第4話

【4】

 日曜日になって朝が来るやいなや藍原しずくは僕の部屋のドアを乱暴に蹴り開けて「今日は夕方くらいからどっか行っててくださいご友人もお誘い合わせがいいでしょうね間違って殺しちゃったらさすがに申し訳ないですから」と言って朝日がナイフに反射して走った光芒が寝起きの眼球に痛い。

 ここのところ僕の疲れ目は悪化していくばかりだ。

 寝起きは毎日最悪だ。

「終電くらいに帰ってくれば鉢合わせることもないでしょう」と彼女は言う。

「そのくらいには殺し終わってるってわけか」

「つつがなく終われば」

「終わってなかったらどうなるってのさ」

「夢見が悪くなるかも」

「つまり?」

「嫌なもの見ちゃうかもってことです」

 了解、了解。でももうすでに一度見ちゃってるけどさ。

「まあ最悪、また泥酔して帰ってきたらよろしいでしょう。横をふらふら気づかず通りこせるかもしれません」

「飲み過ぎには気をつけるよ」と僕は言う。


 繁華街に僕は友達三人を呼び出す。一人は竹本。他二人も比較的近所に住んでいるから呼び出しておかないと命が危ない。文字通り。日曜日だというのに全員予定が空いていたのは幸運だ。彼女なし未来なしのかわいそうなやつら。

 そうしたら最後に到着した一人がスーツを着ていて気分が悪い。

 気分が悪いから僕はみんなをギャンブルに誘ってそして全員示し合わせたように二万円ちょっと負ける。一人だったら毒づきたい気分になっていたかもしれないけどみんなで負ければ笑い飛ばせなくもない。赤信号みたいなものだ。渡ってしまえ! スーツなんて捨てて逆走のかぎりを尽くせばいいと僕は思っていたけどでも時間は前にだけ流れる。そこに腹が立つ。でも友人の初任給なんていう気分の悪いものをスロット台に吸い込ませられて幾分か機嫌は良い。

「あーーー、やるんじゃなかった、やるんじゃなかった。ゲームが二本も三本も買えるお金が!」と高橋が叫ぶ。べつにこいつの名前は覚えなくても支障ない。家にお金があって甘やかされて育ってきているこいつにとって実際のところ二万円なんてはした金もいいところ必要とあればいくらでも家から金が出てくるのだから同情する余地はない。

「スロットなんて久しぶりにやったわ」と言うのはムカつくことにスーツを着こなして現れた三宅という名の男だ。同じくこいつの名前も覚えずとも支障ない。自分はギャンブルから手を洗った真人間なのだと暗にアッピルしてくるところも神経を逆なでする要因としてますますブッ飛ばしたさを加速させる。

 最後に路地裏から竹本が路上喫煙を済ませて「やっぱマイホ以外で打つのはダメだわ!」と言う。

 僕たちは四人そろって笑う。

 やっぱおまえしか信用できんね、と僕は言う。誰に向けてでもなく。


 ちょうど時間が一九時を回って僕たちはどこか適当な居酒屋になだれ込もうと算段を立てる。それぞれ通いなれた町だから候補となる店も多くてだから結局いつもの場所でいいかということになる。現在地から歩いて三分もかからないってところも決定の好材料だ。

 目的地は怪しげな繁華街のけばけばしい通りの朽ち果てた階段を下ったその場所にある。扉を開いて入店しても店員はこちらに会釈の一つもよこさない。

 この店の良いところを三つ並べるなら答えはこうなる。安くて安くて安い。

 それから東京では今どき珍しく座ってタバコが吸える。要するに治安が悪い。

 でも不思議とそんな雑多さが心地よいってことは居酒屋にかぎらずままあることのように思う。身の丈に合わない場所はなんだか窮屈だ。店内は紙巻きタバコの煙たさで充満していてだけどドレスコードだなんだと無駄にだだっ広い店よりよっぽど僕には呼吸がしやすいように感じる。

 僕たちは灰皿を二つばかり取ってひとまず安酒を四杯だけ注文する。飲み物が到着して乾杯を済ませてから各々勝手に塩っ辛いものを二品くらい頼んでそれから僕はタバコに火をつける。わざわざ公言することでもないけど僕は喫煙者だ。肺まで吸い込んで久しぶりのタバコにめまいを覚える。でも最近はというか藍原しずくが家にいるときはタバコをすっかり吸わなくしていたのでいささかニコチンの喉を刺激する感じが不愉快だ。

 時と話題はごく自然に移りゆく。

 男子が酒の席に一定人数集えばなおのこと自然に話題は猥談へと移りゆく。

「あの頃、俺はエロかった。ヤングアダルトであった。同時に文学青年であった」竹本が鼻息荒く語りだす。始まったよ、と高橋が呆れたように言う。

「俺は純文学を欲していた。ちゃらちゃらしたエンタメ小説など興味の範囲外だった。そのうえでエロスを求めていたわけだ。ライトノベルはエロかったが、それは高度に商品化されたエロスであり偽物だった」

「そうですか……」と呆れるは僕。

「ふと立ち寄った古本屋で俺は一冊の本を見つける。ヰタ・セクスアリスという表題の付けられたその本は、俺の心の髄を熱くさせた。森鴎外御大の著書であることも大きかった。鴎外先生の作品であるならそれは間違いなく純文学であろうし、タイトルの示す通り紛れもなく純粋なエロスがそこには秘められているに違いないと俺は睨んだ」

「そう……」と三宅。場のヒートダウンが著しい。

 竹本は続ける。「だが! 俺は裏切られた……鴎外に……純文学に……」

「つまり?」と僕。

「つまり……ヰタ・セクスアリスは……果たして……エロくなかった。ぜんっぜんエロくなかった……」

「かわいそう」

「詐欺だと思った、明治という時代に失望した、純文学に失望した。返本してやろうかと思ったが、古書だからできなかった。クレームを入れてやろうかと思ったが、森鴎外は死んでいた」

「この話、いつまで続くと思う?」高橋、三宅のペアが言う。

「しかし俺はこの経験に学ばせてもらった。この世には嘘が溢れている……純粋なものなどない。純文学なんて嘘だ。俺は強くなった。日夜、真実と嘘を見抜く術を身につけていった」

「盛り上がってきた」と僕。

「おかげでインターネットにあふれるエロ釣りに引っかかることもなかった。ある日、『海辺でたわむれる(自主規制)のたわわなボディがヤバイ!』というスレッドを開いた結果、半裸のジャッキー・チェンが表示されたことがあったが、俺はいささかの動揺を見せることもなかった」

「釣られてるじゃん」思わずツッコむ。

「だって(自主規制)だぞ!」竹本が絶叫で応じる。

「声がでかい声がでかい」と僕。竹本の性癖をあまり世間に大っぴらに公表することは同席に座する僕たちの立場まで危うくさせかねない危険性を含んでいる。

「で、オチは?」と僕。

「オチはない。エロスの探究に終わりがこようものか。いやしかし楽屋落ちの面があることは否定できないな……まさにそれは自己との尽きない対話であるがゆえに」

「そういや、最近彼女とどう? なんて言ったっけ、美羽ちゃんだっけ?」高橋が流れを断ち切って三宅に訊ねる。

「つまり……つまりだ……」

 お望み通り自分と向き合ってくれれば幸いである。


 夜も深まってジョッキを持つ手は震え始めている。飲み過ぎを避けるべくいつもよりペースはだいぶ緩めていたつもりだが酒というのは恐ろしいものでどれだけゆっくり飲んでいようとも血中のアルコール濃度が高まるにつれてそのペースは加速していく。しかし比例ではない。倍になればジョッキを掲げる速度もまた倍になるという単純な話ではない。さらにいえば落下の衝撃のように加速度の計算によって導かれるものでもない。そこには計算複雑性がありそして人という種の度し難い愚かさがある。場の雰囲気や体調や居合わせる人間との関係性といった僕たちを支配する通奏低音たる文化的コードによって導かれる解がそこにはある。

 要するに僕は飲み過ぎている。

 しかもちょうど一番厄介な酒の回り具合。つまり声が大きくなり脳から発される命令と身体とが同調しなくなりジョッキを片っ端からなぎ倒してしまう恐れのある酔い具合に僕はある。言わなくてもいいことをつい漏らしてしまうような酔い具合にある。よろしくない。

 僕は殺人鬼を家に匿っている。通報することだって可能な状況なのにそれをしないでいる。

 ジョッキに手を伸ばす。

「マジで怖い、マジで怖いから」と言って三宅が僕の右腕の可動範囲内から空になったジョッキをどかす。「倒しそうで怖いって」

「大丈夫、大丈夫」と僕は言う。

 本当に大丈夫なのだろうか?

 そうだ。いま僕がこうしている間も彼女は人を殺しているかもしれない。もう殺し終わっているのかもしれない。許してはならない行為のはずだ。人は人を殺してはならない。法律と倫理がそれを定義づけている。

 しかしなぜ人を殺してはいけないのだろう?

 僕の泥酔加減を考慮してくれたのか今夜の集まりはこれでお開きとなってそれぞれ帰路につくことになる。終電に間に合わないということはないけれど寄り道をするのは少しためらわれるくらいの時刻をロータリーの巨大な時計塔が指し示す。藍原しずくは首尾よく仕事を終えただろうか。彼女が指定した時刻に帰るのだからとりあえず現場に直面することだけはないだろう。殺害場所はどのあたりを選んだのだろう? パトカーや救急車がやかましいからなるべく家から離れた場所であればありがたい。もっとも今までの報道から知り得るかぎり犯人は犯行の度決まった地域ではなく数十キロ離れた遠方で事を起こすようなので僕の家の近所がまた選ばれる可能性はおそらく低い。

 なんだか他人事のように感じる。僕は間違いなく彼女の犯行に加担してしまっているというのに彼女と僕と事件とが意味をもって繋がらない。殺人という言葉だけがそこには残されていて空に浮いたように実際の感じがしない。

 喉が渇く。近ごろの僕はいつも喉が渇いている。

 自販機で水を購入する。落下する音が二つあったので取り出し口を覗いてみるとペットボトルは二本吐き出されている。自分の酩酊ゆえの見間違いかとも思ったが手にはたしかに二本分の重みがある。これだって持ち帰ってしまえば厳密には犯罪だ。正しき行いを心がけるならすぐにでも管理会社に連絡するべきだ。でなければ一本だけを回収してもう片方は残していくべきだ。

 一瞬の逡巡があって僕はこれを持ち帰ることにする。一本の罪を雑にポケットに収納する。だれに咎められることのない罪ではある。しかしズボンにかかった重さが僕のしていることへわずかに意味を与える気がして電車に乗り込む。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る