキが行く。訊いて来てみる、と城の方へ。火鼠もそれに従って歩けば、振り向いて、彼女は語り掛けて来る。

「広い方が良い? それとも逆?」

「何方でも。ただ、長寝する性質だから静かな方が良いな。朝方に起こされちゃ堪らねえ」

「そっか。じゃあやっぱり南前の方が良いのかな。城の方が朝は早い……けど、今は人が居ないか。ねえ、何方が良い?」

「何方が良いとか、言える程まだ知らねえな」

 だよね、とレキが言う。これから知っていく事を疑いもしない様にはにかんで、少し駆け足になって、先を行く。その背に一声、火鼠は声を掛ける。

「暫く世話になる。面倒見てくれよ」

 まだ続くもんだから、と呟いたのが聞こえたか如何か。ただレキは、振り向かないままに「うん」と言って答える。その背中に置いて行かれない様に、火鼠はゆっくりと歩いていく。

 ふと思い立って、一度だけ振り向いた。


 桜の樹が在る。

 思い出が眠っている様で、少しだけ、幸せだった。


(了)

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桜の樹の下には死体が埋まっててラッキー quiet @quiet

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