第6話①

 母が言う。「就職は?」

 僕は言う。「ちゃんとやってるから」

 母が言う。「やってるって、口ばっかり」

 僕は言う。「いや、資格の勉強とかやってるし」

「まずは行動起こさなくちゃ」

「向き不向きとか、あるから」

「じゃあなにが向いてるっていうのよ」

「まだわからないけどさ。でも、就職するなら転職の効く業界がいいと思うんだ。不安定な時代だからさ。持ってるスキルが重要視される業界っていうかさ」

「わかったから、とにかく行動してちょうだい」

「ITとか向いてると思うんだ。パソコンなら得意だしさ。うん。そのあたりで、探してみるよ」

「本当に?」

「本当、本当。ちゃんとやるから」

 母が言う。「で、本当にちゃんとやってくれるのね?」

 僕は言う。「大丈夫だって。大丈夫。俺、やろうと思えば、結構要領いいんだよ。昔から。知ってるでしょ?」


 ノートパソコンがローテーブルに鎮座してブルーライトを僕に浴びせる。眩しくって仕方ないから僕はそれを閉じる。部屋には暗闇がぶり返して心地いい。たわむれにモニターを再び持ち上げてみて、パスワードの入力を求められたからやっぱり閉じる。閉じられた部屋は暗号じみている。天井すら見えない。のどが渇いていたから二リットルペットボトルの水を求めて立ち上がる。頼りにできるものは家具の配置についての身体記憶だけだ。

 あちらこちらをうろうろとする。

 ほどなくして敷布団の枕元にペットボトルを探し当てる。

「やったね」

 ミッションは無事に完遂される。経験上、五回に一回はつま先に一撃を受ける。

 ペットボトルはやけに軽い。キャップを開けて傾ける。中身は飲み干されている。

 近ごろ水の消費ペースが増えている。アルコールの摂取量が増えているせいだろうか。以前までペットボトル一本で二日は持っていた気がする。今は一日一本が必要だ。身体が求める分だけ僕は水を飲む。さいわいにして水はスーパーで買えば安い。味を気にしなければ水道水だってある。

 水滴を舌下に染み込ませるようにして口をうるおす。

 空しい作業だ。ないものはない。空になったペットボトルには新しい水を注がなければいけない。

 タバコに火をつける。一本を吸い切る。

 ドアをつらぬいてリビングから藍原しずくの声がする。

 僕はリビングに出ることを決める。自室にこもっていてもこれ以上できることはなさそうだ。正直に言ってもう自室からお届けできるものはなにもない。書くことがない。

 ちょうど、新しい水も持ってこなければいけない。


 藍原しずくはリビングでゲームに興じている。

 プレイしているのは流行りの対戦ゲームだ。リビングに置いてある僕のデスクトップパソコンから三二インチの液晶テレビに映像を出力している。家庭用のゲーム機もウチにはあるけど、いかんせん古い機種だ。最新のゲームを遊ぶことはできない。だからパソコンでプレイしている。

 彼女から貸出の許可を求められたのはこの生活が始まって早々のことだ。以来このパソコンは彼女の私物のように使われている。もとより使い道に困ってインテリアと化していたものだから問題はない。とはいえ最新のゲームに耐えうるくらいの性能は有している。ガジェット類は、けっこう好きだ。揃えるとなったらなるべく良いものを求めてしまう。性根というやつだろう。モニターもそれなりの性能のものを用意しているのだが、彼女はゲームは大画面でやりたい派らしい。高フレームまで動きを表現してみせる自慢のモニターは黒を映すばかり。代わりにパソコン本体はかかった負荷を処理せんとファンを回転させて唸り、リビングにその存在を示している。電気代が気になったが、使わずに腐らすよりはマシだろう。

 いや、パソコンの話はどうでもいい。水が問題だ。

 冷蔵庫をのぞく。運悪くさっきの一本でミネラルウォーターの在庫は切れたようだ。仕方がない。ないものはない。コップに水道水を注いで飲んだ。普通に飲める。これといってハッキリしたマズさがあるわけでもない。スーパーで安売りしているミネラルウォーターの価格と同量の水道水の料金とではどちらのほうが安いのだろう。今後は水道水を飲めばいいかもしれない。節約できるところは節約していくべきだ。

 コップの水を飲み干す。

 さて、水についてもっと思いを巡らすべきだろうか。水道水のテイスティングでも行おうか。塩素の香りについて論じてみようか。

 やめよう。水の話もどうでもいい。

 恥を忍んで告白するが、僕はこのリビングに会話を求めてやってきたのだ。

 一人が寂しいというだけだ。

 自分の女々しさに従っているだけだ。

 身もふたもないことを言ってしまえば、話はそれで終わりだ。

 ひとまずアルコールを取り出す。賞味期限は一ヶ月くらい過ぎている。飲めさえすれば構わない。水と同じだ。藍原しずくの後ろを通り、壁際のソファに座る。フローリングに直にすわってゲームに興じる彼女は、一瞬だけこちらに目線をやってすぐにテレビに視線を戻す。

 プルタブを起こす。小気味よい音がなる。

 ぐっと飲みこむ。一口では心もとない。そのまま一息で缶を干してしまう。

 少なくとも新鮮な風味はしない。

 すぐに二本目を取り出す。

 ふたたびソファに帰ってきたタイミング、ちょうどゲーム画面が彼女の勝利を告げる。図ったようなタイミングだ。僕は思う。たいていの他人は僕に親切だ。そしていつだって僕は受け身だ。再度ゲームをマッチング待ちの状態にしてから、振り返って藍原しずくは言う。「珍しいですね。家でお酒飲んでるところ、初めて見ました」

 僕は言う。「あんまり、家では飲まないんだよ」

 返すボールに僕は困る。会話はキャッチボールとはよく言ったものだ。

 小道具に頼ることにする。

 冷蔵庫のうえに隠してあった灰皿を持ってきて、僕はそれをソファ横のサイドテーブルに設置する。タバコを一本取り出して彼女からの許可も得ず火をつける。アルコールが僕から遠慮の二文字を奪い去る。いや、アルコールのせいにするのは筋違いだ。単に僕は先日の出来事に甘えているだけだ。藍原しずくに言葉のない受容を求めているだけだ。甘えているだけだ。

 ただし、タバコをふかす僕に彼女はなにも言わない。

 タバコミュニケーションは成立しない。副流煙を彼女にもたらすだけに終わる。

 大学生なら、これでうまくいく。大学の四年間はタバコとアルコールで乗り切ったようなものだ。依存者の戯言だと一蹴するなかれ。うわべの相互理解のツールとしてこの二つはよく機能する。ただし、思い返してみればこのツールが約に立ったのは同年代の同性の相手に限定されていた気がする。

 結果として僕はただニコチンを接種しただけだ。

 会話のとっかかりにはならない。

 代わりに、異臭を感知した空気清浄機がやかましく音を立て動作する。

 小道具の効能はそれだけに終わる。

 スピーカーが再度マッチングしたことを藍原しずくに告げる。彼女はコントローラーを握り直してゲームにのぞむ。一人称視点で銃をとって戦うゲーム。いわゆるFPS。僕もやったことがあるが、上達しなさにウンザリして起動しなくなった思い出がある。

 トレードマークのようにナイフを持ち歩く連続殺人鬼は、銃の扱いにも長けているらしい。序盤から味方チームは明らかに優勢だ。これは彼女の活躍によるところが大きいように見える。キャラクターを器用に操り、敵プレイヤーを屠っていく。彼女の指先一つでアサルトライフルが火を吹く。放たれた弾丸のほぼすべてが初弾から正確に敵の体力を刈り取っていく。素人目から見ても、だいぶやり込んでいる様子。

 試しに僕は声をかけてみる。「勝てそう?」

「ちょっと黙っててください」ピシャリと彼女は言う。声色は冷たい。集中ゆえのものだろうが、若干心にくるものがある。自分のためにも黙って試合の進行を見守っていたほうがよさそう。

 しばしゲーム画面をつまみに酒を飲む。どこかスポーツ観戦しながら酒を飲んでいる気分。澄んだ技巧は見ていて楽しい。あまりに彼女のチームが圧倒しすぎていて緊張感に欠けるのだけが唯一の欠点だ。

 ほどなくして、味方チームの勝利で試合は終わる。思わず拍手。

 藍原しずくは言う。「圧勝ですよ、圧勝。やはり時代はパッドですね。マウスなんて、もはや旧時代の異物。画餅のもちのごとし。運営という大いなる樹冠に保護されたパッドこそ、時代の寵児たる資格があるわけです。なにせ、前提条件が違う」

 ずいぶんと饒舌。彼女自身、今のプレイには満足がいっているみたいだ。

 とりあえず肯定しておく。「よくわからないけど、よかったね」

「ふふん」と得意げな様子。

 そしてまたマッチング待ちを開始する。

「まだ、やるんだ」と僕は訊く。

「今日はガッツリ稼ぐ予定です」

 なにを稼ぐのだろう。疑問に思うが、すぐに察しがつく。たぶんランクポイントのことだ。なんのことだと思う人は、まあ、とくべつ重要なわけでもないから無視してくれて構わない。

 彼女は言う。「もうあと三日でシーズンも終わりますし。しかも最終日は、日曜日ですから。試合に割ける時間はあまり多くありません」

「……なるほど」

 日曜日。

 酔いがスッと覚めたような錯覚がある。日曜日。つまり彼女が殺人に出向く日。この生活で何度その日を迎えただろう。三回か、四回か。あるいはもっとだっただろうか? 時間感覚が曖昧だ。極力意識しないようにしているためだろうか。彼女の行為に僕は嫌悪感を覚えているのだろうか。

 想像する。

 悲劇に見舞われる一人の男の姿を。

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