第7話

 オフィスビルというオフィスビルが、群れをなしてフロントガラスを通過していく。時速一◯◯キロの世界はまばたきの間に次々とその風景を変えていく。慣れない運転にスピードメーターの針が左右に振れる。速度が安定しない。右足のアクセルワークがうまくいかずスピードが落ちる。アクセルを軽く踏み込む。踏み込んだ分だけ車は加速する。軽く踏んだつもりで、メーターはすぐに一二〇キロに到達する。先行車との車間距離がぐっと縮まる。加速のしすぎだ。右足を脱力させる。ほどよい塩梅を探る。調整不足のアクセルペダルがきいきいと音をあげてきしむ。助手席から不安げな雰囲気が漂ってくる。不甲斐ない運転を言い訳したい気分に襲われたけど、その余裕すらないのが現実だ。

 ポンコツのカーナビが言う。次の信号を左折です。

 僕は言う。ここは高速道路だ。

 藍原しずくが言う。「ちょっと、本当大丈夫ですか? 怖いんですけど」

 ハンドルをにぎる手が緊張している。運転なんて、いつぶりだろう?

 衝撃が尻を叩く。サスペンションがだいぶヘタっているようだ。吸収性能に衰えがある。ジョイントを通過するたび、つんざくような衝撃が僕たちを襲う。

「車なんて持ってたんですね」

「一応ね」と僕は答える。この『一応』の意味について深掘りされたくはない。一応、レンタカーではない。自家用車だ。ただし、一年前に免許を取ったとき、家族に贈られたプレゼントだ。純然たるスネカジリの塊。誇れるものではない。

 中古だがお安い買い物ではなかったはずだ。よく買ってくれたものだと思う。車本体の費用について、一切金は出していない。保険料と駐車場代だけは僕が負担している。車検については考えたくない。手に入れたはいいものの使い道もなく物置と化していた鉄の塊。久しぶりに役目を与えられた巨大なオモチャ。静かなエンジン音にはささやかな歓喜が混じっているように聞こえる。この旅中に廃車にならないことを祈るばかりだ。

 ハンドルをにぎりなおす。手汗がにじんでいるのがわかる。高速道路を走るのは教習所での実習を除けば初めてのことだ。緊張するなというほうが無理がある。フロントガラスに貼り付けられた初心者マークは僕たちを加護する守護神だ。道路には教習所で教わらない不可視の了解があちらこちらにはびこっている。どうか、この前後一枚ずつのステッカーがあらゆる粗相に対しての免罪符となってくれますように。

 本当、お手柔らかにお願いします。

 車体がいつの間にか左に偏りすぎていたようだ。タイヤがわずかに縁石に触れてけたたましい音をたてる。あわててハンドルを右に切る。切ったはいいが、切りすぎる。隣車線に侵入しかねない勢いで車体が右にそれる。左にもどして、どうにか車線の中央に帰ってくる。

「マジで事故んないでくださいね!」と藍原しずくが助手席から吠える。

「大丈夫だって……たぶん」断定はできない。

 車体の安定しなさは酒帯び運転を疑われかねないレベルだ。乗り心地はさぞ悪いだろうと想像される。

「ハンドルまっすぐ保てばいいだけじゃないですか……?」

 もっともな意見が助手席から飛んできたが無視する。できないものはできない。

 とはいえ今のヒヤリはいい意味での緊張を僕にもたらしてくれたようだ。家を出発してから一時間して、ようやくのこと運転にも余裕が生まれてくる。あとはどうにか無事故で目的地までたどり着けることを天に祈るばかり。

 直線が続く。

 助手席のほうを横目で盗み見る。藍原しずくは頬付をついて、ガラス越しに夜景を眺めている。高層ビルたちの放つ人工的な光。幻想的ともいえる光景。人の営為がそれを形作っている。あまり視界に入れたくはない。人々の上に成り立つそれを直視する権利が自分にあるようには思えない。

「深夜に高速道路なんて、初めて乗りました」と彼女は言う。「綺麗ですね」

「正直、僕はあんまり見てる余裕ない」

 事実だ。いまのよそ見で、車体がまた大きく揺れる。

「ともかく、目的地まで送ってもらえれば、それで大丈夫ですから。安全運転で」

と藍原しずくは言う。

「了解」

「ほんと、事故らないでくださいね?」

「平気だってば……」

 カーナビが次の出口を右にいけと僕に命令する。

「出口、右らしいですけど」と藍原しずくが僕に命令する。

 絶賛、僕たちの車は左車線を走行中だ。

「右!」カーナビを見ている余裕もなかったので、突然に車線の移動を命じられて僕は動揺する。とにかくウィンカーをまず出す。ウィンカーさえ出しておけば間違いはないはずだ。あわててサイドミラーを確認する。後続車はいないと判断する。思い切りハンドルを切って右車線に移動する。

 クラクションが僕たちを襲う。

 バックミラーに、後続車が急ブレーキをかけて減速するのが確認された。サイドミラーの調整ミスだったのか僕の認知に問題があったのかは不明だが、ともかく最悪の車線変更をしてしまったことに間違いはないようだ。

 もう一度クラクションが鳴らされる。怒り心頭のようだ。命の危機の前には、初心者マークも力を発揮しないらしい。自分が悪いことは明らかだったので言い訳はできない。本当、すみません。

「めっちゃ怒られてますけど」と助手席から冷めた声が飛ばされる。

「大丈夫。こういうときはハザードを点ければ、謝罪の意が伝わるってネットで調べた」

 ハザードをたいてみる。二度点灯させる。ネットの情報が確かならばこれで万事解決するはずだ。

「煽りだと思われそう」と藍原しずくが言う。

「まさかそんなこと」と僕。まったく心外な発言だ。僕は心の底から反省している。車のボディ越しといえ、誠意は伝わるはずだ。人のまごころに期待をこめて後続車の反応をうかがう。

 すかさず猛パッシングが僕たちを襲う。

 人の心はスチールの壁をつらぬいて届きはしないようだ。

「怒られ倒されてますけど!」

「大事なのは思いやり運転なんだよ。死の危険があったって、初心者マークには優しくしなくちゃ。初心者マークはあらゆるトラブルに対応する免罪符なんだよ。きっとみんな、教習所で教わったはずだから」戯言が口元を滑り出る。

「私まだ教習所通えないですけど、たぶん違うと思います」

「すべての車に、ごめんねランプが付いてたらいいよね。ハザードランプよりきっと役に立つ」

 特許なんていらないから、どうにかして実現されないだろうか。

 連絡不要。使用料も求めないから、ご一考いただきたい。センキューランプもあればなお良しだ。


 トラブルがありつつも、僕たちは無事に目的の出口を降りていく。高速道路という魔境を降りたことで、多少精神的な余裕が生まれる。制限速度ちょうどのスピードで車を走らせる。都心をだいぶ離れて風景はガラッと変わり、あたりに木々があふれかえる。時間はさらに深まって視界は悪い。木々が月光をさえぎっていることも影響しているだろう。オートライトが、ハイビームに切り替わって前方を照らす。対向車は一台もいない。ルームミラーを確認したが後続車もいないようだ。一安心する。

 口数少なく僕たちは目的地を目指す。

「音楽、かけてもいいですか」と助手席の藍原しずくが言う。

「いいけど」断る理由もない。

 彼女はカーナビを細い指先でタップしていき、スマホとの連携をすませる。初めて触れる機種のはずだけど操作によどみはない。デジタルネイティブらしい順応性の高さ。彼女はスマホを持っていないので僕のものを貸すことになる。パスワードを口頭で彼女に伝える。音楽サブスクが入っているのでたいていの曲はそこから見つけだすことができるはずだ。

 しばらくして、カーオーディオから音楽が流れ始める。

 アコースティック楽器が主体のポップスだ。ツインボーカル。クリーントーンの声と落ち着いたハスキーな声とが心地よいハーモニーを生み出している。聞きやすい曲だ、と僕は思う。

「いい曲だね」と僕は言う。素直な感想を口にする。

「そんなこと思ってないくせに」

 攻撃的とも取れる言葉を彼女は口にする。

 芯を食った発言ではある。聞きやすい曲であることといい曲であることは両立するとは限らない。

「いい曲だと思うよ。本当に」

 彼女が言う。「でも、いい曲だとは思っても、本当にいい曲だとは思ってない」

 口をつぐむ。返事に困る。

 本当にいい曲?

 いい曲。本当にいい曲。二つに彼女は明確な境界線を引いているようだ。

 漠然とした感覚の問題だ。安易に「本当にいい曲だと思う」と付け足すことに僕はためらいを覚える。流れる文脈の異なる他人同士で、断定するという行為はひどくリスクをともなう。考えなしの同意の一つ一つがいつか決定的な不一致につながる。ささいなすれ違いはいつか重篤な軋轢を生む。考えすぎだろうか? たぶん、考えすぎなのだろう。だとしても僕は沈黙せざるをえない。

 僕個人の問題として。

「きっとそれが普通なんです。人から薦められて感動したとしても、テレパスでもなきゃ、中身まで共有できるわけない。見せかけもまやかしも、気持ち悪いだけですよ」と藍原しずくは言う。

 僕は言う。「でも、うまくやれる。見せかけだとしたって」

「わかんないですよ。ガキンチョですから」と彼女は言う。

 僕は思う。最大の問題は、求めすぎることだ。納得の水準を高くしすぎることだ。諦めを知らないことだ。簡単にいえば、若すぎるということだ。

 次の問題は、ここに若すぎない人間なんていないということだ。

 僕は言う。「僕だって分からないよ。結局どうしたらいいんだか、さっぱり」

「大卒なのに」

「近所の老人が、みんなして悟っているようには思えなくない?」

「口に出さないだけかも」

「そうかもしれないけど」

 藍原しずくは言う。「でも私、キレる老人って好きですよ。すべて受け入れきってしまってる老人なんて、ハリボテだよ。自分の考えをむやみに回りに押し付けてくる年寄りのほうが、責任を果たしてると思います。嫌味じゃなくて」

 ハリボテ、と彼女は言う。彼女からしてみれば僕はハリボテのように見えるのだろうか? 試しにハリボテの自分を想像する。ギャッとなる。ハリボテにはなりたくないと思ってしまう。ハリボテにも枯れ木にもなりたくはない。賑やかしの生活なんて冗談じゃない。

 ただ勘違いしないでほしい。べつに満開の桜になりたいわけではない。ハリボテも枯れ木も桜もどっちもどっちだ。みんなまとめてゴメンだ。

 僕は言う。「君は、そんな年寄りになれると思う?」

「どうでしょう。結局、普通にしなびれて老いぼれていくのかも。なりたくはないですけど」

「つまり、世の中のたいていの年寄りを君は嫌いなわけだ」

「嫌いとまでは言わないですけど。第一、責任のともなう人生なんて、まったく若者には実感がわきませんし。でも、できることならキレる老人になりたいとは思いますよ。大変なことなんでしょうけど」と彼女は言う。

 責任を負い続けること。怒り続けること。子供であり続けること。ひっくるめて、それは生きることだ。苦しみ続けることだ。生活のなかで生きることだ。

 とうてい僕にはなしえないことだ。

 僕は言う。「君のしていることが、キレる老人に至るための通過儀礼になればいいね。皮肉じゃなく」

「どうでしょう。人生設計、そう簡単に行くなら苦労しなくないですか?」

「ガキンチョに言われるとムカつく」と僕は言う。

 目的地はすぐ近くに迫っている。制限速度にならって走っているつもりだったが気づくとスピードメーターは想定よりも右に振れている。とはいえ問題になるような速度超過ではない。

 むしろアクセルを踏み込んで僕は車をさらに加速させる。

 誰もいない道を駆けるのって、けっこう気持ちがいいものだ。夜道が舞台ならなおのこと気分はいい。子供じみているだろうか? まあ、ハリボテよりはいくらかマシだ。

 藍原しずくが僕に言う。「ガキンチョ同士でしょ」

 僕は言う。「確かに、その通り」

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