この顔にピンときたら
香久山 ゆみ
この顔にピンきたら
「あ」
駅前の交番の前を通った時に。その顔には覚えがあった。とてもよく。
小さなアパートの一室に帰り、夕飯の支度をしながら夫の帰りを待つ。夫、といっても婚姻関係はない。内縁の夫婦。こんな関係がもうずいぶん長いから、今さら結婚ということも考えない。
夫と二人で食卓を囲む。いつもそれほどお喋りをするというわけではないが、今夜は特に静か。私の緊張が伝わっているのだろうか。侘しい食卓に咀嚼の音だけが響く。
こんな侘しい生活をもう十年ほども続けている。呑み屋で出会った、ありきたりな関係だ。夫は定職には就かず、時々は日雇いに出るけれど、たいてい一日中パチンコを打っている。私は倉庫内作業のパートを続けているけれど、まあ大した稼ぎではない。ただ生きているだけの平凡な生活。そんな可もなく不可もない静かな生活がずっと続くのだと思っていた。なのに。
交番の前の指名手配のポスター。そこに載っていたのは。
目の前に座る夫をそっと見つめる。この人は。面白くもなさそうな顔でもそもそと青菜の和え物を箸でつついている。
あのポスター。あの写真。今とはずいぶん雰囲気が違う。髪型も、体型も、表情も。けれど。
ふと。
「なあ」
と、夫が顔を上げる。
「お前さ、今日、駅前の方に行った?」
「ううん。行ってない」
「……そうか」
咄嗟にそう答えた。夫はそれ以上何も訊かなかった。気付いているのだろうか。
犯した罪は何と書かれていたのか。足早に過ぎたから、見なかった。
夫は見たのだろうか。
私は昔から人の好さそうな顔だ、おっとりしている、優しそうだと言われる。一方、夫は、特徴のない顔立ちで、能面のような無表情。何を考えているのか、長年一緒にいる私にも分からない。
普段、あんな質問をしてくることはない。だから、きっと気付いたのだろう。それで? 彼はどうするのだろうか。
故意ではなかった。ほとんど事故といってもいい、過ちだった。と思っている。だから、逃げた。日本の行方不明者数は年間約八万人。この内には、私と同じように、過ちによって失われた命もあるだろう。あれは、ただの間違いだったのだ。償うような罪ではなくて。ついてなかった。ほんの一度の過ちのために、人生を台無しにしたくない。そうして、弱い私はずっと逃げ続けてきた。
けれど、それももうお終いだ。
もしかしたら、私のせいで。夫の自由を、人生をも奪ってしまっていたのだろうか。だから、待っていてほしいなんて言えない。私は罪びとなのだ。
「ねえ」
静かに箸を置く。
「私、行ってくるね」
いままでありがとう、とは言えなかった。言葉が詰まってしまって。夫は箸を持ったままじっと私を見る。
「ああ。……待ってるから」
視界が白くぼやけた。ああ!
私の目の前にあるのは、幸福。
愚かな私は、この時になってようやく、自分の罪の重さを知った。
贖いとしてできることなんて、何もない。だからせめて、償わねばならない。
ぽりぽりと、小さな部屋に沢庵を齧る音が静かに響く。
この顔にピンときたら 香久山 ゆみ @kaguyamayumi
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