自殺志願者

@jisatsushigansha

第1話

まず初めに、世の中にこれが出ている時には、僕の物語は、もう幕を閉じて閉まっているのだろう。だって、こんな一個人のたわいも無い話に、多くの人が興味を惹かれる事はないのだろうと思うから。つまり、世の中の人が知ると言うことは、志願通りの出来事があって、物語として、これが成り立ったからなのだろう。どんな映画やドラマにだって、例えば、1人の人生にだって、いつなんどきでも、物語性が求められる。

 さて、少しこの話に物語性を持たせるとしようか。

 この物語の始まりは、6年前に遡る。僕が高校2年生の頃だ。不必要な部分を含んでしまうので、ここでは割愛するが、様々な事を経て、僕と言う人間は腐ってしまっていた。いや、元から腐った人間だったのかは、今となってはわからない。この時点で、物語は全て終わるはずだった。ただ一つの出会いが、僕を救った。誰がどう聞いてもおかしな話だが、ただ気まぐれに行った高校のクラスに天使がいた。それだけで、物語は続くことになったんだ。そう、ただの恋。それだけ。僕と言う人間は基本的に浮気な人間で、情熱的に彼女を求める事もあれば、余所見にうつつを抜かす事も多々あった。

 ただ、高校を卒業してからも、なあなあにあっては好きになり、それを繰り返していた今年の1月に、ふと、今回は諦めないと覚悟をきめ、6年続いてたはずの片思いが、その僅か5ヶ月後に終わりを迎える。覚悟していたものよりはるかに、呆気なかった。最初から告白していればよかった話なのではないか、と自分でも思う。確か付き合った時に彼女にも、もっと早く言ってよ。と言われた記憶がある。今思い返せば、本当にその通りだと思う。

 それからと言うもの、僕は彼女を求めたし、彼女もまた、僕を求めた。まるでこの6年を埋めるかのように。

 函館、洞爺湖、北見、網走、帯広、旭川、とにかく、北海道は全て回った。毎週末遠くに出かけ、高級なホテルを取る時もあれば、ラブホテルで一夜明かす事もあった。山に海に景色に夜景に、思いつくことは全てしてきた。僕の車の走行距離だけで見ても、約4万キロ。遠出ができない時は家やホテルで時間を共有した。会っていない時も含め、ずっと一緒にいたと言える。

 少し話は逸れるが、キャンプに行った時に作ってくれた豚丼を今でも思い出す。情けない話だが実は、既に一度自ら生命を断とうとして煉炭を炊いたのだが、密閉度か、はたまた時間が足りなかったのか、生きながらえてしまった。起きた時、手足は痺れ、目は痛く、激しい頭痛と吐き気に襲われていた。その最中、手作りの豚丼が食べたくて仕方なかったのだ。名寄にキャンプに行き、仲良く人目も憚らず、イチャイチャし、買い出しをして、キャンプ場に戻り、僕が1人でテントやタープを建てた分、料理は私がすると言って作ってくれた事。この一連の動作と笑顔で食べていた豚丼が、僕の走馬灯だった。前提として、彼女に会いたいや一緒にいたいと言う感情は常にある。

 話がそれたついでに僕と言う人間について恥ずかしながら、自語りさせてもらおう。23歳男。それだけ。彼女に言われなければ、大学にちゃんといく事も、就職について深く考える事もなかった、どこにでもいるダメな奴。ただ24時間を浪費していた無駄な奴。

大学は卒業してね。と言われ卒業まで走り、仕事は土日休みがいい、子供ができた時に可哀想。と言われ職を探し、車は大きくないと子供が酔っちゃうと言われ車を探し、これまで考えた事もなかった明日について考えるようになった。明日や明後日、1年後や10年後。きっとこの先も一生一緒にいて、全部一緒にやって、そして死に行く。そう思っていた。

 僕と言う人間は非常に残酷で冷徹な人間で、人の感情が全くと言っていいほどに理解ができない。いや、もう少し正しい表現をすると全く理解が出来なくなる時がある。普段はど凡人すぎる僕だが、憤怒、絶望、幸福など感情が最大限引き出された時、自分以外のことは全くわからなくなる。ここで何か例を挙げようと思ったのだが、絶望の最中にいる僕にはそれができなかった、すまない。

 少し話を変えようか。命の大切さを語る人はこの世の中に5万といるだろう。例えば、僕にはそれも理解ができない。誰かが死ぬのは本当に悲しい事なのだろうか。生きたくても生きられない人がいるのに死にたいと言うな。これはよくある言葉だが、死にたい人はどうなるのだろう。死にたくても死ねない人はどうなるのだろう。法律で自殺を咎めるものはない。どころか、生命をどうしようと個人の勝手と捉える事もできる、自己決定権の自由と言う憲法の条文があるくらいである。こんな話を耳にしたことはあるだろうか、世界では、3秒に1人死に、6秒に1人産まれている。命が大切なのであれば、なぜ人は3秒に1度悲しまない。6秒に1度喜ばない。そして、なぜこの事実を人は気にも留めない。では逆に、自分が産まれた時に、世界中の全人類が喜んでいてほしかったと思う人は存在するのか。  否。そんな人物は存在しない。命には価値がある。その価値は相対する人によって決められる。また、自分の価値を決めるのは、自分が求める人からの価値付けである。もっとわかりやすく言うと、他人が自分をどう評価し命は大切だと言おうと、自分の価値は自分が求める人からの評価で決まる。

 話が戻るのかはわからないが、彼女との数多ある思い出からいくつか抜粋して話そう。彼女の手には匂いがある。車に乗り数分したらもう既に、僕の左手は彼女の匂いになっている。とても愛しく、僕の幸せのひとつだ。最初の頃は、恥ずかしかったのか、手繋ぐのが好きではない。と、言っていた彼女。気づいた時には、一緒にいる時はずっと手を握ってきていた。言葉にはしない愛がそこにはあった。

彼女はとても元気な女の子で、6時間車を走らせたら、4時間は大熱唱をしている。大熱唱を聴いたあとは、寝息を聞かされるわけだが、それも全て愛しい。わからないかもしれないが、その時間も愛を育んでいる時間であった。彼女の誕生日にはスイートルームで誕生日を祝い、普段は行かないコース料理で夜を飾った。終始彼女は楽しそうに、満足そうに1日を使い果たした。


まだ、話は途中だが、もう疲れてしまった。

 

なぜ、僕が死のうと思ったのか。


僕にはもう、耐えられない。

彼女のいない日々が。

彼女に会えない事が。

死のうと思っては、期待や希望を未だに持ち、また、絶望し。

もう彼女には会えないのだと、実感し。


遺言と言うものを残すのなら、この一言だろう。


また、今度。

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