お前のためを思って

異端者

『お前のためを思って』本文

 ――俺は本当に「誰かのため」に何かしたことがあっただろうか?


 そう考えながら、座り込んでいた。

 こうなったきっかけは二時間前にさかのぼる――


 夕方、武蔵野市のふるさと納税の返礼品「さつま揚げの詰め合わせ」が冷蔵で届いた。

 事前に連絡があったのでそろそろ来る頃だと思っていた。

 以前、二年間ぐらい武蔵野市に単身赴任していたので、お返しに何かできないかと思ってのふるさと納税からだった。

 寒くなってきたし、これを使って今夜は鍋にしよう――そう思った。

 久々に息子と娘と一緒に鍋を食べたい。中学二年の息子、洋平は今夜の食卓を囲んでくれるだろうか。

 洋平は三か月前から「引きこもり」になってしまった――情けない奴だ。

 ちょっと野球部の活動が上手くいかなくて成績が落ちたからなんだというのだ。それぐらいのこと誰だってある。お前自身のために学校に行くべきだ――そう何度もドア越しに言ったが聞こうとしなかった。俺がこんなに心配して言ってやっているのに、だ。

 妻は一月前にそんな様子に愛想を尽かして出て行った。離婚届けは出していないので「別居中」という扱いになるのだろう。


「ただいま」

 鍋が出来上がった頃に高校一年の娘、美香が帰ってきてそっけなくそう言った。

「おう、お帰り。今日は鍋にするぞ」

「要らない。友達と食べてきたから」

 俺はその言葉にテーブルをバンと叩いた。

「そうだったら、事前に連絡しろ! お前のためを思って作ってやったんだぞ!」

「え~、そんなの勝手じゃない」

 なんという身勝手な娘だ。俺の苦労を知ろうともしない。

「今日は洋平も一緒に鍋を囲んで夕食にしようと思ったのに――」

「無理に決まってるじゃん。出てくるはずないし」

「うるさい! 家族のだんらんがどれ程大切か分からないのか!? 俺はお前たちを思って――」

 俺は怒りをあらわにして言った。

「馬鹿みたい。そうやって、『お前のことを思って』とか言うくせに、結局は自分のためじゃん……洋平も母さんもそれで潰したようなもんだし」

 俺は美香の顔を平手で叩いた。

「いって……何すんのよ!」

「父さんがこうまでしてお前たちのためにしてやっているのに、分からないのか!?」

 俺は大声で言った。外まで聞こえているだろうが、そんなことはどうだっていい。

「お前のためお前のためって、自分がそうさせたいからそうしてるだけでしょ!?」

「うるさい! 親になったことのないお前に何が分かる!?」

「洋平だって、本当は野球なんて興味なくて、毎日の練習も嫌で嫌で……やる気がないって顧問に殴られて……それを満足そうに見てたのは誰!? 夜中にバットの素振りまでさせて、アンタはすっかりコーチ気取りで悦に入ってたじゃないの!?」

 なんという娘だ――こんな口を利く馬鹿娘を矯正させなければ。

 俺はもう一度、美香を殴った。

 美香はそれでも続ける。

「それで洋平はストレスで利き腕が震えるようになって……頭痛だって酷くて勉強なんてできる状態じゃなかったんだよ! それなのに、成績が落ちたとアンタがなぶるから、もうどうでも良くなったって――」

「嘘だ! 俺はお前たちのためを思って正しいことをした!」

 そうだ。俺はいつも正しかった。無知な家族を導いてやらねばならなかった。

「その『お前のために』が嘘なんだよ! 自分がそうさせたいだけでしょ!? そんなのだから、母さんも出て行ったのよ!」

「違う! 俺は正しい選択をさせてやっただけだ!」

「アンタが勝手に押し付けただけでしょ!?」

 俺が……押し付けた? 嘘だ!

「俺は家族のためを思って必死で働いてきた! それすらも嘘だというのか――」

「だから、アンタがそうしたくてしたんでしょ!? それを押し付けがましいって言ってるのが分からない!?」

 本当に俺が……押し付けていた? ――脳が溶けていくように感じた。

 ふいに目まいがして、世界がぐにゃりと歪んだ気がした。

「じゃあ……私もう行くから」

「行くって、どこへだ?」

「友達の家で住み込みで働かせてもらう約束をしてる――もうアンタが嫌で嫌で何か月も前から準備してたの。あとはいつ切り出すかだけだった……」

「おい……頼む! 待ってくれ! 話を聞いてくれ!」

 俺は自分でも情けないと思う声を出して懇願していた。

「はあ? 今まで何言っても聞かなかったのに、話を聞いてくれ? 何の冗談?」

 掴もうとすると美香はそれを振り払った。

 そのまま一度も振り返ることなく出て行った。

 取り残された俺は、椅子にだらしなく座り込んだ。


 こうして、現在に至る。

 ――俺は本当に「誰かのため」に何かしたことがあっただろうか?

 そう考えながら、座り込んでいた。

 そうだ。誰かのためと言いながら、結局は自分がそうしたかっただけだ。

 それをいつしか「お前のため」だと偽っていた――自分自身の心さえも。

 自分は偽善者、いや酷く身勝手な男だったのだ。

 しかし、気付いたところでもう遅い。妻と娘は出て行ってしまった。

 それでも、まだできることがあるなら――

 俺はのろのろと立ち上がった。


 洋平の部屋の前に着いた。

 ドアをノックする――いつものような乱暴なノックではなく、慎重に。

「おい、洋平。聞いてくれ」

 まだ眠っていないと良いが――

「済まなかった」

 これが精一杯の言葉だ。

 よく考えれば、今まで息子に望まぬいばらの道を歩ませておきながら、一言も詫びたことがなかった。

「もう、遅いよ」

 少し遅れてドアの向こうから返答があった。

「遅い、か?」

「どうせ姉さんも出ていったんでしょ?」

「知ってたのか!?」

「うん、知らなかったのは父さんだけだよ」

 肩の力が抜けるのを感じた。

 俺は、本当に、何も知らなった。

「それで、他の家族に愛想を尽かされたから仕方なく僕の所に来たの?」

「違う……違うんだ」

 俺は気が付かないうちに泣いていた。

「何が違うの? 他人の言うことを聞かず、全部自分の言うことを押し付けて、都合が悪くなったら泣きついてくる……そんな人間をだれが信用するの?」

 確かにその通りだ。俺は今まで自分を客観視できなくなっていた。

「確かに、お前の言う通りかもしれない。俺は勝手だった――」

 言葉を続ける。

「だけど、これからは他人の言うことに耳を傾ける努力はしたいと思っている。……部活だって、辞めても良いんだ」

「あのさあ……僕の中学は、部活動は全員強制。変えるのだって簡単にできないって知ってるよね?」

「そんなの……俺が校長に土下座してでも変えさせてやる」

「そう……でも、やっぱり遅すぎたよ」

 ドアの向こうからため息が聞こえた気がした。

「父さんが幼稚なお絵かきだと笑った部……美術部には、もう入れない」

「なぜ?」

「手の震えが酷くてさ。無理矢理抑え込んでも、文字を書くのが精一杯なんだ。これじゃあ、絵なんて描けやしない」

「それも病院で治療すれば――」

「治るのに何か月かかると思う? それに治ったとしても、今更どの面下げて学校に行けと? ……今頃は野球部の連中が悪評を振り撒いているさ」

 それはあまりにも軽い口調で、とっくの昔に諦めていたと言わんばかりだった。

 俺は呆然とドアを見つめた。

 俺が、奪った――可能性を。

「ねえ……父さん、毎日僕がどんな気分で登下校していたか分かってる? 頭が痛くて体を引きずるようにして下校している最中に、小学生の女の子に馬鹿にして笑われるんだ。きっと、誰かが悪評をばら撒いたんだろうね。殴りつけたい衝動に駆られたけど、体が頭痛で動かなかったし、それにできたとしてもこちらが『悪者』にされることが分かってたからこらえたけど」

 なんでもないことのように言う声。とっくの昔に慣れてしまったという風だった。

「済まなかった……俺はお前のことを、何も知らなかった。教えてほしかった」

 本当に無知なのは自分だった。そう気付かされた気がした。

「言ったところで、何も聞かなかっただろ?」

「これからは聞くようにする」

「どうせその場限りの言い逃れだろ?」

「違う! 違うんだ! だから――」

 だから……なんだろう? 言葉に詰まった。

「だから、何?」


「一緒に……鍋を食べないか?」


 考えた末に出てきたのは、そんな平凡な言葉だった。

「鍋? 今までみたいに、部屋の前に置いておけば良いじゃないか?」

「いや、違うんだ。一緒に鍋を食べたいんだ。……駄目か?」

「それは『お前のためを思って』?」

「違う! 俺が、俺自身がそうしてほしいんだ! 頼む!」

 しばしの沈黙の後、返答があった。

「今までだって、そうだったよね? 『お前のためを思って』とかカッコつけて言ってたくせに……」

「ああ、俺は勝手だった。いつの間にか、俺自身が望んでいることが誰かのためだと思うようになってた――自分自身を美化してたんだ」

「美化って、ナルシスト?」

「ああ、そうかもしれない」

 いつぶりだろう。こんなにも素直になったのは。

 思えば社会に出てから、いやそれより前の学生の頃から、自分自身の言動に理由を付けて正当化することに酔っていた気がする。その酔いが、ようやく醒めたのだ。


 ガチャリ。


 ドアが開いて洋平が顔を出した。髪が前見た時よりも随分と伸びていた。

「一緒に食べる以上に何も望まないんだったら、そうしてもいいよ」

「ああ、それでいい」

 俺は息子と一緒にダイニングへと向かった。

 鍋はすっかり冷えていたので温め直す。

 テーブルの鍋敷きの上にその鍋を置いた。

 しばらくの間、無言のまま二人で食べ続けた。

 俺は何か言うべきだと思ったが、思いつかなかった。

 ふと、洋平が口を開いた。

「この魚のやつ……なんだっけ?」

「ああ、『さつま揚げ』だな。武蔵野市のふるさと納税でもらったんだ」

「へえ……ふるさと納税って、こんなのもあるんだ」

 また無言になる。男二人、黙々と食事する。

 俺は言うべきことはたくさんある気がしたが、今は言えなかった。


 なあ、洋平。

 俺の勝手な押し付けでここまで壊してしまった家庭だけど、直したいと思ってる。

 そのために俺自身が変わるから、手を貸してくれ。

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