第9話

 窓ガラスに身を任せるようにして僕は外を眺める。眼下、警察車両が赤色灯を周囲に撒き散らしながら走る。例えば彼らが追うものは交通違反者だ。もしくは警邏の最中なのかもしれない。コンビニ強盗を追っているのかもしれない。映画よろしくカーチェイスに励んでいるのかもしれない。

 あるいは連続殺人犯を追っているのかもしれない。だとすれば、悪くない光景だ。

 僕たちはまだ眠らない。お互い眠気が訪れる気配はない。

 眠るのにも体力が必要だ、なんて話を聞いたことがある。実際、足が震えるまでランニングをしたところで眠れない夜は眠れないものだ。電化製品のように人間が仕組まれていたらよかったのに。人体がかく複雑に作られているのには理由があるのだろうか? 世界が複雑に見えるのは、身体の複雑さがもたらす錯覚のように思える。先行するのは肉体だ。言い換えるなら、世界に対して肉体がうける感覚だ。身体と外界との間に生ずる異物感だ。

 異物を取り除いたとき、物事はもっとシンプルなのかもしれない。

 僕は思う。すべての悩みは、しょせんまやかしだ。

 人々の抱えるありとあらゆる問題は、結局のところ影響しあう二つの身体に起因するものだ。事態は本当のところ単純なものだ。それを複雑にするのは悲しみや怒りや恐怖や喜びをもたらす僕たちの身体だ。取り除いてしまえば、金銭の問題も生命の問題も人間の問題も『関係』の一言に集約されるものだ。

 パトカーのサイレンが遠くに離れて消える。

 部屋はうすら寒い。暖房はつけているのだが、隙間風が入り込んでいるのかもしれない。掘りごたつに僕は足をつっこむ。申し訳ばかりに用意された座椅子は背もたれがゴツゴツとして座り心地のいいものではない。

 対面には藍原しずくが座っている。

 彼女は言う。「どうして、あなたは私を助けてくれるんでしょう」

 訊かれて、僕は思い起こす。どうして僕はこんなところまで来ているのだろう?

 昨日の出来事だ。思い出してみることにする。

 すかさず昨日の彼女が言う。「ここを出ていくことにしました」

 実際は、もう少し複雑な言葉を彼女は紡いだのかもしれない。詳細な事情の説明があったのかもしれない。そろそろ県外に逃走しなくては危険だ、なんて言っていたかもしれない。たしかに近所の警官は、日を追うごとに人数を増していた気がする。とにかく重要なことは、彼女の言葉を聞いて、僕が抽斗から長らく触れてもいなかった車のキーを取り出したということだ。僕は彼女に言葉を吐く。こっ恥ずかしいから詳細は省くことにしよう。詳しいところは想像にお任せさせてほしい。少なくとも、藍原しずくはそれを聞いてうなずく。話はそれで終わりだ。

 つまりはそういうことだ。

 脅迫者と被害者の関係が、ここに至って共犯者の関係に変化したということだ。

 僕は言う。「本当、どうしてかな。犯罪映画に憧れたのかも」

「ロリコンだからでしょ」

「小さく言ってしまえば、そうだろうね」

「……いや、素直に認められても困りますけど。小さく言われてもキモいんですが」

 僕のかたわらには酒の缶がある。ここに来る途中、コンビニに寄ってまとめて購入したものだ。すべて備え付けの冷蔵庫にしまいこんでおいたのだが、いまいち冷え切っていない。

 飲めればなんでもいい。僕の口を動かしてさえくれれば役目は十分に果たされている。「小さく言うしかないんだ。だって、世界は、大きすぎだ。でもこの狭っ苦しい世界は身の丈に合っている気がする」

 狭っ苦しい世界。

 例えばそれは十畳の和室だ。

 いま僕のいるこの部屋だ。

 脅迫者と被害者の関係。

 共犯者の関係。

 限りなく圧縮された世界のことだ。最小単位で構成された関係性のことだ。

 藍原しずくは言う。「すぐに捕まるとしても?」

「長続きしないってことはわかってる」

「わかってるのに、どうして」

「バカなんだろうな、きっと。背丈がもう少しあれば違ったのかも」

「私ごとバカって言ってるようにも聞こえますね」と藍原しずくは言う。不満げに彼女は言う。

 僕は笑ってしまう。「バカだろ。その通り」

「失礼ですね」と彼女は言う。

 僕は言う。「だから、僕だってバカになりたかったんだ。だからこうした。ここまで来た」

 バカになりたい。

 それが僕の行動原理だ。願望だ。

 ごく単純化したとき、それは適切な説明だ。過不足はない。

 僕はバカになりたい。

 アルコールに感謝する。酒の神様がいるならば手を合わせたい気分だ。僕はバカになりたかったんだ。簡単な話じゃないか。アルコールが導き出した答えの明瞭さに驚く。今までどうして難しく考えすぎていたんだろう?

 視界が揺れ、パチリと定まらない。

 もうどれだけ飲んでいるのだろう?

 一本、二本、三本と数えて、初めの一本を見失う。もう一度繰り返す。三本目まで数えたところで、やっぱり見失う。三度繰り返す。同じだ。諦める。

 挙動不審な僕をよそ目に、藍原しずくは言う。「人を勝手にバカ扱いして、一人でべらべら語っちゃって。面倒なことこの上ないですよ、本当」

 指摘されるくらいなのだから、アルコールはしっかり機能しているようだ。

 そうだ、僕は前後不覚に陥っている。

 すべてはアルコールのせいだ。

 サイレンが聞こえる。今夜はずいぶん物騒な夜らしい。

 僕たちを追っているかもしれない彼らは拡声器越しに何かをわめく。おまえはすでに包囲されている! と彼らは叫んでいるのかもしれない。彼らは僕に言うだろう。夢見がちなバカめ。バカのなりそこないめ。おまえにはなにもできない。おまえはなにも照らし出せない。おまえはタバコの吸殻しか生み出さない。おまえは光を喰らうだけの吸光シートだ。どこまでいったって消費者だ。

 僕は答えるだろう。そのとおり。

 僕は言う。「ごめん。僕のせいで、君はもっと見つかりやすくなるのかもしれないのに」

 公共交通機関を利用するより車での移動は足がつきやすい。

 僕の同伴は彼女により早く悪い結果をもたらすことになるかもしれない。

「別にいいですよ。どうせ、遅かれ早かれですし」と彼女は言う。

 咳払いが一つ挟まれる。

 それからまた彼女は口を開く。「前から言おうと思ってたんですけど」

「なに?」

「その、君って呼び方、おっさん臭くてキモいです」

 脈絡なく差し替えられた話題に脳がうまく反応しない。

 明日公開の映画が楽しみだ。

 このように、人は予想にない言葉を急に浴びせられたときそれをすぐには咀嚼できない。コミュニケーションには文脈が大事だ。

「……ごめん。話が飛びすぎて、よくわからなかった」

「気持ち悪いって言ったんです」

 彼女はリモコンを手に取りエアコンの温度を上げる。

「でも君も呼んでなくない?」

 あなた、と呼ばれた記憶しかない。

 彼女は言う。「脅迫者と被害者に等価関係は成立しえないでしょう。常識的に」

「もう共犯だよ」少なくとも状況的には共犯関係にあるといって間違いないはずだ。この逃避行の終わりは二人にセットでやってくるはずだ。

「違いますね。私たちは脅迫者で被害者です。お互いに。私もあなたもそれぞれを脅迫しあって、しかもそれぞれが被害者なんです」

 吹出し口から吐かれた生ぬるさがエアコンの直下、座り込む僕を襲う。

「だから対等ではないって?」

「そうです。等価じゃない、対等じゃない、等しくない。けっして同じじゃない。だから名前が必要なんです」

 名付けとは分化の技術だ。

 名前が人を未分化の原始状態から分かち、個人に至らしめる。

 あなたと君の関係を終わらせる。つまり、これは二人の物語ではないと彼女は言っている。

 僕の物語と藍原しずくの物語はそれぞれが独立していてけっして一つにはならない。一時的に交差したとしてもすぐに離れる。限られた刹那の時が今だ。

 そのとおり。

 言われずともそんなことはわかりきっている。

「ほら、名前、呼んでみてください」と彼女は言う。「呼び捨てでいいですよ」

 彼女の求める親密さとは、はっきりと僕を突き放すものだ。

 アルコールが抜けてきた。そんな気がする。

 おかわりが欲しい。一瞬前まではいい気分だったのに。

 名前で呼べだなんて。

 酒に萎んだ脳はすっかり平たくなって「勘違いするな」と僕を戒める。

 アルコールが欲しい。彼女の物語は僕の物語ではない。

 彼女が僕を急かす。私の名前を呼んで!

 彼女は僕に迫る。呼び捨てでいいよ!

 炭酸に胃が膨らんで気持ち悪い。でも、女の子を名前で呼ぶなんて恥ずかしいし!

 アルコールが欲しい。とにかく恥ずかしい。

 脳みそが乾ききっている。か、勘違いしないでよね!

「しずく」

 僕は彼女の名前を呼ぶ。すごく恥ずかしい。

 彼女は言う。「よくできました」

 なにを勘違いしていたんだろう?

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殺人鬼の娘 舞山いたる @Nanashi0415

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