第3話

【3】

 勉強も仕事もしない日々がそれなりに続くと冗談じゃなく曜日感覚はとぼけてきてだから今日が何曜日なのかはわからないけど、彼女と出会ってから三日くらい経ったような気がする。これだけ非日常的な出来事のなかでも「気がする」程度にしか時間の流れを意識しない自分の脳みそのポンコツっぷりに流石に焦りを覚えなくもないけどその焦りすら久々に感じたものなのだから手に負えない。彼女が殺しをするのは一週間に一度、日曜日だけのことだからあれからまだ彼女は一人も人を殺していないどころか毎日家でおやつを食べてゲームをして僕のパソコンでネットをしての日々だから彼女が殺人鬼だってことすらときどき彼女がちらつかせるナイフがなければ忘れていたのかもしれない。でも彼女はたしかに殺人鬼で、三日後か四日後かにまた彼女は人を殺す。殺すったら殺す。僕が頼みこんだら彼女が殺しをやめてくれるかなんて試す必要もない想定だしそもそも彼女に殺しをやめてほしいだなんて僕には思えなくてそれは僕が地に足のつかない人間であることにも起因するんだろうけどいまいちそれだけの単純な理解で済ませていいんだろうか? とも思って結局僕は彼女に何を期待しているんだろう? っていう初日の疑問にまた戻ってくるけどいくら考えても答えは出ない。もしかして僕はロリコンなんだろうかって仮定してみてここ数日の彼女の様子を試しに描写してみると僕が洋服屋で引っつかんできたショートパンツから伸びる太ももがやけにつややかにヌメランとした柔らかさを視覚に訴えかけてきたりすれ違ったときに香るシャンプーの匂いが自分の髪から発せられるものと同じであることに妙な気分になったり最近は暇つぶしにゲームの対戦相手をさせられることもあるけど熱中してくるとたまに身体が触れ合って猛烈に妙な気分を覚えたりすることがあったりなかったりしてもしかすると僕はロリコンなのかもしれないけどやっぱり僕がロリコンだったとしてそれは答えではないと断言できる。僕は彼女がなにを思って殺しをするのか知らないしそうすると彼女に残る要素は殺人鬼なことくらいだから僕は彼女が殺人鬼であることのどこかに何らかの期待をしているんだろうか? 僕は彼女みたいになりたいのだろうか? 無性に人を刺し殺したい気分があってそこに深々と身を委ねられる彼女に憧れを抱いているのだろうか? そうでもない気がする。殺してやりたいって思うことがあったり誰でもいいから殺してやりたい気分になることがあったってそれは換喩的にというかなんというか要するに比喩でしかないし明確に殺したいわけじゃない。とするとやっぱり一周回って僕がロリコンなだけなのだろうかと思って試しにだらしなく横になってゲームに熱中する彼女をじっと見つめていると突然彼女がこちらを振り返るので天井を向く。

「なにをしているんですか」

「なにもしてない」

「ふうん」藍原しずくはそう言って「でも実際、あなた本当になにもしないですよね。ここに来て三日になりますけど、あなた毎日なにしてるんですか? 趣味とかないんですか?」

「別に……楽しく生きてるよ。悩みもなにもありやしない」

「そこまで聞いてないですよ。私をあなたのカウンセラーに仕立てないでください」

「すみません」

 言われて気がつく。

僕はなにを口走ろうとしていたんだろう。

彼女は禅問答の相手じゃないし、もっと言えば殺人犯とそれに脅迫されている人間の関係でしかない。家族だって別々の人間だし他人はもっと別の人間だし彼女と僕はますます別の人間だ。

「なんだか頭が濁ってきた」

「はあ?」と藍原しずくは呆れたように言う。

「なんというか、人といすぎて疲れた。今日はもう部屋に戻ってるから、リビングで好きに過ごしててよ。食べ物は冷蔵庫に山ほど保存してあるから」

「殺人鬼と四六時中いっしょにいれば疲れても仕方ないでしょうね。かわいそうに」

「その通り」

 その通り、自分では意識してなかったけどこんな状況下に置かれて僕は少し疲れているのかもしれない。いやそうに違いない。殺人鬼と同居なんてふざけた話だ。

 立ち上がってここ数日寝るとき以外あまり足を踏み入れていなかった自室に戻る。電気代が気になって日中は空気清浄機をオフにしているからほこりっぽさに咳きこみかけて流石にたまには掃除しようかと思うけど怠い。

 万年床と化した敷布団に転がって何をしようかと考える。

 何もしなくたっていいし、何かしたっていい。これを自由って呼ぶのかもしれないしモラトリアムなんて呼び方もできるかもしれない。唯一たしかなものと言えば湿りに湿った泥のような布団の心地よさくらいだ。

 僕は枕元にノートパソコンを手繰り寄せる。画面には書きかけの小説が表示されていて気が滅入る、というわけでもない。こんなもの暇つぶしみたいなものだ。暇つぶしと呼べるほど熱心に時間を割いているわけでもないけど、停滞した日々にちょっとばかり焦燥感を加えてあげるための仕掛けとしてはよく働いてくれている。もう半年くらい一行たりとて書き足されない文字列を見ていれば時間を無駄にしている肌ざわりくらいは感じられる。いつだか決めたタイムリミットはいつだったろうか。ゴールテープはもう引き上げられてしまっただろうか。

 どうか目に見える僕だけの〆切をください。命をかけさせてください。

 さっき点け直した空気清浄機の音がやかましい。

 嫌だな。なんだか嫌だ。

 語りすぎる頭に区切りをつけて僕は目をつむる。


 うんざりだと思いました。責任のない生活が私にはほとほと嫌になってしまったのです。私は今年で三三歳になります。もう、職を探しもせず、家族という庇護のもとに続ける緩慢な生活には区切りをつけなければいけません。働きたくないわけではないのです。けれど自分のなかで、意識せざるをえない散らかった歴史たちが邪魔をするのです。それを修正するまで、きっと私はここから動けません。言い訳じみているでしょうが、どうしたって仕方がないのです。……機械兵たちは心底嬉しそうに我々を虐殺し――彼らに感情などという機能があるのか我々には知る由もなかったが――戦場は混迷の極みを進んでいた。仲間たちは塹壕に身をかがめてただその身を震わせるしかなかった。時々勇敢にも前進を試みる兵士がいたとして、百の機械兵が照準を彼に向けた瞬間、それはすぐに蛮勇に成り下がった。隣から信管の作動する音が聞こえたとき、我々は急ぎその場から離れなければならなかった――ゲルマニウム合金で全身を固めた機械兵たちに、我々の前時代的な手榴弾は傷一つつけられやせず、その用途はもっぱら自決のために限定されていたからだ。死にゆく時間のなかで半数の者が自らそれを選択し、もう半分はただその時が来るのを震えて待っていた。絶望の中で我々はこの恐怖が途切れる一瞬、つまり絶命の瞬間に期待していた。……月光のもと、赤髪の少女は少年にナイフを握らせて言った。「あなたが私を殺すのよ。それですべてが終わる」「終わるって……なにが終わるんだよ、なにもわからないんだよ!」しかし少年の意思に逆らって、ナイフを握らされた彼の右手はゆっくりと少女の胸元に差し伸べられ、そして鋭利な刃先はその柔肌を切り裂いていく。「やめてくれ……やめてくれよ!」叫びながらも少年は、肉を切り裂く感触、それが乏しいことに違和感をもった。柄を除いて半分ほどが少女の体内に飲み込まれていっても、しかし彼女は痛がる様子すら見せない。「安心しなさい」赤髪の少女は一切苦悶の表情など見せることなく、むしろ少年をいたわるかのように微笑む。「これは契約なの。あなたが殺すのは私の心。だから痛みもない。心と身体に繋がりなんてありやしない」少女の言葉に少年は……なにを言っているかわからないと思うが、朝起きたら知らない美少女が俺に馬乗りになっていた。「お兄ちゃんのバカバカ!」い、妹? 俺に妹なんているはずないのだが……ネオンサインがギラつく深夜のオフィス街、新人警官である荻野裕一郎と彼の上司である水島大吾は猥雑さのひしめく居酒屋で杯を交わし合っていた。昨今にしては珍しく喫煙の許された店内には煙草の匂いが充満しており、もともと喉の弱い体質の荻野はしきりに咳払いをして上司たる水島に無言の抗議をする。「いや、悪いねこんな場所で。どうしたって煙草の一つも吸えん居酒屋は性に合わん」「いえ、大丈夫です」気の弱い荻野にはこう答えることしかできないが、本音を言えば今すぐにでもこんな店からは出ていってしまいたかった。しかし今は我慢するしかない。なにせ……今日はうだるように暑い夏の日で、ところでぼくは落ちつづけている。さんさん太陽が目を焦がす真昼間、鉄筋コンクリート建て、さびれたマンションの屋上に広がるのはそんなシチュエーションに不釣りあいな澄みわたる快晴だ。ぼくにはもったいない景観、ぼくには過剰な修飾だ。だけど最後くらい贅沢したってバチは当たらないだろ? ぼくは願う。頼むよ神様。もはやぼくのちっぽけな逃避行を阻むものはなにもない。ただひとつ空気抵抗だけが必死にぼくを押しとどめようともがいているが、重力はそれを許さない。ぼくはひた落ちる。下、下、下へ飛翔する。ぼくが思うには、天国はぼくたちの直下にこそ広がっている。あるいはそれは地獄かもしれない……どしゃ降りの雨ではあるが、雲の切れ目からは月が顔をのぞかせている。そうして夜の闇の中、舞台は河川敷、月光と雨の匂いに演出され、子猫を抱いたその少女はそこに立っていた。「……」少女がこちらをじっと見る。長い白髪と、地面に着きそうなほどのロングドレス。透き通るようなブルーの目はこちらの心を見透かすようだった。「ど、どうも」会釈を交えつつ、ぎこちなく挨拶する。しかし彼女はこちらをじっと見つめるのみで、これといった反応はない。気まずい……


 藍原しずくが書きかけの小説たちを読み上げる声はちょうど目覚ましの代わりとなってまどろみから僕をたたき起こし「なにこれ」と彼女が言い終わるよりも早くに僕は跳ね起きて彼女からノートパソコンを取り上げてその画面を閉じる。

「わ。返してくださいよ。まだ読んでる途中」

「使っていいのはリビングのパソコンであってこれに触っていいなんて行った覚えはない」

「はあ? 許可なんてどうして私が取らなくちゃいけないんですか」

「いいから出ていってくれ」と僕は僕が放った言葉の語気の強さに自分で驚く。僕はなにを怒っているのだろう?

「なんですか。恥ずかしいんですか。これって小説ですよね、もしかして作家志望だったりするんですか?」

「……いいから寝かせてくれってば」

「わかりましたけど、冷蔵庫の中身がどうなろうと知らないですから。高そうなアイスとか全部食べ尽くしてやりますから」

 案外すんなりと彼女は部屋を出ていってまた部屋は静かになる。そしてまた思う。僕はさっきなにを怒っていたのだろう? 彼女の言うとおり書きかけの小説を読まれたことに恥ずかしさは多少あったが、馬鹿にされたわけでもないのだし軽く受け流してやればでよかったんじゃないか?

 僕はなんとなく謝ったほうがいいんじゃないか、って気分になる。気持ち悪さがわだかまっている。謝れることって人間として大事だ。譲れないなにかがあるわけでもなし、無意味に人を傷つける必要もない気がする。なによりとりあえず謝っておけばこの自分のなかの漠然とした申し訳なさみたいなものは取り払われるのだから。

 自分のために謝ろうと僕は思う。それってなにかおかしいだろうか? 他人のなかに自分を見出して自分を赦してやろうと僕はしている。これってどこか転倒を起こしてはいないだろうか。でも気持ち悪いものは気持ち悪い。

 決心して僕は部屋を出る。「ごめん」と言うと「別にいいですよ」と藍原しずくは返事して事は終わる。めでたしめでたし。だけどほんのり虚しさが残っていてその正体がよくわからない。

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