殺人鬼の娘

舞山いたる

第1話&第2話

【1】

 年々、足の踏み場がなくなっていく。今日もまた段ボールが増えて積み上がる。

 汚い部屋に一人座ってパソコンを前にする生活が続く。

 咳き込む。

 空気清浄機を過信してはいけない。クリーニングを怠れば、清浄な空気の代わりにその機械はカビに満ち満ちたアレルゲンの塊を吐き出す。

 実際、窓開けで換気は十分に行える。

 ただし花粉の時期は諦めるしかない。

 換気にまつわる戦いとはつまり受け入れるか諦めるかという話だ。大げさに言えば。

 いくらだって大げさに言うことはできる。誰にとってもそれは難しいことじゃない。

 僕にだってできる。

 夕飯を食べていると、流しっぱなしにしていたテレビが言う。緊急速報が入りました。先日埼玉県久喜市で起きた事件と同一人物と思われる犯人による事件が本日東京都練馬区で起こりました殺人が起きました人が死にました。

 レポーターに代わって僕が付け加える情報としては、その遺体の発見場所はこの家からずいぶん近い。

 通知音は竹本からのメッセージの受信を意味する。折り返し電話をかけて僕は言う。「どうしたの」

 竹本は言う。「おお」

 おお。つまり、彼は今見たニュースの情報を共有するべく電話してきたらしい。

 竹本とは家が近い。二人は仲がいいからささいなことでも連絡を取り合うことがある。

 客観的に見た彼との関係はこの通りだ。

 竹本は言う。「怖くね」

 僕は言う。「めっちゃ怖い、ね」

 死にたくなければ、外出は控えたほうがいい。僕は言う。買い溜めをしておいて、保存のきく食事を買っておいて、そして外に出ないことが必要かもしれない。例の殺人犯がすぐ家の横に控えているとも限らない。

 死にたくなければ家から出ないほうがいい。

 社会との断絶は生との断絶を意味する。生がなければ死も存在しない。要するに、死なない。

 竹本との飲みの約束を取り付けて僕は電話を切る。

 夜まで眠る。

 

 目覚めると、時計が九時を示している。午後二一時。

 チャイムの音に気づいて扉を開けると竹本が言う。「行こう」

 夜風が皮膚を切り裂くのは、一一月だというのに僕が半袖のせいだ。「寒くねえの?」竹本の指摘をあいまいにごまかして僕は言う。「余裕」思い出すのは我が黄金期、幼稚園のころ僕はいつだって半袖の制服で街を歩いた。園の決まりを遵守して年中鳥肌を立てるそれを罰ゲームだと思っていたのかいないのか、けど結局いまだに半袖ばかり着ている。

「肌を露出させたやつって、殺人鬼に襲われたとき真っ先に死ぬイメージだよな」竹本が言う。

 僕は言う。「殺人鬼モノなら最初に死ぬのは性格の悪いやつだろ」

 その通り、真っ先に死ぬのは僕だ。付け加えるなら、寒空で半袖のお調子者も割りと死にやすそうだ。実際、死にに来ているようなものだ。

 居酒屋に着いて二時間くらいで僕は泥酔している。

 眼前の串やポテトフライや、捨てた枝豆の鞘や唐揚げや、半分くらい残ったサワーと、顔を歪ませる竹本や、すぼめる、悲しさや。

 つまり、喉元までせりあがる酸っぱさを家まで持ち帰ることだけに僕は集中し始めている。

「水飲め、水」

 水を飲む余裕があるならきっとまだその人は大丈夫だ。そもそも、水を飲んだくらいで二日酔いを回避出来た経験はない。

 頭が重たい。

 この表現には、第一に頭痛がするという意味がある。

 最重要項目は――もはや頭を起こしているのも辛い。

 あえて本当にやるべきことを挙げるなら、それは早くに帰宅して安静にすることだ。「というわけで、帰るよ」

 竹本は言う。「お前と飲みに来て、二時間以上続いた試しがないよ、本当に」

 店内のテレビがわめく。殺人事件が起きました。

 隣客が言う。めっちゃ近くじゃない?

 僕は言う。マジで気持ち悪い。

 分割払いで店を出る。


 家に戻って、水をコップで二杯も飲めたから、きっと僕は大丈夫だ。

 合わせて液体の胃腸薬と、ウコンと、サプリメントで栄養を取り、深呼吸をして、ますます。ますます、大丈夫。

 敷布団に横になり、それから起き上がる。この話を信じないでほしいが、酔いを早く冷ましたいなら飲んですぐ寝るのはやめたほうがいい。アルコールの分解速度が鈍る。

とにかく書かなくちゃと思ってノートパソコンを広げてやめてまた広げて家を出る。のどが渇いている。水よりも甘くて、だけど甘すぎない飲み物をコンビニで購入して店を出て飲み干す。左手に吊り下がったレジ袋をポケットに押し込んで帰路を行くけど三歩歩いて疲れ果てる。

 深い夜の中に僕は座り込む。そのまま横になりたい気分にすらなる。

 感傷的な気分がある。人を刺し殺したいと思う。金がなく、地位がなく、恋人がない。この現状が今の気分を説明するのに容易すぎて苛々する。自分を刺したくはなくてとにかく他人を攻撃したい。そうする勇気が自分にないことはわかっているが、気分としてはその通り。他力本願に生きてきた自分らしい心境だとぼんやり思う。安易すぎて嫌だと思う。

 目をつむる。もう家は目の前だけど、そこまで帰る気力すらない。

 サイレンの音が聞こえる。なんだろうと思う。

 顔をあげると少女がいる。結構かわいい。


【2】

 少女は名前を藍原しずくと言って、イマドキの子らしく名前はひらがなで表記するのが正しい。もっともそれが彼女の本名なのかどうかはわからない。サイレンの音といっしょに僕が聞いたのはスーツを着た成人男性の断末魔で、藍原しずくは右手に血まみれのナイフを持っていて、つまり殺人鬼の正体は彼女なのだった。

 そしてここは僕の家だ。

「助けてくれてありがとうございました」と藍原しずくは言う。「もっとも助けてくれなかったら代わりにあなたは死んでいましたけど」

 喉元にナイフを突き立てられて脅迫されれば、誰でも要求には従うほかない。酔いだって冷める。

「飲み物をください」と藍原しずくが言うので、ぼくは立ち上がってお茶を入れにいって転ぶ。「酔っ払いは嫌い」と藍原しずくは言ってそれから「酒臭いです」と付け足す。

「ごめん」

 なんとかコップをテーブルまで持ち帰って僕と彼女は向き合う。

「話は簡単です」藍原しずくが言う。「私をかくまってください。今だけではなく、これから当分。従わないなら殺します」

「君は殺人鬼なの」

「はい」

「テレビに映ってるあの殺人鬼なのか、本当に」

「そうだと言ってるでしょう。あとテレビは消してください。うるさいんです、ただでさえサイレンがやかましい」

「信じられない」

「証明してあげますよ」

「……殺さないでください」ナイフをちらつかされれば答えは一つだ。

「通報しようなんてことも考えないでください。私がつかまるときには貴方も道連れにします、共犯ってことにします、最悪あなたに罪をすべてなすり付けます」

「ひどい話だ」

「ひどいよ。私、殺人鬼なので。あと衣食住もすべて用意してください」

 僕は頷いて、するとチャイムが鳴る。「警察でしょうね」と藍原しずくは言う。まったく落ち着き払っていてとても凄惨な殺人を犯した直後には見えない。

「どう対応すればいい」

「隠れられそうな場所はありますか。成人男性は入れなくてだけど私なら入れるちょうど良さげなサイズのタンスとか」

 ちょうど良さげなサイズのタンスを指さして僕は立ち上がる。「それからどうすればいい」

「後は知らぬ存ぜぬで通してください。見つかればそこまでです」

 タンスに収納されていく彼女を見ながら僕は言う。「了解」

 トビラを開けて、警察は軽く家の中を見て回ってそれから「一応気をつけてくださいね」と言い残して帰っていく。

「帰りましたか」タンスから藍原しずくが出てきて言う。「無能すぎでしょう。税金の無駄遣いにも甚だしい」

 一連の現実感のなさに僕は机に積み重なった都民税の支払い催促状を見つめて思う。同感だけど、子供に言われるとムカつく。

捕まればいいのに。

 だいたい、僕は何をやっているんだ。警察は馬鹿じゃない。今さっき彼女を突き出せば、きっとそれで事は解決しただろう。ポケットに血まみれのナイフまで忍ばせて、罪をなすり付けるもなにもない。いったい僕は何を期待しているんだろう? 中学生くらいに見える彼女にちっぽけな性欲でも抱いているんだろうか? それとも一見普通に見える彼女の背景に暗いものを勝手に夢見て同情でもしているんだろうか?

「それで私はどこで寝ればいいんですか」と藍原しずくは言う。「ぼうっとしてないで仕事してください。殺しますよ」

「あいにく敷布団一つしかなくて、それでいいなら」

「汗臭いでしょ嫌ですよ。ソファでいいですから、かけるものをください」

「それならたしか押入れに」

「あと着替え、血まみれで鬱陶しいです」

「男物しかないしサイズが」

「買ってくればいいでしょうコンビニで」

 イエスと返事して僕はさっき行ったコンビニにまた向かって一通り衣服を買って帰る。パトカーと救急車と野次馬とであふれた往復を経ても何故かわかない現実感に噴き出して笑う。

 帰宅した僕に「どうもありがとうございます」と藍原しずくは言う。

 本当、何をやっているんだ。


 僕はコンビニ飯を口に運びながら藍原しずくがこんこんと語る今後の逃走計画および殺人計画に耳を傾けている。結局あれからあまりよく眠れず頭は重い。

「一週間に一人です」言うまでもなくそれは殺人ペースの話だ。「一週間に一人ずつ、私は深夜にこの家を出て人を殺します。毎週の日曜日ですね。この家から出るところを見られるようなヘマはしませんから安心してください」

「安心できるわけないじゃないか」

「いいから安心してください。それからあなたには日中に買い出しや雑用をこなしてもらいます」

「殺しの手伝いなら勘弁してくれ」

「違います。食べ物とか暇つぶしになるものとか買ってきてもらうんですよ」

「それくらいならいいけどさ」

「大学は休んでもらうことになりますね」

「大学なら今年卒業したよ」

「そうなんだ。てっきり大学生かと思いましたが」

「どうしてさ」

「馬鹿な飲み方は大学生の十八番です」

 咳払いでごまかす。「とにかく僕は無職だし時間は有り余ってるし言うことには従うからナイフはしまってくれ」

 食事を取りながらもテーブル上に鎮座したナイフは照明を反射してこちらに殺気を向けている。それなりに広さのある座卓だから彼女と僕との間には距離があって奪い取ることは難しい。

「嫌ですよ。自衛のためですから」

「どうでもいいけど血は洗い流さないと錆びるんじゃないか。あと視界に入ると食事がまずく感じる」

「あ、あとで砥石を買っといてください。なるべくいいやつをお願いします」

「了解」と僕は答えるしかない。ちょうど包丁の切れ味が悪くて困っていたから一石二鳥なのかもしれない。

 食事を終えた頃合い、スマホがデフォルトの音楽で知らせるのは竹本からの着信だ。「出ていいの?」

「どうぞ」

 了承を得て僕は電話に出る。「どうしたの」

「よお」つまり、彼は僕の二日酔いの様子を尋ねるために電話してきたらしい。

「比較的元気だよ」

「ならよかった」と竹本は言う。「心なしか普段飲んだ後より声も元気そうだな」

反論しかけてやっぱり飲み込む。「元気、元気」

「そういえば知ってるか」

「なにを」

「事件、またあったらしいじゃん。しかもおまえの家の近く」

「ああ」弁当の容器もそのままにテレビを眺める小さな殺人鬼を一瞥して、思わず声が小さくなる。「警察やら救急車やらうるさかったね」

「まったくだ。真夜中に迷惑すぎる。殺人鬼のやつも時間を考えろってもんだ」

 本人に言っておくよ、とは言えず僕はあいまいに誤魔化す。「そりゃ、そうだ」

「とにかくお互い気をつけようぜ」と竹本は言って一方的に電話は切れる。

「終わりましたか」藍原しずくがこちらに背を向けて言う。

「真夜中に殺されるとやかましいから迷惑だってよ」と僕は竹本からの伝言を一応伝えておく。

「知ったこっちゃないです」

「でしょうね」

「それより早速あなたにはやっていただきたいことがあります」

「まあ、聞くけど」

「次の殺人は六日後。それまでの着替えと、暇つぶしにゲームでも……ゲーム機あります? ありますね。それからお菓子でも買ってきてください。あと砥石」

「あいにくお金が」

「どうぞ、これだけあれば足りますか?」と言って藍原しずくは封筒を僕に手渡す。

「お金の出どころは……」

 ちらつかされたナイフから逃げるように僕は家を出ようと準備を始める。

「あ、番号を聞いてもいいですか」と藍原しずくが言うが、意味がわからない。「携帯番号ですよ。家の固定回線から電話かけますから、常に繋いでおいてください。余計な動きされたらめんどくさいですからね。せんべいとか買ってこられても嫌ですし」

 おそらく最後が本当の理由なのだろう。

 家を出て、アパートの階段を下りながら着信を受ける。まもなく可愛らしい声が耳元に流れ込んでゾッとしない。「もしもし?」

 イエス、イエス。バッチリ聞こえてるよ。それでまずはどこに向かえばいい?

「まずスーパーです」

 それで次は?

「洋服です。デザインとかなんでもいいので、サイズの合うものを買えるだけ買ってきてください」

 それで?

「家電量販店です。こっちもなんでもいいので、目についたものを適当に」

 で?

「最後に砥石です。ホームセンターにあるでしょう、たぶん」

 了解。

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