第9話(最終話)

 その翌日から、田所さんはいつも通りの田所さんに戻った。教室でも土曜日の図書館でもひたすら本を読んでいる。特に私の方を見ることもない。

 ようやく平穏な日常が戻ってきた。

 それでも少しだけ寂しいと感じてしまうのだから、私も随分と毒されてしまったようだ。

 そして、水曜日には図書室のいつもの席に田所さんの姿がある。時間になり、いつものように田所さんの前に立っても気づく様子はない。今日も深く潜っているようだ。

 間もなく読み終わりそうだったので、私は向かいの席に座ってそれを待つ。

 田所さんの失恋体験ゲームには振り回されたような気もするが、それなりに楽しめた。

 最近は志鶴さんのことを考える時間も減っていた。それに、志鶴さんの言動や兄貴と二人でいる姿にもあまり胸が痛まなくなっていた。

 もちろん、まだ好きだという感覚は胸の奥にしつこくこびり付いている。志鶴さんを好きだった事実はいつまでも残り、その記憶は消えることはないと思う。だけど、胸の奥の残滓(ざんし)をどうしても消し去りたいとは思わないし、目を背けたいとも思わない。

 なんとなくこの恋が、密やかに緩やかに、終わりを迎えられたような気がした。

 田所さんは最後のページをめくりゆっくりと本を閉じた。そして、本に手を当てて「ほぅ」と深い息をつく。するとその目から一筋の涙がこぼれた。

「え? 今日の本は泣くほどよかったの?」

 私の声に田所さんは驚き、慌てて手の甲で涙をぬぐった。

「どんな本を読んでたの? ちょっと興味ある。見せて」

 私がその本に手を伸ばすと田所さんは両手でそれをさえぎる。

 今まで私に本の内容を教えてくれなかったことはない。不審な行動に眉をひそめて、私は無理やりその本を奪い取った。

『失恋をするはなし』

 タイトルを見て私は首を捻る。

「また読んでたの?」

 田所さんは顔を伏せてしまった。田所さんは失恋を経験してからもう一度読みたいと言っていた。

「田所さん、失恋したの?」

 すると田所さんは顔を赤くして体を小さくした。

 恋愛音痴の田所さんがいつの間にか恋をして、いつの間にか失恋していた。この一週間、そんな様子には気付かなかった。いつどこで誰に恋をしたのだろう。

 だが、いつまでも図書室で話していることはできない。仕方なく追及をやめて図書室を出ることにした。

 別に追求を諦めたわけではない。私は帰り道で田所さんに話を聞くチャンスを狙っていた。

 ストレートに聞いても答えてはくれないだろう。私だって、失恋の話を根掘り葉掘り聞かれたくはない。

「あの本、読み直して違う感想が持てた?」

「あ、うん。すごく胸が痛かった。最初に読んだときは、ただ綺麗だと思ったんだけど、主人公が見ている世界が綺麗であるほど、すごく切なくて胸が痛んだ」

 失恋の経験をしても私とは違う感想を持ったようだ。私はあの本を読んでとにかくイライラした。そう思うと、田所さんが見ている世界は私よりも美しいのかもしれない。自分の心が汚れているようで少し凹む。

「やっぱり、経験があると読んだときの印象も変わるんだね。新発見だよ。今まで読んだ本も、もう一度読めばまた違う気持ちになるのかな」

 田所さんは目をキラキラさせながら言った。その感覚はやっぱりわからないけれど、少しだけ羨ましいような気もする。

「で、誰に失恋したの?」

 不意打ちで聞いてみた。

「意地悪をしてるの?」

「そりゃ聞かれたくないかもしれないけど、ちょっとは協力したしさ、やっぱり興味あるじゃん」

「私、有村さんを好きになるって言ってたじゃない」

「うん。でも、失恋したんだよね?」

「だから、有村さんに失恋したんだよ」

「え? 私? いつの間に?」

 拗ねたように唇を尖らせる田所さんは少しかわいく見えるような気がする。

「先週、図書室であの先輩と一緒の所を見て、なんだかムズムズして……」

 確かあのときは、志鶴さんのことが好きなのかと尋ねられた。

「もしかしたら、嫉妬という気持ちなんじゃないかと推測して……」

 私と志鶴さんが仲良くしているのを見て嫉妬心が芽生えたと?

「嫉妬するということは、有村さんのことを好きになっているんじゃないかと思って……」

 なんだろう、推察がまわりくどい。

「一週間、あらゆる恋愛の本を読んで、やっぱり有村さんのことを好きになれていたって気付いたの」

 本を読んで自分の気持ちを確認するって、田所さんらしいといえば田所さんらしいのだけど、やっぱりちょっとズレている。

「今日、あの本を読み直して、失恋したんだって実感した」

 そこまで言うと田所さんは目を伏せた。

 田所さんが好きなのは私。そんな田所さんは失恋した。つまり、私が田所さんをフったということのようだ。

「ねえ、田所さん」

「なに?」

「それって、まだ失恋したとは限らないんじゃないの?」

「え?」

 自分でも現金なものだと思うけれど、志鶴さんへの気持ちが薄らいだからか、目の前に新しい恋が芽吹く予感がしていた。

 その恋の芽が本当に花を咲かせられるかはまだ分からない。

 だけど、私と田所さんの物語が『失恋をするはなし』だと決めつけるのは、まだ早すぎるような気がする。



   おわり

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失恋をするはなし 悠生ゆう @yuk_7_kuy

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