すし詰め
高黄森哉
電車
新入社員が、駅のプラットフォームで、上司と電車を待つ行列に並んでいる。上司は、買いたての靴が、踝に下着を挟んだ関節キスをしていて、不快なようだ。隔靴掻痒。しかし、どうすることもできない。
「もうすぐ電車が来ますよ」
上司は新入社員に、足元の違和を感じているのを、電車が来ないがため貧乏ゆすりしているのだと勘違いされ、むっと眉を眉間に寄せる。新入社員は、上司の感情に鈍感であるため気が付かない。ゴホゲホ、と辺りのサラリーマンが咳き込む。それにもムッとする。汗と湯気で、ムワッともする。
「俺、朝、寿司を喰ったんだ」
「それは爽やかですね」
「なにがだ。適当なことを言うな」
「そうですね。それは確かです」
「それをやめろ。まあいい。それで、その百円寿司が、まずくてまずくて。あの生臭さ。でも、腹が空いてたから沢山喰っちまった。当分、寿司が嫌いになりそうだ」
「そうですね。それは本当ですね。あ、電車が来ました」
上司はさらに、眉間を険しくした。周りの中年も、この上司のように、しかし、もっと別の理由で眉間を立てていた。それは、その二人には知る由もないし、知って薬にもならなければ、きっと毒にもならない。
*
さて、ここは、あの駅から、一駅前である。そして、遡る事、一時間前でもある。ここも、一駅先の一時間後のように、駅のフォームは満員である。載る前から、満員電車の様相を呈していた。というのも、様々なイベントが重なったのだ。まず、東京五輪。多額の費用が掛かった前回に倣って、今回も予算超過を激しくしていた。しかし、前回の反省を生かし、こじんまりとした予測費用に収めているようだ。次に、コミケ。汗ばんだヲタクの異常発生は、東京の街を曇りにした。「今日は、塩辛い雨が降るでしょう。ウェザーテックニュース。それではみなさん、せーの、また来世」。さらに、旧正月で中国人が観光に来ていた。その中国人ですら、日本の人口過密には驚いた。日本人はバカ騒ぎで興奮していた。喧騒は宇宙ステーションからも聞こえた。宇宙に酸素はないのにである。高校生は登校中である。若い男女は猥談の花を咲かしていた。勃てばサボテン、座ればしし唐、周りの大人は
*
乗る余地のない電車に人が殺到するとどうなるのだろう。答えは簡単。載る余地を作り出す。人というのは、いうまでもなく柔らかい。嘘だというなら、赤ちゃんをお尻に敷いてごらんなさい。すると、どうなるか。赤ちゃんは死ぬ。ほんとだよ。嘘だと思うなら、ヤッてみなさい。ほらね、言った通りだ。死んだ。ということで、電車の中の人々は、入口から遠ざかる方向に圧縮され始めた。
文学少女の前に、おっさんがいる。このおっさんは今まで、文学少女を守るため、両手壁ドンの形で、こらえて来た。ただでさえ窮屈で、腕が折れそうだった。そこに人の津波が襲ったため、たちまち彼の腕は折れた。といっても、垂直の方向の重圧のかかり方なので、つまり手首から肘までが、二の腕に吸い込まれていくように見える。二の腕から先が二の腕に格納されたため、行き場を失った皮が、ひじの辺りで皺をつくり始めた。勿論、この間、気弱な文学少女が大人しくしているはずもなく、また、よくあるフィクションのように、簡単に気を失えるわけもなく、びいいいいいぁああああああぁああびいいびいびびびびび。と絶叫を挙げた。この世の物とは思えぬ絶叫に、周囲の人は凍り付く。凍り付いたまま、流されていく。あ、今、二の腕から裂けた骨が出て来たよ。それで、おじさんの周囲はきちがい、喃語を話し始める。おじさんの腕は、もう、腕が戻らないことが素人めで分かる。これは、外科手術じゃむりだ。そして、その尖った骨がひじから出て来て、背後のおばさんのしなびた胸に、刺さる刺さる。ぎいやあぁあああああああ!!! バキ、バキバキバキ。その破壊は、実は、おじさん由来ではない。その擬音語は、文学少女がおじさんと壁の間で、圧殺される音だ。内臓が破裂して、ようやく気を失った彼女は、糞尿を垂れ始める。口から胃がまびろでて、吐しゃ物を満載した胃が破裂する。また肛門から脱腸し、その内臓は、なぜか意志も持ち、鎌首をもたげ、糞をまき散らす。臭気が、周囲に発散され始め、非常にくさい。尋常ならざるいびきが響く。死線期呼吸。この電車の最初の死者だ。しかし、これは始まりに過ぎなかった。
例の妊婦が乗ってきた。彼女は、助けてください。助けてください。と必死に訴え続けている。その背中を、賭け事の男二人が押す。その後にも、人の行列が続いている。いたい、痛い。「赤ちゃんがいるんです」。男は、叫んだ。「お前は男だろ」、どこからか響いて来たので、男はムッとして「それでも、妊娠してるんだ」と叫び返した。辺りは少しの間だけ静まり返った。彼は、彼女の胎児を守る義務がある。それは、彼が胎児が生き残る方に、賭けているからであった。いたい、痛い。よだれと鼻水にまみれた顔を、前の人に押し付ける。その人の、さらに奥の方から、ゴキ、バキ、ゴキ、とリズムよく、何かが壊れる反響がする。そこに百貫デブが乗ってきた。ブルドーザーだ。一気に押し込まれる。妊婦の腹が挟まれてあっ限界。あっ、あっ、あっ、死ぬ。そのとき、臨月だった女の腹が、急に半月になった。生まれた、と同時に、母はヒシャゲて死んだ。「これがほんとの母泣き子、なんつって。おい、俺の勝ちだ」。「いや、待て。まだ赤子は生きてる」。「そいつを俺にかせ」。「やなこった」。男は赤子を抱いたまま、人の頭の上に昇った。デブが後ろから迫って来て、賭け事をしている片方を押し流した。
だんだんと、汚物の匂いの他に、血の匂いが混ざってきた。足元は、生ぬるい尿や、妊婦の羊水や、吐しゃ物で、踝まで浸かっているが、それはもう、血の池地獄。これはまさしく血尿だ。胎盤が、魚のように、足と足の隙間を縫うように漂う。
盲目が乗ってきた。彼が脹脛を刺す。刺された人は、血が流れ青くなって冷たくなる。前の人、その前の人。死んでいく。彼はヒットマン。「なんてことするんだ」。赤子を抱いた男は叫ぶ。「私、盲目でして」。「お前は、人を殺した」。「それはそれは、もう、お先真っ暗ですわ」。「刑務所だぞ」。「それはそれは、眼の前が、真っ暗になりました。だはは」。
中国人は、意外に大人しかった。この様子にドン引きしたのかもしれない。もしくは国際問題を恐れて、作者が、ここで、その行為を書かなかったのかもしれない。それは丁度、例の飢餓の時のように。それとも、それはひとえに邪推で、本当に中国人は、ずっと静かだったのかもしれない。それとも、満員電車に免疫がなく、圧迫で真っ先に死んでしまったのかもしれない(注釈:『いい中国人は死んだ中国人、満員電車の抗体』ウマシカ=ネット=ウヨク
高校生は空いていた、老人・障碍者・妊婦のピクトグラムが背もたれの上に表記された席に、人々の頭上を這って、たどり着き座った。そして、スマホから、イヤフォンなしで、音楽を流す。それは、『メープル・リーフ・ラグ』だった。歪な調律のピアノが吐き出す、音符ような人々の黒い頭が、電車が揺れるたび、蠢いた。
チャンチャラン、チャ「ごきり」、タンタンタンタタン、タンタンタン。
チャンバキゴキ、チャンチャラン、タ「ばきばきばき」、タンタンタン。
チャン「ゴキ」、チャン「バキ」、タンタンタンタタン、タンタンタン。
デデデテッテ、「あぁああぁ」テッテッテッテッテッテ。
チャンチャラン、「ぎゃあああああ」、ンタンタタン、タンタンタン。
チャンチャラン、チャンチャラン、タ「げふぐは」ン、タンタンタン。
チャンチ、「うわあああああああ」ンタンタンタタン、タンタンタン。
デデデテッテ、デデデテッテ。テ「ぐぐぐぶびいびび」。
チャンチャラン、チャンチャラン、「きゃあヒイぃい」、タンタンタン。
チャンチャラン、「しぬしぬし」、タン「わああああ」、タンタンタン。
チ「殺される」、チャンチャラン、タン「ぶぶぶ」タン、「あっあ」ン。
デデデテッテ、デデデテッテ。テッ「ブッブビ」テッテ。
チャンチャン、チャラン …………
*
「電車、変ですね」
「なんだ、窓が血まみれじゃないか」
「でも、これを逃したら、会社に遅れますよ」
「あっちにのろう。空いてるじゃないか」
「だめです」
「なぜ」
上司は不思議そうに、新入社員の顔を除いた。
「あっちは、女性専用車両です」
いよいよ、例の高校生の流した曲も佳境に入る。二人は、楽しい音楽の流れる、その電車に、押し流されていった。その姿、まるで便器に落とされた、二対の便。人々の濁流が渦をなす。
チャンチャラン、チャンチャラン、タンタンタンタタン、タンタンタン。
チャンチャラン、チャンチャラン、タンタンタンタタン、タンタンタン。
チャンチャラン、チャンチャラン、タンタンタンタタン、タンタンタン。
デデデテッテ、デデデテッテ。テッテッテッテッテッテ。
ピッ
すし詰め 高黄森哉 @kamikawa2001
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