第8話
客室に入ってまずホコリっぽさにやられる。あたりを見回すと、部屋角にミニサイズの空気清浄機が設置されている。ただし電源は切られた状態だ。すかさずオンにする。ホコリの感知センサーが空気中のアレルゲンに反応して真っ赤に染まる。ごうごうと、サイズの割にやかましい動作音が僕たちを歓迎する。幸先は良好。
一〇畳ほどの広さの和室だ。一通り部屋を点検してみる。
ベランダはない。敷かれた布団は二つ。厚手の掛け布団と、旅館によくあるそばがら枕。窓ぎわに掘りごたつがある。やぐらには木製の合板が敷かれ、ローテーブルとしても活用できるようになっているようだ。こたつとは別に食事用の広めのテーブルも中央に一つ。四〇インチほどのサイズのテレビも備わっている。過不足ない、理想的な客室だ。
「なんか狭っくるしく感じますね」と藍原しずくが言う。
たしかに広いとはいえない。一〇畳なんて一人部屋のサイズといってもおかしくない面積で、やたら家具の類が充実しているものだから居住スペースはなおのこと小さく感じる。「まあ、仕方ない」自分にも言い聞かせるように僕は言う。だだっ広くたって、虚しいだけだ。
藍原しずくは着ていたパーカーを脱ぎ捨て、掘りごたつにそれを放る。長旅の疲れからか、だいぶ放恣なスイングだ。勢いでポケットから飛び出すものがある。見覚えのある封筒だ。ただしそれは以前見たときよりもずっと目減りしている。遠目から見てもわかるほどに。
出所不明の幻想的札束たち。
桁数を一つ減らした紙切れ。
スナック菓子やコンビニ弁当や洋服やゲームといった即物的商品に変換されてやせ細ってしまった彼女の命綱。
要するに、彼女の資金はもう残り少ない。
「お金なら僕が出してもよかったのに」と僕は言う。
「旅館って、泊まれば泊まるほど追加の費用が発生するんです。私がすかんぴんになったら、そのときは遠慮なく使わせてもらいますよ」と彼女は言って、それから客室のなかをうろうろと徘徊する。備品やアメニティの類が気になる様子だ。たいして珍しくもない湯沸かしポットや申し訳程度に用意されたお茶請けに触れて回っている。遠出したときの旅館の異世界感は、まあワクワクしちゃうよね。年相応の振る舞いだといえる。僕だって人目がなければ布団に思い切りダイブしているだろう。
「冷蔵庫なんてあるんだ」と彼女は玄関口近くの冷蔵庫に気がついて言う。「宿ってこんなサービスもあるんですね」トビラを開く。中には瓶ビールやコーラ、ウーロン茶が詰まっている。名産品らしいブドウのジュースも二本ほど確認できる。「これ、全部飲み放題なんですか?」
「冷蔵庫自体は基本無料かな」
「ああ……」
何か察したらしくすぐに冷蔵庫のトビラは閉められる。基本無料というワードに機敏に反応したあたり、世代を感じさせられる。恐ろしい言葉だ。基本の二文字に込められた深甚たる意味を前に、無料という甘美な要素は一気にうさんくさいものと化す。ガラケーの頃より、ちょっとはマイルドになったんだけどね。(がんばれば)基本無料、くらいには手心が加えられた気もする昨今だ。
冷蔵庫を最期にいよいよ見るものがなくなったらしい。藍原しずくは掘りごたつに移動して、そこに足を入れる。先手を打たれたと気がついたのは三秒してからのことだ。対面に座っていいものか僕は迷う。一緒に入ったらキモがられるかもしれない。万一そうなれば著しいショックが与えられるだろう。とはいえ掘りごたつにはめちゃくちゃ入りたい。葛藤。腕を組んで立ち尽くす。
均衡を破るのは藍原しずくの言葉だ。「ちょっとシャワー浴びてきます」
言い忘れていたがこの客室にはシャワールームも併設されている。さっきざっと確認したが、特別に豪華なものではない。よくある浴室だ。ドライヤー含めシャンプーもリンスも一応揃っている。馬油の保湿クリームなんかも置いてある。
「露天風呂もあるみたいだけど」と僕は言う。時間はまだ夜の一〇時を過ぎていない。大浴場は開いているはずだ。せっかくの旅館なのだから利用しない手はないように思える。
「お風呂って好きじゃないんです」
言うなり、彼女はシャワールームへ消えていく。なにかこだわりがあるようだ。追求はしないことにする。こっちはこっちで後で露天風呂に行くことにしよう。安宿にあまり期待はしていないが、少なくとも露天であることに間違いはない。疲れた身体に熱めの湯はよく効くだろう。
ともあれまずは掘りごたつを堪能するのが先だ。すかさず移動して滑り込ませるように両足を突っ込む。予想どおり悪くない。こたつの内部に満ち満ちたぬるい空気が足の末端から全身を温める。足湯に浸かった気分だ。しばしまどろみに身を任せてしまおうかと考える。風呂には入りたいけど移動するのもなかなか面倒だ。長距離ドライブに摩耗した頭をはやく休ませてやりたい。
ところで僕の耳はシャワー室のトビラ越しに衣擦れの音を聞き取る。
気がつくと空気清浄機は仕事を終えて押し黙っている。
空調までもが省エネモードに突入して無言になる。
聴力の鋭敏さがいや増す。パシャリと衣服が床に落下する音色。
無為に咳をしてみる。一人、じゃない。よりいっそう人の存在が意識される。
テレビのリモコンに手を伸ばす。近ごろ、ニュースを見ていない。
いざ電源を入れようというタイミングでスマートフォンが振動して、僕はひっくり返りそうになる。着信画面を確認すると竹本の名前が表示されている。
ワンコールの間に電話をとる。「もしもし!」
「よう」着信の主が言う。
僕は無性にほっとして返す。「どうしたの」
壁時計を確認する。時刻は一〇時を回っている。ずいぶん遅い時間帯の連絡だ。
「ラーメンでも食べに行こうぜ。どうせまだ飯食ってないだろ」と竹本。
ラーメンか。悪くない。深夜に食うそれは格別だ。いまこの状況でなければすぐにでも飛びついて了承していただろう。「ええと。今日はちょっと」
「なんだよ。いつもならこの時間お前なにも食べてなかったろ」
「食べてはないけどさ。ラーメンの気分じゃないっていうか」
シャワー室から水音がする。片耳で竹本の声を聞き、片耳で水音を聞く。
当然、自ら耳を傾けているわけではない。耳に入ってくるのだから仕方ない。
ぜんぜん意識なんてしていない。
信じてほしい。
「わかったよ。じゃあさ、明日でいいから酒でも飲もうぜ。お前の家で。俺の家でもいいけど、どうせ外出たがらないだろ」と竹本が言う。
「あー、いや、ごめん。それも無理」
「明後日は? 明々後日は?」妙に食い下がってくる。
「どっちも無理」と僕は言う。とんぼ返りで家まで戻ることは不可能ではないけど、それじゃなんのためにここまで来たのかわかったもんじゃない。
竹本は僕からスケジュールを事細かに訊き出しにかかる。
無為な問答が数度、繰り返される。時間の無駄だ。事の次第をぶちまけてしまおうと決心し、僕は言う。「っていうか、ぶっちゃけいま家にいなくてさ。旅行に来てるっていうか」
「……一人旅とかするタイプだっけ、おまえ」と竹本。「わかった。家族と行ってんだろ」
僕は言う。「正直に話すけど、女と来てる」
「それはない」
秒速で電話が切られる。
同時に、シャワーを終えて藍原しずくが浴室を出てくる。「備え付けのリンス、最悪ですね。めっちゃ髪ゴワゴワします」
彼女の視界にはスマホ片手に縮こまる僕がいる。
「? なんか電話してました?」と彼女は言う。
「ぜんぜんしてない」
なぜか僕は嘘をつく。やましいことなんて、ぜんぜんない。
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