9話 あなただけ見つめてる⑨ 湧き上がる衝動

僕が意識を覚醒させたとき、冷たい絨毯の感触が全身に伝わった。

どうやらあの後、倒れ伏して、そのまま寝転がっていたようだ。

手の中に収まるカッターがちらりと見えて、僕の手はこめかみへと向かう。

皮膚の感触……。

傷は無い。滑らかに指が顔を沿う。

むくりと僕は起き上がった。

もう昼前だ。学校があったのにサボってしまった。

今から行っても手遅れだろう。

だが、どうにもそういった性分でなくて、体調が良いのならば、出来るだけ授業は取っておきたいと思ってしまう。

せめて急がず、きちんと身支度を整えてから家を出よう。

僕は洗面台の前で歯を磨きながら、先ほどの言葉を脳内に反芻させる。


『天海萌芽を排除しろ。〈黒いダークウィング〉は人間のこの世にあってはならない』


あの天使――ヨベルと言ったな。

改めて考える。奴は一体何者なのだろうか。

本当に天使なんてものが存在するのか。

未知なる生物―滄浪である―や現象は確認しているし、認めざるを得ないかもしれない。

だとしても、僕はそれを否定していたい。

これは僕の意地だった。

親友である萌芽のことを、ヨベルは存在を否定した。

何があっても、奴の思惑にはなりたくない。

ヨベルが自分を見るときの見下す顔。

あれに膝をつくのならば、死んだ方がマシだ。

何故こんなにもヨベルに怒りを向けているのか、自分でも分からない。

矛先の無い怒りの槍を仕舞うことは出来なかった。

……僕はなんであんなに明星の花に惹かれたのだろう。

過去の自分と現在の自分のギャップに、虚しさを覚えた。

歯肉から垂れた血が、唇の端へと伝う。

歯ブラシの毛が赤く染まっていた。

口内に鉄の味が広がった。

ようやっと、僕は自分の歯を磨くのに、相当な力を入れて磨いていたことを理解した。

まるで本能から湧き上がる衝動に身を任せる獣のように。

あの……滄浪は生きているだろうか。

僕は不思議とそう思った。

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