うつしあえば怖くない
suna
うつしあえば怖くない
「オルド様……どうか、お部屋にお戻りくださいませ。私は一人でも大丈夫ですから……」
ベッドに横たわる少女は消え入りそうな声でそう呟くと、自分に掛かっている毛布を頭の天辺まで覆い隠すように引き上げた。
しかし、ベッドの端に腰かけた彼女の主――オルドが、すぐさま彼女の顔に掛かった毛布を剥ぎ取ってしまう。サーシャの目に映る彼は、少し寂しげな顔で彼女を見下ろしていた。
「サーシャ……俺は自分が居たいから、ここに居るんだ。……お前は、主に『出ていけ』と命令するのか?」
「! そ、それは……」
オルドの言葉を受けて、ベッドの上の少女――サーシャの目が、所在なさげに泳ぐ。
サーシャの雇い主は現当主である彼の父親だが、12の時に奉公に出てからずっと、彼女はこの屋敷でオルドの身の回りの世話をしてきた。
実質、彼がサーシャの主のようなものだ。
初めて出会った時、サーシャを見上げていた小さな主は――あっという間に彼女の背を追い越していった。
それでも弟のように思っていた彼を、サーシャが一人の異性として意識するようになったのは――オルドが変声期を迎えた時だった。
無防備な姿を見られるだけでも恥ずかしいのに、そんな大人びた声で困らせるようなことを言わないでほしい――。
なるべく意識しないように努めても、勝手に頬が熱くなってしまう。
毛布で顔を隠そうとしても、また同じことが繰り返されるだろう。熱に浮かされて靄がかかった頭では、上手い切り返しの言葉も思いつかない。
サーシャは口をもごもごさせながら、主の視線から逃げるように目を逸らすことしか出来なかった。
「……だいたい、俺を付きっきりで看病していたから、お前に風邪がうつったようなものじゃないか。……少しくらい、恩返しをさせてくれよ」
オルドは近くに置いた盥から水に浸した布を手に取り固く絞ると、サーシャの額に滲む汗を拭っていく。
「う……す、すみません……」
サーシャは謝罪の言葉を口にすると、観念したように目を閉じた。
「……いや、これは建前だな。……分かってるよ。お前のことは他のメイドに任せた方が、良いんだろうって。俺は医者でも何でもないし、お前が俺にしてくれたことを真似するくらいしか、出来ないからさ……」
ひんやりとした布が汗ばんだ顔を撫ぜていく感触は、心地が良い。サーシャは強張っていた自分の身体から、少しずつ力が抜けていくのを感じていた。
高貴な主が一介のメイドに、こんなことをしてはいけない―――そんな彼女の心が、オルドの言葉と優しい手でほどかれていく。
それでもサーシャは、なけなしの理性を手放す前に、おずおずと口を開いた。
「オルド様……そのお気持ちだけでも、私には勿体ないくらい……嬉しいです……た、建前とかではなく、本当に……。でも、オルド様に私の風邪をうつしたらと思うと、心配で……」
サーシャの言葉に嘘はなかった。オルドに看病されるのは――申し訳なくもあるが――嬉しいと思っている。独りぼっちでいる心細さを感じず、安らいだ気持ちでいられるのは彼のおかげだ。
しかし、そのせいで主に風邪をうつしてしまうのは――何としても避けたかった。
雇い主に叱られるから――ではない。理由はもっと単純で、サーシャが彼の息災を何よりも願っているからだ。
これまで病気らしい病気をしたことのない主が、急に高熱を出して倒れた時、サーシャは生きた心地がしなかった。
ただの風邪だから心配ない――そう、医者に念押しされても、サーシャは必要以上に甲斐甲斐しく彼の看病をしていた。
オルドが今まで病気と無縁だったからこそ「自分が目を離した隙に、万が一のことがあったら――」と、不安で仕方なかったのだ。
――そんな心労も重なって、今度は彼女が風邪で倒れてしまった訳だが。
「……俺はそれでも構わない。風邪は人にうつすと治るって言うだろ?」
「そ、そんなの駄目です……! せっかく、治ったばかりなのに――」
こともなげに言ってのけるオルドを窘めようと、サーシャは慌てて布団を跳ねのけながら上半身を起こした。――と、頭の芯を無理やり揺すぶられるような感覚に襲われる。
「……っ」
サーシャの視界がぐらりと揺れた。そのまま前のめりに倒れそうになる彼女の身体を、オルドがそっと抱きとめる。
「っと……いきなり起き上がるなよ。……危なっかしいな、お前は」
「も、申し訳ございません……」
サーシャは大人しく横になろうとした――が、オルドは彼女の身体に腕を回したまま動く気配がない。
「お、オルド様……?」
「……なあ、サーシャ。もし、俺にサーシャの風邪がうつったら……この前とは違う方法で、看病してもらいたいんだけど――」
「えっ?」
サーシャの耳元でオルドが囁く。熱い吐息が耳にかかって、彼女は思わずびくりと身体を震わせた。
「そ、それは、どういう……?」
こんなに近づかれたら、風邪がうつってしまう――そう思いながらも、サーシャはオルドの腕に体重を預けたまま身動き出来なかった。問いかける声が、自然と上擦ってしまう。
「……手本、見せてやろうか」
サーシャの身体はオルドの腕に抱かれたまま、ベッドに優しく押し倒された。
「オルド様、何を――」
そう言いかけた彼女の唇を、オルドの唇が塞いだ。
そっと触れ合うだけの口づけが、サーシャの思考を奪って頭の中を真っ白に染め上げていく。
永遠とも思えるような時間の後――実際は数十秒に満たない時間だったのだか――オルドはゆっくりと顔を上げた。彼はサーシャの頭を挟むように両手をベッドについて、彼女を見下ろしている。
「んぅ……っ……オルド……さま、なんで……」
荒く息を吐きながら問いかけるサーシャに、オルドはふわりと笑ってみせた。
「……こうすれば、風邪がうつるだろ? また俺が風邪をひいたら――同じようにしてほしい」
「なっ……」
顔を真っ赤にしたサーシャは、口をぱくぱくさせることしか出来なかった。
そんな彼女を後目に、オルドはぐるりと辺りを見回しながら、何やらブツブツと呟き始める。
「うーん、本当は添い寝の手本も見せてやりたかったんだけど……サーシャのベッドじゃ狭すぎて難しいか――」
「えっ」
サーシャは思わず声を上げてしまった。
初めてのキスの衝撃も吹き飛ぶような――とんでもない台詞が、主の口から飛び出した気がする。
(今、何て……? 私の聞き間違い……?)
頭がぼうっとして、理解が追いつかない。それが風邪のせいなのか、主の言動のせいなのか――考えれば考えるほど、頭がくらくらして何も分からなくなっていく。
――サーシャの意識は、そこでぶつりと途絶えた。
「ん……サーシャ……?」
「………………」
オルドが彼女に視線を戻すと、サーシャは静かな寝息を立てて眠っていた。呼吸音は規則正しく、苦しそうな様子もない。
彼女を起こさないよう細心の注意を払って、オルドはそっとベッドから下りた。先刻サーシャの顔を拭いた布を手に取って、再び盥に入った水で冷やす。
穏やかな表情を浮かべている寝顔を拭った布を、彼女の首筋に滑らせようとして――オルドはその手を止めた。
オルドは少し思案してから、盥の中に手にしていた布を放り込んだ。ちゃぷんと小さな水音がして、一瞬サーシャが起きてしまわないかヒヤッとしたが、彼女が起きる気配はなかった。
「着替えの必要もあるし、一度他のメイドを呼んでくるか……」
オルドはそう独りごちながら、サーシャの乱れた寝具を手早く整えた。
後ろ髪を引かれる思いを我慢して、入口のドアに向かう。
「……おやすみ、サーシャ。また、すぐ来るから――」
***
――それから三日と経たずに、サーシャの風邪は完治した。
彼女は付きっきりで看病してくれた主に、溢れんばかりの感謝の言葉を告げたが、オルドは複雑な面持ちをしている。
「――この御恩は一生忘れません……今まで以上に、誠心誠意お仕えさせていただきたく……オルド様? どうかされましたか……? ……あっ、もしかして、私の風邪が――」
主の浮かない表情に気づいたサーシャの顔が、さっと青ざめた。
やはり、自分の風邪がうつってしまったのだろうか――そう思うと、高揚していた気持ちが一気に沈んでいく。
「私のせいで、申し訳ございません……っ……」
しかし、それと同時に、サーシャは主の言葉を思い出してしまった。
(……こ、今度は私が、オルド様に……き、キスや……添い寝を……?)
血の気の引いた顔が、またたく間に真っ赤に染まっていく。彼女は恥ずかしさのあまり、顔を上げることが出来なかった。
オルドは深々と頭を下げたまま動かないサーシャを見て、慌てて口を開いた。
「さ、サーシャ、お前の風邪はうつってない。だから、お前が謝る必要なんてないんだ……! ただ――」
「ただ……?」
サーシャは恐る恐る顔を上げた。目の前の主は何故か――残念そうな顔をして、自分の頭を掻いている。
「俺に風邪がうつれば、サーシャに看病してもらえたのに――って、思って……あっ、庭の池に飛び込めば……風邪、ひくかな……?」
「オルド様!」
サーシャは思わず声を荒げた。
性質の悪い冗談にしか聞こえないようなことを――彼なら、本当にやりかねないと思ったのだ。
「……ごめん。お前に触れる口実を作るために、風邪をひこうなんて……どうかしてるよな……」
しゅんとして俯く主の顔は、少しやつれているように思えた。よく見ると、目の下には隈が出来ている。
「オルド様……私のせいで、寝不足かとお見受けします。少し、お休みされてはいかがでしょうか……?」
そう言いながら、サーシャは一歩前に踏み出していた。主のシャツの裾を掴んで、か細い声で言葉を紡ぐ。
「……口実なんて、いりません。その……お邪魔でなければ、添い寝でも何でも、致しますので――」
そこまで告げて、サーシャはハッと我に返った。
……何だか、とんでもないことを言ってしまったような気がする。
「わ、私ったら、何を……申し訳ございません! 今のは忘れて――」
サーシャは慌てふためきながら手を離すと、後ろに下がろうとした――しかし、強い力で前へと引き寄せられてしまう。
「……!」
気がつけば、サーシャはオルドの腕の中に収まっていた。
突然の出来事に身を強張らせたサーシャを気遣うように、オルドが彼女を抱く手を少しだけ緩める。
自分が嫌がるそぶりを見せれば、すぐに解放されるのだろう――と、サーシャは思った。
躊躇ったのは、ほんの一瞬で――サーシャは微かに震えながらも、オルドに体重を預けるようにもたれかかった。
「……っ、サーシャ……ありがとう――。……温かいな……お前が傍にいてくれるなら、ぐっすり眠れそうだ――」
安堵に満ちた優しい声が、何よりも温かく彼女の心を満たしていく。
愛しい主のぬくもりを感じながら、サーシャはそっと目を閉じた。
うつしあえば怖くない suna @konasuna
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