甘い果実

宇土為 名

甘い果実


 初めて顔を合わせたとき、これから義理の姉になるであろう和加子は、とても奇妙なものを見る目で梶浦を見た。

 しげしげと眺め首を傾げる。

『…しの?』

『はい』

 そんな反応は今まで何度も経験した事だったので、梶浦は特に何も思わずに頷いた。

『しの?』

『はい』

『男の子だよね』

『そうですね』

 むしろそれ以外に見えたらそのほうがおかしいだろうと、梶浦は目の前に出された紅茶を飲んだ。紅茶はもう既に温かった。

 ぼそりと和加子は言った。

『変な名前』

『そうですね』

 淡々と返すと、和加子はさらに変なものを見る目で梶浦をじっと見た。



 不思議にも生まれ変わるたび、同じような名前を授けられた。

 詞乃、という名も母親の父親──つまり母方の祖父から付けられた名前だ。なぜこの名前を付けたのか分からない。物心ついたときには既に祖父は鬼籍の人だった。母親に聞いてみたがよく分からないという。

『なんだったかしらね、何か言ってた気もするけど…?』

 それがよく思い出せないのだと母親は困った顔で梶浦に謝っていた。

 もしもまだ祖父が生きていたら、その理由を教えてもらえたのだろうか。

 あの頃と同じ、この名前を自分に与えた意味を。



「詞乃」

 呼ばれて顔を上げるとテーブルの向こうから和加子がこちらを見ていた。

 ああ、そうだった。

「どうしたの」

「別に、なんでも」

 今日はこの義姉と会う日だった。

 何をするにも破天荒なこの人が無事に生きているかどうかを確認し、家族に報告しなければならない日。

 面倒だ。

 本当なら今日は他の予定が入っていたのに。

「なんか気持ち悪い」

 梶浦はゆっくりと水を飲んだ。

 

***


 出来たものを冷蔵庫に仕舞った。こぼさないように、慎重に。

 よし、これで大丈夫。

 七緒は卵を取り出し冷蔵庫を閉めた。多分大丈夫、と作業の続きに取り掛かる。

 卵を割り、ボウルに入れて、箸でかき混ぜる。フライパンに火を入れて温まるのを待っていると、携帯の通知音が鳴った。

「ん?」

 傍に置いていたその画面を覗き込む。高橋からだ。

 何だろう?

「佑都?」

『なな先輩? 今何してるの?』

 ぷ、と七緒は噴き出した。

「おまえいつもそればっかりだなあ」

『だって、これは会話のとっかかりでしょ』

 毎日のように高橋から来るメッセージは、決まっていつも何してるの? からで始まっている。

「まあそれはそうだろうけど」

『で、何してるんですか?』

 七緒はフライパンをちらりと見た。少しだけ火を弱める。

「飯作ってるよ」

『え、何ご飯?』

「おれの昼飯」

『いいなあ食べたい…僕の弁当今度いつですか?』

「おれのよりも食堂のほうが美味くない?」

 高橋には三度ほど弁当を作っていた。自分と梶浦のついででも、高橋はいつも大袈裟なくらいに喜んでくれる。

『えーそんなことないよ』

 高橋の声の向こうにさわさわと人の気配がした。どこか外から掛けているのか。

 ふと七緒は思いついた。

「佑都今外?」

 え、と高橋は言った。

『そう、図書館。昼になったから外出てるよ』

 家だと集中出来ないから朝から図書館にいると続けた。

『近くのコンビニでご飯買おうと思って』

 高橋の行く図書館は以前七緒も通っていたところだ。三階建ての大きな図書館で、上の階に食事もできる休憩スペースが設けられている。多分買った弁当をそこで食べるのだろう。七緒も高校受験のときよくそうしていた。

 歩きながら話しているのか、こつこつとアスファルトを歩く足音がする。

「じゃあさ、うち来れば?」

 ぴたりとその足音が止んだ。

『えっ!?』

「昼飯一緒に食おうよ」

『いいの?!』

「あ、でも席キープしてるなら早く戻らないと駄目だっけ」

 確か離席カードは一時間半しか駄目だったはずだ。戻らないと席は強制的に空けられ、荷物はカウンター預かりになってしまう。図書館から七緒の住むアパートまでの距離はそれほど遠くないが、時間的にはぎりぎりな気がした。

『いやそんなのどうでもいいよ! 行くっ! なな先輩の家ってさ…』

 高橋がさらっと住所を言ったので七緒は驚いた。

「何で知ってんの?」

『そんなの当然じゃない?』

 じゃあ十五分で行くからと言って通話は切れた。

「あっ」

 気がつけばフライパンから出始めていた煙に、七緒は慌てて火を止めた。

 それから本当にきっちり十五分で高橋はやって来た。

「上がれば」

 玄関先で息を切らしている高橋に苦笑しながら七緒は言った。

「お、お邪魔しま、す」

「図書館大丈夫か?」

「へーき」

「狭いけど、適当に座ってろよ」

「はーい」

 リビングに高橋を案内して七緒はキッチンに向かった。後ろで高橋があちこち動き回る気配に頬が緩む。

 なんか犬がいるみたいだな。

「何か飲むか?」

 振り向くと、高橋は開け放しているドアからもうひとつの部屋を覗き込んでいた。そこは寝室にしている部屋だ。見られて困るものなどないし、そもそも物が少ないから七緒は何も気にしない。

「…なな先輩、…」

「ん?」

 どうした、と呟きに返すと、はっと高橋は七緒を見てぶんぶんと首を振った。

「なんでもないかも」

 かも?

「? そうか? こっち来れば? もう出来てるし」

 六畳間のテーブルを指差すと、高橋はぱっとドアから離れてそこに座った。

 なんか…、ほんとに犬みたいだな。

「カジの部屋って、隣?」

「そう」

 キッチンから皿を運びながら七緒は言った。

「でも今日はいないんだよな。急に家族の人と会うことになったみたいでさ」

「わ、美味そう! …え、?」

 盛り付けた皿を高橋の前に置く。乗っているのはオムライスだ。目を輝かせた高橋は添えられたスプーンを手にしたが、ぴたりとその手を止めて七緒を見た。

「家族の人って?」

「あいつのお姉さん」

「お姉さん?」

「そう」

 作り置きの麦茶をグラスに注ぎ、高橋に渡す。

「詞乃、お姉さんいるんだよ」

「え…知らなかった、なな先輩会ったことあるの」

「あるよ、えーと二回かな」

 一番最初は七緒と篤弘がふたりして通路に倒れていたのを梶浦と、彼をここまで送ってきた和加子が部屋まで運んでくれた時だ。あの時のことはまるで覚えていないから、その後きちんとお礼を兼ねて会った一回と、そのあと偶然外で会ったので二回になるはずだった。

「えーいいな、僕も会ってみたいな。カジ、彼女もいるはずなのに全然いないって言い張るし、そのおねーさんにくらい会わせてもらおうかな…んっ! これ美味い! すご! 先輩すごくない?!」

 彼女。

 ああ、それは…

 高橋の言葉に内心訂正したい気持ちを抑えつつ、七緒は苦笑した。

「普通だと思うけどな」

「え、普通じゃないよ」

「…え?」

「才能だよ。神様がくれた贈り物」

「……」

「みんな生まれるときにひとつずつ貰うって何かで読んだ」

 神様が?

 七緒はスプーンを握った自分の手を見下ろした。

 もしもそれが本当なら、まだかすかにあるこの不思議な力も神様からの贈り物なのだろうか。最近はもう前ほどはっきりと、あの揺らめきを視ることはなくなってきたけれど。

「いいなー美味しいご飯作れるの最高。なな先輩、僕お弁当ずっと待ってます」

「わかったって」

「卵焼き入れてね」

「はいはい」

 高橋の家は両親ともに不規則な仕事をしていてほとんど家族が集まって食事をすることがないらしかった。そのせいなのか、高橋は七緒の弁当を驚くほど喜んで食べてくれる。

 苦笑して七緒はオムライスを掬った。ひと口食べて、今日は上手く出来たな、と少し満足する。

「カジになんて作らなくていいから、僕に作ってください。これもほんとはカジに食べさせる気だったでしょ」

「え」

 確かに今日は梶浦と食事をするつもりだった。今日というか、もうずっとお互いの部屋を行き来していて、最近ではどちらが自分の部屋なのかお互い境目がなくなりつつあった。

 そんな事情を言い当てられた気がして、七緒は驚いて高橋を見た。

 高橋はぱくりと掬ったオムライスを頬張る。

「あいつにそんなに良くしなくていいです。隣だからって入り浸っててさ、ちゃんと彼女いるんだからその女と仲良くしてればいいのに、なんでなな先輩とまで一緒に寝起きしてんだか、ずるすぎる!」

「え、え…? えっ?」

 一緒に、寝起き?

 思い出し、かあ、と七緒の顔に血が昇る。頬が赤くなったのが自分でもわかり、七緒は慌ててグラスの麦茶を煽った。

「どしたの先輩」

「いや、な、なんでも、…っ」

 むせた七緒に首を傾げる高橋に、七緒は手をぶんぶんと振った。

 鋭いのかなんなのか、高橋の言動は心臓に悪い。

 もうひと口麦茶を飲んで自分を落ち着かせてから、七緒は深く息を吐いた。

「まあ、あの、隣だし、それに詞乃には彼女…、はいないよ」

「ええ?」

 嘘だ、と高橋は目を丸くした。

「クラスの女達が見たって騒いでるし、僕も一回見た! なんかすごい美人だった! 背が高くてモデルみたいで」

 背が高くて、という感想に七緒はこくりと頷いた。

「あー…、それね、詞乃のお姉さん」

「え」

「だから、さっき言ってたお姉さん」

「ええっ!」

「結構歳が離れてるんだけど全然そんなふうに見えなくて、物凄く綺麗な人だよ」

「ええ…、嘘、あれがおねーさん?」

 驚いている高橋の気持ちはわかる。七緒だって初めて──意識のある時に会ったとき、びっくりしたのだ。それまでは遠目に一度みただけだったその人は、間近で見ると本当に美しい人だった。

「ええー、いいな! あんなキレーなおねーさん! 僕も欲しい、外一緒に歩いたりしたい」

 ただかなり癖のある人だとは、七緒は黙っておいた。

 なんだお姉さんだったのか、と呟く高橋に七緒は訊いた。

「佑都、きょうだいとかって?」

「僕ひとりっ子です」

「あ、そうなんだ」

 なるほど、と七緒は思った。だからこそ、その人懐っこさなのか。

 高橋は最近篤弘ともなんだかんだ仲がいい。篤弘も鬱陶しがってはいるが嫌ではないようで、時々勉強を教えてやったりしている。少し前のひりつくような苛立ちはもうほとんど篤弘から感じられなくなっていた。

 あれは一時のことだったのか、七緒に対する過ぎた干渉も以前より随分なりを潜めている。

「なな先輩は? なんか妹とかいそうだけど、何人家族?」

「おれ? おれひとりだよ」

「ひとりって? 親はいるでしょ」

 七緒は首を振った。

「おれひとり。親はもう死んじゃっていないよ」

「え」

「父親は知らないけど、母親は五歳の時に」

「え、嘘」

「ほんと」

 食べる手をぴたりと止めた高橋に、七緒はなんでもないようににこりと笑った。

「ずっと施設にいて、今年出たんだ」

「なんで、なんでそんなさらっと!?」

「え、いや…別に隠してないし」

 高校の同級生は知っている人も多いし、それこそ中学からの知り合いは皆知っていることだ。篤弘や瑛司もその中に入っている。そう言うと、なぜか高橋は青ざめた顔をした。

「森塚先輩も知ってるんだ…」

「付き合い長いからな」

「だからあんななのか…」

「え?」

「…どんだけメンヘラって、あれ過保護…」

「ん?」

 ぼそっと呟いた高橋の声が小さくてよく聞こえない。聞き返すと、高橋は勢いよく首を振ってごちそうさまでした、と手を合わせた。

「佑都、まだ時間大丈夫か?」

 綺麗に食べ終わった皿を重ねながら七緒は言った。

「えっ、あ、うん」

 携帯の時計を確認して高橋は頷いた。

「まだ全然平気」

「そっか。じゃあちょっと待ってて」

 ちょうどいい。七緒は皿を流しの中に置き冷蔵庫を開けた。

「甘いの好き?」

「えっ好き!」

「これちょっと作ってみたんだけどさ…」

「え、なになに!」

 目を輝かせる高橋の前に、七緒はグラスをひとつ置いた。

「苺のムース」

 グラスの中は綺麗なピンク色で満たされている。

 それは園長に貰ったレシピで作ったものだ。自分で少しアレンジしてみた。

 揺らすとふるふると揺れる。固まり具合もよさそうだ。七緒はスプーンを高橋に渡した。高橋は受け取ったそれをじっと見て、顔を上げた。

「なな先輩」

「ん?」

「彼女出来た?」

 ぷ、と七緒は噴き出した。

「なんだよそれ」

「いやだって、こんなの恋人とかにしか作らなくない?!」

「そんなことないだろ」

「ええ、絶対そうだって! どんな女! その女大丈夫!?」

「あははっ」

 高橋の予想外の勘違いに声を出して七緒は笑う。止まらない笑いを噛み殺し、涙の滲んだ目尻を指で擦った。けれど出来なくて、くすくすと笑いは零れていく。

「彼女じゃないって」

「ほんとに!? 心配だよ!」

「なんで」

「だって、なんか変なの吸い寄せるでしょ先輩」

「なんだよそれ」

「だってさあ!」

 変なのって何だ。

 言いかけた言葉を高橋はなぜかぐっと飲み込んだ。

「おれそんなモテないよ?」

 女の子と付き合ったことはあるが、もう何年も前で、あれ一度きりだ。それもすぐに自然消滅してしまった。

「あり得なくない?」

「ほんとだって」

「気が付いてないだけです」

「そうかなあ」

「それかあいつが牽制して──」

「あいつ?」

「…なんでもないです」

「変なやつ」

 よく分からないことを繰り返す高橋に、七緒は笑った。

 そしてふと、口にした。

「まあ…、彼女じゃないけどいるよ?」

「え?」

「おれ好きな人いるよ」

「え、だれえ!」

 ばん、とテーブルを叩いて高橋が腰を浮かす。その顔を見上げながら、七緒は言った。

「おまえのよく知ってる人」

「──」

 高橋になら言ってもいいかもしれない。

 そうだ。

 いずれどうせ、分かってしまうのだから。


***


 義姉と会った後は体が重い気がするのは、何も気のせいではない。たった三時間あまり、会話も和加子が一方的に話すだけで特にこちらから何かを言うと言うこともないのだけれど、どうしてこうも疲れてしまうのか。

 これはきっと自分だけではない。だから義父も母も自分に任せきりにして、和加子と会おうとはしないのだ。

「やれやれ…」

 和加子は色んな意味で人生を謳歌している。破滅的ではあるが頭はいいのでそうそう馬鹿なことはしないけれど、周りにいる人間は彼女の自由奔放さに振り回され、次々に脱落していってしまうのだった。

 思わず独り言が漏れる。ため息を落として梶浦は顔を上げた。何気なく前を見ると、薄暗い帰り道の向こうを、見知った人影が歩いているのが見えた。

 せかせかと少し早い足取り。

 あれは。

「──」

 高橋だ。

 こんなところで何をしているのだろう。高橋の家はこのへんではないはずだ。

 それに、今アパートの方から来た気がする。

 もしかして…

「高橋──」

 上げた声は車の音にかき消された。高橋は気づかずに、そのまま雑踏の中を歩いて行ってしまった。


***


 かたん、と玄関のほうで音がした。

 帰って来た。

「おかえりー」

 数歩歩いて近づく気配に七緒は言った。

「ただいま」

 振り返ると梶浦が立っていた。

「和加子さん元気だったか?」

「…あの人は大抵元気だよ」

 苦い顔をして頷いた梶浦に七緒は笑う。きっと今日も一方的に彼女が喋って終わったんだろうな。

「高橋が来てた?」

「え」

「さっきそこで見かけたけど」

「あー、うん。昼飯一緒に食った」

「こんな時間まで?」

「へ? うん」

 結局高橋はキープの時間が過ぎても図書館には戻らなかった。さっきまでここでずっと話をしていたのだ。

「楽しいと時間過ぎるの早いよな」

 言いながら、テーブルの上の飲みかけのカップを持って立ち上がった。

 流しの中に入れ、冷蔵庫を開ける。はやる心を抑えながら、手を伸ばして取り出した。

「詞乃、これ」

 振り向いて後ろに立っている梶浦に渡した。

「え?」

「先生に貰ったレシピで作ったんだよ。ちょっと材料変えて。夕飯前だけど食えるだろ? ちょっと食べてみてよ」

 梶浦は受け取った手の中のものをじっと見下ろしている。

 男子高校生が持つにはちょっと色味が可愛すぎだな、と七緒は思った。

「これ、こないだの?」

「そう」

 このムースは少し前、万莉の誕生会で園長が作ったものだ。そしてこのレシピはもともと七緒の母親のものだったそうだ。七緒の荷物をアパートに送るとき、置き忘れていた古いアルバムの中から出て来たのだという。

『多分七緒が小さいときに作ったんじゃないかな』

 レシピの書かれた紙は湿気でぼろぼろになっていた。園長はそれを綺麗に書き直し、七緒にくれたのだ。

『そのまま渡したかったんだけど、悪かったね』

『ありがと先生』

 電話の向こうで謝る園長に七緒は礼を言った。

「ほら、座って」

 テーブルに引っ張っていき、そこに座らせた。よく見れば梶浦は上着も脱いでいない。まあいいかと、七緒はスプーンを渡す。

 梶浦はスプーンでピンクのムースを掬い、口にした。

「美味い?」

 梶浦の喉が上下する。七緒が訊くと、梶浦は頷いた。

「美味いよ」

「そっか、よかった」

 ほっと胸を撫で下ろす。

「佑都にも食べてもらったんだけど、詞乃の方は味が違ってて」

「…え?」

 七緒は立って冷蔵庫の野菜入れを開けた。

「これ入れたんだ」

 透明な容器に入ったものを梶浦に差し出した。

 小さな赤い果実が半分ほど残っている。

「──」

「? どうした?」

「いや…」

 息を詰めたような梶浦に七緒は首を傾げた。

「一緒に働いてるパートの人の家にたくさんなるんだよ、去年も貰って美味かったから…詞乃も好きかなって」

 指で摘まみ、梶浦の口元に持って行った。薄く開いた唇から、そっと中に入れる。七緒もひとつ口に入れた。

 甘くて少し酸っぱくて、とても美味しい。同じものを好きだと嬉しいと思った。それに、もうすぐ梶浦の誕生日だ。

 ケーキを焼くのは難しいけれど、これならきっと自分でも出来る。

 詞乃がこの世に生まれてきた事を感謝したい。

 おれの前に現れてくれて、おれを好きになってくれたことを。

 お金はなくて、何も贈れないけれど。

「…七緒」

 低く耳元に囁かれた。

 その声音にどきりとして顔を上げると、梶浦がきつく抱き締めてきた。

「好きだ」

 縋るように首筋にかかる吐息。

 ぐらりと傾いだ体を抱き込まれ支えられる。

「あ…っ」

 手から容器が離れ、床に赤い実が散らばった。

 拾わなければ、と思った瞬間、その唇を奪われていた。

「ん、…っ、う、…んっ」

 甘い香りでくらくらと回る。

 眩暈のするほど甘い果実を口移しで与えられ、涙が滲む。

「あ、あ、っや、いや、あ」

 ベッドに運ばれ、逃がさないと言うように余すところなく大きな体で覆われる。

 重ねた肌が火傷しそうなほど熱い。余裕のない手つきで服を剥がされ、ぐちゃぐちゃと激しい水音に犯されていく。

 どうしたのだろう。

 こんな…

「し、の…?」

 その目が何かを言いたそうに歪む。

 梶浦は時々こんなふうに見つめてくることがあった。切ないような、悲しいような。

 そしてそのたびに七緒の胸を締めつけてくる、この感情はなんだろう?

「ん、っ…や、あ、あっ、も、…あっ」

「七緒…好きだ」

 好きだ、好きだ、と繰り返す梶浦に七緒は微笑んだ。

「おれも好きだよ…」

 だから──泣かないで。

 そんなふうに。

 自分の上で揺れている梶浦の頬に手を伸ばした。

 目尻に触れた瞬間、梶浦が息を詰めた。

「おれ、もう…、どこにも、いかないから」

 どうしてそんなことを言うのか分からない。

 離れたこともないのになぜだろう?

 でも言葉は胸の中から溢れてくる。

 胸の奥の、奥底から。

 もう行かない。

 もうどこにも、行かないから。

 きみを置いてどこにも行ったりしない。

「……、っ」

「…詞乃」

 大丈夫だよ、と呟くと、ぽたりと七緒の頬に温かなものが落ちてきた。

 ゆらゆらと窓の向こうで月が揺れる。

 どこか遠い昔にも同じものを見たような気がした。




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