10話 あなただけ見つめてる⑩ 黒猫と水の狼と少年
僕の口は切れているが、これを言い訳に学校を休むわけには行かない。
血生臭い匂いが鼻腔に充満して、――自分が悪いのだが――不愉快だった。
今でも頭の中でヨベルの言葉が回っている。明朝体で書かれているその言葉は字体の鋭利さ、綺麗さで余計に僕を惑わせる。
考えることは得意でも無いし、苦手でも無い。
だが、現実はそう甘くない。
ヨベルの言った真意は海のように広大で未知が溢れている。
自分の身に酸素ボンベをつけて、深く……深く……深く……潜らなければならない。そして、道を解明しなければならない。
僕はそういうことをしている様に感じた。
こうして地面を歩いているはずなのに、僕は深海に沈んでいるような感覚だったのだ。
土砂降りの、激流の川に沈んだ時と似ていた。
「あっ……」
道中、いつもの道を歩いていると、僕はとある影たちを見つけた。
それは二匹の獣だった。
一匹は僕の知る現実であり、もう一匹は僕のまだ知らない幻想だった。
あの黒猫……。そして、水流の渦を体に纏った――僕が名付けた滄浪という生物。
黒猫の口に何かが加えられている。
猫は僕の方へ歩み寄った。すぐ鼻の先にいた滄浪にはやはり気づいていないようだ。その滄浪はというと、じっとこちらを見据えたまま動かない。
「なんだ、僕になんか用なのか? 悪戯しに来たのか」
ニャー。
加えたものを地面に置いて、黒猫が鳴き声を上げた。
それは四葉のクローバーだった。
僕はしゃがんでそれを手に取る。その時、黒猫がそっぽを向いた。
「恥ずかしがり屋なのか、可愛い奴め」
僕は黒猫の側に行き、猫が顎のあたりを撫でられると大人しくなるというのを記憶の底から思い出して、それを実践してみた。
が、そこまで懐いていたわけでは無いようで、黒猫が僕の指に爪を立てた。
ビーズほどの赤い玉が浮かび上がり、すぐに崩壊して僕の指に一筋の線を描いた。
人差し指に広がる痒い痛みをようやく感じたとき、黒猫は僕に背中を向けて走り去ってしまった。
可愛いのか、可愛くないのか、分からない猫だ。
次に僕は滄浪を見た。
喉元から唸り声を上げて、こちらを見ている。様子を伺う感じだ。
「僕に何か用なのか?」
「…………」
滄浪は僕を睨みつける。だが、その視線には強い意志を感じた。言葉で分からなくとも訴えかけてくるものがある。
滄浪が雄たけびを上げた。それは空に響き渡り、頭上の雲を切り裂いた。
と同時に川の水が渦巻き始めた。渦の中心より湧き出る巨剣のような水の塊が螺旋を描きながら河川敷の地面にぶつかり、流動体から液体となって広がった。その広がり方はまるで水滴一粒一粒に意志が宿り、引き合っているかのように見えた。
そして、それは水で書いたメッセージになっていた。
――お前に頼みがある。
僕はその言葉を理解し、再び滄浪に目を向ける。
滄浪の目に浮かぶ恐怖の感情が、びんびんに伝わってきた。どうやらこのメッセージは滄浪の意志らしい。ヨベルが呑気に言っていたよりも、僕が知らない間に事態は進んでいるのかもしれない。いや、恐らくそうなのだろう。
幻想の生き物、化け物が何故か僕を頼っている。その真意は分からない。もしかすると、僕が可笑しくなって創り出した幻想なのかも。
が、何故だろうか。頼まれたからにはどうにか実行してみようと思う自分がいるのだ。
彼らのことを放っておくことが僕には出来ない。不思議と親近感のようなものが湧いてしまっているのだ。
それは好奇心、冒険心から来ているかもだが、関係ない。僕がそうしたいと思うのだから、誰が何を言おうが僕は僕の意志を尊重するのだ。そんな固い決意を持った。
滄浪の依頼、受けてやろう。ただし、条件がある。
僕は滄浪に語り掛ける。
「なら、条件だ。君は無為に雀を殺したな。僕はそんな奴に協力したいとは思わない。僕がその……ダークウィングとやらを止めてやる代わりに、滄浪、君は僕が事態を収束させるまでそういった無為な殺しはしないことを約束してくれ。それならば、僕は協力するよ」
あの雀たちにも人生があったはずだ。家族がいるだろうし、そして親友もいた。彼らの死を無駄にするようなことはしたくない。ならばせめて、この滄浪という生物を僕の手の中に収めることで彼の行動を制御しよう。これが、無残に散っていったあの雀に対する、何も出来なかった僕の贖罪でもある。
グルルルルッ……。
滄浪の呻き声が上がった。
これは後には引けない。これが条件である。変える気は無い。
刹那に動物の舌打ちを、まさかこの幻想の生き物から聞けるとは思わなかった。
すると滄浪は唾を吐くように、口を開き、水の塊を僕に向けて飛ばしてきた。
「うわっ!」
だが、その水の塊は僕に当たることは無く、直前で四方八方に弾け飛んだ。
思わず声を上げたが、僕はすぐに理解した。滄浪の行動が何であるかを。
先程の水滴で集まったメッセージと同様であったからだ。
――その言葉、忘れるな
「ああ」
僕はそう呟いた時には、滄浪がどこかへ行ってしまっていた。
まずは何をするべきか。
その黒い翼――ダークウィングというのが何なのか。
僕は見たことがある。
萌芽が部活の友達かなんかに襲われ、そこに僕と御幸は助けに入ったときだ。
僕が殴り合うになる前、そいつらの背中に黒い翼が生えていた。
あれは僕の幻覚などでは無く、実際に見えるものだったんだ。御幸には見えてはいなかったようだし、僕だけがあの現象を知っている。これを機に僕の明るい日常は、非日常に変わっていったのだ。
あの時、萌芽の目に映っていたのは恐怖だった。そして、僕らが来たという安心感があった。黒い翼が現れたのはその時だ。何が条件なのか、少しは理解できる気がする。
まず萌芽に会わなければ。
僕の出来るところから始めていくしかない。
天使の落とし物 山好 登 @Miroku92
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