第6話②

 暗い夜道だ。

 男は一人、路地を歩く。もう日付が代わろうとしている。彼の職業はなんだろう。サラリーマンだろうか? だとしたら彼は休日出勤の帰りということになる。休日出勤が終電間際まで続いたとすれば、彼は相当に疲弊しているだろう。あるいは旧友と飲みにでも行っていたのかもしれない。気の置けない友人を相手に、学生時代の想い出話に花を咲かせてきたのかもしれない。旧友ではなく、同僚だという可能性もある。上司の悪口でも自分の人生観でも、語ることは星の数ほどある。そして家では息子と妻が待っている。いずれにしろ、彼らは相応に満足した状態で帰途にある。これから殺される彼らは、きっと幸福な状態にある。死にたがりは想定されない。死を願う人間に殺人鬼は現れない。殺人鬼は必ず、不意をつかなければいけない。決められた構造だ。駅から歩き、人通りはだんだんと少なくなる。男にとっては慣れた光景だ。恐怖を感じることはない。徒歩十分の向こうには家族が待っている。自然、足早になる。想像されるのは幸福な家庭だ。遅い帰宅に文句をつけられるかもしれないが、家族の仲がそれで揺らぐことはない。確かなものを男は持っている。男の背に、手が触れる。控えめな感覚だが、風に吹かれたものだと誤認することはない。人間だろうと男は思う。深夜に、何の用事だろうか。訝しみながら男は身を翻す。一瞬のことだ。少女はナイフを男に埋め込む。男はまだそれに気が付かない。振り返り、男の視界には彼女の頭頂部だけが映っている。闇夜にまぎれ、それすら見えないかもしれない。続いて、腹部に違和感がある。男は視線を下にやる。自分の腹になにか突き刺さっている。ここにきて男はまだ、自分になにが起きているか気づいていない。視線を少しずらす。人間の存在を認める。それは少女だ。前髪に隠れて表情は見えないが、シルエットから男はそう判断する。男よりも顔二つほど小さい。小柄な少女だ。およその年齢が男のなかで推測される。疑問はさらに深まる。いったい自分に何の用事があるのだろう。じわ、と熱いものが腹部を中心として広がる。もう一度自分の腹に視線をうつす。ようやく男は気づく。刃物だ。短いそれが、柄を残して深々と自分に突き刺さっている。認識した瞬間、痛みがやってくる。男は混乱する。混乱がゆえに、微動だにできない。少女はゆっくりとナイフを引き抜く。男はぽっかりと空けられた穿通創を己に見る。とたん、内蔵を撹拌されるような痛みが男のなかに走る。スーツの下、ワイシャツに温かな血液が広がるのを感じる。闇夜に呻吟の声が響く。反射的に腹部を抑えようとする男に先んじて、少女は抜きさった刃物をまた男に突き立てる。男の声にふたをするかのように。前後左右に揺らしながら、少女は男にナイフを埋め立てていく。体内を異物が蠕動する感覚に、男の混乱は頂点に達する。混乱がようやくのこと男に抵抗をうながす。狂乱とも呼ばれるものだ。この異物をまず除去しなくてはいけない、と男は思う。少女の手首をつかもうとして、しかし試みは空を切る。少女はすでに刃物を抜き、男から距離を取っている。男はそのまま前に倒れ込む。意図したものではない。脳回路は逃走を男に命じている。起き上がり、反対側に逃げようとして、結果として男は仰向けに身を起こすことしかできない。腹部に力が入らないためだ。男は黒塗りの空の下に仰臥する。少女が男の傍らに立つ。首元か、胸元か、ナイフが三度突き立てられる。小さく悲痛の声があがる。呼吸に喘鳴が交じる。意識の途えてしまうことを男は願う。ブラックアウトを望む。少女が正確に、男の頸動脈を断ち切る。末期の呼吸とともに、男の意識が途切れる。それは優しさだろうか? 少女は血を帯びたナイフを手に、もぬけの殻となった男を見下ろす。命の抜け落ちた空っぽの身体。動きのなくなったことを確認して、少女はその場を立ち去る。

 その時、彼女はなにを思うのだろう?


 凄惨なイメージに区切りをつける。気がつくとゲームは最終局面を迎えている。

 アルコールを口に含む。だいぶ酔いが回っているな、と僕は思う。アルコールの酩酊をどこか客観視して僕は認識する。

「どうして君は人を殺すんだろう」と僕は藍原しずくに問う。

「さあ?」他人事のように彼女は言う。

 想像が無用な詮索心を僕にもたらしている。「僕にはわからない。君にどんな過去があったとして、でも、君が殺人をする意味はない気がする」抱いた疑問を僕はそのまま口にする。

 ゲームはまたもや彼女の勝利に終わる。コントローラーを置いて、小さな殺人鬼はリモコンを手に取る。彼女は地上デジタル放送に信号を切り替える。夜の報道番組が液晶に映る。連続殺人事件について出演者たちが議論を交わしている。

 ニュースキャスターが言う。いったい犯人の動機はどこにあるのでしょう?

「意味なんてないですよ」と犯人の少女は言う。「なにかと意味を求めて、そこにどんな必要性があるんですか?」

「訳がなくちゃ人は動けない。少なくとも僕の場合は、そうだ」

「なにかと理由をつけてばかりいたら、結局なにもできないままだと私は思いますけど」

 理由のない殺人。

 理由のない人生。

 いまいちピンとこない。「無駄足を踏むかもしれない」

「無駄足?」と少女は不思議そうに言う。

「理由もなく動いて、それが無意味に終わったらどうする。君の人殺しが、なにかの解消を君にもたらしているんだったら、いいかもしれない。でも僕にはそうは思えない」

 藍原しずくはリモコンを操作してテレビの出力を切り替える。報道番組に代わってゲーム画面が液晶に映し出される。プレイを再開するようだ。すぐに対戦が開始される。

 彼女は言う。「だから、意味なんかないんですってば。私には後ろめたい気持ちも、複雑な過去もない。ただ人が殺したいだけ。それじゃ不十分なんですか?」

「でも、世界にはもっと秩序が溢れているはずなんだ。すべからく社会は回っていなくちゃいけない」と僕は言う。理屈。動機。あるいは必然性。人が動くため、必要不可欠なものだと僕は思う。どうして彼女は理由もなく動けるのだろう?

「不条理なんじゃないですか、現実は」と藍原しずくは言う。「意味なんて考えすぎたら気が狂っちゃいますよ。私だって、ムカつくことは多々あります。でも、ちょうどよく折り合いをつけてやらなくちゃ」

 液晶内。彼女のキャラクターが命を落とす。 

 装備もまともに調達できず、徒手空拳で敵に向かう羽目になったらしい。

 彼女は思い切りよくコントローラーを放り投げる。衝撃がカーペットに吸収されてコントローラ―は一命を取り止める。ゲームをやっていると熱くなりすぎるタイプのようだ。なぜか得意げに彼女は言う。「この通り」

「フローリング、くれぐれも傷つけないようにね」

「修理代が必要なら出しますよ」と彼女は言う。「ともかくこれが私なりの折り合いの付け方なんです。生きていくための」

「……うん……」と僕はあいまいに返事を返す。

 いまいち要領を得ない会話だ、と僕は思う。なにかがすれ違っている。現実をゲームで喩えたって仕方がない。それとも、このすれ違いが僕と彼女との違いなのだろうか? 本当に訳なんてないのかもしれない。だから他人に伝わるように翻訳することもできないのかもしれない。だとしたら相互理解にはなにが必要なのだろう?

 僕はどうしたらいいのだろう?

 考えると、頭が痛んだ。アルコール性の頭痛だ。眼球の奥には眠気もある。

 視界がコマ揺れしてゆがむ。

 眠りたいと思う。僕は酩酊している。

「ごめん、今日はここで寝るから」と言って、僕はソファに横になる。

 まぶたを閉じる。凄惨なイメージをまぶたの裏に呼び起こす。

 もしかすると、イメージのなかの男はなにかを理解するかもしれない。

 彼は不条理を最期に体感しただろう。羨ましいことだ。

 僕にその体験が訪れることはない。理解できない。

 薄目を開けてみる。

 血まみれの殺人鬼が自分を見下ろしていることに期待する。

 現実の彼女は言う。「ちょっと、じゃあ私、どこで眠れば……」

 目をつむる。

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