第5話

 駅前は人に溢れている。たとえば学校終わりの学生、カップル。主婦。主夫。サラリーマン。OL。親に連れられた子ども。あるいは連続殺人鬼。

 僕の貧しい想像力で列挙できるのはこのあたりが精々だ。

 身を縮こませて通りを歩く。けして群衆恐怖症を患っているわけではない。出不精の自覚はあるが駅前にやってくるくらい普段ならわけないことだ。普段ならば。

「すごい数の人」

 目下、僕の憂いを加速させている張本人が悪ぶれもせずに言う。

 僕は言う。「頼むから、一秒でもはやく帰らせてほしい」

 目的は駅に隣接したショッピングモール。平日なのだしそこまで人が多くはないだろうという僕の浅慮さを嘲弄するように我らがベッドタウンはその過密さを増していく。あちこちに視線をやっても今のところ紺色に黄色のエンブレムを特徴に持つ町の治安保全隊の姿を認めることはない。できることなら文字にも起こしたくない彼ら。

「行きましょう、はやくはやく」と藍原しずくはいつもよりもトーンを増した声で僕を急かす。その様子はまるで週末に両親に連れられてモールへやってくる未就学児のようだ。彼女はあまりこうした場所に来た経験がないのだろうか。今どきの学生事情について竹本じみた知見があるわけではないけど遊び盛りのいとけない女子にかぎってどうにも考えづらいことではある。たとえば彼女の家庭環境にそれは起因するのだろうか? そして取り巻く環境こそが殺人行為に彼女を駆り立てたのだろうか?

 考えて、伽藍めいた思考に待ったをかける。意味のない詮索だ。

「ビビりすぎですって。逆に怪しまれますよ?」と藍原しずくは言う。

「買い物なら、僕が代わりにやるのに」

「あなたに任せてると、ひどいセンスの服しか買ってこないでしょ。どうせ」

 モール内に設置された大衆向けアパレルショップが今日のスニーキングミッションの最終到達地点である。

「服なら十分あると思うんだけど……」

「四六時中コンビニ服だなんて、私の倫理に反するんですよ。人間、おしゃれに諦めをつけたらそこでお終いですよ」

「ぐ……」返す言葉につまる。

 ファッションに対する僕の知識の乏しさが直近の彼女からおよそ若者らしい輝きを失わせてしまっていることは紛れもない事実である。しかし同時に断乎反論したい気持ちも湧き上がる。だって自分の服の選び方すらわからないのにいくつも年の離れた女子の服が選べるわけないじゃないか。誰が悪いわけでもないはずじゃないか。仕方がないじゃないか。

 公平たる大岡裁きを求める。過失割合でいえば僕は二の側にいるはずだ。

「八ですよ。ファッション音痴を恨むことです」藍原しずくが冷めた目を僕に向ける。声にこもっているのは反論を許さない温度感だ。

 思い知らされるのはドラレコの重要性だ。

「ほら、行きますよ」

 四半世紀の人生に後悔を走らせる僕を置き去りに彼女はさっさとモールに侵入していく。間口から押し出され入っていく人の群れ。彼女を見失わんと僕はその背中を追いかける。


 なぜか僕たちはゲームセンターにいて藍原しずくはクレーンゲームを前にしてもう三十分もそいつを相手に格闘を続けている。何十枚目の硬貨が投入され再びクレーンが動かされる。狙いは流行りのゆるカワ系キャラクターのビッグサイズのクッション。ただし彼(彼女?)の入手難度はとうていゆるカワと呼べるものではなくクレーンはまたもやクッションを持ち上げることもなく脱力し何も持たぬまま天井に到達して空しい開閉運動を披露してみせる。

「なんですかこれおかしくないですか。もういくら入れてるんですかバカですか。一〇〇〇円の見積もりが幾らになってんですか四〇〇〇円の人形になっちゃいましたよ」

 憤懣の様子である。比熱を求めるのはあまりに恐ろしい。

 さわるな危険。危険等級は一。

 原価八〇〇円の景品はいまや四〇〇〇円を下らぬ高額グッズと化している。一帯には局地的なデフレが発生している。直視しがたい光景がここにはある。

「ううう……」と藍原しずくはうんうん唸る。

 頑として諦めるつもりはないらしい。というより引き返せなくなっているのだろう。ギャンブル依存症患者の影が彼女に幻視されて見える。人間こうなってしまえばもはや自分の意志ではどうすることもできない。行く末は消費者金融か専門の治療クリニックのどちらかだ。年端も行かぬ婦女子に射幸心をチラつかせる悪しき筐体を眺めつつ彼女の将来を案じる。パチンコだけはハマらないほうがいいよ、本当。

 しかしそもそもゲーセンのクレーンゲーム筐体には技量の問題ではどうにもならないカラクリがある。周知されつくした知識ではあるがこのような大型の筐体の大半は確率機といってそもそも一定の金額を投じない限りアームにパワーが生じない。高度なテクニックの数々を駆使すれば仕様を無視して景品を入手することも可能だが基本的には一定金額を投じることを前提としている。子どものころそうとは知らずに両親の財布へどれだけの負担をかけたことか。おかげでいまや僕はたとえ景品に興味を惹かれようとこの類の筐体に一切ふれることはない。

 悪しき資本主義の象徴のような物体である。無気力の蔓延した現代をジャストで表現したモニュメントである。勝負することはつまり負けを意味している。

 硬貨を無為に棄てていく彼女を助けてやりたい気持ちもある。

 現代性の犠牲者は僕一人で十分だ。

 問題は高度なテクニックとやらを僕が有していないことだ。

 とはいえ投資金額はすでに四〇〇〇円を越している。いい加減天井に到達する頃合いだ。むなしき格闘の終わりは近い。

「あ」と藍原しずくが間の抜けた声をあげる。ガラス内を覗き込んでみるとクッションは久方ぶりに地面を離れアームはそのまま天井まで持ち上げられる。設定金額に到達したようだ。そしてすんでのところで落ちる。

「ええ……」思わず僕は声をもらす。

「ど、どうしてえ」

 技量不足。

 試行回数。

 運。

 容易に列挙できるけれど本人に伝えるにはあまりに残酷である。

 クッションは最悪なことにリカバリーの難しい絶妙な位置に転がる。

 僕は説得を試みる。「世の中には引き際ってものがあって……」

「もう、引き返せないんですよ」交渉は三秒とかからず不成立に終わる。

 彼女はさらに硬貨を投入する。

 スロットにとらわれた自分の姿を見ているようである。

 ズバリ言って痛々しい。

 カンフル剤の投与がダメージの深刻な域に達する前に必要である。

 僕は一歩後ろに下がり店員に目配せする。それとないボディランゲージも織り交ぜる。まもなく店員はこちらにやってくる。

「お困りですか?」と店員は言う。

「え? あ、その」と藍原しずくは狼狽した様子だ。

「よろしければお手伝いしましょうか?」

「えと、その……」

 すかさず助け舟を出す。「いや、なかなか難しくて。どうやったら取れますかね」

 間髪入れず店員は応える。「これはですねえ、いま、頭が取り出し口に引っかかってる状態なので……クレーンの位置はこのあたりで。片側のアームを取り出し口に引っ掛けながら、もう片方で胴体を持ち上げてやれば、上手く行けば取れそうですね」

 どうも、と僕は簡単に礼をする。

「またお困りでしたらお声掛けくださいね」と店員。

 さっぱりしながらも適切なよい接客であると言える。

 天井金額の設定が劣悪でなければ良店の認印を押してやりたい。

「って感じらしい。取れそう?」

 うつむきながら藍原しずくは言う。「どうも……ありがとうございます……」店員のアドバイスを素直に実行すると景品はあっけなく出口へ吸い込まれる。入手したクッションを抱きながら彼女は憮然とした表情を見せる。頬には朱が刺している。張っていた強情を不意に崩されると妙に気恥ずかしくなるものだ。よく共感できる心理である。共感性羞恥。彼女の羞恥心の槍が僕の胴体を貫いて幻肢痛をもたらす。妙にハズい気分。

 ゲーセンを後にする。

 向かう先は当初からの目的地であったアパレルショップだ。

 男女入り混じった客層と店員の無愛想さはカジュアルさを押し売りして居心地が良い。というか僕の唯一訪れたことのある服屋がここだ。散々ファッションセンスを揶揄してくる彼女なのだからよっぽど瀟洒とした危険地帯に連れて行かれるのかと思ったが。

「じゃ、私、一人で見てきますから。あなたもまともな服くらい買ったらどうです?」と藍原しずくは言ってさっさと一人で店内を見回りに行く。先ほどの意趣返しのつもりか棘のある声色。

「やるせない……」

 やるせない気持ちにさいなまれる。余計なおせっかいだったか。

 もとより単なる付き人である。

 首元にナイフを突き立てられているがゆえの不随意同行である。

 黙っていればよかったのかもしれない。やるせなさが循環する。

「やるせねー」

 考えすぎないほうがいいだろう。

 切り替えて自分も店内を物色して回ることにする。

 わけの分からないカタカナ語の森林地帯をしばしさまよう。ジーンズとデニムの違いを誰か教えてくれ。チノパンとスラックスの違いを誰か教えてくれ。革靴とローファーが何目何類何科に属するのか教えてくれ。チンパンジーとサルの違いみたいなものなのだろうか? チンパンジーとサルならチンパンジーのほうが好きだな。

 コーナーを曲がって現れたのは竹本だ。

「あれ」と竹本は僕の姿を認めて言う。「おまえもようやくファッションに興味が出てきたってわけか」

「ああ、まあ、そんなところ」なんとか返事を絞り出す。

 須臾の間がある。沈黙が流れる。

 はっきり言って僕は動揺している。なにせいまの僕は連続殺人鬼の付き人だ。

「どうした? 元気なさげじゃん」と竹本は妙に目ざとく僕の様子をうかがう。

「わけもなくテンション低い日って、あるじゃん」

「俺はないけど」

「人それぞれってことで」

「元気のない日だからこそ珍しく服でも買いに、ってのも変な話な気もするが」

 僕は言う。「三日会わざればってやつだ、たぶん」

「ふうん。ま、そんな日もあるか」

 どうも興味を失ったらしい。ひとまず安心する。

 竹本は言う。「どうする? いっしょに店でも回るか? なんなら俺がコーディネートしてやらんこともない」

「遠慮しておくよ。というか、とくになにか買いたいわけでもないし」

「店まで来ておいてかよ」

「あー……」僕はコンマで失言を悟る。「来てみて、やっぱり要らないなってなったんだよ」

「そんなことあるか?」

「あるんだな、それが」

「まあいいや。それじゃ、このまま飯でも食いにいくか」

「ええと」

 つくづくタイミングが悪い。この状況でなければ実にいい提案だ。

 言い訳を探して僕は視線を彼方のほうへ向ける。

 そこには藍原しずくの姿がある。ギャッとなる。心臓がはねて身が締まる。

 彼女は絶賛進行中だ。

 予想到達点は僕のいまいる場所だ。

「ごめん、僕、ちょっと用事。いや、トイレ」

 返事を待たずに僕はその場を真反対に切り返そうとする。

「あ、おい、ちょっと待てよ」今にも場を去らんとする僕に竹本は言う。

 竹本の声に反応したのだろう。こちらに気づいて藍原しずくが言う。「あれ、こんなところにいたんですか」

 無視して走り出す。

「ちょっと……」背中に藍原しずくの声がふりかかる。

 最後まで聞くことなく僕はモールを疾走する。


 僕は盛大に息を切らしてみっともなく地面に座りこんでいる。

 アパレルショップのある階から出入り口までは結構な距離がある。駆けてる間、分泌されるエンドルフィンはいっときの減痛作用を身体にもたらす。出口を抜け人気のない路地裏にへたり込んだ現在、麻酔作用は効力を切らし僕はひたすら苦痛を覚えている。両足は立ち上がることすらかなわないほどの苦痛を帯びている。肺は不足した酸素を求めて過度に呼吸をうながす。脳はぼんやりとして思考に整合性を欠く。身体のそれぞれが分割されたように言うことを聞かない。

 身体の麻痺がもたらすものは、思考とも異層に座する精神のありかだ。

 麻痺はアルコールの酔いにも似ている。手段は他にもあるだろう。

 ことここに至って僕はその領域への接触権利を有する。転じていえば、日常のなかではアクセスできない空間でもある。

 僕はなにをしているのだろう? 僕は今日なにをしてきたのだろう?

 そこに意味はあったのか?

 なにに怯えている? 僕はなにがしたい?

「は……」

 次第に呼吸が落ち着く。身体が整合性を取り戻し始める。

 理路の通った思考が表層へと浮かび上がる。

 スマホを取り出す。なにか彼女からメッセージが入ってはいないか。

 すぐに気がつく。彼女はそもそもスマホを持っていない。

「なにやってんだ……」

 タバコを取り出し火をつけ煙を吸い込む。いまだ軽度の酸素欠乏状態にあり血液の行き渡っていない脳みその血管がニコチンによって収縮しキュッと締まる。煙を吐き出す。めまいに次いで吐き気がする。

 僕はふらふらと立ち上がり少しだけ移動してモールの出入り口をうかがう。日も落ちかけているというのに相変わらず人通りは多い。昼間に来訪したときと何ら変わらない人数が間口を行き来する。たたえる表情は一様に無味に感じられ気味が悪い。再び座りこむ。

「ちょっと」と頭上から声がする。

 見上げるとスーツを着た男がこちらを見下ろしている。顔をしかめたサラリーマンらしきその男は「タバコ、迷惑だからさあ」と僕に言う。

「すみません」

 ポケットから携帯灰皿を取り出しタバコをもみ消す。

 男はなにも言わずに去っていく。

 路上喫煙は、よくないよ。ただでさえ時流にそぐわない行為であるだけでなく、この地区は一帯が条例で路上喫煙禁止区域に指定されている。当然の見とがめだと言える。条例破りは、よくないよ。

 男が立ち去ってからしばらくして僕は新たなタバコに火をつける。

 声がある。「あ、いた!」聞き慣れた声だ。

 発信源を見やるとそこには僕のもとへ駆け寄ってくる藍原しずくがいる。

「ちょっと、探したんですから。どこ行ってたんですか、もう」と藍原しずくは言う。

 僕は言葉を選んでから言う。「ごめん……色々あって」

 彼女の前でタバコに口をつけることに僕はひどくためらいを覚える。タバコを持った右手の置き場所に迷う。仕方なしに宙にぶらぶらとさせておく。

 藍原しずくが言う。「別に、いいですけど」

「ほんと、ごめん」

「タバコ、吸うんですね」今気づいたかのように彼女は言う。

「大学生だから」

「卒業したんじゃなかったんですか?」

「卒業はしたけど……精神的には、まだ」

 僕の右手はなおも置き場所を失っている。

 藍原しずくは言う。「……吸わなくていいんですか?」

 ためらう。それからタバコに口をつけて煙を吐く。風上の所在が気になって落ち着かず結局半分ほど吸っただけで僕はタバコの火を消してしまう。携帯灰皿に合わせて二本の吸い殻が収まる。

 僕は所在なさげにしている。夕日が僕たちのいる路地裏にちょうど角度を向ける。僕は言う。「帰ろうか」

「そうですね」

 思いついて、僕は彼女の抱えた荷物を代わりに持つ。

 女は荷物持ってやればチョロい。母親で実証済みだ。

 彼女が言う。「だいぶ買い込んじゃいましたけど、クローゼット空いてます?」

 僕は言う。「まったくもって、ガラガラ」

「なら、よかったです」と藍原しずくは言う。

 二人で帰路につく。

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