鍋と私

朝本箍

第1話

「願い事とか聞かないよ?」


 わたしは単なる異形なんだから。

 床に伏せられたタブレットからずるり、這い出てきた存在はこちらを多分一瞥してきっぱりと言い切った。

 自己紹介に相応しく、細身のスーツを着こなした身体は一見して男性のようだったが、頭部があるべき場所には何故か全体が黒光りする両手鍋が鎮座している。そして背中では白く発光するようなそこそこの大きさの翼が、物憂げにだらりと下を向いていた。


「……天使?」

「鍋頭の天使とか聞いたことある?」

「ない……」


 聖書を読んだことはないが、聞いたこともなかった。鍋頭はどこにあるのかわからない口からため息をついて、だろうねと手近にあった椅子へこちらを向いて腰掛けた。

 天使が願いを叶えてくれる。

 子供だましだと思ったが、藁にもすがる思いでやたらめったら複雑な魔法陣を描き、今時珍しくなったAndroidのタブレットで謎のサイトにアクセスしてアプリをダウンロードしたらこの始末だ。いや、それでも何かを召喚したのは間違いないんだし、脱力感で地面に落ちかけていた顔を上げる。


「お、立ち直った? 三人ぐらい連続で聞かれたんだけど、伝言ゲームみたいにどこかで間違いが伝わったんじゃないかな。わたしは天使というよりは悪魔みたいなもんだよ」


 鍋頭はゆったりとした口調で追い打ちをかけてきたが、天使よりも悪魔の方が願い事を叶えてくれそうな気がする。多分、きっと。


「聞いてほしいことが、あるんです」

「お、わたしの話を聞かないスタイルだね」

「悪魔でもいいんで、私の願いを叶えて下さい。払えるものなら何でも払うんで」


 そこで初めて鍋頭は愉快そうに、恐らくは笑ったようだった。顔がないのは不便極まりない。鍋に顔くらい書いとけよ、心の中で悪態をついて私も笑う。大体こういうものは押し切った方が強い。何度か遭遇した悪質クレーマーを思い浮かべ、役になりきる。そう、私は今役者だ。


「取りあえず一生働かなくても大丈夫な程度の現金と、病気をしない健康な身体と」

「却下」

「まだ全部言ってないんですけど!」


 鍋頭は再びどこにあるのかわからない口から大きく息を吐き、まるで頭を抱えるように鍋に手を添えて首を振る。


「どこからツッコめばいいのかも見当がつかないんだけど、まずは。願い事って普通ひとつじゃない? 対価を払っても叶えたい願い事だよ?」

「え、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるって言うじゃないですか。どれかは叶うかなってあと二十個は用意してたんですけど」

「その発想が恐ろしい。セオリー無視にも程がある。払えるものなら何でも払うって言ってたけど、それも怪しいな」


 目はないはずなのに鍋頭の視線が痛い。


「それは大丈夫です。預金全額百三十五万円、用意してあります。一生の安定収入の前には些細な出費ですよね」

「本当に現金なんだ……微妙に現実感ある数字なのがまた怖い。しかも普通そこは命や、一番大切なものなんじゃないのかね?」

「預金全額ですよ!? 命と同じくらい大切じゃないですか」


 何を言ってるんだ、現代日本で預金を失う怖さをこいつは知らないのか。鍋頭を思わず睨みつけると、


「きみの願いは悪魔も、ましてや天使も叶えられないと思うよ。預金を元手に資産運用でも考えてみるといい」


 そう言って、ずるりとタブレットの中へ戻ってしまった。慌てて伏せられていたタブレットを手に取るが、特に何も映っていない。言いたいことだけ言って帰るなんて、クレーマーと同じだな。

 まぁいいか、預金は無事だったし。私はSNSで次の「願い事を叶える方法」を検索し始めた。安定した将来のためには多少の努力は必要だもんね。

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鍋と私 朝本箍 @asamototaga

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